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ブラックな聖女『終わっことは仕方がないという言葉を考えた者は天才ですね』  作者: ヨシムラ


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72 エロの力を舐めるなよ!

影の広がりは、ざっと目測しただけでも直径50mは優に超えている。いや、もしかするとそれ以上かもしれない。黒い水面が終わりなくざわめくように、“影の池”は常に細かな波紋を刻み続けていた。ちゃぷん、ちゃぷん、と音が聞こえてきそうなほど生々しいのに、その水は一切の光を映さない。底は見えない。どれだけ覗き込もうとしても、闇が闇を呑み込むだけだ。


というものの、ただ視線を落としただけで胸の奥がざわりと震えた。背筋をなぞる冷たい感覚。未知に対する本能的な警戒が、理屈より先に湧き上がってくる。この気配……普通の魔力汚染とは、明らかに質が違う。濃度ではない。存在の“重さ”が違うのだ。


その影の中心で、魔導の精霊達を守護する巨大サーペントが囚われていた。濃密な闇が縄のように幾重にも絡みつき、鱗の一枚一枚へ食い込んでいる。巨体をうねらせようにも、びくりとも動けない。まるで沼に沈められた山脈だ。


水面から覗いているのは、巨大な頭部のみ。それでも体長は20mを超え、重量は10tどころでは済まないだろうという圧が空気に漂っている。呼吸のたび、ぐう……と低く唸るような音が影を震わせ、その振動がこちらの足裏にまで伝わってくる。


そして、そのサーペントの頭部――ちょうど額のあたりに、影の発生源である魔界の少女・四十九がいた。


いや、正確には“いた”というより、“収まっていた”と言うべきか。柔らかな寝具に包まれるように、影が幾重にも彼女の身体を巻き、まるで大切な宝物を抱きしめるかのように優しく固定している。その中心で四十九は、すぅ……すぅ……と安らかな寝息を立てていた。


暴走する影に体力を吸われているのか。それとも、本当に寝心地が良いのか。判断に苦しむ。少なくとも、表情だけを見れば危機感は皆無だった。


影の池の縁では、月姫が必死の形相でサーペントへ針を引っかけ、竿を両手で握り締めていた。ぎぎ……っと音を立てて竿がしなり、今にも折れそうな悲鳴を上げる。


とはいうものの、相手は数十トン級の怪物である。一本釣りという発想自体、正気の沙汰ではない。だが月姫は、影へ引きずり込まれまいと足場を砕く勢いで踏ん張り、全身で竿を固定し続けていた。太腿が震え、肩が小刻みに揺れている。その震えが恐怖によるものなのか、それとも燃え盛る闘志が身体を震わせているのか、判断がつかない。


私はスキル『隠密』を展開し、気配を完全に殺して状況を観察していた。……はずだった。


だが、ふと月姫と視線が交錯した瞬間――氷柱のように鋭い視線が、ずぶりと胸を貫いた。


「三華月様。見学していないで、早く四十九ちゃんを助けてあげてください。サーペントの重さを利用して釣り上げようとしているのですが、私には『影』に引きずり込まれないよう抗うので精一杯なのです」


隠密状態の私を一瞬で看破するとは……相変わらず桁外れの感知能力なのかしら。

とはいうものの、それ以上に気になるのは“サーペントの重さを利用して釣り上げる”という理屈である。どう考えても、万有引力をねじ曲げている。月姫のJOB『たまねぎ』はあらゆる装備を扱えるとはいえ、10t超に真正面から挑むのは物理的無謀の極みだ。


……やはりこの少女、どう考えてもチートキャラなのではないか。


「三華月様。助けに来るのが遅すぎです。四十九ちゃんから溢れている『影』の量、こんなに大きくなってしまいましたよ?」


ぐさり、と胸に刺さる。痛い。

確かに、ここへ来るまで道草ばかりだったのは否定しない。だが、それはそれだ。私は地上界で最も敬われる聖女なのだから、多少の自己弁護くらい許されるべきだろう。


ここは、やんわり嘘で切り抜けるしかない。


「遅くなってしまい申し訳ありません。四十九が『影使い』を使いこなせるまでの修行時間が必要と判断し、あえてゆっくり来たのです。可愛い子には旅をさせろと言いますし、ライオンも子を崖から突き落とすではありませんか」


「三華月様。59話で私達が影に落ちていくのを、楽しそうに眺めていたと思うのですが……本当に私達を思っての行動だったのでしょうか」


……痛恨の図星。

四十九が影に呑まれかけていたあの時、私は確かに笑っていた気がする。とはいうものの、ここで認めれば余計に面倒なことになる。


ならば、話題を切り替えるしかない。


闇に絡め取られ、必死にもがくサーペント。その頭上で、世界の危機など存在しないかのように平和な寝顔を晒す四十九を指差す。


「あそこ。サーペントの頭に巻きついて寝ていますけれど、四十九の健康状態は大丈夫なのかしら」


「はい、今はまだ大丈夫そうです。ただ、このままだと危険が増していくと思います。四十九ちゃん、『影使いのコントロール諦めた。三華月様が来るまで昼寝して待つ』と言っていました」


……大丈夫どころか、精神的余裕しか感じないのではないか。

とはいうものの、ここまで来た以上は私が何とかするしかない。


道中、世界の記憶『アーカイブ』で影使い暴走の止め方は確認済みだ。私のスキル『闇耐久』を四十九へ付与すれば、影への耐性が上がる。ただし“直接触れなければ効果ゼロ”という、非常に厄介な仕様。


『壁歩』で影の上を進むことはできる。だが、あれほど濃い闇では、サーペントの二の舞になるのが目に見えている。


ならば、残る手段は――飛び道具。

『転移』しかない。


――――――私はスキル『転移』を発動する。


言葉と同時に、四十九の胸元へ複雑な紋様の転移陣が刻まれ、私の手にも同じ紋が淡く灯った。魔法陣を中継し、遠隔で触れる。つまり、『闇耐久』を無理やり押し付ける作戦だ。


「では、さくっと終わらせましょう」


私は魔法陣へ手を突っ込み、四十九の胸元へ触れ――るはずだった。


……触れている。確かに触れているのに、手応えがない。


魔法陣の先に四十九は存在する。だが、“実体”が感じられない。霧の幻影を撫でているような、空虚な感触。影への同化が始まっているのかもしれない。物理も魔法も通らない状態……『月の加護』が遮断されているこのダンジョンでは、お手上げなのでは。そんな最悪の予感が脳裏をよぎる。


――――――その時、足元でモゾモゾと揺れる気配。


視線を落とすと、メタルスライムがスキル『爆食』を発動し、四十九の影をもぐもぐと食べ始めていた。


「あなた。『爆食』で少しでも影を減らそうと努力してくれているのですか?」


≪はい! 僕は三華月様に嫁を紹介してほしいのです! そのためなら何でもします!≫


……嫁の紹介?

ついさっきまで“婚活を手伝ってください”と言っていなかっただろうか。いつの間に話が進化したのだろう。


しかも『爆食』の効果はほぼゼロ。影の量は微動だにせず、スライムの顔色だけがみるみる悪化していく。


≪くっそ! 僕のエロの力を舐めるなよ!≫


……なぜ急にエロの力が出てくるのだ。

あなた、絶対に馬鹿でしょう。いや、スライム界の雄というものは案外みんなこうなのかしら。


と、そこで横から強烈な圧――視線。


振り向けば、月姫がジト目でこちらを見ていた。


ああ、その目は分かる。

“魔物と真剣に会話している可哀そうな聖女”を見る時の目だ。


誤解なのだが……今は訂正する余裕がないのであった。

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