85 温泉をつくりたがる召喚者達
囲い込んでいたはずの羊の群れは、気づけば跡形もなく消え失せていた。
まるで濃霧が音もなく晴れていくように、影ひとつ、蹄の痕ひとつ残さず、だ。
ぽつりと残されたのは、静寂だけ。
広大な草原の真ん中を、改造された路面電車――一両編成の次元列車が、コト、コト、コト、と、やけにのどかなリズムを刻みながら進んでいく。
向かう先は、F美がいる帝国。
とはいうものの、その速度は時速20km。
遅い。
散歩の延長どころか、近所の買い物帰りの方がよほど速いのではないかと思えてしまうほどで、草原の風景がほとんど変わらないまま、時間だけが無為に流れていく感覚だった。
車内を行ったり来たりしながら、設備や表示を一つひとつ確認していた、その時だ。
視界の端に、どうしても無視できない文字列が飛び込んできた。
――特急仕様、実装済み。
その瞬間、胸の奥でピクリ、と小さな衝撃が弾けた。
つまり、この列車は本気を出せば、もっと速く、もっと鋭く、この草原を切り裂くように走れるということになる。
なのに、使わない。
理由は不明。説明もない。
歯がゆさが、じわじわと溜まっていく。
胸の内側で、むず痒い違和感が膨らみ続けているのだろうか。
「次元列車さん。1つ質問があるのですが、伺ってもよろしいでしょうか」
「……また質問ですか。聞きたくありません」
「ううん。人の話を聞きたくないという思考は、改めた方がいいですよ」
「説教ならやめて下さい。僕は三華月様と違い、駄目な隠キャなんですよ」
「説教ではないので大丈夫です。安心して下さい」
「はぁぁ。陽キャの人って、隠キャの話やお願いを絶対聞かないですよね」
「私は陽キャではありませんよ」
「やはり僕の言う事は無視して、何がなんでも喋るつもりなのですね。分かりました。伺います。ほら早く」
少し拗ねたような、投げやりなような声。
とはいうものの、これ以上引き延ばすのも悪い。
「ありがとうございます。伺いたいのは……この列車に実装されているという特急仕様についてです」
「特急仕様、ですか。あれに切り替えれば、時速300km程度での走行が可能です。それがどうかしたのでしょうか」
300km。
想像しただけで、風圧に身体を叩きつけられ、視界が流線に引き裂かれそうだ。
「はい。その特急仕様で、帝都へ走ってもらえないでしょうか」
「それは構いません。ただし――『特急券』が必要になります。三華月様はお持ちなのですか」
……持っているわけがない。
今、初めて聞いた言葉なのだから。
本来の性能を持ちながら、謎のルールを盾に、のらりくらりと逃げる次元列車。
じわっと苛立ちが湧き上がってくる。
とはいうものの、刺激すれば、また面倒な理屈を展開してくるのは目に見えている。
仕方なく、「特急券」という単語を世界の記憶で検索してみると……
――特急券とは、特急列車を利用する際に購入する紙片、またはその証明書。改札、もしくは車掌から購入する、と書かれていた。
……ふむ。
しかし、ここには改札も車掌もいない。
「承知しました。次元列車さん。それでは、車掌さんから特急券を購入しようと思います」
「三華月様。見てのとおり、この列車には車掌はおりませんよ」
「それくらい分かっています。はい。私が車掌の代役をやらせてもらいます」
「えっ……三華月様が車掌の代役?どういう意味ですか」
「言葉どおりです。私が車掌になるんですよ」
「車掌とは旅客・貨物輸送の安全と円滑を担う乗務員です」
「はい。理解しています」
「その、ふざけた衣装を着て車掌の仕事が出来るわけないじゃないですか!」
「私の衣装が気にいらない……もしかして、次元列車さんは制服フェチなのですか」
ピリリ、と車内の空気が震えた……気がした。
コスプレは、鬼可愛い女の子にとって使命である。
暗黒物質から生み出した聖衣なら、制服の形に変えることなど造作もない。
制服と言えば――ミニスカと絶対領域。
鉄板だ。
バシッと決めれば、次元列車もきっと黙る……はずだった。
だが、その野望を見抜いたかのように、次元列車が尖った声を放つ。
「三華月様。車掌の仕事を舐めていますよね」
「舐めてはいません。制服についての知識がないのは確かですけど」
「制服?……三華月様は、一体何の話をしているのですか」
「もちろん、私が車掌姿にコスプレする話です」
「だから!何故コスプレの話になるのですか!僕は、車掌の仕事が大変だと言いたいのですよ!」
……噛み合っていない。
私が鬼可愛い聖女であるという事実は、どこへ行ったのか。
嫌な予感が胸に広がり始めた、その時だった。
次元列車が、唐突に“車掌あるある”話しを語り出したのである。
「ダイヤが乱れた際、クレーム対応に嫌気がさして、制服を脱ぎ捨て、そのまま電車から飛び降りた車掌の話をご存知ですか」
「もちろん知りません。この世界には、あなた以外、電車なんて存在しないんですけど」
「僕が言いたいのはですね……それくらい車掌という仕事は大変なんだ!ということなのですよ!」
声に力が籠もった瞬間、車内の空気がずしりと重く沈んだ。
湿った沈黙が、床に染み込むように広がっていく。
つまり要するに――
私は車掌服を着なくていい。
そういう話、なのだろうか。
ならば、遠慮は不要だ。
特急券がないとか、細かいことは脇に置いておけばいい。
私はすでに、次元列車のコントロールを掌握しているのだから。
操作パネルに触れた瞬間、案の定、抗議が飛んできた。
「僕に悪戯するのは……やめてください!」
──────
シュオォォォォ──ッ!!
空気そのものを引き裂くような轟音とともに、次元列車は一気に特急仕様へと移行した。
巨体が地面すれすれを舐めるように滑り、衝撃波を引きずりながら加速していく。視界の両脇で、山も街も空も、まるで巨大な絵画を刃物で裂いたかのように歪み、流れ、溶けていった。
平均時速300km。
数字にすればそれだけだが、体感はそれ以上だ。
風圧が車体を叩き、低く唸る振動が床から骨へと伝わってくる。
そして、わずか30分。
視界の先、霞の向こうに、帝国首都の外縁がぼんやりと輪郭を現してきた。
巨大都市特有の、重なり合う建造物の影。空気の色が、微妙に変わってくる。
頭上には、分厚く鈍重な雲が垂れ込めていた。
一筋の光も差さない。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、呼吸のたびに肺の奥がひやりとする。
遠雷の気配が、ゴロ……ゴロ……と、耳の奥でくぐもった鼓動のように鳴っていた。
――まもなく、帝都も雨に包まれるのだろうか。
市街地に入ると、列車は一転して速度を細かく制御し始め、時速は20km前後まで落ちていく。
走るというより、もはや巨大な機械生命体が、都市をゆっくりと散策しているかのようだった。
その刹那――
プシュッ、と扉が開いた瞬間、
子供たちが洪水のようになだれ込んできた。
「わーっ!!」
「速い! これすごい!!」
タタタタッ、と靴音が床を叩き、笑い声が弾ける。
一瞬で車内はぎゅうぎゅう詰めとなり、体温と熱気で空気がむっと重くなる。
腕が当たり、背中が押され、誰かの肘が脇腹に食い込んだ。
そこへ、あの例の“よく分からないあるある放送”が、場違いなほど淡々と響いてきた。
『乗車率が160%を超えると、車内で身動きが出来なくなります。知らない人と向い合ったままになってしまうと、気まずい気持ちになるので注意して下さい』
……いや。
気まずさ以前に、他に心配すること、ありません?
この勢いで暴れ回っている子供たちが、転んだり、ぶつかったりしてケガをしないか、とか。
とはいうものの──
そこまで言うなら、そもそも160%に達する前に止めてほしいものだ。
注意喚起の方向性が、微妙にズレている。
ガヤガヤ、ワイワイ。
騒がしさは最後まで収まらなかったものの、列車は特に問題を起こすこともなく、目的地へと到着した。
帝国の教会。
教国に次ぐ規模を誇る、荘厳なる聖域である。
帝国最大の広場を正面に抱え込み、重厚な建造物が、威厳そのものを影として地面に落としていた。
最大2000人を収容する礼拝堂。左右対称に組まれたレンガ造りは、どこか安心感すら覚えさせるほど端正で、整然と美しい。
列車を降り、神官の案内で静かな回廊へと進んでいくと、燭台の炎が、ゆらり、ゆらりと壁に揺れており、空気はひんやりと冷たい。
一歩ごとに、自然と背筋が伸びるような厳粛さがあった。
扉の前で足を止め、軽く息を整え、控えめに、コツコツとノックした。
「F美さん……入りますよ」
取っ手を静かに回し、扉を押し開けた瞬間、
ひっそりとした泣き声が、部屋の空気を震わせているのが耳に届いてきた。
薄暗い室内。
カーテンは閉ざされ、外光が細い刃のように床を切り裂いている。
ベッドの上では、F美がうつ伏せになり、枕をぎゅっと抱きしめたまま、肩を震わせていた。
嗚咽を押し殺そうとしても、どうしても漏れてしまう、そんな泣き方だ。
あのモフモフの黒ちゃん。
自分が信じ、可愛がり、心を寄せてきた存在が、裏で女子供を殺していた。
そんな残酷な真実を突きつけられたのだ。
崩れ落ち、世界が終わったと思い込んでしまうのも、無理はないのだろう。
とはいうものの、最悪の事態にまでは至っていない。
そこだけは、確認できた。
それだけでも、救いがあったと言えるのかもしれない。
私は足音をできる限り殺し、そっと近づき、柔らかく声をかけた。
「F美さん……ご無沙汰しております」
「……」
「異世界を航行できる“次元列車”を連れてきました。F美さんを――元の世界へお返しいたします」
その言葉に、
彼女の体が、小さく、ピクリと動いた。
「……私を、元の世界へ……帰してくれるのですか」
顔を上げたF美の目元は、真っ赤に腫れ、涙で濡れていた。
それでも、必死にこちらを見ようとしている。
その視線が、痛いほどだった。
かすれた声が、震えながら続いてくる。
「黒ちゃんが……多くの者を殺していたのは、本当なのでしょうか」
「本当のことです」
「……」
そこで、更に言葉を重ねていく。
「でも、安心してください。黒ちゃんが殺めた者たち――全員を私が復活させることを約束します」
「え……? 三華月さんは……死んだ人を、復活させることができるのでしょうか」
「はい。私は最も神格が高い聖女ですから。実際に、黒ちゃんも復活させたではありませんか」
その瞬間。
F美は、ずぶずぶと沈み込んでいた深い闇から、一気に夢から覚めたかのように、身体を跳ね起こした。
とはいうものの――
実情として、私は地上で死者を蘇らせる権限を持っていない。
誰かがそれを行えば、ネクロマンサーと呼ばれ、蘇生された者は死霊になる運命である。
黒ちゃんが例外的に蘇れたのは、核となる魔石が存在していたこと。
さらに、世界の記憶に、明確な手法が残されていたという、極めて特殊な条件が重なった結果だった。
……だが、F美が少しでも呼吸を取り戻してくれたのなら、それでいい。
今は、彼女を支えることが最優先だ。
私はそっと彼女の肩を支え、次元列車へと導いた。
「次元列車さん。F美さんを元の世界のご自宅までお送りください。私は佐藤翔の安全確保のため、S王国へ向かいます。ですので、急いで戻ってくる必要はありません。重ねて言いますが、急がず、安全第一でお願いします」
AIの無機質でありながら、どこか頼もしい肯定音が、静かに響いた。
────
帝都の空を見上げると、いつの間にか分厚い灰色の雲が空一面を覆い尽くし、「ポツ……ポツ……」と、雨粒が落ち始めていた。
石畳に小さな水輪が弾け、人々の肩や帽子に、静かに吸い込まれていく。
私は歩きながら、教会で手に入れた情報を反芻する。
数日前。
S王国で異世界から召喚された男が、帝都に現れたらしい。
目的は「温泉」を作るための資金集め。
そのために奔走している、という噂だ。
佐藤翔と一緒に召喚された人物なのかしら……?
可能性としては、捨てきれない。
とはいえ、なぜ召喚者たちは、毎度のように温泉を作ろうとするのか。
この世界の誰も、いまだに明確な答えを持ち合わせていない。ものの。
それにしても今回は、ある貴族が融資を申し出たという、異例の展開だ。
普通なら、鼻で笑われ、相手にすらされない。
過去の事例を振り返れば──
温泉好き召喚者に資金を出してしまった貴族は、ほぼ高確率で事業に失敗し、最終的に召喚者は奴隷落ちする。
それが、もはや“既定ルート”と化している。
元の世界で事業経験ゼロのポンコツが、異世界経済を相手に成功できるはずがない。
残念ながら、それが現実である。
風が吹き抜ける。
じわりと強まる雨の匂いが、空気をさらに冷たくした。
私は濡れ始めた石畳を踏みしめながら、拳をゆっくりと握り込む。
――嫌な予感が、胸の奥で、静かに疼いていた。




