第七章 言えなかった一言
天野家まで、徒歩五分。
藤咲家と天野家は隣同士だから、本当なら数歩で着く。でも蓮はいつも、わざわざ表の道を回って玄関まで送る。庭を突っ切れば十秒で済む距離を、五分かけて歩く。それが蓮のやり方だった。陽葵にとっては世界で一番短い五分であり、世界で一番長い五分でもあった。
春の夜風が、ほんの少しだけ冷たかった。
四月の中旬。桜の季節はもう終わりかけている。通学路の桜並木はすっかり葉桜になって、花びらの代わりに若葉が風に揺れている。でも住宅街の道沿いには、まだ少しだけ遅咲きの桜が残っていた。薄い花びらが時おり風に乗って、ひらりと落ちてくる。
陽葵の心臓は、さっきからずっとうるさかった。
ひなたの言葉が胸の中で反響している。
——ひまり姉なら、いい。
——お兄のそばにいていいのは、最初からずっとそばにいたひまり姉だと思う。
あの十四歳の女の子は、兄を任せる覚悟を見せた。自分の大切な兄を、陽葵に託すと言った。泣きそうな顔で、でも凛とした声で。
なのに自分は、当の蓮にまだ何も言えていない。
ひなたに「好き」と言えたのは、あの子の目がそうさせたからだ。嘘を許さない、真っ直ぐな目。あの目の前では嘘はつけなかった。
でも蓮の目は違う。穏やかで、温かくて、全てを受け入れるような目。あの目を見ると、言葉が消える。
蓮は隣を歩きながら、のんびりと夜空を見上げていた。
「今日、楽しかったな」
何の含みもない声。ただ純粋に、幼馴染が家に来て一緒にご飯を食べた一日を、楽しかったと言っている。
「……うん」
陽葵は少しだけ俯いた。前を向くと蓮の横顔が視界に入ってしまうから。
「ひなたも嬉しそうだった。あいつ、口は悪いけどさ、陽葵のこと本当に好きなんだよ」
「知ってるよ。あたしも、ひなたのこと大好き」
「だよな」
蓮が笑った。穏やかで、温かくて、何の含みもない笑顔。夜の暗さの中でも、蓮の笑顔は目尻が下がってすぐにわかる。この笑顔を見るたびに、陽葵の胸は締めつけられる。
好きだ。
好きだ。
好きなんだよ、蓮。
胸の中で何度叫んでも、声にならない。
「おじさんも、嬉しそうだったな。あの人、四人で食卓囲むと表情柔らかくなるんだ」
「そうだね。おじさん、最後にお味噌汁三杯おかわりしてたもんね」
「食いすぎだろ」
「蓮のお味噌汁、美味しいもん」
「それはどうも」
蓮が首の後ろを撫でた。考え事をする時の癖だ。いや、これは照れ隠しの方か。褒められると視線を逸らして耳が赤くなる。夜の暗さで見えないけれど、たぶん今も赤い。
陽葵はそういう蓮の小さな仕草を、全部知っている。十七年間——生まれた時からずっと、隣で見てきたから。
考え事をする時は首の後ろを撫でる。褒められると耳が赤くなる。口癖は「まあ、なんとかなるっしょ」。寝癖は右側がひどい。料理の時だけ目が鋭くなる。弁当を作る時は必ず味噌汁から先に仕込む。仏壇の前では左手首のブレスレットに触れる。
全部知ってる。全部見てきた。それなのに、たった一言が言えない。
住宅街の角を曲がると、天野家の外壁が見えてきた。クリーム色の壁。二階の窓には陽葵の部屋のカーテンがかかっている。朝、蓮の声で目が覚めて、カーテンを開ける窓。
玄関のポーチライトが、淡い黄色い光を灯している。蛾が一匹、その光の周りを回っていた。
あと数歩で、今日が終わる。
陽葵の足が重くなった。一歩ずつ、鉛を引きずるように。もっとゆっくり歩きたい。もっと遠回りしたい。でも天野家はもう、すぐそこだ。
「——ねえ、蓮」
立ち止まった。
声は自分でも驚くほど硬かった。喉の奥が締まって、空気を押し出すのがやっとだった。
蓮も足を止めて、振り返った。街灯の光が蓮の暗褐色の目を照らしている。不思議そうに首を少し傾げて、いつもと変わらない穏やかな表情で、待っている。
「あたし——」
心臓がうるさい。こめかみで血が脈打っている。手のひらが汗ばんでいる。
言おう。今、ここで。
ひなたに背中を押してもらった。あの子は「がんばって」と唇を動かしてくれた。遼太にも言われた。「言わないと一生気づかないぞ」って。
今しかない。今言わなかったら、いつ言うんだ。
蓮がまっすぐに見ている。暗褐色の目。柔らかくて、穏やかで、何も疑っていない目。首を傾げて「どうした?」と言いたげな表情。
その目を見た瞬間、言葉が消えた。
頭の中に用意していた台詞が、全部溶けた。「蓮のことが好き」。たった八文字。こんなに短い言葉なのに、喉の手前で引っかかって、どうしても出てこない。
怖い。
怖いのだ。
いつもと同じ笑顔。いつもと同じ距離。目尻が下がって、周囲の緊張を自然にほぐす、柔和な顔。この笑顔がなくなることが怖い。好きだと言った瞬間、蓮が困った顔をして、「陽葵は大事な幼馴染だから」と優しく断る姿が見えてしまう。そうなったら、もう元には戻れない。
この「当たり前」を失うことが、何よりも怖い。
毎朝玄関に迎えに行けなくなったら。隣の席で弁当の卵焼きを盗めなくなったら。帰り道に並んで歩けなくなったら。
それが怖い。
だから——
「——また明日ね!」
声が裏返った。自分でも聞いたことがないくらい、甲高い声だった。無理やり笑顔を貼り付けて、陽葵は蓮に背を向けた。玄関に走り込む。足がもつれそうになった。ポーチの段差を一つ飛ばしで上がって、ドアノブを掴む。
「おう、また明日」
ドアの向こうから、蓮の声。穏やかな、いつもの声。何の違和感もない、当たり前の挨拶。
足音が遠ざかっていく。蓮のスニーカーが、アスファルトの上をぺたぺたと。その音が小さくなって、やがて聞こえなくなった。
陽葵は玄関のドアにもたれたまま、しゃがみ込んだ。靴も脱がずに、膝を抱えて。タイルの冷たさが足の裏に伝わる。
「……バカ」
自分に向けた言葉だった。
「バカバカバカ……」
額を膝に押し付けた。涙がじわりと滲んでくる。
——言えばよかった。言えばよかったのに。ひなたがあんなに覚悟を見せてくれたのに。あの子の気持ちに報いなきゃいけないのに。なのにあたしは、また逃げた。
立ち上がった。靴を乱暴に脱いで、揃えもせずに二階へ駆け上がった。階段を二段飛ばしで。
自室のドアを閉める。鍵をかける。ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めた。
涙が枕カバーを濡らしていく。
声を殺して泣いた。枕を両手で抱え込んで、歯を食いしばって。幼馴染の関係を壊したくない。でも、このままじゃ永遠に変わらない。「今言わなきゃ」と「壊したくない」が、ぐるぐると胸の中で渦を巻いている。出口のない迷路を全力で走っているような感覚。走っても走っても、同じ場所に戻ってくる。
枕から顔を上げた。天井を見つめる。涙で視界がぼやけている。
——あたしってさ、バレーの時は何も考えずにスパイク打てるのに。
コートの上では迷わない。セッターからトスが上がったら、何も考えずに跳ぶ。全力で腕を振り下ろす。ボールが相手コートに叩きつけられる音が好きだ。あの瞬間は、何も怖くない。
なのに蓮の前に立つと、足が動かなくなる。
コートの上の自分と、蓮の前の自分は、まるで別人だ。
枕に顔を戻した。涙が止まらない。
しばらくして、ノックの音が聞こえた。
こんこん。控えめな、二回のノック。
「ひまり、入ってもいい?」
母の声だ。天野春香。四十四歳。パート勤務。蓮の母・彩と親友だった人。
陽葵は慌てて起き上がり、袖で涙を拭いた。枕カバーを裏返して、濡れた面を隠す。鏡は見ない。見たら自分の情けない顔に余計に泣きそうだから。
「……うん」
鍵を開けた。
春香がドアを静かに開けて、部屋に入ってきた。娘の赤くなった目を見た。目元が腫れているのも、鼻が赤いのも、きっと全部見えている。でも何も指摘しなかった。母親というのは、そういう生き物なのだ。見えていても、見えないふりをする。娘が自分から話すまで、待ってくれる。
春香はベッドの端に腰を下ろした。ベッドが軽く沈む。
「おかえり。蓮くんと楽しかった?」
普通の質問。普通の声。でもその声には、全部わかっている人の温かさがあった。
「……うん。藤咲さんちでご飯食べた」
「そう。蓮くん、相変わらずお料理上手?」
「うん。すごく、美味しかった」
声が震えた。最後の方は、ほとんど掠れてしまった。
春香は少しだけ間を置いた。それから陽葵の隣に座り、娘の栗色のセミロングの髪をそっと撫でた。優しい手つき。幼い頃からずっと変わらない、母の手。
「知ってるわよ」
「え?」
陽葵が顔を上げた。
「ひまりが蓮くんを見る目」
春香の琥珀色の——陽葵と同じ色の目が、どこか遠くを見ていた。
「彩を見ていた頃の私と、同じだもの」
陽葵は目を見開いた。
彩。蓮の母。春香の親友。九年前に亡くなった人。
春香は窓の外に視線を向けた。夜の暗闇の向こうに、隣家——藤咲家の屋根が見える。あの家で、かつて親友が笑っていた。台所に立って、卵焼きを焼いて、エプロン姿で子どもたちに料理を教えていた。
「ちっちゃい頃、覚えてる? あなたと蓮くんが彩のキッチンで卵焼き作ってたの。彩がね、二人の手を取って、フライパンの使い方教えてたでしょう」
「……うん」
「あの時からよ。あなたが蓮くんを見る目が変わったのは」
陽葵は知らなかった。そんな昔から、母に見抜かれていたなんて。
「母さん、あたし——」
「焦らなくていいからね」
春香が微笑んだ。それは母親の笑顔であり、かつて同じように誰かを想った女性の笑顔だった。温かくて、少しだけ寂しくて、でも強い笑顔。
「ひまりのタイミングで、いいんだから」
その言葉を聞いた瞬間、陽葵の目からまた涙がこぼれた。さっきまでの悔しい涙とは違う。安堵の涙だった。
陽葵は母の肩に頭を預けた。言葉にならない感情が、涙と一緒に溢れてくる。春香がそっと娘の背中を叩いた。とん、とん、と。幼い子をあやすように。
「彩もね、きっと喜んでると思うわよ」
「……彩おばさんが?」
「うん。あの子はね、蓮くんのこと、誰かに大事にしてもらいたかったはずだから」
陽葵は声を殺してまた泣いた。春香の肩に顔を埋めて。
春香はただ、娘の背中を叩き続けた。とん、とん、とん。
窓の外で、夜風が桜の花びらを最後のひとひら散らしていた。淡いピンクの花弁がくるくると回りながら落ちていく。春が終わろうとしている。
でもまだ、終わっていない。
同じ頃。
蓮は自分の部屋で、ベッドに仰向けに寝転がっていた。
天井を見つめている。白い天井。蛍光灯の紐が風もないのに少しだけ揺れている。
さっきの陽葵のことを考えていた。
——「あたし——」って、何を言おうとしてたんだろう。
玄関先で立ち止まった陽葵。いつもの明るい声じゃなかった。少し硬くて、少し震えていて、いつもの陽葵と違っていた。琥珀色の目が真っ直ぐにこちらを見て、何か大事なことを言おうとしていた——ように見えた。
でもすぐに「また明日ね!」と笑って走り去った。あの声は裏返っていた。
気になる。少しだけ。
でもそれ以上は考えが続かない。陽葵は時々ああいうことがある。急に黙ったり、言いかけてやめたり。遼太に言わせれば「お前が鈍すぎるんだよ」ということになるのだろうが、蓮にはよくわからない。
「まあ、なんとかなるっしょ」
口癖が出た。呟いて、寝返りを打った。
左手首のブレスレット——母の形見の細い革紐——が、手首の上で小さく揺れた。
革紐の感触が肌に触れて、ふと、食卓の光景が蘇った。四人で囲んだ夕食。父の不器用な「すまないな」。ひなたの憎まれ口。陽葵の笑い声。
——この時間がずっと続けばいい。
さっきもそう思った。食卓で。そして今も、同じことを思っている。
この「当たり前」が、ずっと続けばいい。
でもその願いの輪郭は曖昧で、どこに向かっているのかわからない。誰に向けた願いなのかも。
蓮は目を閉じた。まぶたの裏に、陽葵の琥珀色の目が一瞬だけ浮かんで、すぐに消えた。
意識が遠のいていく。今日も一日が終わる。弁当を作って、学校に行って、調理室で料理をして、陽葵と帰って、家族でご飯を食べて、陽葵を送って。
いつもの一日。いつもの日常。
蓮はそのまま、浅い眠りに落ちていった。
天野家の二階。
陽葵の部屋。
春香が出ていった後、陽葵はベッドの上で体育座りをしていた。涙はもう枯れた。泣きすぎて頭がぼんやりしている。
スマホが光った。LINEの通知。
画面を見る。蓮からだった。
「今日はありがとな。またうちで飯食おうぜ」
短い文章。絵文字もスタンプもない、蓮らしいそっけないメッセージ。でもそこには、蓮の全部が詰まっている。
陽葵はスマホを両手で握りしめた。画面の文字がまた涙で滲む。
——枯れたと思ったのに、まだ出るんだ。
返信を打つ。
「こちらこそ! 生姜焼きめちゃくちゃ美味しかった! ひなたにもよろしく伝えてね!」
びっくりマーク三つ。いつもの陽葵。明るくて、元気で、何の悩みもなさそうな陽葵。
送信ボタンを押した。既読がすぐについた。
「おう。ひなたは寝た。また明日な」
また明日。
さっき玄関先でも言った言葉。蓮にとっては何の変哲もない挨拶。でも陽葵にとっては——
スマホを布団の上に伏せた。画面を下にして。
「……また明日」
声に出してみた。暗い部屋に、自分の声だけが響いた。
また明日がある。明日も蓮は「おう」と言って笑うだろう。明日も隣の席に座って、弁当の卵焼きを狙うだろう。明日もまた、何も言えないだろう。
でも、ひなたが背中を押してくれた。母さんが「焦らなくていい」と言ってくれた。
今日は言えなかった。でも、明日がある。
陽葵はスマホをもう一度手に取り、蓮とのトーク画面を見つめた。「また明日な」の五文字。何度も読み返した。スマホの光が暗い部屋を青白く照らしている。
やがてスマホを枕元に置いて、布団にもぐりこんだ。まぶたが重い。泣きすぎたせいだ。
目を閉じる直前、ひなたの声が頭の中に蘇った。
——お兄を泣かせたら、許さないから。
陽葵は布団の中で小さく笑った。
「泣かせないよ。絶対に」
そう呟いて、目を閉じた。
春の夜は静かに更けていく。隣の家では蓮がもう眠っている。たった壁一枚、庭一つの距離に。世界で一番近くて、世界で一番遠い場所に。
季節はもうすぐ変わる。桜の花びらはあと数日で全て散って、新しい緑が通学路を覆うだろう。
でも陽葵の胸の中の春は、まだ終わらない。




