76 ブチ切れる音
十戒――
・種族:俺だけレベルアップできるゴブリン
・JOB:ダンジョンマスター
・スキル:崩壊中の転生、ダンジョンウォーク、捕食、ミラー、etc
光を纏って立つその存在は、もはや人間の面影など欠片ほども残していなかった。
いや、正確には――人であった痕跡を、無理やり歪め、ねじ伏せ、塗り潰した末に出来上がった“それ”である。
狡猾で、醜悪で、そしてあまりにも分かりやすい魔物。
ゴブリン、そのものだった。
緑がかったざらつく皮膚は鈍く光を反射し、筋肉は本来の骨格を無視したかのように不自然に隆起している。腕は短く、肩は異様に張り出し、指先には刃物めいた鋭い爪が生え揃っていた。その爪が、きらりと光を弾くたび、獣じみた本性を誇示しているようにも見える。
とはいうものの。
その双眸の奥――濁った黄色の瞳の底には、かつて“人”であった頃の名残が、ほんのわずかに沈殿しているようだった。
いくつかのスキルが、転生前の記憶を断片的に保持しているのだろう。理性とも後悔ともつかぬ光が、時折、そこに揺らめいている。
自分がゴブリンとして、この世界に生まれ落ちたという現実。
十戒がそれを完全に理解した、その瞬間――
≪うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!≫
怒りと恐怖と否定と絶望が、ひとつに混ざり合った絶叫が、叩きつけるように解き放たれた。
ドォン、と。
地鳴りにも似た衝撃が大地を震わせ、空気がびりびりと悲鳴を上げる。音圧が肌を打ち、鼓膜を殴り、魂の奥にまで直接突き刺さってくる。
絶望が、形を持って吐き出されたかのような叫びだった。
耳に届くたび、胸の奥がぞわりと粟立つ。
目の前で、誰かが想像を超えた現実に叩き落とされる――その瞬間にしか味わえない、歪で、しかし妙に清々しい感情が、私の内側にじわりと広がっていく。
期待以上の絶望を目撃したとき、人は否応なく心を揺さぶられる。
まさに、その現象が、今ここで起きているのだろう。
その光景を、私は静かに、そして満足げに見下ろしていた。
そんな私の横で、月姫が聖女としての良心をかすかに震わせながら、ためらいがちに声をかけてくる。
「三華月様……人の不幸を見て喜ぶのは、どうにも違和感があります。聖女とは、本来、慈愛に満ちた存在であるべきではありませんか」
眼鏡越しに向けられるその視線は、真っ直ぐで、逃げ場がない。
まるで、不良少年が教師に呼び止められたときのそれだ。遠慮も容赦もない。
とはいうものの。
そもそも、あれは本当に“人”なのだろうか。
既に魔物へと堕ちた存在を、人の不幸と呼ぶべきなのかどうか。疑わしいにも程がある。
もしかすると、元は人だったのかもしれないが――
ここで、月姫にも伝えておくべき、極めて重要な事実がある。
「あいつは私の……いえ、控えめに言っても、他の者より少し体の凹凸が乏しい、華奢な体のラインを見て『貧弱なバディ』などと吐き捨てたクソ野郎です。そんな、価値もない生き物の運命など、知ったことではないとおもいませんか」
「え……あのゴブリンが、三華月様を見てそんなことを……?」
月姫の表情が、目に見えて変わっていく。
「許せません。死刑より重い刑が妥当だと思います」
胸元に両手を寄せ、ぎゅっと握りしめる。
眼鏡のレンズがきらりと光を反射し、その奥で吊り上がる口角。
無邪気な笑みのはずなのに、どこか禍々しい。
見る者の背筋を、ひやりと冷たいものがなぞっていく。
――その瞬間だった。
十戒――ゴブリンの足元で、ゴゴゴ、と低い音が鳴り、大地が不意に裂けた。
まるで、獲物を飲み込もうとするかのように、深い裂け目が口を開く。
彼は『ダンジョンウォーク』を発動させ、瞬間移動での逃走を試みたのだ。
土塊が跳ね、粉塵が舞い上がる中、手足を必死に動かし、大地を蹴る。
しかし――その一連の動作は、すべて、こちらの想定内であった。
次の瞬間。
事前に敷設しておいたグレイプニールの鎖が、ギィン、と空を切り裂き、宙で暴れる彼の体を正確に絡め取っていた。
巻き付き、締め上げ、逃げ道を完全に封じこめている。
冷たい鉄の感触が、皮膚と爪を容赦なく締め付けていく。
十戒は慌てて四肢を振り回し、喉の奥から声にならない呻きを漏らしてきた。
≪何だ、この鎖は……≫
視界に映るのは、生き物のように蠢き、意思を持つかのようにうねる鎖。
常識的な物理法則など、最初から存在しないかのようだった。
「月姫が敷設していた鎖に捕らえられたのです。その鎖に絡め取られれば、A級相当のサーペントであろうと、もはや身動きは不可能です。F級ランクにまで堕ちた十戒には、もう何もできないはずです!」
眼鏡女子の指先ひとつで操られるグレイプニールは、意思ある拘束具のように宙を舞い、奴の周囲を縛り上げていく。
スキル『ミラー』も、この拘束を前にしては沈黙したままだ。
逃げ場は、どこにもない。
十戒の顔に、ようやく観念の色が浮かんだ。
暴れるのをやめ、ぐったりと力を失ったその姿を、月姫は興味深そうに見つめ、やがて柔らかな声で語りかける。
「三華月様から、魔物と会話ができると事前に説明を受けていたにもかかわらず、私、どうやらその話を完全には信じきれていなかったようです。いたい聖女様と思い込み、申し訳ありませんでした」
なるほど。
いたい聖女だと思われていたらしい。
謝罪として、その一言は本当に必要だったのか。
そんな疑問が胸に浮かびかけた、その時――
十戒は、逃げられぬ現実を悟ったのか、震える声で命乞いを始めてきた。
≪申し訳ありませんでした。心からお詫びいたします。どうか命だけはお助けください……≫
絞り出されるようなその声には、かつての不遜さも傲慢さも微塵も残っていない。
どうしたものか。
いや、答えなど最初から決まっている。
魔物に慈悲を示す器量は、私にはない。
性根の腐りきった存在を生かしておいたところで、何か良いことが起こるとは到底思えなかった。
鎖を操る眼鏡女子が、私と十戒のやり取りに興味を示してきた。
「――あの魔物の姿をした十戒とは、どのような話をしていたのですか」
「我々に、命乞いをしてきました」
「我々って……私にも命乞いをしてきているのですか……?」
ここで、少しだけ言葉を選び、嘘を混ぜる。
常日頃、真面目であろうと努力している彼女なら、処刑には躊躇するだろう。
私を、異常な心理欲求のもとで殺戮を楽しむ存在だと誤解している可能性もある。
だからこそ。
ほんの少し、背中を押すための演出だ。
「――あの魔物は、私達へ『俺の命を助けてくれ。その代わりに、俺様が世界の王となった暁には、ハーレム嬢の姫の1人として養ってやってもいいぞ』と交渉してきているようです」
――――――ブチッ、ブチブチブチ
鎖の操作に集中していた月姫から、何かが決定的に切れる音が、はっきりと鳴り響いていた。




