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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第一部 いつもの距離

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第六章 妹の一撃

 台所から水の音が聞こえる。蓮が皿洗いをしている音だ。

 蛇口から落ちる水流が食器に当たって、じゃあじゃあと一定のリズムを刻んでいる。時おり皿と皿がぶつかる硬い音が混じった。リビングの窓は少しだけ開いていて、四月の夜風が薄いカーテンをそっと揺らしていた。沈丁花の香りが、どこからか漂ってくる。

 リビングのソファに並んで座ったひなたと陽葵の間に、静かな時間が流れていた。テレビは消えている。壁掛け時計の秒針だけが、かちかちと小さく進んでいく。

 陽葵は何となく居心地が悪くて、ソファのクッションの端を指で弄っていた。さっきまでの食卓の賑やかさが嘘のように、リビングは静まり返っている。

 ひなたは宿題のノートを閉じて膝の上に置いていた。ペンをくるくると回している。回すのが妙にうまい。くるくる、くるくる。その動きが止まった。

「ひまり姉」

 ひなたが口を開いた。声の温度が、さっきまでと違う。

「ん?」

 陽葵が何気なく振り向いた。

 ひなたはソファの上で体ごとこちらに向き直っていた。暗褐色の吊り目がちな目が、まっすぐに陽葵を射抜いている。兄に似た整った顔立ち。でも今、そこに浮かんでいる表情は蓮のどの表情にも似ていなかった。十四歳とは思えない、鋭い光を宿した目。

 ごまかしを許さない目だ。

「お兄のこと、好きでしょ」

 空気が止まった。

 陽葵の心臓が跳ね上がった。呼吸を忘れた。一瞬の間に、頭の中が真っ白になり、次の瞬間には火がついたように熱くなった。

「え、あ、な、何言って——」

 声が裏返った。両手がソファのクッションを掴む。指先が白くなるほど強く。

「嘘つかないで。あたし、ちゃんと見てるから」

 ひなたの声は静かだった。怒っているのでもない。からかっているのでもない。ただ、事実を確認するように、淡々と。十四歳の中学二年生の声じゃない。

 陽葵は口を開きかけて、閉じた。言い訳の言葉を探して、見つからなかった。また口を開いて、閉じた。金魚みたいだ、と自分でも思った。

 台所の水音は続いている。蓮には聞こえない距離。食器を洗う蓮は、きっといつものように丁寧に一枚ずつスポンジで擦って、すすいで、水切りかごに立てかけているのだろう。何も知らずに。

 陽葵はひなたの目を見た。その暗褐色の瞳に映る自分の顔は、情けないくらい動揺していた。

 嘘はつけない。この子の前では。

 だって、ひなたは見ていたのだ。陽葵が蓮の弁当の卵焼きを奪う時の顔を。調理室のドア枠で蓮の横顔に見惚れている時の顔を。商店街で「偶然」蓮にぶつかった時の顔を。そして今夜、この食卓で蓮の隣に座っている時の、どうしようもなく幸せそうな顔を。

 全部、見られていた。

「……うん」

 声が震えた。小さくて、掠れていて、でも確かに音になった。

「好き。中学のときから、ずっと」

 言ってしまった。

 蓮の前では百回練習しても出てこない言葉が、ひなたの前では出てきた。胸の奥で何かが外れたような感覚。目頭がじんと熱くなる。

 ひなたはしばらく黙っていた。長い沈黙だった。壁掛け時計の秒針が五つ六つ進むのが聞こえるくらいの。

 それから、小さく息を吐いた。ふう、と。大人みたいな溜息。

「知ってた」

「……え?」

 陽葵が顔を上げた。

「ひまり姉がお兄を見る目、ずっと前から普通じゃなかったもん」

 ひなたは淡々と言った。まるで天気予報でも読み上げるみたいに。でもその声の奥には、ずっと一人で抱えてきた重さがあった。

「いつから——」

「去年の夏くらいから。商店街でお兄と偶然会ったって言って家に来た時、ひまり姉、お兄の後ろ姿を見てた。あの目は、普通の『お姉ちゃん』の目じゃなかった」

 陽葵は絶句した。去年の夏。あの時からもう、気づかれていたのか。

 ひなたはペンをノートの上に置いた。くるくる回していた手が、今は膝の上でぎゅっと拳を作っている。

「あたしさ、お兄に近づく女は全員チェックしてるの。知ってるでしょ」

「……うん、知ってる」

 クラスでも有名だ。藤咲蓮に近づく女子は、まず妹の門を突破しなければならない。ひなたが睨めば大抵の女子は怯む。あの暗褐色の吊り目は、睨むと意外なほど迫力がある。

「でもひまり姉は別。最初から、ずっとお兄のそばにいた人だから」

 ひなたの声がわずかに揺れた。一瞬だけ、年相応の女の子に戻ったように見えた。

「お母さんがいなくなった時も。お兄が泣かなかった時も。あたしが泣いてばっかりの時も。ひまり姉は、ずっとそばにいてくれた」

 陽葵の胸がぎゅっと締まった。九年前のあの日のことを、この子も覚えているのだ。

 五歳だったひなたは、母の死の意味がよくわかっていなかった。でもお兄ちゃんが泣かないのが怖くて、自分ばかり泣いていた。そしてその横には、いつも陽葵がいた。ひなたの頭を撫でて、「大丈夫だよ」と言ってくれる陽葵が。

「あたし、お兄が好きな人ができたら嫌だった。お兄がどっかに行っちゃう気がして。でも——」

 ひなたは唇を噛んだ。目を伏せて、まつ毛が頬に影を作る。それから顔を上げた。

 そこにあったのは、門番の目ではなかった。

 兄の幸せを誰よりも願う、妹の目だった。

「ひまり姉なら、いい」

 陽葵の息が止まった。

「お兄のそばにいていいのは、最初からずっとそばにいたひまり姉だと思う」

「——っ」

 声にならなかった。視界がぐにゃりと歪んだ。涙が一筋、頬を伝って、顎の先から落ちた。

 ひなたはそれを見て、少しだけ目を逸らした。耳が赤い。兄と同じだ。照れると耳が赤くなるのは、藤咲家の遺伝らしい。

「ひなた……」

 陽葵は声を震わせた。

「あたし、蓮のこと——蓮のこと、大事にする。絶対に」

「うん」

 ひなたは頷いた。そしてこちらに向き直り、吊り目をきゅっと細めた。十四歳の全身を使って、言い放つ。

「でも。お兄を泣かせたら、許さないから」

 その声には、冗談の響きがなかった。

 幼い頃、母を亡くして泣けなかった兄を見てきた妹の覚悟。朝も夜も、家族の前では笑顔を作り続けた兄のそばで、声を殺して泣いていた妹の覚悟。兄に甘えたいのに甘えられない、「お兄のくせに」と突っぱねてしまう裏側にある、誰にも見せない本音。

 十四歳が、その全部を背負って言っていた。

 陽葵は涙を手の甲でぐしぐしと拭って、笑った。たぶんひどい顔だ。目は真っ赤で、鼻も赤くて、でも笑っていた。

「うん。約束する」

 ひなたは照れたように顔を背けた。ボブカットの黒髪が揺れる。前髪を留めているヘアピン——陽葵が選んであげたもの——が、リビングの照明を反射してきらりと光った。

「……べつに、応援してるわけじゃないし」

 その声はかすかに震えていた。鼻を啜る音が一回。ひなたは急いで宿題のノートを開いて、シャープペンシルを握った。何も書いていない。ただ持っているだけ。

 陽葵は涙を拭きながら、この子の強さに胸が痛くなった。

 ひなたはいつもこうだ。本当のことを言う。嘘をつかない。お兄のくせに、お兄のくせに、と言いながら、世界で一番兄を大事にしている。兄の弁当が自慢だけど「まあ、普通」としか言わない。兄がいないと寂しがるくせに「お兄のくせに」と突っぱねる。全部、裏返しの愛情だ。

 この子が「いい」と言ってくれた。それがどれほど大きな意味を持つか、陽葵にはわかった。

 陽葵はひなたの横顔を見つめた。ノートを見ているふりをしているが、シャープペンシルの先は紙の上で止まったままだ。耳がまだ赤い。この子も、きっとすごく緊張していたのだ。ずっと考えていたのかもしれない。いつ切り出すか。どう言うか。

 十四歳の少女が、一人で背負うには重すぎる決断だ。兄の幸せを願いながら、兄がどこかに行ってしまう恐怖と向き合って、それでも「ひまり姉なら、いい」と言い切った。

「ひなた」

「なに」

「ありがとね」

 ひなたは一瞬だけこちらを見て、すぐにノートに目を戻した。

「べつに。あたしはお兄のことしか考えてないし」

 嘘だ。この子は、陽葵のことも考えてくれている。兄と陽葵の両方を見て、両方の幸せを願って、この言葉を選んだのだ。

 陽葵はそっと手を伸ばして、ひなたの頭を撫でた。さらさらのボブカット。ヘアピンに指が触れないように、そっと。

「な、何」

「ひなたは、いい子だね」

「は? やめてよ、子ども扱い——」

「子ども扱いじゃないよ。本気で言ってる」

 ひなたは顔を真っ赤にして、陽葵の手を払いのけた。でもその動作は乱暴じゃなかった。むしろ、されるがままにしていた時間が一秒だけあった。

「お兄のくせに感染った。気持ち悪いことばっか言う」

「あはは、ごめんごめん」

 陽葵は笑った。今度はちゃんと笑えた。涙の跡はまだ頬に残っているけれど、笑えた。


 台所の水音が止まった。蛇口をきゅっと閉める音。タオルで手を拭く音。足音が近づいてくる。

 陽葵は慌てて袖で目元をこすった。泣いた跡を消そうとしたけれど、たぶん無理だ。目は赤いし、鼻も赤い。

「何の話?」

 蓮がリビングに戻ってきた。紺色のエプロンを外して、タオルで手を拭きながら、ソファの二人を見下ろしている。いつもの穏やかな表情。黒髪のマッシュが少し乱れていて、暗褐色の目が陽葵とひなたを交互に見ている。

 ひなたは即座にいつもの表情に戻った。切り替えが速い。さっきまで目が潤んでいたのが嘘のように、ぴしゃりとした顔になった。

「お兄には関係ない話」

「お前なあ……」

 蓮が呆れたように眉を下げた。

「女同士の秘密ってやつ。ねー、ひまり姉」

 ひなたが陽葵に振る。陽葵は泣き笑いのまま「うん」と頷いた。声がまだ少しおかしかったけれど、蓮は気づかなかった。

 ——鈍い。本当に鈍い。

 ひなたが心の中でため息をついているのが、陽葵にはわかった。この兄は、目の前で女が二人泣いた跡があっても「何の話?」で済ませてしまう。恋愛に関しては壊滅的に鈍感だと、蓮の周囲では有名だ。

 でも今は、その鈍さに救われた。

「まあいいけど。陽葵、そろそろ送ってくよ」

 蓮がさらりと言った。当たり前のように。幼馴染を家まで送る。いつものことだ。蓮にとっては何の特別な意味もない行動。

「あ、うん。ありがとう」

 陽葵が立ち上がる。少しふらついたのは、泣いたせいだ。蓮が「大丈夫か?」と眉を寄せたが、陽葵は「座りすぎて足しびれた!」と誤魔化した。嘘をつく時に右目が泳ぐ癖。でも蓮は気づかない。

 玄関に向かう途中、陽葵はちらりと振り返った。ひなたと目が合った。

 ひなたは小さく頷いた。一度だけ、しっかりと。

 そしてすぐに宿題のノートに視線を落とした。何事もなかったように。シャープペンシルが紙の上を走り始める。

 でも陽葵は見えた。ひなたの唇が、かすかに「がんばって」と動いたのを。


 玄関で靴を履く。蓮はすでに自分のスニーカーを履いて、ドアを開けて待っていた。夜の空気がふわりと入ってくる。四月の風。まだ少し冷たい。

「お邪魔しました」

 陽葵はリビングに向かって声をかけた。ひなたの「はーい」という声と、奥の部屋から誠一郎の「気をつけてな」という声が重なった。

 蓮と並んで藤咲家の玄関を出る。

 夜の住宅街。街灯がぽつぽつと道を照らしている。空には雲の切れ間から星がいくつか見えた。どこかの家から夕食の片づけの音。テレビのニュースの音。犬が一声だけ吠えて、すぐに黙った。

 陽葵の胸の中では、ひなたの言葉がまだ反響していた。

 ——ひまり姉なら、いい。

 嬉しかった。泣くほど嬉しかった。でも同時に、責任の重さも感じていた。あの子が兄を託す覚悟で言った言葉だ。軽々しく受け取っていいものじゃない。

 隣を歩く蓮は、何も知らない。さっきリビングで何が起きたのか。妹がどんな覚悟を見せたのか。幼馴染がどんな涙を流したのか。

 何も、知らない。

 陽葵は蓮の横顔をちらりと見た。街灯の光が蓮の輪郭を浮かび上がらせている。黒髪の毛先が夜風に揺れている。穏やかな横顔。この顔を、ずっと隣で見ていたいと思った。

 蓮の左手首には、いつものブレスレットが巻かれている。母の形見の革紐。蓮はこれを外さない。風呂に入る時も、寝る時も。それがどれだけ大切なものか、陽葵は知っている。

「蓮」

「ん?」

「今日、ありがとね。ご飯、すっごく美味しかった」

「そりゃどうも。生姜焼きのタレ、ちょっと改良したんだ。生姜多めにして、すりおろしのりんごを隠し味に——」

「出た、蓮の料理トーク」

「聞いてくれよ」

「聞いてるって。生姜多めで、りんごの隠し味でしょ」

「ちゃんと覚えてんじゃん」

 蓮が苦笑した。目尻が下がって、柔和な顔になる。陽葵はその笑顔を見て、胸がぎゅっと痛くなった。こんな笑顔を、何年も、何百回も見てきた。なのに慣れない。好きになるほど、慣れなくなっていく。

「蓮の料理、昔からずっと好きだよ」

「お前は食べる専門だもんな」

「ひどい! あたしだって卵焼きは作れるもん!」

「卵焼き『だけ』な」

「うるさい!」

 陽葵が蓮の肩をバシバシと叩いた。照れると相手の肩を叩く癖。自分でもわかっているのに止められない。蓮が「痛い痛い」と笑って身を捩った。

 いつものやりとり。何百回と繰り返してきた、なんてことのない会話。

 でも今夜は、その一つ一つが特別に聞こえた。ひなたの「がんばって」が、背中を押している。

 陽葵は深呼吸した。四月の夜の空気が、肺の奥まで染み渡る。どこかの家の庭から、沈丁花の甘い香りがした。

 天野家はもうすぐだ。あと少しで、今日が終わる。


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