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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第一部 いつもの距離

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7/22

第七章 言えなかった一言

 天野家まで、徒歩五分。

 藤咲家と天野家は隣同士だから、本当なら数歩で着く。でも蓮はいつも、わざわざ表の道を回って玄関まで送る。庭を突っ切れば十秒で済む距離を、五分かけて歩く。それが蓮のやり方だった。陽葵にとっては世界で一番短い五分であり、世界で一番長い五分でもあった。

 春の夜風が、ほんの少しだけ冷たかった。

 四月の中旬。桜の季節はもう終わりかけている。通学路の桜並木はすっかり葉桜になって、花びらの代わりに若葉が風に揺れている。でも住宅街の道沿いには、まだ少しだけ遅咲きの桜が残っていた。薄い花びらが時おり風に乗って、ひらりと落ちてくる。

 陽葵の心臓は、さっきからずっとうるさかった。

 ひなたの言葉が胸の中で反響している。

 ——ひまり姉なら、いい。

 ——お兄のそばにいていいのは、最初からずっとそばにいたひまり姉だと思う。

 あの十四歳の女の子は、兄を任せる覚悟を見せた。自分の大切な兄を、陽葵に託すと言った。泣きそうな顔で、でも凛とした声で。

 なのに自分は、当の蓮にまだ何も言えていない。

 ひなたに「好き」と言えたのは、あの子の目がそうさせたからだ。嘘を許さない、真っ直ぐな目。あの目の前では嘘はつけなかった。

 でも蓮の目は違う。穏やかで、温かくて、全てを受け入れるような目。あの目を見ると、言葉が消える。

 蓮は隣を歩きながら、のんびりと夜空を見上げていた。

「今日、楽しかったな」

 何の含みもない声。ただ純粋に、幼馴染が家に来て一緒にご飯を食べた一日を、楽しかったと言っている。

「……うん」

 陽葵は少しだけ俯いた。前を向くと蓮の横顔が視界に入ってしまうから。

「ひなたも嬉しそうだった。あいつ、口は悪いけどさ、陽葵のこと本当に好きなんだよ」

「知ってるよ。あたしも、ひなたのこと大好き」

「だよな」

 蓮が笑った。穏やかで、温かくて、何の含みもない笑顔。夜の暗さの中でも、蓮の笑顔は目尻が下がってすぐにわかる。この笑顔を見るたびに、陽葵の胸は締めつけられる。

 好きだ。

 好きだ。

 好きなんだよ、蓮。

 胸の中で何度叫んでも、声にならない。

「おじさんも、嬉しそうだったな。あの人、四人で食卓囲むと表情柔らかくなるんだ」

「そうだね。おじさん、最後にお味噌汁三杯おかわりしてたもんね」

「食いすぎだろ」

「蓮のお味噌汁、美味しいもん」

「それはどうも」

 蓮が首の後ろを撫でた。考え事をする時の癖だ。いや、これは照れ隠しの方か。褒められると視線を逸らして耳が赤くなる。夜の暗さで見えないけれど、たぶん今も赤い。

 陽葵はそういう蓮の小さな仕草を、全部知っている。十七年間——生まれた時からずっと、隣で見てきたから。

 考え事をする時は首の後ろを撫でる。褒められると耳が赤くなる。口癖は「まあ、なんとかなるっしょ」。寝癖は右側がひどい。料理の時だけ目が鋭くなる。弁当を作る時は必ず味噌汁から先に仕込む。仏壇の前では左手首のブレスレットに触れる。

 全部知ってる。全部見てきた。それなのに、たった一言が言えない。

 住宅街の角を曲がると、天野家の外壁が見えてきた。クリーム色の壁。二階の窓には陽葵の部屋のカーテンがかかっている。朝、蓮の声で目が覚めて、カーテンを開ける窓。

 玄関のポーチライトが、淡い黄色い光を灯している。蛾が一匹、その光の周りを回っていた。

 あと数歩で、今日が終わる。

 陽葵の足が重くなった。一歩ずつ、鉛を引きずるように。もっとゆっくり歩きたい。もっと遠回りしたい。でも天野家はもう、すぐそこだ。

「——ねえ、蓮」

 立ち止まった。

 声は自分でも驚くほど硬かった。喉の奥が締まって、空気を押し出すのがやっとだった。

 蓮も足を止めて、振り返った。街灯の光が蓮の暗褐色の目を照らしている。不思議そうに首を少し傾げて、いつもと変わらない穏やかな表情で、待っている。

「あたし——」

 心臓がうるさい。こめかみで血が脈打っている。手のひらが汗ばんでいる。

 言おう。今、ここで。

 ひなたに背中を押してもらった。あの子は「がんばって」と唇を動かしてくれた。遼太にも言われた。「言わないと一生気づかないぞ」って。

 今しかない。今言わなかったら、いつ言うんだ。

 蓮がまっすぐに見ている。暗褐色の目。柔らかくて、穏やかで、何も疑っていない目。首を傾げて「どうした?」と言いたげな表情。

 その目を見た瞬間、言葉が消えた。

 頭の中に用意していた台詞が、全部溶けた。「蓮のことが好き」。たった八文字。こんなに短い言葉なのに、喉の手前で引っかかって、どうしても出てこない。

 怖い。

 怖いのだ。

 いつもと同じ笑顔。いつもと同じ距離。目尻が下がって、周囲の緊張を自然にほぐす、柔和な顔。この笑顔がなくなることが怖い。好きだと言った瞬間、蓮が困った顔をして、「陽葵は大事な幼馴染だから」と優しく断る姿が見えてしまう。そうなったら、もう元には戻れない。

 この「当たり前」を失うことが、何よりも怖い。

 毎朝玄関に迎えに行けなくなったら。隣の席で弁当の卵焼きを盗めなくなったら。帰り道に並んで歩けなくなったら。

 それが怖い。

 だから——

「——また明日ね!」

 声が裏返った。自分でも聞いたことがないくらい、甲高い声だった。無理やり笑顔を貼り付けて、陽葵は蓮に背を向けた。玄関に走り込む。足がもつれそうになった。ポーチの段差を一つ飛ばしで上がって、ドアノブを掴む。

「おう、また明日」

 ドアの向こうから、蓮の声。穏やかな、いつもの声。何の違和感もない、当たり前の挨拶。

 足音が遠ざかっていく。蓮のスニーカーが、アスファルトの上をぺたぺたと。その音が小さくなって、やがて聞こえなくなった。

 陽葵は玄関のドアにもたれたまま、しゃがみ込んだ。靴も脱がずに、膝を抱えて。タイルの冷たさが足の裏に伝わる。

「……バカ」

 自分に向けた言葉だった。

「バカバカバカ……」

 額を膝に押し付けた。涙がじわりと滲んでくる。

 ——言えばよかった。言えばよかったのに。ひなたがあんなに覚悟を見せてくれたのに。あの子の気持ちに報いなきゃいけないのに。なのにあたしは、また逃げた。

 立ち上がった。靴を乱暴に脱いで、揃えもせずに二階へ駆け上がった。階段を二段飛ばしで。

 自室のドアを閉める。鍵をかける。ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。

 涙が枕カバーを濡らしていく。

 声を殺して泣いた。枕を両手で抱え込んで、歯を食いしばって。幼馴染の関係を壊したくない。でも、このままじゃ永遠に変わらない。「今言わなきゃ」と「壊したくない」が、ぐるぐると胸の中で渦を巻いている。出口のない迷路を全力で走っているような感覚。走っても走っても、同じ場所に戻ってくる。

 枕から顔を上げた。天井を見つめる。涙で視界がぼやけている。

 ——あたしってさ、バレーの時は何も考えずにスパイク打てるのに。

 コートの上では迷わない。セッターからトスが上がったら、何も考えずに跳ぶ。全力で腕を振り下ろす。ボールが相手コートに叩きつけられる音が好きだ。あの瞬間は、何も怖くない。

 なのに蓮の前に立つと、足が動かなくなる。

 コートの上の自分と、蓮の前の自分は、まるで別人だ。

 枕に顔を戻した。涙が止まらない。


 しばらくして、ノックの音が聞こえた。

 こんこん。控えめな、二回のノック。

「ひまり、入ってもいい?」

 母の声だ。天野春香。四十四歳。パート勤務。蓮の母・彩と親友だった人。

 陽葵は慌てて起き上がり、袖で涙を拭いた。枕カバーを裏返して、濡れた面を隠す。鏡は見ない。見たら自分の情けない顔に余計に泣きそうだから。

「……うん」

 鍵を開けた。

 春香がドアを静かに開けて、部屋に入ってきた。娘の赤くなった目を見た。目元が腫れているのも、鼻が赤いのも、きっと全部見えている。でも何も指摘しなかった。母親というのは、そういう生き物なのだ。見えていても、見えないふりをする。娘が自分から話すまで、待ってくれる。

 春香はベッドの端に腰を下ろした。ベッドが軽く沈む。

「おかえり。蓮くんと楽しかった?」

 普通の質問。普通の声。でもその声には、全部わかっている人の温かさがあった。

「……うん。藤咲さんちでご飯食べた」

「そう。蓮くん、相変わらずお料理上手?」

「うん。すごく、美味しかった」

 声が震えた。最後の方は、ほとんど掠れてしまった。

 春香は少しだけ間を置いた。それから陽葵の隣に座り、娘の栗色のセミロングの髪をそっと撫でた。優しい手つき。幼い頃からずっと変わらない、母の手。

「知ってるわよ」

「え?」

 陽葵が顔を上げた。

「ひまりが蓮くんを見る目」

 春香の琥珀色の——陽葵と同じ色の目が、どこか遠くを見ていた。

「彩を見ていた頃の私と、同じだもの」

 陽葵は目を見開いた。

 彩。蓮の母。春香の親友。九年前に亡くなった人。

 春香は窓の外に視線を向けた。夜の暗闇の向こうに、隣家——藤咲家の屋根が見える。あの家で、かつて親友が笑っていた。台所に立って、卵焼きを焼いて、エプロン姿で子どもたちに料理を教えていた。

「ちっちゃい頃、覚えてる? あなたと蓮くんが彩のキッチンで卵焼き作ってたの。彩がね、二人の手を取って、フライパンの使い方教えてたでしょう」

「……うん」

「あの時からよ。あなたが蓮くんを見る目が変わったのは」

 陽葵は知らなかった。そんな昔から、母に見抜かれていたなんて。

「母さん、あたし——」

「焦らなくていいからね」

 春香が微笑んだ。それは母親の笑顔であり、かつて同じように誰かを想った女性の笑顔だった。温かくて、少しだけ寂しくて、でも強い笑顔。

「ひまりのタイミングで、いいんだから」

 その言葉を聞いた瞬間、陽葵の目からまた涙がこぼれた。さっきまでの悔しい涙とは違う。安堵の涙だった。

 陽葵は母の肩に頭を預けた。言葉にならない感情が、涙と一緒に溢れてくる。春香がそっと娘の背中を叩いた。とん、とん、と。幼い子をあやすように。

「彩もね、きっと喜んでると思うわよ」

「……彩おばさんが?」

「うん。あの子はね、蓮くんのこと、誰かに大事にしてもらいたかったはずだから」

 陽葵は声を殺してまた泣いた。春香の肩に顔を埋めて。

 春香はただ、娘の背中を叩き続けた。とん、とん、とん。

 窓の外で、夜風が桜の花びらを最後のひとひら散らしていた。淡いピンクの花弁がくるくると回りながら落ちていく。春が終わろうとしている。

 でもまだ、終わっていない。


 同じ頃。

 蓮は自分の部屋で、ベッドに仰向けに寝転がっていた。

 天井を見つめている。白い天井。蛍光灯の紐が風もないのに少しだけ揺れている。

 さっきの陽葵のことを考えていた。

 ——「あたし——」って、何を言おうとしてたんだろう。

 玄関先で立ち止まった陽葵。いつもの明るい声じゃなかった。少し硬くて、少し震えていて、いつもの陽葵と違っていた。琥珀色の目が真っ直ぐにこちらを見て、何か大事なことを言おうとしていた——ように見えた。

 でもすぐに「また明日ね!」と笑って走り去った。あの声は裏返っていた。

 気になる。少しだけ。

 でもそれ以上は考えが続かない。陽葵は時々ああいうことがある。急に黙ったり、言いかけてやめたり。遼太に言わせれば「お前が鈍すぎるんだよ」ということになるのだろうが、蓮にはよくわからない。

「まあ、なんとかなるっしょ」

 口癖が出た。呟いて、寝返りを打った。

 左手首のブレスレット——母の形見の細い革紐——が、手首の上で小さく揺れた。

 革紐の感触が肌に触れて、ふと、食卓の光景が蘇った。四人で囲んだ夕食。父の不器用な「すまないな」。ひなたの憎まれ口。陽葵の笑い声。

 ——この時間がずっと続けばいい。

 さっきもそう思った。食卓で。そして今も、同じことを思っている。

 この「当たり前」が、ずっと続けばいい。

 でもその願いの輪郭は曖昧で、どこに向かっているのかわからない。誰に向けた願いなのかも。

 蓮は目を閉じた。まぶたの裏に、陽葵の琥珀色の目が一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。

 意識が遠のいていく。今日も一日が終わる。弁当を作って、学校に行って、調理室で料理をして、陽葵と帰って、家族でご飯を食べて、陽葵を送って。

 いつもの一日。いつもの日常。

 蓮はそのまま、浅い眠りに落ちていった。


 天野家の二階。

 陽葵の部屋。

 春香が出ていった後、陽葵はベッドの上で体育座りをしていた。涙はもう枯れた。泣きすぎて頭がぼんやりしている。

 スマホが光った。LINEの通知。

 画面を見る。蓮からだった。

「今日はありがとな。またうちで飯食おうぜ」

 短い文章。絵文字もスタンプもない、蓮らしいそっけないメッセージ。でもそこには、蓮の全部が詰まっている。

 陽葵はスマホを両手で握りしめた。画面の文字がまた涙で滲む。

 ——枯れたと思ったのに、まだ出るんだ。

 返信を打つ。

「こちらこそ! 生姜焼きめちゃくちゃ美味しかった! ひなたにもよろしく伝えてね!」

 びっくりマーク三つ。いつもの陽葵。明るくて、元気で、何の悩みもなさそうな陽葵。

 送信ボタンを押した。既読がすぐについた。

「おう。ひなたは寝た。また明日な」

 また明日。

 さっき玄関先でも言った言葉。蓮にとっては何の変哲もない挨拶。でも陽葵にとっては——

 スマホを布団の上に伏せた。画面を下にして。

「……また明日」

 声に出してみた。暗い部屋に、自分の声だけが響いた。

 また明日がある。明日も蓮は「おう」と言って笑うだろう。明日も隣の席に座って、弁当の卵焼きを狙うだろう。明日もまた、何も言えないだろう。

 でも、ひなたが背中を押してくれた。母さんが「焦らなくていい」と言ってくれた。

 今日は言えなかった。でも、明日がある。

 陽葵はスマホをもう一度手に取り、蓮とのトーク画面を見つめた。「また明日な」の五文字。何度も読み返した。スマホの光が暗い部屋を青白く照らしている。

 やがてスマホを枕元に置いて、布団にもぐりこんだ。まぶたが重い。泣きすぎたせいだ。

 目を閉じる直前、ひなたの声が頭の中に蘇った。

 ——お兄を泣かせたら、許さないから。

 陽葵は布団の中で小さく笑った。

「泣かせないよ。絶対に」

 そう呟いて、目を閉じた。

 春の夜は静かに更けていく。隣の家では蓮がもう眠っている。たった壁一枚、庭一つの距離に。世界で一番近くて、世界で一番遠い場所に。

 季節はもうすぐ変わる。桜の花びらはあと数日で全て散って、新しい緑が通学路を覆うだろう。

 でも陽葵の胸の中の春は、まだ終わらない。


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