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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第一部 いつもの距離

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第五章 藤咲家の食卓

 数日後の平日の夕方。

 天野陽葵は、藤咲家の玄関の前に立っていた。

 何度も来たことがある家だ。幼い頃から数えきれないほど上がり込んで、リビングで遊んで、台所で彩おばさんと一緒に卵焼きを作った家。庭の隅で蓮が一人で泣いていた夜、塀を乗り越えてパジャマのまま隣に座った場所。この家には陽葵の記憶がたくさん詰まっている。

 なのに今日は、呼び鈴を押す指が少し震えている。

 私服で来た。白いブラウスにベージュのスカート。いつもの制服やジャージとは違う、少しだけおしゃれした自分。クローゼットの前で三十分も悩んで、結局「がんばりすぎない、でもちょっと可愛い」を目指した。蓮は絶対に気づかないだろうけど。

 深呼吸をひとつ。呼び鈴に手を伸ばした。

「陽葵、開いてるぞー」

 中から蓮の声が飛んできた。呼び鈴を押す前に声をかけられて、陽葵は少し脱力した。鍵を開けておいてくれたのだろう。蓮らしい。

「おじゃまします」

 ドアを開けると、玄関先から甘辛い匂いが漂ってきた。醤油と生姜の匂い。蓮が料理をしている匂いだ。靴を揃えて上がると、廊下の向こうにリビングが見えた。

 台所に立つ蓮は、紺色のエプロンを着けて生姜焼きの下ごしらえをしていた。白いシャツの袖をまくり、左手首のブレスレットが覗いている。豚肉を生姜とにんにくのタレに漬け込み、隣のコンロでは肉じゃがが煮えている。二口コンロを同時に使いこなす手つきは、とても高校二年生のものとは思えない。

「蓮、何作ってるの?」

「生姜焼きと肉じゃが。あとキャベツの千切りとか。味噌汁も作る」

「すごい。定食屋さんみたい」

「大げさだろ」

 蓮は振り返って笑った。目尻が下がった、いつもの穏やかな顔。陽葵の私服姿を見ても、特にコメントはない。予想通りだったけれど、ほんの少しだけ残念だった。

「手伝う!」

 陽葵は腕まくりをして台所に入ってきた。

「いいよ、座ってろ」

「やだ、手伝いたい! あたしだってちょっとは料理できるし!」

 蓮が苦笑しながら包丁を渡した。まな板の上にはキャベツが置いてある。

「じゃ、千切り頼むわ」

「任せて!」

 陽葵はキャベツに向き合った。包丁を握る。蓮と陽葵の距離は五十センチほどだ。蓮が隣のコンロで肉じゃがの味を見ている間に、陽葵はキャベツを切り始めた。

 ざく。ざくざく。ざくざくざく。

 太い。明らかに太い。千切りというより、ざく切りだ。いや、もはや解体に近い。キャベツの芯ごとぶった切っている箇所もある。

「陽葵」

「ん?」

 蓮が横から陽葵のまな板を覗き込んだ。至近距離だ。蓮のシャンプーの匂いがする。陽葵の心臓が跳ねたが、蓮の視線はまな板に注がれている。

「それ千切りじゃなくて解体だろ」

「うるさい! これはあたし流の千切り! 個性って言うんだよ!」

「個性じゃなくて包丁が怖いだけだろ。指切るなよ」

 蓮が陽葵の手から包丁をそっと取り返した。自然な動きだった。陽葵の手に蓮の指が触れた。ほんの一瞬。蓮の指は温かくて、少しだけ硬い。料理で使い込んだ手だ。

「お前は食べる専門でいい」

 蓮が笑いながら言った。その言葉は陽葵の母——彩おばさんと一緒に料理を教わっていた頃の記憶を呼び起こした。彩おばさんは陽葵にも優しく包丁の使い方を教えてくれて、「ひまりちゃんは食いしん坊だから、食べる方が向いてるかもね」と笑っていた。あの頃の台所の温かさが、一瞬だけ蘇った。

 陽葵は「むー」と頬を膨らませつつも、素直にリビングの椅子に座った。悔しいけれど、蓮の言う通りだ。自分の料理の腕は壊滅的で、唯一まともに作れるのは彩おばさんに教わった卵焼きだけ。それ以外は見事に全滅する。

 リビングのソファでは、ひなたが宿題のノートを広げていた。数学のプリントらしい。シャープペンシルを噛みながら問題と睨み合っている。その吊り目がちな暗褐色の目が、ちらちらと台所の方を見ている。兄と陽葵のやり取りを、しっかり観察していた。

「ひまり姉、お兄って料理の時だけ偉そうだよね」

 ひなたが声をかけてきた。宿題から目を離さないまま。

「そうなの! 普段は全然偉そうじゃないのに、包丁持った途端に師匠みたいになるんだよ!」

「わかるー。あたしにも『卵焼き焦げてる』とかすぐ言うし」

「聞こえてるぞ」

 台所から蓮のツッコミが飛ぶ。ひなたと陽葵が目を合わせて、くすくす笑った。

 陽葵は笑いながら、この瞬間を心の中に刻んでいた。ひなたと一緒に蓮をからかって、蓮が台所からツッコミを入れて、三人で笑う。この距離感が好きだ。この空気が好きだ。友達として? それとも——家族として?

 考えるのは怖いけれど、ここにいることが自然だと感じている自分がいる。

 蓮は台所でキャベツの千切りをやり直していた。陽葵が切ったざく切りは味噌汁に使おう。千切りじゃなくても味は変わらない。

 生姜焼きの仕上げにかかる。フライパンに豚肉を広げると、甘辛い匂いが台所いっぱいに広がった。肉じゃがは蓋を取って煮汁を確認し、味噌汁の鍋にも火をつけた。


 夕方六時過ぎ。玄関のドアが開いた。

「ただいま」

 藤咲誠一郎。蓮とひなたの父。四十五歳。ネクタイを緩めた疲れた姿で帰ってきた。スーツの上着を片手に持ち、もう片方の手で鞄を下げている。白髪が少し増えた、と蓮はふと思った。

 リビングに入り、食卓を見て目を瞬いた。テーブルには料理が並べられている。生姜焼き、肉じゃが、キャベツの千切り、味噌汁、白飯。そして食卓の椅子に、見覚えのある栗色の髪の女の子が座っている。

「おお、陽葵ちゃん。来てたのか」

「お邪魔してます、おじさん」

 陽葵がぴょこんと頭を下げた。誠一郎はぎこちなく笑って、「いやいや、賑やかでいいな」と言った。蓮に似た穏やかな目元だが、蓮よりずっと不器用な笑い方だ。口元が少し引きつっている。人と接するのが得意ではないのだろう。

 誠一郎はスーツから部屋着に着替えて戻ってきた。食卓に着く前に、台所にいる蓮の横を通りかかった。

「……蓮」

「ん?」

「味噌汁、いい匂いだな」

 ぶっきらぼうに言って、そのまま席についた。味噌汁を褒めたかったのか、それとも別の何かを言いたかったのか。蓮にはわからなかったが、父の不器用さには慣れていた。

 四人で食卓を囲む。

「いただきます」

 手を合わせて、箸をつけた。

 誠一郎が最初に生姜焼きを口に入れた。ゆっくり噛んで、飲み込んで、小さく頷く。

「……うまいな」

 短い感想。でも蓮には十分だった。父は口下手だ。「うまい」の一言を絞り出すのにも、たぶん勇気がいる。母がいた頃は、母が「お父さん、美味しい?」と聞いて、誠一郎が「ああ」と答えて、母が「ちゃんと美味しいって言いなさい」と笑って——そういうやり取りがあった。今はもうない。

「お兄のくせに、こういう時だけ頼もしいよね」

 ひなたが憎まれ口を叩きながら肉じゃがを頬張っている。口ではそう言いながら、箸は止まらない。じゃがいもを半分に割って、煮汁を絡めて口に運ぶ。

「お兄のくせに、って。お前が食ってるのも俺が作ったんだけど」

「だから頼もしいって言ったでしょ。褒めてんの」

「褒め方独特だな」

 陽葵は蓮の料理を食べるたびに、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。生姜焼きは甘辛くて、生姜の風味がしっかり効いている。肉じゃがは前と同じ味に戻っていて——「前の方が好き」と言ったのを覚えていてくれたのだ。味噌汁は出汁が効いていて、豆腐が絹のように滑らかだ。

 この食卓に「自分の居場所」がある。それはわかる。ひなたが「ひまり姉」と呼んで隣に座り、蓮が当たり前のように四人分の料理を作り、誠一郎が不器用に笑っている。この場所は温かい。この場所にいると安心する。

 でもそれは、友人として? 「姉のような存在」として? それとも——もっと特別な立場として?

 答えが出ない。出ないまま、箸を動かしていた。

「蓮」

 誠一郎が箸を置いた。味噌汁の椀を両手で包むように持ったまま、視線を落としている。普段は無口な父が、不器用に口を開いた。

「いつも、すまないな。家のこと……全部任せてしまって」

 食卓が一瞬、静かになった。ひなたの箸が止まった。陽葵も止まった。蓮の手が、味噌汁の椀を持ったまま、一瞬だけ固まった。

 誠一郎の声は低くて、少しかすれていた。言い慣れていない言葉を、必死に形にしようとしている声だ。

「母さんがいなくなってから、お前には随分と——」

「別に」

 蓮が遮った。声は穏やかだったが、ほんのわずか、早口だった。

「好きでやってることだし。料理は楽しいし。別に大変じゃないよ」

「でも——」

「父さん、味噌汁おかわりいる?」

 蓮がさらりと話題を変えた。立ち上がって、誠一郎の椀を受け取ろうとする。誠一郎は何か言いたそうにしていた。口を開きかけて、閉じて、また開きかけて。結局「……ああ、もらう」と味噌汁の椀を差し出した。

 蓮が台所で味噌汁をよそいながら、ほんの一瞬だけ目を伏せた。表情が変わったのは、コンマ数秒の出来事だ。まばたきすれば見逃すほどの、小さな変化。

 陽葵はそれを見逃さなかった。

 ——蓮は、ちゃんと嬉しかったんだ。

 父の不器用な「すまない」は、「ありがとう」の裏返しだ。蓮はそれをわかっていて、でも照れくさくて、話題を変えた。味噌汁をよそう蓮の横顔は穏やかだったけれど、耳がほんのり赤かった。褒められると赤くなる耳。

 ひなたも気づいていた。箸を動かす手を止めて、兄を見つめている。吊り目がちな暗褐色の目が、いつもより柔らかい。「お兄のくせに」とは言わなかった。この瞬間だけは、何も言わなかった。

 この家族は不器用だ。父は感謝を伝えるのが下手で、蓮はそれを受け取るのが苦手で、ひなたは素直になれない。でも、ちゃんと繋がっている。言葉にならない絆が、この食卓の上に確かにある。

 蓮は味噌汁の椀を誠一郎に渡して、席に戻った。白飯をかき込みながら、ふと思った。

 母がいた頃も、こうやって四人で食卓を囲んでいた。あの頃は母が真ん中にいて、みんなが笑っていた。父はもう少し若くて、白髪もなくて、「彩の飯はうまいな」と照れくさそうに言っていた。母は「もう、お世辞が下手なんだから」と笑って、蓮とひなたにおかわりを取り分けてくれた。

 今は自分が母の場所に立っている。台所に立ち、料理を作り、食卓に並べる。母がしていたことを、蓮がしている。

 陽葵がいて、ひなたがいて、父がいる。この時間がずっと続けばいい。

 そう思った。自然に、当たり前のように。四人で食卓を囲むこの時間が、永遠に続けばいいと。

 その願いの奥にある「失いたくない」という恐れには、まだ名前がつかない。蓮は自分の中にあるその感情に気づいていない。気づいていないから、名前をつけることもできない。それはずっと先、文化祭の日に遼太に指摘されるまで、蓮の胸の底で眠り続けることになる。


 食後。蓮が皿洗いを始めた。

 陽葵はリビングに残って、ひなたの隣に座った。蓮が台所で食器を洗う水の音が、リズミカルに聞こえてくる。

 ひなたが宿題のノートを開いて、ちらちらと陽葵の方を見ていた。何か言いたそうな目。暗褐色の吊り目がちな瞳に、妙な真剣さが宿っている。

 ——でもまだ、ひなたは何も言わなかった。


 帰り際、蓮が玄関先まで送ってくれた。

「今日はありがとう。ごはん、すっごく美味しかった」

「そっか。よかった」

 蓮が笑った。玄関のポーチライトに照らされた暗褐色の目が、柔らかく光っていた。

 陽葵は深呼吸をした。今なら、言えるかもしれない。夜の静けさの中で、二人きりで——。

「蓮」

「ん?」

「あたし——」

「——また、ごはん食べに来ていい?」

 出たのは、また別の言葉だった。蓮は「当たり前だろ」と笑った。何の疑問も持たない、いつもの笑顔。

 自室に戻って、ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋める。

 ——また、言えなかった。

 スマホが光った。蓮からのLINE。「今日は来てくれてありがとう。ひなたも喜んでた」。

 返信を打った。「こちらこそありがとう! また食べに行く!」

 目を閉じる。蓮の料理の匂いが、まだ服に残っていた。

 ——次こそ。次こそは。

 明日も蓮は隣にいる。その「当たり前」がどれだけ幸せで、どれだけ脆いものなのか、まだ陽葵は知らない。


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