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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第二部 揺れる距離

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8/22

第八章 転校生

 四月中旬の月曜日。朝の空気はまだ少し冷たくて、蓮は制服の袖口を引っ張りながら玄関を出た。

 いつもなら、ここで聞こえるはずの声がある。

 「蓮、遅い!」

 隣の天野家の門の前で仁王立ちになって、腕を組んで待っている栗色セミロングの少女。それが蓮にとっての朝の始まりだった。

 でも今日、その声はない。

 代わりにスマートフォンの通知音が鳴った。LINEを開くと、陽葵からのメッセージが表示されていた。

 「バレー部の朝練あるから先行くね!」

 スタンプは太陽が笑っているやつだ。いつもの陽葵らしい、明るいメッセージ。

 「おう、がんばれ」

 蓮は短く返信して、スマートフォンをポケットに戻した。自転車にまたがり、ペダルを踏む。桜並木の通学路。四月も中旬に入り、花びらはほとんど散ってしまっていた。薄いピンクの筋がアスファルトに残り、風が吹くたびに最後の花びらが舞う。枝には若葉が顔を出し始めている。

 隣に陽葵がいない通学路は、妙に静かだった。

 いつもなら「昨日のドラマ見た?」とか「今日の弁当のおかず何?」とか、ひっきりなしに話しかけてくる。蓮が「見てない」と答えれば「えー、マジで? 信じらんない」と大げさにリアクションする。そのやりとりが当たり前すぎて、なくなって初めて気づく静けさだった。

 でも、蓮はそれ以上考えなかった。バレー部の朝練。そう言っていたんだから、そうなのだろう。

 信号待ちで止まった交差点。いつもなら陽葵が隣に並んで「遅いって、もう」と息を切らしている場所。今日は蓮一人だ。信号が青に変わるのを待つ間、風が蓮の黒髪のマッシュを揺らした。

 まあ、たまにはこういう朝もあるか。

 蓮は何も考えず、ペダルを踏み込んだ。


 教室に着くと、隣の席は空いていた。陽葵の鞄も置かれていない。朝練中なのだろう。蓮は自分の席に鞄を下ろし、窓を開けた。春の風が教室に入り込んでくる。グラウンドでは陸上部が朝練をしており、掛け声が遠くから聞こえていた。

 遼太が後ろの席から声をかけてきた。茶色の短髪をワックスで立たせて、制服の第一ボタンは今日も開けている。日焼けした顔に、いつもの人懐っこい笑みが浮かんでいた。

 「おーす、蓮。今日は天野と一緒じゃないんだ?」

 「朝練だってさ」

 「ふーん」

 遼太は口の端を上げてニヤリと笑った。何か言いたげだったが、結局「ま、そっか」と流して自分の席に座った。

 一限目が始まる五分前。担任の木村先生が教卓の前に立った。いつもより少し改まった表情で、教室を見回す。

 「今日から皆さんに新しい仲間を紹介します」

 教室がざわついた。転校生。四月の半ばに転校というのは珍しい。

 「白河さん、どうぞ」

 教室のドアが開いた。

 入ってきたのは、小柄な少女だった。

 最初に目に入ったのは、髪だ。艶のある黒髪のストレートロングが、腰近くまで伸びている。窓から差し込む春の光を受けて、絹のように滑らかに光っていた。前髪は目にかかるギリギリの長さで、その奥に深い紺色の目が覗いている。伏し目がちで、ゆっくりと瞬きをする。色白で透き通るような肌は、教室の蛍光灯の下で一層白く見えた。制服は几帳面に着こなされており、リボンの結び目だけがきっちりと整えられている。背は高くない。百五十センチ台の後半くらいだろうか。全体的に線が細く、華奢で、風が吹いたら飛ばされそうな儚げな印象だった。

 教卓の前に立った少女は、黒板を背にして教室を見渡した。三十人以上の視線が自分に集まっている。その重圧に耐えるように、右手が無意識に髪の毛先を弄り始めた。

 「白河、澪です。よろしく、お願いします」

 声が小さい。教室の後方まで届いているか怪しいくらいだ。言葉の間に不自然な区切りがある。名前を言うだけの短い自己紹介。趣味も出身地も何も言わない。言えなかったのだろう。

 教室がざわめく。「かわいくない?」「髪きれー」「でもめっちゃ静かだね」。ひそひそ声が波のように広がった。

 「白河さんの席は……藤咲の二つ隣、窓際のそこね」

 木村先生に促されて、澪が歩き出した。教室の中央を通り抜ける。視線を浴びながら、俯き加減に一歩一歩進む。蓮の前を通り過ぎる時、一瞬だけ紺色の目が蓮の暗褐色の目と合った。

 蓮は反射的に、穏やかな笑みを浮かべた。いつものくせだ。目尻が下がって、柔和な表情になる。

 澪はすぐに目を逸らし、足を速めて席についた。椅子を引く音が、妙に大きく教室に響いた。

 蓮は頬を掻いた。転校生か。大変だよな、途中から入るのは。中学の時にも、クラスに転校生が来たことを思い出した。あの時も孤立しかけていた子に自分から声をかけて、結果的にクラスに馴染むきっかけを作った。

 ——後で声かけてみるか。

 自然にそう思った。困っている人を放っておけない。それが蓮の性分だった。


 一限目の終わりかけに、陽葵が教室に入ってきた。

 朝練を終えて制服に着替えてはいるが、まだ少し息が上がっている。額にうっすらと汗が残り、栗色のセミロングの毛先がわずかに湿っていた。ヘアピンでサイドを留め直しながら、席に滑り込む。

 「ごめん、ちょっと練習長引いた」

 隣の蓮に小声で言った。蓮は「おう」と軽く返した。いつもと変わらない穏やかな笑顔。それを見た瞬間、陽葵の胸がちくりと痛んだ。昨夜、天野家の玄関先で言えなかった言葉。枕に顔を埋めて泣いた夜。

 ——忘れて。あたし、何も言ってない。いつも通りでいい。いつも通りで。

 陽葵は笑顔を作った。八重歯がちらりと覗く、いつもの明るい笑み。

 席に座って初めて、二つ向こうに知らない顔があることに気づいた。黒髪の、小柄な少女。窓の外をぼんやり見ている。

 ——転校生?

 蓮に小声で聞こうとしたが、授業が始まってしまった。ノートを開きながら、ちらりとその少女を見た。蓮の二つ隣。窓際の席。蓮に近い。

 なぜだろう。その事実が、理由もなく引っかかった。


 昼休み。

 チャイムが鳴った瞬間、教室がざわめき始めた。机を寄せる音、弁当箱を開ける音、笑い声。日常の喧騒が教室を満たす。

 転校生という物珍しさで、クラスメイトが何人か澪の席に集まった。女子が三人、男子が二人。興味津々という顔で、澪を囲む。

 「白河さん、前はどこに住んでたの?」

 「埼玉の……川越に」

 「川越! いいなー、さつまいもおいしいよね」

 「は、はい……」

 「好きな芸能人とかいる?」

 「えっと……あまり、テレビを見なくて……」

 「じゃあ休みの日は何してるの?」

 「……料理を、少し」

 「へー、すごーい。何作るの?」

 「お菓子を……主に、洋菓子を……」

 矢継ぎ早の質問に、澪は一つ一つ答えようとしていた。でも声が小さすぎて、隣の男子が「え? 何て?」と聞き返す。答え直す声はさらに小さくなる。笑顔を作ろうとして、唇が引きつったような形になった。目が泳いでいる。右手が髪の毛先を弄る回数が、どんどん増えていく。

 五分もしないうちに、会話のテンポについていけなくなった澪の周りから、クラスメイトたちは一人、また一人と離れていった。

 「大人しい子だね」

 「ちょっと暗くない? なんか話しにくいっていうか」

 「悪い子じゃなさそうだけど、ノリが合わないっていうか」

 小声のつもりなのだろう。でも教室はそこまで広くない。澪の耳にも届いていたかもしれない。

 窓際の席で、澪は弁当箱を鞄から出した。母が今朝作ってくれた弁当。蓋には小さなシールが貼ってある。「がんばれ」と書かれた、手書きのシール。母はいつもこうだ。引っ越しのたびに、弁当箱にこのシールを貼ってくれる。

 でも今日は、開けられなかった。膝の上に置いたまま、窓の外を見ている。校庭では昼休みのサッカーをする男子たちの声がして、その向こうに桜並木が見えた。花びらはもう散りかけていて、枝には若葉が覗き始めている。

 ——また、こうなる。

 何度目だろう。数えるのもうんざりするくらい繰り返してきた。新しい学校。新しい教室。新しい机。新しい制服。新しいクラスメイト。最初の数日は物珍しさで話しかけてもらえる。でも澪は上手く返せない。言葉が口の中で絡まって、出てくる時にはもう遅い。相手はとっくに次の話題に移っている。「暗い子」というレッテルが貼られ、次第に一人になる。

 小学四年生で最初の転校。福岡から東京へ。友達と泣きながら別れた。東京では半年かけてようやく話せる子ができた。でもその翌年、今度は名古屋へ。名古屋では一年もたなかった。大阪、横浜、札幌。転校するたびに、心の壁は少しずつ高くなっていった。

 前の学校——埼玉の川越では、三ヶ月かかってようやく友達ができた。名前は美咲。図書室で同じ本を読んでいたのがきっかけだった。一緒に昼ごはんを食べて、放課後は図書室で並んで本を読んだ。美咲は澪の声が小さいことを笑わなかった。「澪の声、好きだよ。静かで落ち着くから」と言ってくれた。

 やっと「ここにいてもいい」と思えた。やっと、弁当を一人で食べなくて済むようになった。

 その矢先に、父の転勤が決まった。

 リビングで「また引っ越しだ」と告げる父の声を聞いた瞬間、澪は何も言えなかった。母が「ごめんね」と言った。父が「すまない」と頭を下げた。二人とも申し訳なさそうな顔をしていた。だから、泣けなかった。自分の部屋に戻って、枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。

 翌日、美咲に転校のことを伝えた。美咲は泣いた。澪も泣いた。でも心のどこかで、冷たい声がした。

 ——ほら、やっぱり。

 「もう、深く関わるのはやめよう」

 澪はそう決めた。関わらなければ、失わなくて済む。壁を作れば、傷つかなくて済む。人との距離は、最初から遠くに保っておけばいい。そうすれば、別れる時に痛くない。

 でも——。

 母の言葉が、胸の奥で小さく響く。

 引っ越しの荷造りをしている時、母がキッチンで言った。段ボールに包まれたお菓子の型を丁寧に箱に詰めながら、いつもの穏やかな声で。

 ——美味しいものは人の心を開くの。どんな場所でも、どんな相手でも。だからお母さんは、お菓子を作り続けるの。

 母は強い人だった。転勤のたびに自分の洋菓子店を閉め、新しい土地でまた一から開く。常連客との別れを何度も経験しながら、それでもオーブンの前に立ち続けている。

 澪にはそこまでの強さがなかった。

 弁当箱の蓋に指をかけた。母の手書きの「がんばれ」のシールが指に触れた。

 でも結局、蓋を開けないまま、窓の外の桜を見ていた。散りかけの花びらが風に乗って、校庭の上を漂っている。やがて地面に落ちて、誰かの靴に踏まれて、消えていく。

 ——私も、そうなのかもしれない。

 どこにも根を下ろせない花びらみたいに、風に吹かれるまま、流されるまま。

 そう思った時、ふと視線を感じた。

 二つ隣の席——藤咲蓮が、こちらを見ていた。暗褐色の目が、穏やかに。

 目が合って、蓮は小さく笑った。目尻が下がって、柔和な表情。口は何も言わない。ただ笑っただけ。

 澪は反射的に目を逸らした。心臓が一つ、大きく跳ねた。

 ——なに、今の。

 指が髪の毛先を弄る。目を逸らしたまま、もう一度ちらりと蓮の方を見た。蓮はもう自分の弁当を食べていた。箸を動かしながら、後ろの席の茶色短髪の男子——坂本遼太と何か話して笑っている。

 さっきの笑顔は、きっと誰にでも向けるものだ。転校生だから気を遣ってくれただけだ。深い意味はない。

 わかっている。わかっているのに。

 あの笑顔が、妙に温かかった。

 春の陽だまりみたいに、ほんの一瞬だけ、胸の奥の凍りかけた場所が緩んだ気がした。


 放課後。

 澪は教室を出て、下駄箱で靴を履き替えた。一人で校門に向かう。周りには談笑しながら帰路につくクラスメイトたちの姿があったが、澪に声をかける者はいなかった。

 校門を出ると、通学路の桜並木が続いている。花びらの絨毯の上を、一人で歩く。背中に背負った鞄が、やけに重く感じた。

 スマートフォンが震えた。母からのLINE。

 「今日どうだった?」

 澪は少し考えて、打った。

 「普通だった」

 嘘だ。普通なんかじゃない。でも母を心配させたくなかった。母は母で、新しい土地で洋菓子店の開業準備に追われているのだ。

 返信はすぐ来た。

 「そっか。今日はシュークリーム作ったよ。帰ったら一緒に食べよう」

 その一文に、澪の目が少しだけ潤んだ。

 ——美味しいものは人の心を開くの。

 母はいつもそうだ。言葉じゃなくて、お菓子で語る。

 澪は「うん」とだけ返信して、歩く速度を少し上げた。

 帰り道、ふと立ち止まった。通学路の桜の木の下。散り残った花びらが一枚、澪の黒髪の上に落ちた。指で摘んで、手のひらに載せた。薄いピンクの花びら。もう色が褪せかけている。

 ——ここにいても、いいのかな。

 答えは出ない。いつだって出ない。

 でも今日、一つだけ違ったことがある。二つ隣の席の男子が、笑いかけてくれた。たったそれだけのことが、なぜか胸の隅に残っていた。

 澪は花びらを風に放して、歩き出した。


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