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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第二部 揺れる距離

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9/22

第九章 おかずひとつ分の距離

 翌日、火曜日の朝。

 蓮は台所で弁当を作っていた。卵を割り、砂糖と醤油と出汁を加えてかき混ぜる。フライパンに薄く油を敷いて、卵液を流し込む。じゅわ、という音。母のレシピ通りの手順。菜箸で手前に巻いて、もう一度卵液を流す。巻く。流す。巻く。三回繰り返すと、ふっくらとした卵焼きが完成した。

 包丁で四等分に切る。二切れは自分の弁当、残りの二切れはひなたの弁当に。いつもの分量だ。いつもなら、昼休みに陽葵が「味見」と称して一切れ奪っていくから、実質的に蓮の取り分は一切れだけなのだが。

 「お兄、卵焼きそろそろ出来てる?」

 ひなたがリビングから顔を出した。黒髪のボブカットに、陽葵に選んでもらったヘアピンを留めている。兄と同じ暗褐色の目は、やや吊り目がちだ。

 「もう入れたぞ」

 「ふーん。……ねえ、お兄」

 「ん?」

 「ひまり姉、昨日も来なかったよね」

 蓮の手が一瞬止まった。弁当のおかずを詰める手を再開しながら、何でもないように答える。

 「朝練だってさ。バレー部忙しいんだろ」

 ひなたは大きくため息をついた。兄の背中を見つめながら、何か言いたそうに口を開きかけて、閉じた。

 「……まあ、普通」

 口癖で弁当を評価して、ひなたは鞄を掴んで玄関に向かった。振り返り際に、小さく呟いた。

 「お兄って、ほんと——」

 最後の言葉は玄関のドアが閉まる音にかき消された。


 通学路の桜並木。今日も蓮は一人だった。

 陽葵からのLINEは来ていない。昨日の「バレー部の朝練」と同じパターンだろう、と蓮は思った。自転車のペダルを踏みながら、散り終わった桜の枝を見上げる。若葉の緑が、朝の光を透かしてきらきらと揺れていた。

 隣に陽葵がいない朝は、二日目だ。たった二日。たった二日なのに、なぜか左手首の革紐のブレスレット——母の形見——に無意識に触れていた。

 「まあ、なんとかなるっしょ」

 口癖を呟いて、蓮は学校に向かった。


 教室に入ると、陽葵の席には鞄が置いてあった。もう来ているらしい。本人の姿はない。着替え中か、朝練の片付けか。

 蓮は自分の席に座って、何気なく二つ隣を見た。窓際の席に、白河澪がいた。

 昨日と同じだ。俯き加減で、机の上に本を広げている。文庫本。タイトルは見えないが、かなり分厚い。黒髪のストレートロングが机の上に流れ落ちて、右手が無意識に毛先を弄っている。周りにクラスメイトの姿はない。昨日の昼休みであっさり「暗い子」認定されてしまったのだろう。

 蓮はふと、中学時代のことを思い出した。転校してきた男子が、一週間で教室の隅に追いやられていた。蓮が「一緒にメシ食おうぜ」と声をかけたら、その子は目を丸くして、それから泣きそうな顔で笑った。結局その子は蓮のグループに馴染んで、卒業まで一緒だった。

 ——今日の昼、声かけてみるか。

 そう思いながら、蓮は一限目の準備を始めた。


 午前中の授業は、蓮にとって特筆すべきことのない時間だった。数学、英語、現代文。ノートを取り、先生の話を聞き、たまに遼太に「ここ何ページ?」と聞かれて教える。

 ただ一つだけ、いつもと違うことがあった。

 隣の席の陽葵が、蓮の方を見なかった。

 いつもなら数学の時間、わからない問題があると「ねえ蓮、ここ」と小声でノートを覗き込んでくる。栗色の髪がさらりと蓮の肩に触れて、琥珀色の目が至近距離からこちらを見る。その度に蓮は何も思わず「ここはこうだろ」と教える。陽葵の耳が赤くなることには気づかない。

 今日は、それがなかった。陽葵は自分のノートに向かって、黙々とペンを動かしていた。蓮が気づいて声をかけようとした時、ちょうどチャイムが鳴った。

 陽葵は席を立ち、「ちょっとトイレ」と言って教室を出ていった。蓮は「おう」と返した。それだけだった。


 昼休みのチャイムが鳴った。

 蓮は弁当箱を取り出しながら、隣の席を見た。陽葵がいない。鞄はあるが、本人の姿がない。

 「天野? さっき友達と食べるって出ていったぞ」

 前の席のクラスメイトが教えてくれた。

 「そっか」

 蓮は特に気にせず弁当箱を開けた。卵焼きは二切れ。いつもの量だ。いつもなら一切れは陽葵に取られるから、今日は全部自分で食べることになる。

 ——まあ、友達と食べたい日もあるよな。

 蓮は卵焼きを一つ口に入れた。いつもの味だ。砂糖と醤油と出汁の、ほんのり甘くてふわふわの卵焼き。母のレシピそのままの味。

 箸を動かしながら、何気なく二つ隣を見た。

 白河澪が、今日も窓際で一人だった。

 昨日と同じだ。弁当箱を膝の上に置いて、開けていない。本を読んでいるふりをしているが、ページが全然進んでいない。指が髪の毛先を弄っている。緊張のサインだ。

 蓮は少し考えた。顎に手を当てた。

 それから弁当箱を見た。卵焼きが二切れ残っている。いつもなら陽葵に一つ取られる分だ。今日は陽葵が来ない。

 蓮は弁当箱の蓋に卵焼きを一切れ載せた。蓋を手に持って、席を立った。

 「よう、白河さん」

 澪がびくりと顔を上げた。紺色の目が大きく見開かれる。本が膝から滑り落ちそうになって、慌てて押さえた。

 「あ……藤咲、くん」

 声が小さい。でも昨日の自己紹介の時よりは、少しだけはっきりしていた。蓮の名前を覚えてくれていることに、蓮自身は特に何も思わなかった。席が近いのだから当然だろう、くらいの認識だ。

 「弁当、食わないのか?」

 澪の膝の上の弁当箱を、蓮はちらりと見た。蓋に小さなシールが貼ってある。「がんばれ」と手書きで書かれたシール。蓮はその文字に少しだけ目を留めた。

 「あの……食欲が、なくて」

 「そっか。まあ、慣れない場所だと緊張するよな」

 蓮は澪の隣の空いた椅子を引いて、腰を下ろした。教室のざわめきの中、窓際の二人だけが少し違う空気を纏っている。

 弁当箱の蓋に載せた卵焼きを差し出した。

 「これ、よかったら食ってみて。俺の手作りなんだけど」

 澪は戸惑ったように蓮と卵焼きを交互に見た。

 「え……でも、藤咲くんのお弁当の——」

 「いいよ、余ってるし」

 余ってるわけではない。陽葵が来なかっただけだ。でも蓮にとっては似たようなものだった。

 蓮はいつもの穏やかな笑顔で待っていた。暗褐色の目が、澪を見ている。目尻が下がった柔和な表情。急かすでもなく、ただそこにいる。

 澪はしばらく迷っていた。指が髪の毛先を弄る速度が上がっている。でもやがて、おずおずと手を伸ばした。左手で卵焼きを受け取る。

 一口、かじった。

 砂糖と醤油と出汁のほんのり甘い味が、口の中に広がった。ふわふわの食感。出汁の旨味が舌の上に残る。温かくはない——弁当のおかずだから当然だ——のに、不思議と温かいものが胸に広がる感覚があった。

 澪は目を閉じた。ゆっくりと咀嚼して、飲み込む。

 母のお菓子を食べた時と、同じだった。作った人の気持ちが伝わってくる味。丁寧に、誰かのために作られた味。

 「……美味しい」

 小さな、でも確かな声だった。目を開けた時、紺色の瞳がわずかに潤んでいた。

 「よかった」

 蓮が笑った。首の後ろを撫でて、照れたように視線を逸らす。耳がほんの少しだけ赤くなっている。褒められると照れるくせだ。

 「転校してきたばっかりで大変だと思うけど、何か困ったことあったら言ってくれよ。俺、二つ隣の席だし」

 「あ……はい。ありがとう、ございます」

 澪は卵焼きの残りを口に入れた。さっきより少しだけ、顔がほころんでいた。

 「弁当、開けてみたら? お母さんが作ってくれたんだろ」

 蓮が膝の上の弁当箱を顎で示した。「がんばれ」のシールが見えている。

 「……はい」

 澪は弁当箱の蓋を開けた。中には、おにぎりと唐揚げとミニトマトとブロッコリーが詰められていた。隅にラップで包まれた小さなクッキーがある。母の手作りだ。

 二人で並んで弁当を食べた。蓮が「唐揚げうまそうだな」と言い、澪が「……食べますか?」と差し出し、蓮が「いいの? じゃあ遠慮なく」と受け取る。他愛のないやりとり。でも澪にとっては、この学校で初めて誰かと昼ごはんを食べた瞬間だった。


 その光景を、離れた席から見ている目があった。

 天野陽葵は、教室の入り口に立っていた。

 友達と食べる約束なんてなかった。嘘だ。本当は購買でパンを買って、廊下の隅で一人で食べるつもりだった。でもパンを買った後、やっぱり蓮の顔が見たくなって教室に戻ってきた。

 そして見てしまった。

 蓮が——自分の弁当の卵焼きを——あの転校生に——自分から持っていった。

 息が詰まった。

 手に持ったメロンパンの袋を、無意識に握りしめていた。ビニールがくしゃりと音を立てた。

 「味見」と称して蓮の弁当から卵焼きを奪うのは、いつも自分の役目だった。「幼馴染特権」と主張して、蓮の弁当箱に箸を伸ばすのが昼休みの日課だった。蓮が自分から誰かにおかずを分けるなんて、見たことがない。少なくとも陽葵の記憶の中では、一度もない。

 蓮は誰にでも優しい。それは知っている。小学生の頃から知っている。困っている人を放っておけない性格。転校生に声をかけるのだって、蓮らしいと言えば蓮らしい。中学の時だってそうだった。孤立していた転校生にさりげなく声をかけて、クラスに馴染ませた。

 ——でも。

 胸が、痛い。

 言葉にならない。怒りでも悲しみでもない、もっと漠然とした、名前のない痛みだ。蓮が悪いわけじゃない。転校生が悪いわけでもない。誰も悪くない。なのに胸が締めつけられる。

 蓮と転校生が並んで弁当を食べている。蓮が何か言って、転校生が小さく笑う。蓮も笑う。穏やかな、いつもの笑顔。

 あの笑顔は、あたしだけのものだったのに。

 ——違う。蓮の笑顔は、誰のものでもない。蓮は誰にでもああいう顔をする。あたしが勝手に「自分だけのもの」だと思い込んでいただけだ。

 でも理屈で分かっても、胸の痛みは消えない。

 陽葵は教室に入らなかった。踵を返して、廊下を早足で歩いた。メロンパンの袋を握りしめたまま、階段を下りて、昇降口を抜けて、体育館の裏に出た。壁にもたれてしゃがみこんだ。

 メロンパンを半分に割って、口に入れた。甘いけど、味がしなかった。

 琥珀色の目がじわりと滲む。泣くもんか。こんなことで泣くもんか。

 「よっし」

 自分に気合を入れる掛け声。いつもの声は出なかった。かすれた、小さな声だった。


 後方の席で、遼太は全てを見ていた。

 蓮が卵焼きを持って白河澪の隣に座ったこと。二人が並んで弁当を食べていること。教室の入り口に陽葵が立っていたこと。そして陽葵が教室に入らずに引き返したこと。

 遼太は箸を止めて、陽葵が去っていった方向を見た。いつもなら蓮と陽葵が並んでいるところに「まーた始まった」とニヤニヤしながら突っ込むところだ。でも今日は、その台詞が出てこなかった。

 今言うべきじゃない。

 遼太は居酒屋の息子だ。父と母が切り盛りする店で、小さい頃から客の顔を見てきた。笑っている顔、怒っている顔、泣きそうな顔、嘘をついている顔。人の表情を読むのは、呼吸するのと同じくらい自然なことだった。

 陽葵の表情は、泣きそうで、怒ってて、でも誰にもぶつけられない、行き場のない感情に満ちていた。

 蓮は気づいていない。陽葵が教室に来たことすら知らない。白河澪と話している蓮の横顔は、いつも通り穏やかで、何の悪意もない。困っている人に手を差し伸べる。蓮の良いところだ。でもその優しさが、今この瞬間、誰かを傷つけている。

 遼太は弁当の残りを口に放り込み、天井を仰いだ。

 「……めんどくせえな、こいつら」

 呟いた声は、ざわめく教室に溶けて消えた。


 放課後。

 蓮は一人で調理室にいた。

 母のレシピノートを開いて、明日の弁当のおかずを考えている。丸くて柔らかい、少し崩れたひらがなの字。母の字だ。「にくじゃが」「さばのみそに」「とりのなんばんづけ」。メニューの横に、ちょこちょこと注意書きが添えてある。「さとうはすこしおおめに」「にこむじかんはながめに」「あいをこめて(だいじ!)」。

 最後の一言に、蓮はいつも少しだけ笑ってしまう。

 調理台を片付けながら、蓮はふと窓の外を見た。グラウンドではサッカー部が練習しているが、体育館の方は見えない。バレー部の陽葵は、今頃練習中だろうか。

 弁当箱を洗い始めた。スポンジでこすりながら、蓮はぽつりと呟いた。

 「今日、陽葵来なかったな」

 昨日も来なかった。一昨日も。思い返せば、月曜日の朝から陽葵と まともに話していない。LINEは来る。でも内容は「朝練あるから」「友達と約束あるから」。簡潔で、いつもの陽葵らしくない。あの子はもっと絵文字やスタンプを多用して、どうでもいいことを長文で送ってくるタイプだ。

 いつもなら気にも留めない。陽葵にはバレー部がある。友達もいる。毎日来るわけじゃない。

 でも今日は、なぜかその不在が引っかかった。

 弁当箱を蛇口の水で流す。水の音が調理室に響く。窓から差し込む夕方の光が、流れる水をきらきらと光らせた。

 ——変わらないでほしい。

 ずっと前にも、同じ感覚があった。調理室で母のレシピノートを開いた時、母の丸い文字を見て手が止まった。「変わらないでほしい」という漠然とした思い。何が変わるのかはわからない。ただ漠然と、いつもと違う何かが空気の中にある気がした。

 あの時と同じ感覚が、今、かすかに呼応している。

 蓮はその感覚を振り払った。弁当箱を丁寧に布巾で拭いて、鞄にしまう。レシピノートを閉じて、調理室の電気を消した。

 廊下に出ると、夕日が窓から差し込んでいた。オレンジ色の光が廊下の床に長い影を作っている。

 一人で帰る通学路。桜並木の若葉が夕風に揺れている。信号待ちの交差点。隣に誰もいない。

 蓮は左手首のブレスレットに指で触れた。革紐の感触が、いつも通りそこにある。

 「まあ、なんとかなるっしょ」

 誰に言うでもなく呟いて、信号が変わるのを待った。


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