第九章 おかずひとつ分の距離
翌日、火曜日の朝。
蓮は台所で弁当を作っていた。卵を割り、砂糖と醤油と出汁を加えてかき混ぜる。フライパンに薄く油を敷いて、卵液を流し込む。じゅわ、という音。母のレシピ通りの手順。菜箸で手前に巻いて、もう一度卵液を流す。巻く。流す。巻く。三回繰り返すと、ふっくらとした卵焼きが完成した。
包丁で四等分に切る。二切れは自分の弁当、残りの二切れはひなたの弁当に。いつもの分量だ。いつもなら、昼休みに陽葵が「味見」と称して一切れ奪っていくから、実質的に蓮の取り分は一切れだけなのだが。
「お兄、卵焼きそろそろ出来てる?」
ひなたがリビングから顔を出した。黒髪のボブカットに、陽葵に選んでもらったヘアピンを留めている。兄と同じ暗褐色の目は、やや吊り目がちだ。
「もう入れたぞ」
「ふーん。……ねえ、お兄」
「ん?」
「ひまり姉、昨日も来なかったよね」
蓮の手が一瞬止まった。弁当のおかずを詰める手を再開しながら、何でもないように答える。
「朝練だってさ。バレー部忙しいんだろ」
ひなたは大きくため息をついた。兄の背中を見つめながら、何か言いたそうに口を開きかけて、閉じた。
「……まあ、普通」
口癖で弁当を評価して、ひなたは鞄を掴んで玄関に向かった。振り返り際に、小さく呟いた。
「お兄って、ほんと——」
最後の言葉は玄関のドアが閉まる音にかき消された。
通学路の桜並木。今日も蓮は一人だった。
陽葵からのLINEは来ていない。昨日の「バレー部の朝練」と同じパターンだろう、と蓮は思った。自転車のペダルを踏みながら、散り終わった桜の枝を見上げる。若葉の緑が、朝の光を透かしてきらきらと揺れていた。
隣に陽葵がいない朝は、二日目だ。たった二日。たった二日なのに、なぜか左手首の革紐のブレスレット——母の形見——に無意識に触れていた。
「まあ、なんとかなるっしょ」
口癖を呟いて、蓮は学校に向かった。
教室に入ると、陽葵の席には鞄が置いてあった。もう来ているらしい。本人の姿はない。着替え中か、朝練の片付けか。
蓮は自分の席に座って、何気なく二つ隣を見た。窓際の席に、白河澪がいた。
昨日と同じだ。俯き加減で、机の上に本を広げている。文庫本。タイトルは見えないが、かなり分厚い。黒髪のストレートロングが机の上に流れ落ちて、右手が無意識に毛先を弄っている。周りにクラスメイトの姿はない。昨日の昼休みであっさり「暗い子」認定されてしまったのだろう。
蓮はふと、中学時代のことを思い出した。転校してきた男子が、一週間で教室の隅に追いやられていた。蓮が「一緒にメシ食おうぜ」と声をかけたら、その子は目を丸くして、それから泣きそうな顔で笑った。結局その子は蓮のグループに馴染んで、卒業まで一緒だった。
——今日の昼、声かけてみるか。
そう思いながら、蓮は一限目の準備を始めた。
午前中の授業は、蓮にとって特筆すべきことのない時間だった。数学、英語、現代文。ノートを取り、先生の話を聞き、たまに遼太に「ここ何ページ?」と聞かれて教える。
ただ一つだけ、いつもと違うことがあった。
隣の席の陽葵が、蓮の方を見なかった。
いつもなら数学の時間、わからない問題があると「ねえ蓮、ここ」と小声でノートを覗き込んでくる。栗色の髪がさらりと蓮の肩に触れて、琥珀色の目が至近距離からこちらを見る。その度に蓮は何も思わず「ここはこうだろ」と教える。陽葵の耳が赤くなることには気づかない。
今日は、それがなかった。陽葵は自分のノートに向かって、黙々とペンを動かしていた。蓮が気づいて声をかけようとした時、ちょうどチャイムが鳴った。
陽葵は席を立ち、「ちょっとトイレ」と言って教室を出ていった。蓮は「おう」と返した。それだけだった。
昼休みのチャイムが鳴った。
蓮は弁当箱を取り出しながら、隣の席を見た。陽葵がいない。鞄はあるが、本人の姿がない。
「天野? さっき友達と食べるって出ていったぞ」
前の席のクラスメイトが教えてくれた。
「そっか」
蓮は特に気にせず弁当箱を開けた。卵焼きは二切れ。いつもの量だ。いつもなら一切れは陽葵に取られるから、今日は全部自分で食べることになる。
——まあ、友達と食べたい日もあるよな。
蓮は卵焼きを一つ口に入れた。いつもの味だ。砂糖と醤油と出汁の、ほんのり甘くてふわふわの卵焼き。母のレシピそのままの味。
箸を動かしながら、何気なく二つ隣を見た。
白河澪が、今日も窓際で一人だった。
昨日と同じだ。弁当箱を膝の上に置いて、開けていない。本を読んでいるふりをしているが、ページが全然進んでいない。指が髪の毛先を弄っている。緊張のサインだ。
蓮は少し考えた。顎に手を当てた。
それから弁当箱を見た。卵焼きが二切れ残っている。いつもなら陽葵に一つ取られる分だ。今日は陽葵が来ない。
蓮は弁当箱の蓋に卵焼きを一切れ載せた。蓋を手に持って、席を立った。
「よう、白河さん」
澪がびくりと顔を上げた。紺色の目が大きく見開かれる。本が膝から滑り落ちそうになって、慌てて押さえた。
「あ……藤咲、くん」
声が小さい。でも昨日の自己紹介の時よりは、少しだけはっきりしていた。蓮の名前を覚えてくれていることに、蓮自身は特に何も思わなかった。席が近いのだから当然だろう、くらいの認識だ。
「弁当、食わないのか?」
澪の膝の上の弁当箱を、蓮はちらりと見た。蓋に小さなシールが貼ってある。「がんばれ」と手書きで書かれたシール。蓮はその文字に少しだけ目を留めた。
「あの……食欲が、なくて」
「そっか。まあ、慣れない場所だと緊張するよな」
蓮は澪の隣の空いた椅子を引いて、腰を下ろした。教室のざわめきの中、窓際の二人だけが少し違う空気を纏っている。
弁当箱の蓋に載せた卵焼きを差し出した。
「これ、よかったら食ってみて。俺の手作りなんだけど」
澪は戸惑ったように蓮と卵焼きを交互に見た。
「え……でも、藤咲くんのお弁当の——」
「いいよ、余ってるし」
余ってるわけではない。陽葵が来なかっただけだ。でも蓮にとっては似たようなものだった。
蓮はいつもの穏やかな笑顔で待っていた。暗褐色の目が、澪を見ている。目尻が下がった柔和な表情。急かすでもなく、ただそこにいる。
澪はしばらく迷っていた。指が髪の毛先を弄る速度が上がっている。でもやがて、おずおずと手を伸ばした。左手で卵焼きを受け取る。
一口、かじった。
砂糖と醤油と出汁のほんのり甘い味が、口の中に広がった。ふわふわの食感。出汁の旨味が舌の上に残る。温かくはない——弁当のおかずだから当然だ——のに、不思議と温かいものが胸に広がる感覚があった。
澪は目を閉じた。ゆっくりと咀嚼して、飲み込む。
母のお菓子を食べた時と、同じだった。作った人の気持ちが伝わってくる味。丁寧に、誰かのために作られた味。
「……美味しい」
小さな、でも確かな声だった。目を開けた時、紺色の瞳がわずかに潤んでいた。
「よかった」
蓮が笑った。首の後ろを撫でて、照れたように視線を逸らす。耳がほんの少しだけ赤くなっている。褒められると照れるくせだ。
「転校してきたばっかりで大変だと思うけど、何か困ったことあったら言ってくれよ。俺、二つ隣の席だし」
「あ……はい。ありがとう、ございます」
澪は卵焼きの残りを口に入れた。さっきより少しだけ、顔がほころんでいた。
「弁当、開けてみたら? お母さんが作ってくれたんだろ」
蓮が膝の上の弁当箱を顎で示した。「がんばれ」のシールが見えている。
「……はい」
澪は弁当箱の蓋を開けた。中には、おにぎりと唐揚げとミニトマトとブロッコリーが詰められていた。隅にラップで包まれた小さなクッキーがある。母の手作りだ。
二人で並んで弁当を食べた。蓮が「唐揚げうまそうだな」と言い、澪が「……食べますか?」と差し出し、蓮が「いいの? じゃあ遠慮なく」と受け取る。他愛のないやりとり。でも澪にとっては、この学校で初めて誰かと昼ごはんを食べた瞬間だった。
その光景を、離れた席から見ている目があった。
天野陽葵は、教室の入り口に立っていた。
友達と食べる約束なんてなかった。嘘だ。本当は購買でパンを買って、廊下の隅で一人で食べるつもりだった。でもパンを買った後、やっぱり蓮の顔が見たくなって教室に戻ってきた。
そして見てしまった。
蓮が——自分の弁当の卵焼きを——あの転校生に——自分から持っていった。
息が詰まった。
手に持ったメロンパンの袋を、無意識に握りしめていた。ビニールがくしゃりと音を立てた。
「味見」と称して蓮の弁当から卵焼きを奪うのは、いつも自分の役目だった。「幼馴染特権」と主張して、蓮の弁当箱に箸を伸ばすのが昼休みの日課だった。蓮が自分から誰かにおかずを分けるなんて、見たことがない。少なくとも陽葵の記憶の中では、一度もない。
蓮は誰にでも優しい。それは知っている。小学生の頃から知っている。困っている人を放っておけない性格。転校生に声をかけるのだって、蓮らしいと言えば蓮らしい。中学の時だってそうだった。孤立していた転校生にさりげなく声をかけて、クラスに馴染ませた。
——でも。
胸が、痛い。
言葉にならない。怒りでも悲しみでもない、もっと漠然とした、名前のない痛みだ。蓮が悪いわけじゃない。転校生が悪いわけでもない。誰も悪くない。なのに胸が締めつけられる。
蓮と転校生が並んで弁当を食べている。蓮が何か言って、転校生が小さく笑う。蓮も笑う。穏やかな、いつもの笑顔。
あの笑顔は、あたしだけのものだったのに。
——違う。蓮の笑顔は、誰のものでもない。蓮は誰にでもああいう顔をする。あたしが勝手に「自分だけのもの」だと思い込んでいただけだ。
でも理屈で分かっても、胸の痛みは消えない。
陽葵は教室に入らなかった。踵を返して、廊下を早足で歩いた。メロンパンの袋を握りしめたまま、階段を下りて、昇降口を抜けて、体育館の裏に出た。壁にもたれてしゃがみこんだ。
メロンパンを半分に割って、口に入れた。甘いけど、味がしなかった。
琥珀色の目がじわりと滲む。泣くもんか。こんなことで泣くもんか。
「よっし」
自分に気合を入れる掛け声。いつもの声は出なかった。かすれた、小さな声だった。
後方の席で、遼太は全てを見ていた。
蓮が卵焼きを持って白河澪の隣に座ったこと。二人が並んで弁当を食べていること。教室の入り口に陽葵が立っていたこと。そして陽葵が教室に入らずに引き返したこと。
遼太は箸を止めて、陽葵が去っていった方向を見た。いつもなら蓮と陽葵が並んでいるところに「まーた始まった」とニヤニヤしながら突っ込むところだ。でも今日は、その台詞が出てこなかった。
今言うべきじゃない。
遼太は居酒屋の息子だ。父と母が切り盛りする店で、小さい頃から客の顔を見てきた。笑っている顔、怒っている顔、泣きそうな顔、嘘をついている顔。人の表情を読むのは、呼吸するのと同じくらい自然なことだった。
陽葵の表情は、泣きそうで、怒ってて、でも誰にもぶつけられない、行き場のない感情に満ちていた。
蓮は気づいていない。陽葵が教室に来たことすら知らない。白河澪と話している蓮の横顔は、いつも通り穏やかで、何の悪意もない。困っている人に手を差し伸べる。蓮の良いところだ。でもその優しさが、今この瞬間、誰かを傷つけている。
遼太は弁当の残りを口に放り込み、天井を仰いだ。
「……めんどくせえな、こいつら」
呟いた声は、ざわめく教室に溶けて消えた。
放課後。
蓮は一人で調理室にいた。
母のレシピノートを開いて、明日の弁当のおかずを考えている。丸くて柔らかい、少し崩れたひらがなの字。母の字だ。「にくじゃが」「さばのみそに」「とりのなんばんづけ」。メニューの横に、ちょこちょこと注意書きが添えてある。「さとうはすこしおおめに」「にこむじかんはながめに」「あいをこめて(だいじ!)」。
最後の一言に、蓮はいつも少しだけ笑ってしまう。
調理台を片付けながら、蓮はふと窓の外を見た。グラウンドではサッカー部が練習しているが、体育館の方は見えない。バレー部の陽葵は、今頃練習中だろうか。
弁当箱を洗い始めた。スポンジでこすりながら、蓮はぽつりと呟いた。
「今日、陽葵来なかったな」
昨日も来なかった。一昨日も。思い返せば、月曜日の朝から陽葵と まともに話していない。LINEは来る。でも内容は「朝練あるから」「友達と約束あるから」。簡潔で、いつもの陽葵らしくない。あの子はもっと絵文字やスタンプを多用して、どうでもいいことを長文で送ってくるタイプだ。
いつもなら気にも留めない。陽葵にはバレー部がある。友達もいる。毎日来るわけじゃない。
でも今日は、なぜかその不在が引っかかった。
弁当箱を蛇口の水で流す。水の音が調理室に響く。窓から差し込む夕方の光が、流れる水をきらきらと光らせた。
——変わらないでほしい。
ずっと前にも、同じ感覚があった。調理室で母のレシピノートを開いた時、母の丸い文字を見て手が止まった。「変わらないでほしい」という漠然とした思い。何が変わるのかはわからない。ただ漠然と、いつもと違う何かが空気の中にある気がした。
あの時と同じ感覚が、今、かすかに呼応している。
蓮はその感覚を振り払った。弁当箱を丁寧に布巾で拭いて、鞄にしまう。レシピノートを閉じて、調理室の電気を消した。
廊下に出ると、夕日が窓から差し込んでいた。オレンジ色の光が廊下の床に長い影を作っている。
一人で帰る通学路。桜並木の若葉が夕風に揺れている。信号待ちの交差点。隣に誰もいない。
蓮は左手首のブレスレットに指で触れた。革紐の感触が、いつも通りそこにある。
「まあ、なんとかなるっしょ」
誰に言うでもなく呟いて、信号が変わるのを待った。




