66 女を奴隷にしたがる男の習性
瓦礫と血の匂いが、まだ湿った空気の奥に澱のように残る薄暗い迷宮の通路。
壁に刻まれた無数の傷痕、砕けた石片、乾ききらない血溜まり。それらが発する生臭さと鉄臭さが混じり合い、肺の奥にまとわりつく。
その通路の先。
ぼろ切れ同然の着物をまとった小柄な男が立っていた。
風の切れ間に、ふっと生まれた影。
そこに最初から存在していたかのように、あるいは今この瞬間に“出現した”かのように、男は音もなく佇んでいる。
男の名は、飛燕。
着流しは無残に破れ、袖口も裾も擦り切れ、汚れと血の跡がまだらにこびりついている。
冴えない、という言葉ですら生温い。惨めと形容しても差し支えない風体。
とはいうものの――その立ち姿に宿る余裕だけは、異様なほど場違いだった。
背筋は自然に伸び、肩の力は抜け、視線は低く静か。
まるでこの迷宮、この通路、この空気そのものが自分の領域であると、疑いもしない者の佇まい。
場を支配する者のそれである。
彼は、恐るべきスキルの使い手。
空間そのものを歪め、放たれた攻撃を“そのまま返す”――いや、正確には反転させる伝説級スキル、『ミラー』を持つ男だ。
白翼ギルドのマスターと幹部たちは、その挑発的な態度に、実に見事に踊らされた。
血走った目で飛燕へ刃を振るい、魔法を放ち、殺意をぶつけたつもりでいた彼らは、しかし次の瞬間、自分自身の攻撃によって身体を裂かれていた。
何が起きたのか理解する暇すらない。
痛みを認識する前に混乱し、混乱のままさらに攻撃を重ね、結果として自分の首を自分で絞める。
パニック。絶叫。絶望。
そして――命を散らす。
その顛末は、想像するまでもない。
神託にも、彼への処罰の兆しは一切示されなかった。
結果として、飛燕の行動は“正当防衛”と判定されたらしい。
つまり。
彼は、何も間違っていない。
殺戮ですら、正しく行ったに過ぎないのだ。
そんな不穏な空気が張り詰める中、つい先ほどまで、私に投げ飛ばされて脳震盪を起こし、完全に沈黙していたはずの勇者が――
気付けば、いつの間にか、ちゃっかり私の背後に戻っていた。
頭を押さえ、情けない声で唸りながら、額を押さえ、眉間に深い皺を刻んだまま、勇者は呟いた。
「頭が……ズキズキする。直前の記憶が、まるで無いんだが……俺は、一体、何をどうして……いたんだ?」
気絶していたはずなのに、どういう理屈なのか。
本能だけを頼りに、迷いもなく私の背中へ帰還するとは……自分で言うのも何だが、よくぞここまで辿り着けたものだ。
産卵のために、広大な外海から故郷の川へ戻るシャケのような奴なのか。
勇者というジョブには無限の可能性があるのだろう、とは思うものの、この異様な方向性の逃走力と生存本能だけは、明らかに突出している。
方向性が完全に残念なのは変わらないが。
そのしぶとさだけは、末恐ろしいほどであった。
そんな勇者が、横で小刻みに震えていた強斥候から、飛燕のパッシブスキル『ミラー』について説明を受けたらしい。
次の瞬間、血走った目を見開き、声を裏返らせて叫んてきた。
「攻撃が反転されるスキル『ミラー』だと!? あんなダセぇ男が、伝説級スキル持ちだなんて……信じられるわけねぇだろ!」
――違和感の正体。
飛燕と対峙していたとき、胸の奥でざわついていた感覚が、ようやく一本の線で繋がった気がした。
弱者を演じる、ボロボロの格好。
上から目線の、余裕に満ちた挑発。
「こいつなら勝てる」と、無意識に信じ込みたくなる隙。
そこに乗った瞬間、攻撃は自分自身へ返り、刃は自らの肉を裂く、と。
混乱し、焦り、怒り、さらに刃を振るい――
そして最後には、誰に殺されるでもなく、自滅してしまう。
飛燕という男は、それを淡々と、楽しげに、呼吸をするかのような自然さで誘発し、悪夢じみた罠を、日常の延長線上に置いてくる男。
それが、飛燕だったのだ。
その飛燕が、抜いた刃先をこちらへ向けていた。
──ビリッ。
「聖女。俺が無敵であると理解したならば――自由は保証してやる。だから……俺と奴隷契約をしろ」
低く、よく通る声。
必要以上に凄んでくるその態度は、もしかすると本能レベルで“女を奴隷にしてマウントを取りたい”童貞小僧特有の願望なのかもしれない。
そもそも、私に戦意など欠片もないのだから、煽られても正直困るだけなのだが……ものの、本人は至って本気らしい。
緊張が、空気そのものを硬化させていく中。
背後の勇者が、迷いと恐怖の入り混じった声を震わせて言ってきた。
「三華月。飛燕《《さん》》も、ああ言ってる事だし……ここは、丸く収めて、御奉仕活動してやるってのもアリなんじゃない……か?」
「ぼ、僕も賛成っすよ! 最強同士の三華月様と飛燕《《様》》が組むだなんて……WIN-WINじゃないですかぁ!」
勇者の情けない進言に、強斥候まで調子よく便乗してくる。
いやいや。どう考えても、そこには私のWINだけが存在していない。
飛燕が伝説級スキル持ちだと知った途端、態度を180度反転させ、媚び始めるこの雑魚2人。
美人賢者がいなかったら、確実にザマァ対象キャラだったのではないかと、真顔で思ってしまう。
第一、私が飛燕と奴隷契約を結んだところで、自分たちまで助けてもらえると思っているあたり、浅はかすぎて救いようがない。
「勇者達に、ひとつ質問させてもらいます」
「なんだよ。今更?」
「何を言われても、僕は飛燕様の提案に賛成なのは変わらないっすからね!」
間髪入れず、ほぼ反射のような返答。
私は一拍だけ置き、視線を巡らせてから、淡々と続けた。
「もし私が飛燕と奴隷契約を結んだとしたら――まず飛燕は、私に何を命令すると思いますか?」
「そりゃもうアレだろ!」
勇者が、待ってましたとばかりに声を張り上げる。
「ハーレム嬢なら、まずは御奉仕するしかないだろ!」
「気が強くて、高貴で、それでいて可愛い女の子がご奉仕してくれる……!」
強斥候が両手を握りしめ、目を輝かせている。
「それってもう、男の夢であり、野望であり……当然じゃないっすか!!」
……バカか。
思考が追いつくより先に、そう結論が落ちた。
秒で返答するな、と言いたくなる。
いや、言うまでもないかもしれない。
あまりにも即答すぎて、怒りより先に頭痛が鋭さを増してくる。
とはいうものの。
これが彼らの底の底、本音であり、本性なのだろう。
私の問いかけを合図に、このウンコ2人組は揃って口元を緩め、勝手に妄想を膨らませていく。
その様子を見て、ほんの少し――いや正直に言えば、結構がっつり殺意が芽生えたのは否定できない。
このやりとりは後ほど、あの美人賢者に細かく、丁寧に、余すところなく報告しておこう。
覚悟しておきなさい。
「ええ。後ほど、あなた達には罵倒という地獄を味わわせてあげますね」
「俺を罵倒? むしろ歓迎だぜ」
勇者は胸を張り、笑う。
「出会った頃と比べりゃ俺、精神も肉体も一皮むけたからな!」
「僕はもうツルッツルっすよ!」
強斥候が、わけのわからない自慢を重ねる。
「『このツルツルめ!』って罵倒してほしいっす!」
……もう何も言うまい。
勇者と強斥候は、品性も理性も、全部どこかの草むらに投げ捨てたような顔で、ゲラゲラと笑っている。
笑い声が、やけに広く、空虚に響いた。
「話を戻しますが」
私はわざとらしく一拍置いた。
「飛燕が私と奴隷契約を結んだ場合――最初の命令は、勇者達の始末になると思います」
「俺達の……始末?」
勇者の声が、目に見えて鈍っていく。
「三華月様を差し出してやったのに、なんで僕らが始末されなきゃいけないんすか!」
その瞬間だった。
「おい聖女!」
飛燕が、焦りを隠しきれない、裏返りそうな声で割り込んでくる。
「助かりたけりゃ、さっさと俺の奴隷になれ……殺されたくないだろ?」
ズシン。
音がしたわけではない。
しかし確かに、空気が落ちた。
一気に張り詰め、重く、硬く、息苦しくなる。
飛燕は必死に目を見開き、凄んでいる“つもり”なのだろう。
だが視線は泳ぎ、膝は小刻みに震えている。
照明に揺らぐ影までもが、ガクガクと揺れていた。
虚勢が剥がれ、丸裸。
理由は単純明快だ。
彼のスキル――空間歪曲『ミラー』。
それが無敵ではないと知られる前に、この場を強引に支配したい。
しかし、その思惑は、もう崩れ落ちていた。
「震えている飛燕に凄まれても……全然怖くありませんけど」
静かに言い切る。
「え?」
勇者が眉をひそめていた。
「飛燕《《さん》》が震えてるって、どういうことだよ?」
「無敵の飛燕《《様》》がガクガクしてるわけないっすよ!」
……この鈍さ。
ある意味、才能なのかもしれない。
だが、飛燕が小心者であることは、もはや疑いようもなかった。
鍛え切れていない細い腕。
小柄な体躯。
『ミラー』を破られた瞬間、C級――いや、周囲のD級冒険者と大差ない弱さが露呈する。
本当に無敵なら、逃げる必要などない。
堂々と敵を屠り、跪かせればいいだけだ。
それなのに。
彼は城塞都市のダンジョンへ逃げ込んだ。
「ダンジョンに逃げ込んだ理由……『ミラー』が無敵じゃないと、知られたくなかったからではありませんか?」
「ポ、ポンコツ2人!!」
飛燕の声が裏返っていた。
「そ、その聖女を……今すぐ殺せッ!! そうしたら助けてやってもいい……!」
必死の絶叫。
だが“ポンコツ”と呼ばれた勇者と強斥候の耳には、もう届かない。
案の定だ。
「おい」
拳を鳴らし、勇者が一歩前へ出る。ゴキ、と鈍い音。
「誰に命令してんだよ。お前を《《さん》》付けで呼ぶ時間はもう終わりだ」
「僕の《《様》》付けも、コレにて期限切れっすね〜」
強斥候が肩を回し、ニヤついている。
「ウチの仲間、三華月に奴隷契約しろとか抜かしやがったガキ」
「ボコボコにすんぞ!」
「無敵? 調子に乗りすぎなんだよ……」
「お礼参りの時間っす。三華月様、攻略法プリーズ!」
私は一瞬だけ考え、答えながら…
「例えばですが……飛燕をぐるぐる巻きにして、毒を飲ませてみるのはどうでしょうか?」
「マジかよ!」
勇者が目を見開いた。
「毒でスキル発動しないなら、勝ったも同然じゃねぇか!」
「余裕すぎっすね」
「飛燕……超雑魚じゃないっすか!」
……正直なところ。
毒でどうなるかは、私にもわからない。
もし『ミラー』が発動すれば、勇者達は即死する可能性すらある。
そして、もし。
もし私の大切な仲間が死んだなら。
その死骸は――犬の餌にして差し上げるとしましょうか。
視線を飛燕へ向ける。
顔色は紙のように青白く、震えはさらに酷くなっていた。
一方で勇者と強斥候は、弱者にだけ強気になる悪属性スキルでも持っているのかという勢いで、
「よーしよしよし!」
声を張りながら、じりじりと距離を詰めていく。
借金取りのように。
逃げ場を奪うように。
その刹那――
ズズ……ッッ。
空間が、軋んだ。
————第3の勢力が、突如として姿を現す。
ダンジョンの壁が、生き物の皮膚のように静かに裂けた。
ぬるり、と嫌な音を立て、そこから闇が滲み出す。
ひゅう、と冷たい風が吹き込み、空間が歪む。
闇の底へ、新たな通路が伸びていった。
空気の密度が変わる。
肌を刺す温度が、ひっそりと落ちていく。
戦闘の匂い。
それが、強く、鋭く、そして静かに満ちていくのを感じた。
―――――――――――《ダンジョンウォーク》。
ここで使えるのは、ダンジョンマスターの“十戒”だけ。
次なる局面は、もう目の前まで迫っているのだった。




