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さよなら世界にキスをして

作者: わらび餅

「分かられることは生きることだよ」

使い古された言葉を言った。そうだね、と世界が呟く。

涼しい秋の夜空の下に布団をしいて、僕はその人に添い寝していた。広い広い草原の真ん中。音の無い世界を、澄んだ空気が優しく走る。その夜の空はほどよく冷たくて、まるで空気がないかのように真っ暗だった。そこに浮かぶ満月の綺麗な様に、もはや形容の言葉など必要なかった。


「だから僕はさみしいわけだけどさ」

ゆっくりと言葉を繋いでいく。

人と人との理解、あるいは認識の絶対の溝、僕はそれを嘆いていた。分かってもらえるかな。僕にはみんなと同じ世界を生きているという自信がなかったんだ。僕は誰かと、出会ってみたくてたまらなかった。


世界は何も言わなかった。二人して、仰向けのままでずっと空を見ていた。その静けさは、このまま放っておけば自然と永遠の時が流れるのではないかと思わせるほどだった。不思議と愛しいような。

そういえばいつから僕はここにいるのだろう。そう考えた時、急に心が詰まって苦しくなった。ふいにこみ上げてきた孤独のせいだった。きゅっと締まる胸の寂しさに、同じようにして目をつぶる。気づけば涙が流れ落ちていた。ものを考える夜には、よくあることなんだけどね。


その人は僕の様子を見ていたようだ。

ねえ、私についてきて。それだけ言うと世界は突然立ち上がった。手を差し伸べ、僕を引き起こして、どこかへと走りだす。

ただ困惑した。どこへ行くのだろう、検討もつかない。

世界に手を引かれて、僕はただ走った。きっと、救ってくれるのだろうなどと漠然と考えた。


さく、さくと草原を駆ける。夜露が跳ねた。その人の肩にかかるほどの髪が風になびいて、その各々が月の光に照らされる。僕はそれに見惚れている自分にハッとして、何とも言えない思いをした。

やがて流れていく景色は緑色に変わっていった。林の中へと入ったのだろう。世界の息は既に上がっているようだったが、それでもその足はどんどん速くなっていく。

僕ももう疲れていた。肺が乾いて、絞られたように痛い。しかし手を引かれるままに、その人の細くやわらかな腕だけに視線を落として、走った。木の枝などで途中何度も身を切った。少し血が出たが気にはとめない。歯を食いしばって足を動かす。


   ♦


そして気づけば第一にあるのは海の匂いだった。目の前には優しく海が広がっていた。そしてその両側は大きく岩壁が覆っていて、僕たちだけの場所という感じがする。

海の上でゆらめく光を見つけ、ふと上を見上げた途端、目が眩んだ。しばらく森の木々に囲まれていたせいだ、金色の月がとても眩しかったのだ。周りを薄暗く雲が覆うように漂っているが、月はそれに臆することなく月暈を纏っていた。ただひたすらに優雅であった。


ね、綺麗でしょう。走った甲斐があった。

世界が穏やかな声で言った。どうやら、こういう思いをした後の方が綺麗なものはより尊くなるだろうという考えの持ち主らしい。なるほど、世界の趣味は日頃からそこら中でよく伺えた。悪い趣味だ、などと心の中で悪態をつく。

僕はもう一度その景色を見渡した。やはり音はなかった。さらさらと、波が浜辺の砂を誘う、その質感だけが音のようなものとして感じられた。僕の呼吸はいつしか、その動きと重なり、大いなる安堵を得た気持ちがした。


「それでも、君は綺麗だ」

僕は気づくと涙を流しながらそう言っていた。そうだ。いくら寂しくとも、この人はこんなにも美しいんだ。それだけでもはや全てを許せる気がした。

もう先ほどまでの寂しさはなかった。全て消え去っていた。感謝を言いたいと思って、世界の方へ振り返る。

そこで、自分が初めて前からその人を見ることに気づいた。世界の顔は、心地よい黒いもやのような何かがかかっていて、見ることはできなかった。また着ている服はとても簡素で、白い布切れを荒く裂いたようなものだった。その細い、けれどもしっかりと美しい輪郭を持った体を、月はより尊く照らした。地面に落ちる黒い影まで、またそうであった。

世界はばっと手を広げて、風に、その服と黒く揺れる髪をはためかせながら、僕が口を開くよりも早く、話した。

何も言わなくていいよ。もう帰りなさい。

その声は崇高で、どこか儚げだった。そして、その幸せな抱擁感の中で僕はあることに気がついてしまった。その台詞には聞き覚えがあったのだ。その人も、僕が気づいたことを察したようだ。ハッとした様子を見せる。

大きく深呼吸をして、言う。

「やっと思い出したよ世界。僕は何度もここに来たことがある」


   ♦


「君は僕がここに来るとおんなじようにしていつもこの場所へ連れてきた。そうでしょう」

世界は俯いていた。僕の追求はもう止まらなかった。

「でもこれは一瞬間満たされるだけの幻にすぎないよ。ごまかしたって、意味がない。もうやめにしよう」

返答はなかった。相変わらず吹く風は涼しげで、心地よいものだった。

僕はもういい加減分かっていた。その人がずっときまりの悪そうな様子で口をつぐんでいる理由など、一つしかない。

「……もしかして、君にも打つ手がないの」

それを確かめることはすごく悲しかった。これを肯定されれば、この問には、世界でさえ答えを見出せないということが確定する。


そうだよ。ごめんね。あれが私にできる精一杯の救い。その声は小さく、震えていた。気づけば月は雲に隠されてしまっていた。あたりも急に暗くなり、涼しさは寒さに感じられるようになってしまった。

しかし僕は、謝ってもらいたいわけじゃなかった。その人にも打つ手がないというのなら、分かられることが生きることだというのなら、ならば。生きることが出来ないと感じても、誰かを生かすことはできると考えていた傲慢な僕だからこそ、その先の言葉が出た。

「じゃあそれって、君も寂しいってことじゃないか。だから生き物を作り続けているんだろう」

一瞬その人は驚いた素振りを見せた。僕は何かを確信した。

「僕がいるじゃないか」

それが僕の答えだった。


世界は嬉しそうな顔をして泣く……と思った。僕は救世主になれると思った。しかしやはりもやのかかったような顔のまま、さみしげに笑うのだ。

そしてまた知らぬ間に月が出た。もう一度光が満ちる。

その人は少し歩いて、月を背にした。僕がふと瞬きをすると、なぜか次の瞬間には月はこの空を覆うほど大きくなっていた。そして世界は言ったのだ。

交わることと重なることは違う、そうでしょう?

その表情のまま、後ろで手を組んで、首を傾げて見せた。黒い髪が揺れる。背後の光が強すぎて、その姿は真っ黒な影となった。何も見えない。


僕は心のどこかで分かりきっていた気がするその言葉を頭の中で何度も反芻した。僕は全く足りないのだ。

そしてその後残ったのは焦燥と自棄だけだった。初めの頃にゆっくりと言葉を選んでいた自分はもういない。口からこぼれかけるその尖った言葉を止めるだけの落ち着きは、既になくなっていたのだ。

「ああ、そうだね。その通りだ。そして、僕はいずれ死ぬけれど、君はもう分かっているはずだ」

僕は徐々にその声を強めていく。うるさい、言うな、と世界が呻く。ざまあみろ、そう思って、最後の言葉を言ってやった。

「救世主は現れない。死なない君は永遠に、永遠に孤独のままだ!」

僕は世界を怒らせてしまった。


   ♦


その言葉の直後、無言のまま、世界は目を見開いた。ぼんやりとした、気持ちの悪いどす黒く真っ赤な目だ。その目は僕を思いっきり睨んだ。そのあまりの悍ましさに、全。突然体が強張り、全身に悪寒が走った。どこまでも気持ちが悪くて、涙が出た。嗚咽をもらして、激しい怒号が響くように痛む頭を抑えた。僕はその場に倒れ込んだ。

もう帰れよ。

そう言って世界が手を空へ振りかざすと、大きな大きな月が急に今までの輝きを失い、その目と同じ恐ろしい色味を帯びた。次第に世界の姿の輪郭は黒い霧のようなもので揺らぎ始め、その体も真っ黒に見えなくなっていく。

次にその人は手を振り下ろした。すると次の瞬間、僕を押し潰す寸前まで空が落ちてきた。ずん、と景色が揺らいだ。息が詰まるほど黒く澄んだ無限の暗闇と巨大に紅い月が、僕を圧迫する。そこに感情はない。憎悪に似た何かだった。

その目は相変わらず僕を憎み、苦しみだけが永遠に続く。

声は出ず、ただただ泣いて、意識は自然と遠くなっていった。

世界も、やはり寂しかったのである。


   ♦


気がついたね。何処かで聞いたことのあるような優しい声で目が覚めた。それはやはり世界のものだった。先ほどの出来事がとても昔の記憶のごとく感じられ、頭がぼうっとしていた。

僕はまたさっきの場所で世界に添い寝していた。

上で広がるのは同じ景色だ。満天の星空と、心地よい暗闇、そして満月。

さっきのことを思い出しながら、僕は気づいた。そうだ、よく考えたら自分は世界の顔すらよく見えていなかったのだ。今だって、隣にいるけれど、手を伸ばしても触れることすら出来ないのだろう。その声だって、どこか曖昧で、まるで記憶を思い返すかのような調子でぼんやりと聞こえるだけだ。足りないのも当たり前だ、とそこまで考えてまた涙が出る。今日だけで何度泣くのだろう。


何が人と人との溝だ。僕は君だってほとんど見えていないんだ。他人も、世界も、確かなものが一つもないなら、僕にとってはこの世は全て空っぽであるのと同じだった。僕が何も言えないでいると、世界は話しだした。

萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く不可解。そんなことを言う子が昔いたんだ。知ってるかな。

「随分昔だね。あいつは敗北者だと思ってる。僕はまだ諦めてない」

もうそんなになるのか。そう呟いて世界は黙った。その後しばらくして、威勢のいいのは何よりだ、死ぬのは悲しい、と、付け加えた。

僕はどこまでも虚無に包まれているという感がしていた。僕は全てを知り得ない、きっと死ぬまで。しかし、自決しようとは思わない。だってその人が綺麗だから。ややこしい人間だな、と自分を笑った。心なしか、同じタイミングで世界が笑った気がした。


   ♦


一つだけ、もう何もかも嫌になった時のため、最後の方法を教えてあげるよ。

ふいに世界が寄ってきて、僕の耳元で囁いた。僕はあまりの急な出来事に驚いた。

「忘却」だ。恋、革命、ドラッグ、多忙、社会、何でもいい。わざと世人に埋没してしまうんだよ。もうわかってるとは思うけれど。

「うん、分かってるよ。とりあえず今日はそれに頼ってもう帰る」

そうだね、今回は長くいすぎた。

「もう二度とこないよ」

いたずらに笑って見せて、僕はそのあざやかな頬にキスをした。同時にふわっと風が吹いて、その人のやさしい匂いを感じた。世界はくすっと笑った。

どうせすぐ来ることになるよ。

その言葉を聞いて、僕は布団を飛び出した。秋の風を感じながら、草原を歩いていく。


おそらく僕はまたここに来るし、この悩みは永遠に解決しないだろう。埋没もやはりまた一時的なものでしかあり得ない。世界と僕は重なれないように、また誰かと僕もそうであるのだろうし、いつまでたっても世界の顔のもやが晴れることもないのだろう。けれど、今だけは、これでいいのだ。そう思って向こうへ戻らないと、誠実に今を生きることをしないと、僕は美しい君の面影さえ失ってしまうのだ。

星空をもう一度見上げる。僕は何か切り替えるように深呼吸をする。そして、秋はやっぱり素敵だな、なんて呟きながら、スキップをして、帰路についたのだった。


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[一言] 透明な寂しさがひんやり冷たくてとても素敵でした。 いきなり感想失礼しました。
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