貴方が愛するのを辞めた理由
リゼット・オルブライトと王太子ノア・レイヴェルの婚約が決まったのは、二人がまだ互いを異性として意識するよりもずっと前のことだった。王家とオルブライト公爵家の結びつきを強めるために交わされた約束であり、幼い二人に相手を選ぶ権利などなかった。それでもリゼットは、自分の境遇を不幸だと思ったことは一度もない。公爵令嬢として生まれた以上、家のために結婚することは当然だと教えられて育ってきたし、何より婚約者となったノアは彼女が不満を抱く理由を探す方が難しいほど穏やかな少年だった。成長してからは王太子としての才覚も目立つようになり、剣術や魔法だけでなく学問にも真面目に取り組み、身分の低い者を粗雑に扱うこともない。婚約者であるリゼットへの接し方も丁寧で、誕生日を忘れたことは一度もなく、何年も前に好きだと話した花や菓子まで覚えている。将来の夫として考えるなら、これ以上を望む方が贅沢なのだろうとリゼット自身も思っていた。
それでも、リゼットはノアを愛していなかった。嫌っているわけではなく、むしろ人として好ましく思っているし、夫になれば大切にしようとも考えている。それでも彼に会える日を指折り数えたことはなく、夜会でノアがほかの令嬢と踊っている姿を見ても嫉妬した経験はなかった。幼い頃から将来の夫として紹介された相手なのだから、恋に落ちるより先に家族になることが決まってしまったようなものなのかもしれない。二人の婚約は初めから恋愛によって結ばれたものではなく、王家と公爵家のために決められているのだから、互いに与えられた役割を果たして穏やかな家庭を築ければ充分なのだろう。いずれノアが国王となれば、自分は王妃として彼を支え、子供が生まれれば二人で育てていく。ノアも同じように考えているのだと、リゼットは本人へ確かめた経験すらないまま信じていた。
十七歳になった春、リゼットはいつものように王宮を訪れていた。暖かな日差しに誘われて王宮の庭園には春の花が咲き始めており、白い卓上には二人分の茶器と小さな焼き菓子が用意されている。向かいに座ったノアが自ら茶器へ手を伸ばしたため、リゼットも何気なくカップを持ち上げたところで、いつも飲んでいる紅茶とは香りが違うことに気づいた。以前にも口にした覚えのある香りだったものの、どこで飲んだものだったのかまではすぐに思い出せず、リゼットはカップを眺めながら首を傾げた。
「今日は茶葉が違うのですね」
「よく分かったね。以前、こちらの方が好きだと言っていただろう?」
「私、そんなことを言いましたか?」
「半年前くらいだったかな。君は覚えていないようだけれど」
ノアは少し楽しそうに笑いながら自分の紅茶を口へ運んだ。言われてみれば、以前どこかで口にしたような気もするものの、リゼット自身が忘れていた程度の話である。そんな言葉まで覚えているとは随分と記憶力がいいのだと思いながら、彼女は改めて紅茶を味わった。確かに普段王宮で出されるものより好みに合っており、礼を告げるとノアは満足そうに目を細める。彼が自分の好みを覚えていること自体は珍しくなく、幼い頃に好きだと言った花も、苦手だと話した菓子も忘れていなかった。それを婚約者への細やかな配慮として受け取っていたリゼットは、ノアがなぜ自分に対してばかりそんな記憶力を発揮するのかまで考えたことはなかった。
「そういえば、先日また宮廷魔術師に呼び出されたんだ」
「魔法のお話ですか?」
「ああ。私には、まだ発現していない特殊な適性があるらしい。以前から普通の魔法とは魔力の流れが違うと言われていたけれど、何ができるのかまでは分からないそうだ」
「それは珍しいですね。王家にも記録がないのですか?」
「似たものはいくつか残っているらしい。でも、同じものは見つからなかった。使うことができれば分かるのだろうけれど、肝心の使い方が分からないんだ」
ノアは困ったように笑いながら、自分の右手へ視線を落とした。王族には強い魔力を持つ者が多く、歴代の王族が扱った魔法についても詳細な記録が残されている。その王家にさえ同じものが見つからないとなれば、相当に珍しい能力なのだろう。リゼットも興味を覚え、何か発動する感覚のようなものはないのかと尋ねると、ノアは完全に分からないわけではないと答えた。最近になって目を閉じて意識を集中させた際、普段の魔法とは違う何かへ触れそうになることがあるらしい。
「危険はないのでしょうか?」
「宮廷魔術師には問題ないと言われているよ。少なくとも魔力の流れに異常はないそうだ」
「でしたら、試してみてもいいのかもしれませんね」
「君もそう思う?」
「ええ。せっかくノア様に与えられた才能なのですから、何ができるのかくらいは知りたいでしょう?」
リゼットがそう答えると、ノアは少し迷ってから頷いた。未知の魔法と聞けば不安がないわけではないものの、宮廷魔術師が危険性を確認したうえで問題ないと判断しているのなら、自分が止める理由もない。何よりリゼット自身、婚約者にどのような才能が眠っているのか純粋に興味を持っていたため、ノアが椅子の背へ身体を預けながら目を閉じるのを黙って見守った。
しばらくは何も起こらなかった。庭園には穏やかな風が吹き、枝の上では小鳥が鳴いている。失敗だったのだろうかと思い始めた頃、ノアの指先から淡い光が生まれ、すぐに身体全体を包み込んだ。驚いたリゼットが立ち上がろうとしたものの、光そのものは一瞬で消え、ノアの身体にも異変は見当たらない。それでも彼は目を閉じたまま動かず、先ほどまで穏やかだった表情だけが次第に強張っていったため、リゼットは思わず身を乗り出した。
「ノア様?」
呼びかけても返事はなく、リゼットは触れてもいいものか迷って手を止めた。その頃には、ノアの意識はすでに庭園から遠く離れていた。彼自身にも何が起きているのか理解できないまま、目の前には知らない景色が次々と広がっている。夢にしてはあまりにも鮮明で、空気の冷たさも、周囲から聞こえる声も、自分の身体に感じる重みさえ現実と変わらなかった。
最初に見えたのは王宮の大広間だった。今より年齢を重ねた自分が玉座の前に立ち、その頭には国王だけが身につける王冠がある。隣には豪華な衣装をまとったリゼットが立っており、集まった貴族たちへ王妃として穏やかな笑みを向けていた。景色が変われば、二人で朝食を取っている姿が見えた。さらに先では執務室へリゼットが書類を届け、その次には幼い子供が二人の間を走っている。どうやら二人は予定通り結婚し、夫婦として何年もの時間を共に過ごしているらしい。
ノアにとって、それは長い間望んでいた未来だった。幼い頃に決められた婚約だったとしても、いつの間にか彼にとってリゼットは家同士の約束だけで結ばれた女性ではなくなっている。いずれ結婚し、できることなら自分と同じ気持ちになってほしいと何度も願ってきた。その願い通り、未来のリゼットは自分の妻となり、王妃として隣に立ち、二人の子供まで育てている。それなのに未来を見ているノアの胸には、喜びより先に説明しようのない違和感が広がっていた。
未来のリゼットは優しかった。仕事に追われるノアの身体を心配し、帰りが遅くなれば食事を残して待ち、病に倒れれば誰より近くで看病してくれる。夫婦として言葉を交わすときには笑顔を見せ、子供たちの話になれば楽しそうに笑う。国王として信頼され、夫として大切にされ、家族として必要とされていることは間違いない。それでも魔法を通じて未来の彼女に触れているノアには、その感情の奥に自分が求めているものだけが存在しないことまで分かってしまった。
リゼットは、ノアを愛していなかった。嫌っているわけではなく、冷たいわけでもない。夫として尊敬し、家族として大切に思い、王妃として生涯支えるつもりでいる。それでも彼女がノアという一人の男性へ恋をすることはなく、二人が何年夫婦として暮らしても、その部分だけは変わっていなかった。
「ノア様?聞こえていますか?」
再び聞こえたリゼットの声によって、ノアの意識は現実へ引き戻された。気づけば握り締めた右手には汗が滲み、呼吸もわずかに乱れている。目の前には先ほど何年もの人生を共に過ごした女性と同じ顔をした十七歳のリゼットが座っており、何も知らないまま心配そうに自分を見つめていた。
「……何か、見えたのですか?」
「ああ。たぶん、未来だと思う」
「未来……?」
リゼットは驚いて目を見開いた。自分が何を見たのか伝えるべきか迷ったノアは、すぐに言葉を続けることができなかった。未来の君は私を愛していなかったなどと本人へ告げても困らせるだけであり、そもそも先ほど見た光景が本当に確定した未来なのかも分からない。迷った末、ノアは最も当たり障りのない部分だけを口にした。
「私は国王になっていたよ。君も私と結婚して、王妃になっていた」
「でしたら、予定通りですね」
「……予定通り、か」
「ええ。私たちはそのために婚約しているのでしょう?」
リゼットは何の迷いもなく微笑んだ。彼女に悪意がないことくらい、ノアにも分かっている。幼い頃から決められていた結婚が予定通り実現していたのだから、リゼットは素直にそう答えただけなのだろう。それでも未来で知った彼女の気持ちと今の言葉が重なり、ノアは笑い返すまでに少し時間がかかった。
このときの二人は、まだ何も知らなかった。ノアが見た未来は決められた運命ではなく、今この瞬間から無数に枝分かれしている可能性の一つにすぎないことも、同じ未来を繰り返し覗けば、その可能性が少しずつ現実へ近づいていくことも知らない。リゼットもまた、自分が何気なく「試してみてもいい」と背中を押したこの日を、いつか命を落とす直前まで思い出すことになるとは考えていなかった。
未来を見る力が自分にあると知ったノアは、最初のうちは慎重だった。あの日に見たものが本当に未来なのか確かめる方法はなく、魔法について宮廷魔術師へ相談しても、同じ能力の記録がない以上は推測しか返ってこない。それでも彼の中には、どうしても確かめずにはいられないものが残っていた。未来のリゼットは自分を愛していなかった。今の彼女も自分に恋をしているようには見えない。それならば、これから自分が行動を変えた場合、未来の彼女の気持ちも変わるのではないかと考えた。
翌週、ノアはリゼットへ花を贈った。以前彼女が好きだと話していた白い花を中心に選ばせ、王宮へやって来たリゼットへ自分から渡したところ、彼女は目を丸くして花束とノアの顔を交互に見た。
「何かのお祝いでしたか?」
「いや。君に贈りたいと思っただけだよ」
「理由もなく、ですか?」
「婚約者に花を贈りたくなった、では理由にならないかな」
リゼットは少し困ったように笑ったあと、大切にすると言って花束を受け取った。その笑顔を見たノアは期待を抱き、その夜、もう一度未来へ意識を伸ばした。今度の未来では王妃となったリゼットの部屋にノアが贈った花が飾られており、以前よりも二人で過ごす時間が増えている。それでも彼女の中にある感情は変わらず、夫を尊敬し、家族として慈しみながら、恋だけはしていなかった。
ならば、もっと彼女を知ればいいのだとノアは考えた。王宮へ招く回数を増やし、公務に必要な話だけではなく、好きな本や食事についても尋ねるようになった。リゼットが読みたいと言っていた本を見つければ取り寄せ、誕生日には以前より時間をかけて贈り物を選び、二人で過ごす日には彼女の好みに合わせた菓子を用意した。リゼットは喜んでくれる。笑ってくれる。ノアへの親しみも以前より増しているように見えた。それでも未来を確かめれば、最後には同じ結末が待っていた。
ノアは少しずつ未来を見る回数を増やした。自分から想いを伝えた場合、結婚までの時間をもっと二人で過ごした場合、彼女の望みを可能な限り叶えた場合と、選択を変えるたびにその先を確かめた。それぞれの未来には小さな違いがあり、二人の会話も暮らし方も同じではないのに、リゼットがノアを愛していないという一点だけは変わらない。最初に見たときには無数に存在していたはずの未来が、ノア自身の手によって少しずつ一つへ収束していることなど、知る由もなかった。
やがてノアは疲れ始めた。愛される方法を探すために未来を見るたび、愛されないという答えを突きつけられる。リゼットと会っている間でさえ、彼女の笑顔を素直に喜べなくなっていった。今こうして笑ってくれていても、未来では自分を愛していないのだと考えてしまい、以前なら嬉しかった彼女の優しさまで婚約者としての義務に見えるようになった。
「最近、お忙しいのですか?」
久しぶりに二人で茶を飲んでいた日、リゼットが心配そうに尋ねてきた。ノアは何でもないと答えようとしたものの、彼女の目が思っていた以上に真剣だったため、言葉を濁して公務が増えたのだと説明した。
「無理はなさらないでくださいね。ノア様は何でも一人で抱えようとなさいますから」
「心配してくれるのか?」
「もちろんです。婚約者ですもの」
リゼットにとっては自然な返答だった。ノアには最後の言葉ばかりが残り、婚約者だから心配しているのだという意味に聞こえてしまった。その夜にも未来を確かめ、翌日には別の選択をした先を覗き、やがて愛される未来を探すことを諦めた。これほど確かめても変わらないのなら、きっと自分たちはそういう関係なのだろうと受け入れるしかなかった。
それからしばらくして、リゼットは王宮へ呼び出された。案内された部屋にはノア一人しかおらず、普段なら用意されている茶も菓子もない。何か重要な話なのだろうと察して向かいへ座ると、ノアは長い間迷った末に彼女の名前を呼んだ。
「リゼット。私たちの婚約を解消しようと思っている」
「……理由を伺ってもよろしいですか?」
「君を妻にするべきではないと思った」
「私が王太子妃として相応しくないことを?」
「違う。君には何も問題はないよ」
それならばなぜ、とリゼットは尋ねた。ほかに好きな女性ができたのかと続けても、ノアは否定するばかりで明確な理由を教えてくれない。彼が自分との婚約を嫌がっていた様子もなく、少し前まで以前より積極的に交流しようとしていたことを思えば、リゼットには何が起きたのか分からなかった。
「私の我儘だと思ってくれていい。君には、君自身が望む人生を選んでほしい」
ノアの言葉を聞きながら、リゼットは膝の上で指を重ねた。幼い頃から当然だと思っていた人生を失うことへの戸惑いはある。目の前にいる男性と二度と以前のような関係には戻れないのだと考えれば、胸の奥にも確かな寂しさがあった。それでも婚約を続けてほしいと縋るほど彼を愛しているのかと自分へ問いかければ、リゼットには肯定できなかった。
「……分かりました。婚約解消をお受けします」
その答えを聞いたノアは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。自分で望んだ婚約解消なのだから安堵するはずなのに、その横顔があまりにも苦しそうに見えたことを、リゼットは長い間理解できないまま記憶の奥へ残すことになった。
婚約解消後、リゼットは公爵領で過ごす時間を増やした。王妃になるために組まれていた教育や予定がなくなり、幼い頃から一本しかないと思っていた人生が突然いくつもの方向へ開かれたことには戸惑ったものの、少しずつ新しい生活にも慣れていった。ノアに会えないことが苦しくて眠れない夜が訪れることもなく、そのことが自分は本当に彼を愛していなかったのだという証明のように思えた。
一方、ノアは未来を見る力を国のために使い始めていた。最初のきっかけは、北部の収穫量が例年より少し減っているという報告だった。担当者は天候による一時的なものだろうと判断していたものの、未来を知ることのできるノアは念のため数年先を確かめ、そこで大規模な飢餓を目にした。食糧を求める人々が倉庫へ押し寄せ、痩せた子供を抱えた親が助けを求め、道端には力尽きた者まで倒れている。その光景を見てしまったノアに、何もしないという選択はできなかった。
穀物を多めに備蓄すれば防げるのか、輸入量を増やせばどうなるのか、農地へ援助を出した場合は被害を抑えられるのかと、ノアは考えられる方法を試すたびに未来を確認した。どの選択にも違う結果が現れるのに、飢餓そのものが消える未来だけは次第に見つからなくなっていく。最初は偶然見つけた可能性の一つだったものが、彼が何度も同じ出来事へ意識を伸ばしたことで現実へ近づいていた。
次にノアが見つけたのは、西部で起こる反乱だった。数年後、有力侯爵が兵を率いて王都へ向かい、王国軍との戦いによって多くの死者が出る。ノアは反乱を避ける方法を探すため、何度も未来を見た。侯爵と話し合った未来を確かめ、領地へ援助した場合を調べ、それでも駄目なら中央で役職を与えた未来まで覗いた。それぞれ選択は違っているはずなのに、何度確かめても最後には反乱へたどり着いてしまう。自分は未来を変えるために力を使っているはずなのに、使えば使うほど逃げ道が減っているように思えて、ノアには何が起きているのか理解できなかった。
それでも彼は未来を見ることをやめなかった。反乱だけではなく、疫病や戦争、暗殺、王都での暴動まで見えるようになり、一つの危機を避ける方法を探した先には別の危機が待っている。何もしない未来では多くの人間が死に、行動した未来では別の人間が犠牲になる。それなら少しでも死者の少ない未来を選ぶしかないと考えるようになり、ノアの判断は次第に現在より未来を優先するものへ変わっていった。
先王が病によって亡くなり、ノアが国王となった頃には、彼の未来視によっていくつもの災厄が現実へ固定されつつあった。西部の侯爵が反乱を起こす未来は、何をしても避けられないところまで近づいている。ノアは反乱が起こって何千人もの兵士と民が死ぬより、首謀者となる侯爵を先に排除する方が被害は少ないと判断し、まだ反乱を起こしていない彼を捕らえた。
当然、国内から反発が起こった。侯爵が将来反乱を起こすと知っているのはノアだけであり、ほかの者から見れば国王が有力貴族を根拠もなく処罰したようにしか見えない。ノアは事情を説明することもできず、反発によって生まれた新たな未来を確認しては、次の危険を防ぐために手を打った。
疫病が広がる未来を見れば、まだ患者の少ない街を封鎖した。飢餓に備えるため各地から穀物を集めれば、現在の食糧価格が上がり民衆の不満を招いた。隣国が攻め込んでくる未来を知れば国境へ兵を集め、その動きを見た隣国は王国が侵攻を準備しているのではないかと警戒を強めた。未来を避けるために選んだ行動が別の火種を作り、その火種から生まれる未来をノアが再び覗くことで、新しい災厄まで現実へ近づいていった。
いつしか人々はノアを暴君と呼ぶようになった。まだ罪を犯していない者を処罰し、理由も告げず街を閉ざし、民から食糧を集め、隣国へ兵を向ける王にしか見えないのだから無理もない。ノア自身には、自分が何を間違えているのか分からなかった。未来を見なければもっと多くの人間が死ぬと信じており、実際に彼が見ている未来の中には、現在より凄惨なものがいくらでも存在していた。
公爵領にいたリゼットの耳にも、国王となった元婚約者の噂は届いていた。あれほど穏やかだったノアが、どうしてこんなことになったのか理解できず、何度も王都の方角を眺めた。婚約を解消したあの日に見せた苦しそうな表情を思い出すこともあったが、今さら自分が彼に何を言えるのか分からず、結局王宮へ向かうことはなかった。
やがて、ノアが恐れていた災厄は次々と現実になった。西部で大規模な反乱が起こり、北部では不作から食糧不足が広がり、交易の混乱によって薬の供給まで滞ったところへ疫病が重なる。隣国との緊張も戦争へ発展し、国内の不満は国王への憎悪へ変わっていった。未来を避けるために力を使い続けたノアは、最後まで自分がその未来を確かなものへ変えていたことを知らなかった。
リゼットが命を落としたのは、王都から離れた公爵領にも混乱が広がった冬だった。食糧を運ぶ馬車が襲われ、領内でも暴動が起こり、屋敷にまで火が回った。煙に包まれた廊下を逃げながら、彼女は自分の人生がどこで変わったのかを考えていた。
最初に思い浮かんだのは、十七歳の春だった。王宮の庭園でノアが初めて不思議な魔法を使い、未来が見えたのだと話した日。その後から彼の様子は変わり、やがて婚約を解消され、国王になってからは未来を知っているかのような不可解な判断を繰り返すようになった。
もしかすると、すべてはあの力から始まったのではないか。
そしてもう一つ、リゼットには後悔があった。自分は何年もノアの婚約者だったのに、結局あの人のことを何も知らなかった。婚約を破棄した理由も、何を怖がっていたのかも、なぜ一人であれほど苦しそうな顔をしていたのかも尋ねないまま、愛していなかったからと彼の手を離した。
もう一度、やり直せるなら今度はもっと彼の事を沢山知ろう。
そんなことを考えたところで、リゼットの意識は途切れた。
◇
次にリゼットが目を開けたとき、最初に見えたのは炎に包まれた公爵邸の天井ではなく、薄い水色の天蓋だった。息を吸っても煙は肺へ入ってこず、鼻を刺していた焦げ臭さもなければ、廊下の向こうから逃げ惑う人々の声も聞こえてこない。窓から差し込む朝の光が寝室を照らし、枕元には昨夜読みかけた本が伏せたまま置かれている。あまりにも見慣れた光景に、リゼットはしばらく身体を起こすことさえできなかった。やがて恐る恐る自分の手を持ち上げれば、火傷も傷もなく、記憶にある最後の日より明らかに細く若い指がそこにある。寝台から降りて鏡の前まで進んだところで、鏡の中にいる自分が十七歳の姿へ戻っていることに気づき、リゼットは鏡台へ両手をついた。
一度目の人生を夢だったと思うことはできなかった。ノアから婚約解消を告げられた日のことも、国王となった彼について届く不可解な噂も、西部から始まった反乱も、北部を襲った飢餓も覚えている。国境で戦争が始まり、薬も食糧も足りなくなり、最後には公爵領にまで暴動が広がって屋敷が炎に包まれた。熱と煙の中で息ができなくなった感覚まで身体のどこかに残っているようで、リゼットは何度も胸へ手を当てた。そこへ朝の支度をするため侍女が入ってきたので日付を尋ねると、返ってきた答えに今度こそ息を呑んだ。十七歳の春であることだけでも信じ難いのに、今日は王宮の庭園でノアが初めて未知の魔法を使い、自分には未来を見る力があると知った、まさにその日だった。
リゼットは朝食も満足に喉を通らないまま身支度を済ませ、予定されていた王宮へ向かった。馬車が王都の通りを進む間、窓の外には一度目の人生の末期には失われていた穏やかな景色が広がっている。店先には豊富な食べ物が並び、子供たちは道端を駆け回り、商人たちは客を呼び込むため声を張り上げていた。数年後には食糧を求める人々が同じ通りへ溢れ、兵士が治安を維持するため巡回していたことを知っているリゼットには、ありふれた日常さえ奇跡のように見えた。それでも未来を知っているからといって、何もかも自分一人で変えられるとは思わない。一度目のノアも未来を変えようとした結果、破滅へ近づいていったのだから、同じことを繰り返してはいけなかった。
王宮へ到着し、庭園へ案内されると、一度目と同じ場所にノアがいた。王冠を戴いて人々から暴君と呼ばれるようになった国王ではなく、まだ十七歳の少年らしさを残した王太子が、こちらに気づいて穏やかに笑っている。その顔を見た瞬間、リゼットの足が止まった。最後に噂で聞いた頃のノアはほとんど眠ることもなく未来を見続けていると言われ、誰を信じれば国を救えるのか分からなくなっていた。目の前にいる彼にはその面影などなく、昨日までと変わらない顔でリゼットを待っている。
「どうしたんだ?そんなところに立って」
「……お元気そうだと思いまして」
「昨日も会っただろう?一晩で別人になるほどのことは起きていないよ」
可笑しそうに笑われ、リゼットも小さく笑い返して席へ向かった。昨日どころか、自分にとっては何年もの時間が過ぎている。ノアと婚約者だった頃が遠い昔のように感じられる一方、卓上に置かれた紅茶から漂う香りには覚えがあった。一度目のこの日にも、ノアはリゼットが以前好きだと話した茶葉を用意していた。自分自身でさえ忘れていた好みを彼が覚えていたことに、当時は記憶力がいいのだと思っただけだった。
「今日は茶葉が違うのですね」
「よく分かったね。以前、こちらの方が好きだと言っていただろう?」
「……覚えていてくださったのですね」
「もちろん。君が好きだと言ったものだから」
同じような会話を一度目にもしたはずなのに、今は最後の一言が妙に耳へ残った。ノアにとっては何でもない言葉なのかもしれない。それでもリゼットは、自分がこの人について同じように覚えているものを探そうとして、すぐには何も思いつかなかった。ノアが好きな茶葉も、好んで食べる菓子も、休日にどんな本を読むのかも知らない。婚約者として何年も隣にいたのに、自分は彼から与えられるものを受け取るばかりで、相手を知ろうとはしていなかったのだと思い知らされた。
やがて会話は、一度目の記憶にある通り魔法の話へ移った。宮廷魔術師から特殊な適性があると言われたこと、王家に残された記録にも完全に一致する能力がないこと、最近になって目を閉じて意識を集中すると普段の魔法とは異なる何かへ触れそうになることまで、ノアの説明は以前とほとんど変わらない。ここで一度目のリゼットは試してみてもいいのではないかと背中を押し、ノアは初めて未来を見た。その最初の未来が二人の結婚生活であり、そこから彼が自分を喜ばせようと行動を変え、何度も未来を確認したことを、今のリゼットはまだ推測できていない。それでも彼がこの力を使った日から少しずつ変わっていったことだけは覚えていた。
「宮廷魔術師には問題ないと言われているよ。少なくとも身体へ害を与えるような魔力ではないそうだ」
「でしたら、一度だけ試してみましょう」
「君もそう思う?」
「ええ。でも、何が起こるのか分からないのでしょう?でしたら私から一つお願いしてもよろしいですか」
「お願い?」
ノアが興味を示したため、リゼットは少し考えるふりをした。国の未来を見せるわけにはいかない。反乱も飢餓も戦争も、今の彼にはまだ知る必要のない可能性であり、自分たちの結婚について確かめさせることも避けたかった。それなら、知っても知らなくても何も変わらないほど些細な未来にすればいい。そこでリゼットは卓上の焼き菓子を一つ摘まみ、思いついたことをそのまま口にした。
「もし使えたら、今晩の料理は何なのかを当ててください」
「……今晩の料理?」
「はい」
「未知の魔法を初めて使うのに?」
「だからこそです。いきなり変なものを見たら困るでしょう。今晩の献立くらいなら、外れても笑って終われます」
「まるで私が未来を見る力があると言いたげだね。まだ決まったわけじゃないんだけどな」
「でしたら、もっと好都合です。何も見えなければ、普通に夕食を楽しんでください」
ノアは呆れたような顔をしたあと、とうとう笑い出した。一度目の人生で彼が初めて未来を見たときには、その直後から表情を強張らせていたことを覚えている。今回は未来を見る前から笑っていることに、リゼットはわずかに安堵した。
「分かった。そこまで言うなら、今晩の料理を当ててみよう」
「お願いします。外したら明日教えてくださいね」
「当てても教えるよ」
ノアは椅子の背へ身体を預け、ゆっくりと目を閉じた。リゼットは一度目と同じ光景を前にして思わず身構えたものの、今度は彼が何を見るのか分かっている。しばらくするとノアの片目から淡い光が生まれ。光は一瞬で消え、その後も彼は数秒ほど目を閉じたまま動かなかったが、やがて眉間に皺を寄せながら目を開いた。
「……鶏肉だ」
「はい?」
「香草を詰めて焼いた鶏肉と、豆のスープ。それから白いパンがあった。料理長が皿を運ばせていたから、たぶん今晩の夕食だと思う」
「本当に見えたのですか?」
「私の方が驚いているよ。知らないはずの食堂が見えて、その後で自分がそこで食事をしていた。どうやら私は、少し先の出来事を見たらしい」
ノアは興奮を隠せない様子で自分の手を見つめた。未知だった力の正体が分かったのだから無理もなく、リゼットも一度目なら一緒になって喜んでいただろう。それでも今は、その力によって国を救おうとし続けた彼が何を失ったのか知っている。初めて見た未来が夕食の献立程度で済んだことに胸を撫で下ろしながら、リゼットは浮かれているノアへ釘を刺すことにした。
「では、今日のところは終わりにしましょう」
「もう一度くらい試してもいいんじゃないか?」
「駄目です。一日に何度も使って身体へ影響がないとは、宮廷魔術師も確認していないでしょう?」
「それは……確かにそうだけれど」
「明日の朝、夕食が本当に当たっていたか教えてください。それまでは未来が見えたと決まったわけでもありません」
もっと試したそうな顔をしていたものの、ノアは最後には頷いた。リゼットもそこで未来視の話を終わらせ、別の話題へ移った。その日の帰り際には、ノアが好きな食べ物を尋ねた。一度目の人生で自分の好みを何でも覚えてくれていた相手について、今度は自分から知ろうと思ったからだった。
翌日の午後、王宮を訪れると、ノアはリゼットの姿を見つけるなり笑いながら近づいてきた。
「当たっていたよ」
「鶏肉でしたか?」
「ああ。香草焼きと豆のスープ、それから白いパンまで全部同じだった。料理長にいつ献立を決めたのか聞いたら、私が未来を見た時点ではもう決まっていたらしい」
「では、本当に未来を見る力なのですね」
「そうみたいだ。今度はもう少し先を――」
「ノア様」
名前を呼んだだけで、ノアは続きを止めた。昨日の約束を思い出したらしく、少し気まずそうに視線を逸らす。その姿を見ながら、リゼットは自分の不安が杞憂ではないことを感じていた。一度使って未来が当たれば、次はもっと先を見たくなる。もっと重要なことを確かめたくなり、その未来に問題があれば避ける方法を知りたくなる。ノアの性格を考えれば、その繰り返しがどこへ向かうのかは一度目の人生が証明していた。
「使ってはいけないとは言いません。ノア様の力ですから、私が勝手に禁止することでもありません。でも、何でも未来に聞くようにはならないでください」
「何でも?」
「例えば明日の天気が気になるから見る、試験の結果が心配だから見る、交渉が成功するか分からないから見る。そのたびに答えを未来からもらっていたら、今考える意味がなくなってしまうでしょう?」
「そこまで使うつもりはないよ」
「今はでしょう?」
ノアは返事に困ったようだった。リゼットは責めたいわけではなく、一度目に彼が未来視へ頼るようになった理由も理解している。自分の利益だけを求めて使ったのなら、むしろ途中で飽きていたかもしれない。ノアは誰かを救える可能性を見つけてしまう人だからこそ、やめられなくなったのだ。
「今晩の料理くらいなら、外れても誰も困りません。でも、もし人が死ぬ未来を見たら、ノア様は絶対に忘れられないでしょう?」
「……助けられるなら、助けたいと思う」
「ええ。だからこそ、簡単に見てはいけないんです」
リゼットはそこまで告げて、未来視についてこれ以上話すのをやめた。彼へ一度目の人生について明かすつもりはない。未来を見たから未来を恐れるのではなく、未来を見なくても現在から判断できることがあるのだと、これから彼自身に知ってもらいたかった。
その機会は、思っていたより早く訪れた。北部から届いた報告の中に、例年より作物の収穫量が落ちている地域があるという記述を見つけたのである。一度目には数年後の飢餓へつながった土地であり、リゼットは父にも頼んで現地の情報を集めた。調べてみれば、雨量の不安定さだけでなく古い水路の修繕が遅れており、不作が続いた場合に備える穀物倉庫も不足していることが分かった。
「未来を見れば、来年の収穫量も分かるのかな」
資料を確認していたノアが何気なく口にした言葉に、リゼットはすぐ首を横へ振った。
「見る前に考えましょう。水路が古いなら直す。備蓄が足りないなら増やす。来年が豊作でも、その二つをして困ることはありません」
「でも、もし大規模な不作が起きるなら、もっと予算を回した方がいいかもしれない」
「だから調べるのです。土の状態も、雨量も、周辺地域の収穫も確認しましょう。それでも分からない部分は、分からないままで備えればいいのではありませんか」
未来を見れば一瞬で答えが出る問いに対し、リゼットは何日もかけて資料を集める方法を選んだ。ノアも最初こそ未来視を使った方が早いのではないかと考えていたものの、調査を進めるうちに、水路の修繕や備蓄倉庫の増設は不作が起こらなくても無駄にはならないと納得した。翌年に実際の収穫量が落ちたときにも、早めに準備していた穀物によって価格の急騰を防ぐことができた。
西部で後に反乱を起こす侯爵についても、リゼットは同じ方法を選んだ。一度目のノアが未来視で知ったのは、侯爵が兵を率いて王都へ進軍するという結果だった。二度目では現在の領地を詳しく調査し、中央から派遣された役人の一部が税の徴収を利用して私腹を肥やしていることを突き止めた。領民からの訴えは途中で握り潰され、侯爵自身も王家が問題を放置していると誤解し始めている。この状況が何年も続けば反乱へ発展しても不思議ではなかったものの、今なら原因を取り除くことができた。
役人を処分し、不当に徴収された金銭を領民へ返し、ノア自身が侯爵と話し合う場を設けると、問題は大きな争いへ発展することなく収まった。数年後には反逆者となるはずだった男が王家への感謝を口にしている姿を見て、リゼットは未来というものについて確信を深めていった。
一度目にノアが見た出来事は、最初から起こると決められていたわけではない。現在にある原因が積み重なれば起こるかもしれない可能性であり、その原因を今のうちに変えれば未来も変わるのだと。
同じ時間を過ごすうちに、リゼットとノアの関係も一度目とは違うものになっていった。リゼットは彼が甘い菓子を好むことを知り、人前では平然としていても大勢の前で演説する前日は緊張して眠れなくなることを知り、幼い頃の落馬が原因で乗馬だけは今も少し苦手なことまで知った。ノアもリゼットが朝に弱いことや、刺繍より絵を描く方が好きなことを知り、互いに今まで知らなかった部分を少しずつ埋めていく。最初のリゼットは、彼を愛そうと思っていた。一度目には持てなかった感情を今度こそ持ちたいと考え、だから彼を知ろうとした。それがいつから変わったのか、本人にも分からなかった。
王宮へ行く日が近づけば楽しみになり、街でノアの好きな菓子を見つければ自然と足を止める。何日も会えなければ寂しくなり、彼が笑えば自分まで嬉しくなる。夜会でノアが隣国の令嬢と踊っている姿を見たときには、自分でも驚くほど面白くなかった。王太子なのだから客人を相手にするのは当然であり、一度目の人生なら何とも思わなかった光景なのに、早く曲が終わればいいと考えている自分がいた。
「随分と怖い顔をしていたよ」
「そんな顔をしていましたか?」
「ああ。私が何かしたのかと思った」
「……楽しそうでしたので」
「誰と?」
「先ほど踊っていらした方とです」
そこまで言ってから、リゼットは自分が嫉妬していることを隠しようがないと気づいた。ノアも同じところへたどり着いたらしく、目を丸くしたあとで嬉しそうに笑う。
「笑わないでください」
「すまない。嬉しくて」
「私が不機嫌なのにですか?」
「理由が私の思っている通りならね」
ノアはそれ以上問い詰めず、次の曲を一緒に踊ろうと手を差し出した。リゼットはその手を取りながら、自分の中に生まれた感情をようやく認めた。最初は彼を愛そうと思っていたのに、今はもう努力する必要などない。ノアに会いたいのも、彼の隣にいたいのも、ほかの女性へ取られたくないと思うのも、一度目の人生をやり直すために必要だからではなかった。
その気持ちを自覚してから、一度目の人生で理解できなかったノアの行動まで違って見えるようになった。彼はリゼットが何気なく話した好みを何年も覚えており、未来視を得た直後には急に花を贈り、会う時間を増やしていた。それなのに何度か未来を見た後から距離を置き、最後には苦しそうな顔で婚約を解消した。二度目のノアは未来視を夕食の献立以外に使っていないため、同じ変化は起きていない。
ある日、最初に未来視を使った庭園で二人きりになったとき、リゼットは以前から気になっていたことを尋ねた。あの日以来ノアは約束を守り、大きな問題が起きても未来を見ようとはしていない。それでも彼が未来視という力を持っている事実は変わらず、もし自由に使うなら何を知りたいのかを聞いてみたくなった。
「ノア様。もし一度だけ、好きな未来を見てもいいと言われたら、何を見ますか?」
「今晩の料理以外で?」
「いつまでその話を引っ張るのですか」
「私の人生で初めて未来を見た理由なんだから、忘れられないよ」
笑いながら答えたノアは、しばらく考えたあとでリゼットを見た。その表情には少し照れたような色があり、答えを迷っていることが伝わってくる。
「君との未来かな」
「……私との?」
「ああ。ちゃんと結婚できているのか、その後も一緒にいられるのか。未来を自由に見ていいなら、それが一番気になる」
「どうしてですか?」
「好きな女性との未来が気になるのは、そんなに変なことかな」
リゼットは何も言えなくなった。ノアが自分を好きだという事実にも驚いたが、それ以上に、一度目の人生で何が起きたのかを理解したからだった。あの日、夕食ではなく自由に未来を見させた自分に対して、ノアは最初に二人の未来を見たのだろう。そこで自分たちは結婚していた。それでも一度目のリゼットは彼を愛していなかった。
だからノアは花を贈った。会う時間を増やした。違う未来を探して、何度も自分たちの未来を見た。それでも愛されない未来ばかりが現れ、やがて彼はリゼットを手放した。未来を見るたびに同じ結末が強くなっていくことを知らないまま、愛される可能性を探すために力を使い続けたのだろう。その後、同じように国の未来まで何度も確かめるようになったのだとしたら、彼が未来を見ることをやめられなくなった理由だけは分かる気がした。
「リゼット?」
「……ノア様」
彼女は椅子から立ち上がり、向かいに座っていたノアのそばまで歩いた。未来を見れば正しい答えが分かると思っていた一度目の彼へ、あの頃の自分は何も言えなかった。今なら言える。未来がどうなるのかではなく、未来へ向かう今をどう生きるのかの方が大切なのだと、二度の人生を経験した自分なら伝えることができる。
「未来を見過ぎたら駄目よ。今を大切にしなきゃ」
「……リゼット?」
「未来なんて、今の行動で常に変わるんだから。今日誰かに優しくしたことも、誰かと話したことも、間違えてからやり直したことも、全部その先を少しずつ変えていくでしょう?だから、まだ起きてもいないことに答えを求め続けないで。未来の私が何を思っているか知りたくなったとしても、何度も未来を覗いて確かめたりしないでください」
普段の呼び方から敬称まで消えていたことに、言い終えてから気づいた。ノアも同じところへ気づいたらしく驚いた顔をしていたが、リゼットは訂正しなかった。一度目には最後まで遠かった人へ、今は自分から近づきたいと思っている。その気持ちまで未来へ預ける必要はない。
「未来の私ではなく、今の私を見てください」
リゼットはノアの頬へ手を添え、少しだけ背伸びをした。驚いて動きを止めた彼との距離を自分から縮め、その唇へそっと口づける。ほんの短いキスだったのに、離れたあとには自分の鼓動が聞こえてしまいそうなほど速くなっており、ノアも何が起きたのか理解できていないように目を見開いていた。
「……これも、未来を見て知る必要がありますか?」
そう尋ねると、ようやくノアの表情が崩れた。彼は少し赤くなった顔で首を横へ振り、未来を見るときには一度も使わなかった右手をリゼットへ差し出した。リゼットがその手を取ると、ノアは指を絡めるように握り返す。
「いや。これは今の方がいい」
「でしょう?」
「でも、今晩の料理を見たことくらいは許してほしいな」
「それくらいなら許します。二度目はありませんけれど」
「随分と厳しい婚約者だ」
「貴方が未来ばかり見る人にならないように、私が見張っているんです。もっと今を大切になさって下さい」
ノアは笑い、リゼットもつられて笑った。未来がどうなるのかは、まだ誰にも分からない。一度目には恐ろしく思えたその不確かさを、今のリゼットは少しだけ愛おしいと思えるようになっていたのだった。
寂しがりだったって事ですね。




