03 お前等、ホント、うんこだな
――スキル『アビスカーズ』。
その忌々しい効果によって、私のステータスは実に80%以上も削り取られた状態のまま、戦闘へ突入する羽目になっていた。
重い。
とにかく、体が鉛を詰め込まれたように重い。
一歩踏み出すだけで、筋肉が悲鳴を上げ、関節が軋み、反応速度は目に見えて鈍化しているのが分かる。思考だけが先行し、身体がそれに追いついてこない。このズレが、致命的なのだと理解するには十分すぎた。
――ヒュンッ。
空気を圧縮しながら一直線に放たれた矢が、夜闇を貫く。魔術士ゾロアに直撃――する、まさにその寸前。
キィンッ!
乾いた金属音が夜気を裂き、火花が散る。
人狼の少女が、信じられない反応速度で矢を撃ち落としていた。
……想定外。
完全な、読み違い。
この状況で粘るのは悪手。
勝ち筋が消えた戦場に居座る理由は、どこにもない。
だから私は、即座に判断した。
戦略的撤退。
それが現時点で取り得る最善手だと、迷いなく結論づけたのである。
そして今。
私は――何事もなかったかのように、いつもの酒場へと戻ってきていた。
扉を押し開いた瞬間、むわり、とした熱気が全身に叩きつけられる。
これは魔法でも、呪いでもない。人が集まり、騒ぎ、叫び、酒を煽り、感情をぶつけ合うことで生まれる、純然たる人間の熱量だ。
冒険者たちは杯を掲げ、喉を鳴らし、笑い、怒鳴り合い、その声がホール全体を跳ね返りながら渦を巻いている。まるで巨大な混沌の大河だ。
席数は400を超える。とはいうものの、今日も例外なく満席。空いている椅子など、最初から存在しないかのようであった。
毎晩のように狂乱じみた騒ぎを繰り返す彼らは、よほど暇を持て余しているのだろうか。
そう思うと、少しだけ可哀想……だったのか。
いや、やはり可哀想ではない気もする。自業自得、という便利な言葉もあるのだから。
派手な十字架が刻まれた衣装を揺らしつつ、私は店内奥、いつものテーブルへと向かう。
すると案の定、というべきか。鬼可愛い宿命、なのか。女の子に構ってほしい酔っ払いどもから、ひやかし混じりの声が飛んでくる。
だが、対応は慣れたもの。
視線を向ける必要すらない。ただ歩みを止めず、音の洪水を背に受け流していく。
すでに席には、勇者が一人、ぽつんと腰を落としていた。
背中は丸まり、肩は目に見えて落ち込み、視線はテーブルの一点に縫い留められている。琥珀色の酒が満たされた杯を指先で持ち上げては、ちび、ちび、と湿らせるように口へ運ぶ。その一連の動作が妙に遅く、緩慢で、まるで世界から取り残された存在のように見えた。
……おいおい。
つい先ほどまで、一緒に魔術士邸にいたはずではなかったか。
それなのに、どうして私より先に、この酒場へ戻ってきているのだろうか。
まさかとは思うが、逃げ足だけは世界最速なのかしら。逃げることに全振りした勇者――そんな存在に、果たして需要があるのかどうか。疑問である。
酒場へ向かう途中で、スキル『アビスカーズ』の効果は、すでに完全に消失していた。
魔術士邸を離れてからしばらくの間は、確かに身体が重く、ステータスダウンの感覚が尾を引いていたものの、どうやらあのスキルには明確な持続時間の制限があるらしい。
そして、ここが重要な点だ。
『アビスカーズ』は、フィールド全域に影響を及ぼす無差別型の呪いではなかった。
発動条件は極めて単純――視認した対象のみに作用するタイプのスキル。そう考えて、まず間違いない。
……というものの。
私は『自己再生』を所持し、状態異常への耐性も決して低くはない。
それにもかかわらず、あっさり喰らった。
はい。完全に、油断していました。
――つまり、だ。
こちらの姿さえ見られなければ、『アビスカーズ』の効果を受けることはない、という結論に行き着く。
発動条件さえ分かってしまえば、私にとって魔術士ゾロア攻略は、もはや致命的な障害ですらない。
ノープレプレム、というやつだろう。
暗殺系スキルを山ほど所持し、なおかつ遠隔攻撃も可能な聖女。
それが、私である。
魔術士にとっては、これ以上ないほど最悪の相性となるに違いなかった。
勇者は、相変わらず俯いたままだった。
私は特に断りも入れず、向かいの席へ腰を下ろすと、ギシ、と椅子が小さく軋み、その瞬間――
シュッ。
空気を切り裂く鋭い気配。
次の瞬間、強斥候が影のように現れ、するりと勇者の隣へ滑り込んできた。無駄のない動き。最初からそこにいたと言われても信じてしまいそうなほど自然である。
「三華月様。お疲れさまんさっす! 美人賢者の様子はどうでした? 勇者から聞こうとしても、ため息ばっかで、何ひとつ教えてくれねぇんすよ!」
場の空気を一気に明るくする声。
しかし勇者は、その呼びかけに一瞬だけ反応したものの、すぐにまた俯き、死んだ魚のような目に戻ってしまった。
無理もない。
美人賢者が、魔術士のハーレムの一員にされていた。
その現実を、否応なく直視してしまったのだから。
強斥候に何も説明しない、というのも不自然だろう。
ここは、私が話すしかない、となる。
「魔術士はハーレムを築き、好き放題にウアウアしていました!」
「え? ハーレムですか!」
「はい! 美人賢者はその一角を占めており、勇者はその現実に深く打ちのめされているようですね!」
「確認なんすけど……アメリアがゾロアのハーレム嬢にされてたってことっすか?」
「そうです! 俗に言う、都合のいいやるだけの女扱い、というやつですよ!」
「な、なんですって!?」
「さらに付け加えるなら、魔術士の周囲には、やるだけの都合のいい爆乳の姫達を、何人も抱えておりました!」
その言葉が、床に落ちた石のように響いた瞬間だった。
強斥候の顔から、さっと血の気が引いていく。ほんの一瞬で、肌の色が抜け落ち、瞳が見開かれる。次の瞬間には、今度は逆流するように血が昇り、頬はみるみる紅潮し、表情筋が耐えきれず引き攣るようにこわばっていった。怒りか、羞恥か、あるいはその両方か――感情の行き場を失った顔だ。
勇者もまた同じだった。片手で目元を乱暴にこすり、現実を否定するかのように視線を逸らしている。見なかったことにしたい。聞かなかったことにしたい。そんな小さな抵抗が、仕草の端々に滲んでいた。
――うむ、いい反応だ。
この顔が見たくて、わざわざ生々しい言葉を選んだのだから。
案の定、強斥候は完全に話へ食いついてきたのである。
ガタンッ、と椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がり、床板を震わせながら怒声を張り上げてきた。その声は酒場の天井を打ち、反響し、周囲の喧騒を一瞬で押しのけた。
「美人賢者が、やるだけの女扱いだって!? どういうことなんすか!」
「魔術士は、爆乳剣士と狼幼女、そして美人賢者を侍らせ、ハーレム生活を心ゆくまで謳歌していました!」
「謳歌……マジっすか? それ、本当なんすか?」
「はい! エロ魔術士は、奴隷プレイのような倒錯的な遊戯まで楽しんでいる可能性が高いと思われます!」
「奴隷プレイ……って? マジっすか!」
一拍置いて、彼は息を吸い込み、そして――爆発した。
「羨まし過ぎる! 理性が保てないっす! うわぁぁぁ! 僕もアメリアの奴隷になりたいんすよ!!」
強斥候の目が、ぎらりと光る。
血走った視線には、怒りよりも濃い欲望と興奮が、これでもかというほど露骨に宿っていた。
――なるほど。
拘束する側ではなく、奴隷役の方をやりたかった、というわけか。
彼の苛烈な叫び声に反応し、周囲の客たちも次第に動きを止めていく。ジョッキを口に運ぶ手が止まり、談笑していた声がしぼみ、視線と耳が、じわじわとこちらへ集まってくる。
ガヤガヤとした酒場の喧騒は、まるで薄皮を一枚ずつ剥がされるように静まり、その奥から好奇と下世話な興味を孕んだ空気が、ねっとりと滲み出してきた。
ここまで注目を集めてしまっては、仕方がない。
もう少しだけ、遊んでやろうか――うんこ達を。
「美人賢者の裸にエプロン姿をさせている魔術士について、強斥候はどう思いますか?」
「はい……羨まし過ぎて、もう許せないっす」
その瞬間だった。
「それ、本当に、めちゃくちゃ羨ましい!」
弾けるような声が、重たい空気を無理やり切り裂く。
それまで黙々と酒をあおっていた勇者が、なぜかこのタイミングで会話に割り込んできたのだ。
酒場全体は、冒険者たちの笑い声、テーブルを叩く乾いた音、ジョッキ同士がぶつかる高い金属音で満ちている。ガヤガヤとした熱気。アルコールと汗の混じった匂い。床にこぼれた酒が踏み潰される、ぬちゃりという不快な感触。
とはいうものの――私たちの席だけは、まるで異界に切り取られたかのように、空気が異様に重かった。
裸にエプロン。
半ば思いつきの妄想で口にしただけの言葉だったものの、ロリコン変態魔術士なら本気でやっていそうなのが、どうにも笑えない。しかも、美人賢者の受け身な性格を考えると、状況があまりにも容易に脳裏へ浮かんでしまう。
想像力が勝手に暴走し、勝手に納得してしまう――実に質が悪い。
勇者と強斥候は、そろって顔を真っ赤に染めていた。
羨望と怒りを半々に混ぜ合わせたような、実に分かりやすい表情だ。
よしよし。
もう少しだけ煽ってやろう。うんこ達が、どこまで転がっていくのか見物である。
「巨乳プレイとか、ロリコンプレイなんかも……ひょっとしたら楽しんでいるのではないでしょうか!」
空気が、一瞬にして凍りつく。
シン……と、まるで時間が止まったかのように音が消え、次の瞬間、溜め込まれていた感情が一気に噴き出してきた。
まるで、抑えきれない噴火のように…
「僕の野望を、もう現実にされているなんて……ありえない。先を越された」
「俺の浪漫が……」
「野望と浪漫ですか。ふふ、いいでしょう。それを叶えるための方法がありますが……2人にお教えして差し上げましょう」
二人は、ほぼ同時に身を乗り出してくると、ギギッ、と椅子が悲鳴を上げ、板の床に小さく響く。
「教えてください!」
「ぜひ教えてくれ!」と、声が熱を帯びる。
「魔術士のパーティーに加入させてもらえば、よいのではないでしょうか」
「なるほど、その手があったっすね」
「魔術士に頼めばよかったのか……」
とはいうものの、現実は甘くない。私は肩をすくめ、冷静に続けた。
「ですが、現実問題として、頼んでもパーティーには加えてもらえないでしょう」
「やっぱり駄目っすか!」
「絶対に、俺達はその輪の中に入れてもらえないのか!」
落胆と怒りが混じった叫びが飛ぶ。空気が微かに震えるほど、二人の感情は荒ぶっていた。そこで私は、あっさりと本題を投げた。
「私は、そんなクソ虫の魔術士を処刑しようと思っております。勇者と強斥候は、どうされますか?」
一瞬、沈黙が訪れる。だが、答えは即座に返ってきた。
「僕は三華月様を手伝うっす!」
「俺も手伝うぜ!」
魔術士ほどの変態ではないにしても、この二人も立派なうんこ野郎であることに変わりはない。ものの、使える駒であることもまた事実だった。
さて、本題だ。魔術士を仕留める件について――正直に言えば、私からすれば難易度は低い。余裕で簡単な部類に入るのだろう。とはいうものの、魔術士側もそれを理解しているはずだ。ならば、こちらの狙撃を警戒し、魔術障壁を張れる奴隷を増やしてくる可能性は高い。
「魔術士は、次の戦いに備えて、奴隷の数を増やしてくるかもしれないか……」
「もっと奴隷を増やすって、さすがに絶倫すぎるだろ!」
「魔術士さん、自分の子孫を増やそうとしているつもりなんすか!」
勇者と強斥候の顔がさらに引きつる。声も微妙に震えていた。
周囲の冒険者たちのテーブルからも、どよめきが漏れ聞こえる。
……まったく。
お前達は、何を想像しているのか。煽ったのは私だが、これはさすがに酷い。
「戦力を上げるために、奴隷達を買い増ししてくる可能性がある、と言ったのです」
「なるほど。てっきり、もっと“やる”ために買い増すのかと思ったぜ!」
「僕も、同じことを考えました」
「でも、可愛い女の子を買ったら、その奴隷全員とやっちゃうんでしょう」
二人の目が変わっていく。腹をすかせた獣が、目の前に肉を差し出されたかのような、いやらしい光を帯びる。
……本当に、うんこだな。
そのうんこ達が、今度は真剣な顔で、魔術士の処遇について尋ねてきた。
「三華月。お前、魔術士を処刑すると言っていたが、本当に殺すつもりはないんだろうな」
「定番ではありますが、はりつけ獄門の刑なんか、どうでしょうか?」
「はりつけ獄門が定番だと?」
「冗談で言っているとは、思えません」
「はりつけ獄門が気に入らないなら、どうやってブチ殺すか、悩んでしまうではないですか!」
「俺は三華月を手伝う。しかし、魔術士を殺さないでくれ!」
「魔術士さんを殺しては駄目です!」
「あなた達、まさか意外と良い人なのですか?」
「いや、普通、人殺しは駄目だろ!」
「人殺しは犯罪っす!」
なるほど。私は、にこりと微笑んだ。
「それでは、〇〇をチョッキンして、ハーレムが出来ない状態にしてあげましょうか?」
「いや、それも駄目だろ!」
「あれをチョッキンは酷いっす!」
「となると、スキルを破壊するしか方法がなくなりますよ。やはりチョッキンでいいのではないですか?」
「いや、そのスキル破壊の方で頼むぜ!」
「勇者に同意っす!」
不完全燃焼ではあるものの、二人の希望どおり、その方向で処理することにしよう。
面倒だが、仕方がない。
ロリコン変態魔術士の『アビスカーズ』を、『SKILL_VIRUS』によって破壊して差し上げよう。
さて――次は、狙撃のタイミングだ。すると、勇者と強斥候が、珍しくまともな意見を口にしてきた。
「魔術士は、即座に行動してくるだろうな」
「そうっすね。僕が魔術士さんの立場なら、遠距離攻撃で三華月様を捕らえようとして、できるだけ早く酒場を襲撃するっすね」
なるほど。魔術士側からすれば、今が不意打ちを仕掛ける好機――そう判断するのは、理にかなっている。
ならば私は、この酒場に近づいてくる魔術士を、迎え撃てばいいということだ。
まともな戦術を語ってきた二人は、うんこのくせに、一応それなりの冒険者だったのかもしれない。
「勇者と強斥候が、うんこのくせにまともなことを言うなんて、驚きました」
「「……」」
先ほどから、嫌な物を見るような目で見られている。それは決して、美少女を見る目ではない。
まあいい。うんこ達にどう思われようが、構わないのだから。




