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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第一部 いつもの距離

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4/22

第四章 商店街の午後

 四月中旬の土曜日。朝から気持ちのいい晴天で、空は雲ひとつない水色だった。

 蓮はエコバッグを肩にかけて家を出た。今日は商店街で食材の買い出しだ。明日の日曜日にまとめて作り置きをする予定で、買うものは多い。ひなたの弁当のおかず、父の晩酌のつまみ、そして今週分の夕食の材料。

 蓮は出かける前にSNSのストーリーに商店街の入口の写真を上げた。深い意味はない。「今日はいい天気だから買い出し日和」という、ただの日常の記録。それが後で思わぬ事態を招くことになるのだが、もちろんこの時の蓮は知る由もなかった。


 青葉ヶ丘商店街は、藤咲家から歩いて十分ほどの場所にある。アーケードのない、昔ながらの通り沿いの商店街だ。大型スーパーに押されて閉めた店もあるけれど、精肉店、八百屋、魚屋、豆腐屋、食料品店がまだ健在で、週末になると近所の人たちが買い物袋を下げて歩いている。

 蓮にとって、ここは庭みたいなものだ。小さい頃から母に手を引かれて通った場所。母が亡くなった後は、蓮が一人で買い物に来るようになった。最初は小学三年生の男の子が一人で買い物をしているのを心配して、店のおばちゃんたちが何かと世話を焼いてくれた。今ではすっかり常連で、行くたびに何かしらおまけがつく。

 まず精肉店。ガラスケースの向こうで、ふくよかな体型に白いエプロンの松田のおばちゃんが、蓮の姿を見つけて手を振った。

「あら蓮くん! 今日は何にするの?」

「鶏もも肉、三百グラムください。あと豚バラ二百」

「はいはい。ちょっと待ってね」

 松田のおばちゃんは手際よく肉を切り分けてパックに詰めた。ショーケースの上には手書きの値札が並んでいて、どれも少し字が丸い。

「蓮くん、今週も弁当作ってるの? 偉いわねえ」

「まあ、習慣みたいなもんですから」

「お父さん、幸せだわー。うちの息子なんて卵も焼けないのに」

 松田のおばちゃんはカウンターの下からコロッケの入った紙袋を取り出した。

「はい、揚げたて。おまけよ」

「ありがとうございます。いつもすみません」

「いいのいいの。蓮くんが美味しそうに食べてくれるのが嬉しいんだから」

 紙袋を受け取って、温もりを手のひらに感じる。揚げたてのコロッケは、紙越しでも熱い。蓮は「ごちそうさまです」と頭を下げて、次の店に向かった。

 八百屋の佐藤さんの店先には、旬の野菜が並んでいた。新じゃがいも、新玉ねぎ、春キャベツ、スナップエンドウ。蓮はじゃがいもと玉ねぎを手に取って、重さと硬さを確かめた。

「蓮くん、目利きが板についてきたねえ」

 佐藤さんが声をかけてきた。五十代半ばの痩せた男性で、日焼けした顔に人の良い笑みを浮かべている。

「母さんに教わったんで」

「そうかそうか。彩さんも喜んでるよ」

 佐藤さんは蓮が選んだ野菜を袋に入れながら、カウンターの横から人参を三本取り出した。

「人参もいるだろ? おまけしとくよ」

「いつもありがとうございます」

 豆腐屋の田中さんは恰幅のいいおじさんで、白い前掛けをしている。蓮が店の前に立つと「おっ、蓮くん。今日の絹ごし、特にいい出来だよ」と太鼓判を押した。蓮は絹ごし豆腐を二丁買い、さらに食料品店で卵と調味料を買い足した。

 エコバッグがずっしり重くなる。蓮は肩にかけ直しながら商店街を歩いた。土曜の午後の商店街は、のんびりした空気に満ちていた。自転車を押して歩くおばあちゃん、手を繋いで歩く若い夫婦、アイスを舐めている小学生。そのどれもが穏やかで、蓮はこの場所が好きだった。

 精肉店の前まで戻ってきた時、聞き覚えのある声が飛んできた。

「あっ、蓮! 奇遇じゃん!」

 振り向くと、天野陽葵が商店街の入口に立っていた。

 私服姿だ。白いTシャツにデニムのショートパンツ、スニーカー。日に焼けた健康的な肌に、栗色のセミロングが風に揺れている。ヘアピンで前髪を留めて、小さなトートバッグを肩にかけている。学校のジャージ姿とは違って、こうして見ると普通に可愛い女の子だ。蓮はそんなことを考えもしなかったが。

「陽葵? お前も買い物?」

「う、うん! たまたま通りかかって!」

 たまたま。蓮は額面通りに受け取った。「偶然だな」と思っただけで、それ以上は何も考えない。

 しかし陽葵の右目が、わずかに泳いでいた。左の目はまっすぐ蓮を見ているのに、右の目だけが一瞬、横にずれる。嘘をつく時の癖だ。陽葵自身は気づいていないし、蓮も当然気づかない。

 実際のところ、陽葵は蓮のSNSのストーリーを見た瞬間にベッドから飛び起き、大慌てで着替えて、自転車を全速力で漕いできたのだ。商店街の入口で五分ほど息を整えてから、何食わぬ顔で蓮の前に現れた。心臓はまだバクバクしている。走ったせいか、蓮を見たせいか。たぶん両方。

「お兄!」

 商店街の向こうから、もう一人走ってきた。黒髪のボブカット、可愛いヘアピン——陽葵に選んでもらったやつだ——をつけた女の子。蓮の妹、藤咲ひなた。

「ひなた、お前も来たのか」

「お母さんに——じゃなくて、お兄の買い物手伝おうと思って」

 ひなたの言い方がぎこちない。「お母さんに頼まれた」と言いかけて引っ込めたのは、亡くなった母の話を商店街で口にするのがはばかられたのかもしれない。蓮はそれに気づいて、何も言わずに「そっか」と返した。

 ひなたの暗褐色の目が、陽葵を捉えた。

「ひまり姉もいるじゃん」

「うん、偶然会ったんだよ」

「ふーん。偶然ねえ」

 ひなたは十四歳にしては鋭い目で陽葵を見上げた。偶然じゃないことくらいわかっている。でも口には出さない。代わりに、にっこり笑って爆弾を投下した。

「もしかしてお兄とデート?」

 直球ど真ん中。

 陽葵の顔が一瞬で赤くなった。耳まで。首の後ろまで。

「デッ——ちが、違うから! たまたま! たまたま通りかかっただけ!」

「たまたま二回言ったね」

「ひなた!」

 陽葵がひなたの頭をわしわしと撫でる。ひなたは「やめてよ、髪崩れるー」と言いながら、全く嫌がっていない顔をしていた。

 蓮はその一連のやり取りを横で見ながら「買い物だろ」とどこ吹く風だった。デートという単語にも、陽葵の赤い顔にも、何の反応もない。

 三人で商店街を歩き始めた。蓮が真ん中で、陽葵が右、ひなたが左。

 しばらく歩くと、陽葵のトートバッグが肩から何度もずり落ちているのが目に入った。

「貸せよ」

 蓮が自然に手を伸ばして、陽葵のトートバッグを受け取った。

「いいよ、自分で持てるし!」

「いいから。重くなるだろ。ひなたも」

 ひなたのエコバッグも受け取る。蓮は当然のように三人分の荷物を両手に下げて歩き出した。左手にエコバッグ二つ、右手にトートバッグと自分の買い物袋。ブレスレットが荷物の持ち手に少し引っかかったが、気にする様子もない。

 陽葵はその背中を見つめて、唇をきゅっと噛んだ。

 ——こういうところが、ずるいんだって。

 誰にでも自然に優しい。困っている人を放っておけない。それは蓮のいいところで、陽葵が蓮を好きな理由のひとつだ。でも同時に、自分だけが特別なわけじゃないことの証明でもある。蓮は陽葵の荷物を持つ。でも蓮は、誰の荷物でも持つ。

 精肉店の前を通りかかった時、松田のおばちゃんが店の中から身を乗り出した。

「あら! 蓮くん、お連れさん?」

「妹と幼馴染です」

「この可愛い子が幼馴染? 彼女さんじゃないの?」

 松田のおばちゃんは陽葵を見て、目を丸くした。

「違います」

 蓮の即答。ためらいなし。振り返りもしない。

 陽葵の心に、小さなヒビが入る音がした。パキッ、と。聞こえるはずのない音。でも確かに感じた。

「あらあら、もったいない。こんなに可愛いのに」

 松田のおばちゃんは陽葵ににっこり笑いかけた。陽葵は笑顔を作った。「あはは、おばちゃんやめてよー」と。でも目の奥が揺れていた。嬉しいのだ。「彼女」と間違われるのが。同時に、蓮に即否定されるのが辛い。その二つの感情がぶつかって、どうしていいかわからなくなる。

「ね、ひまり姉。コロッケ食べる?」

 ひなたが紙袋の中のコロッケを陽葵に差し出した。さっき蓮がもらった揚げたてだ。松田のおばちゃんの優しさと、ひなたの気遣い。陽葵は「ありがとう」と受け取って、一口かじった。衣がサクサクで、中のじゃがいもがホクホクで、少し塩が効いている。美味しい。

「蓮も食べる?」

「ん。もらう」

 陽葵が差し出したコロッケを、蓮が直接かじった。陽葵の手から。ひなたが「お兄、それ間接——」と言いかけて、やめた。蓮は全く気にしていないからだ。幼馴染の手からコロッケをかじることに、何の意味も見出していない。

 陽葵の手は少し震えていた。蓮は気づかない。

 商店街の奥に向かって歩く。豆腐屋の田中さんの前を通った時にも「おー、蓮くん。彼女さんと買い物か?」と声をかけられた。

「幼馴染です」

 二度目の「幼馴染」。蓮の声のトーンは一度目と全く同じだった。何の感情もこもっていない、事実を述べているだけの声。

 陽葵は笑顔を維持したまま、心の中で呟いた。

 ——幼馴染。うん、そうだよ。あたしは蓮の幼馴染。それ以上でも以下でもない。蓮にとっては。

 ひなたは兄と陽葵のやり取りを横目で見ながら、心の中でため息をついていた。

 ——お兄って、ほんと鈍い。

 ひなたは知っている。陽葵が兄を好きなことを。正確には「好きらしい」と察しているだけだが、十四歳の直感は侮れない。陽葵が兄を見る目は、友達を見る目じゃない。あれは、恋する人の目だ。ひなたの年齢でも、それくらいはわかる。

 そして兄は、相変わらず何も気づいていない。鈍いにもほどがある。


 商店街を一通り回って、帰り道。三人で並んで歩く。蓮が真ん中で、両手に荷物。陽葵が右、ひなたが左。四月の午後の日差しは柔らかくて、アスファルトの上に三人の影が長く伸びていた。

 ひなたが何か考えている顔をしていた。吊り目がちな暗褐色の目を少し細めて、前を向いたまま口を開いた。

「ひまり姉、今度うちでごはん食べなよ」

 唐突だった。

「え?」

 陽葵が足を止めた。ひなたも立ち止まり、蓮も立ち止まった。

「お兄の料理、家で食べた方が美味しいし。学校の調理室で食べるのと、ちゃんとした食卓で食べるのじゃ全然違うんだよ。ねー、お兄」

「別にいいけど」

 蓮はあっさりと言った。「陽葵、都合いい日あるか?」

「あ、う、うん! いつでも!」

 陽葵の返事が早すぎた。「いつでも」を言い切るまでに一秒もかかっていない。食い気味だ。

 ひなたが小さく吹き出した。口を手で覆って、笑いをこらえている。陽葵は「な、何笑ってんの!」と慌てたが、ひなたは「べっつにー」ととぼけた。

 蓮だけが「よし、じゃあ何作るか考えとくわ」と真面目な顔でメニューの検討を始めている。頭の中にはもう食材の組み合わせが浮かんでいるのだろう。生姜焼きか、唐揚げか、それとも魚にするか。蓮にとっては「友達を家に呼んでごはんを作る」という、ただそれだけのイベントだ。

 陽葵にとってはそうじゃない。蓮の家で、蓮の家族と一緒に、食卓を囲む。それは友達としての延長なのか、もっと特別な何かなのか。答えは出ないけれど、胸はどきどきしている。

 藤咲家の前に着いた。蓮が玄関の鍵を開けている間に、ひなたが陽葵の袖をちょいちょいと引っ張った。

 陽葵がかがむと、ひなたが耳元に顔を寄せた。

「ひまり姉、がんばって」

 小声だった。蓮には聞こえない距離。ひなたの暗褐色の目は真剣で、十四歳にしては少し大人びていた。

 陽葵は何も言えなかった。ただ頷いた。小さく、一度だけ。

 ひなたはそれを見届けると、何事もなかったように「お兄ー、荷物早く入れてよー」と蓮の背中に向かって叫んだ。

 蓮は「はいはい」と荷物を玄関に運んでいく。陽葵はその後ろ姿を見つめて、胸の中の言葉を飲み込んだ。

「じゃあ、また学校でね」

「おう。メニュー決まったらLINEする」

「うん。楽しみにしてる」

 陽葵は手を振って、隣の天野家に向かって歩き出した。十数歩。藤咲家と天野家の距離は、それだけだ。幼い頃からずっと隣同士。生まれた時からの幼馴染。世界で一番近い距離にいるのに、世界で一番遠い距離に感じる。

 自分の家の玄関を開ける前に、一度だけ振り返った。藤咲家の玄関は、もう閉まっていた。

 陽葵は深呼吸して、ドアを開けた。靴を脱いで、リビングに入ると、母の春香がソファでテレビを見ていた。

「おかえり。どこ行ってたの?」

「……商店街。蓮と、ひなたと」

「あら、三人で買い物? 楽しかった?」

「うん。……今度、蓮んちでごはん食べることになった」

 春香が一瞬、テレビから目を離した。娘の顔を見る。陽葵は視線を合わせずに、台所に向かって歩いていた。耳が赤い。

「そう。いいじゃない」

 春香はそれだけ言って、テレビに目を戻した。口元が微笑んでいる。何もかもお見通しという顔だ。

 陽葵は自室に駆け込んで、ベッドに倒れ込んだ。枕を抱きしめて、天井を見上げる。

 蓮の家でごはんを食べる。蓮が作った料理を、蓮の家族と一緒に。ひなたが「がんばって」と言ってくれた。何を頑張ればいいのかはわからない。でも、ひなたの目は真剣だった。応援してくれている。それだけで、少しだけ勇気が出る。

「——がんばる」

 小さく呟いて、陽葵はスマホを握りしめた。蓮からのLINEを待ちながら、何を着ていこうか考え始めた。制服じゃないんだ。私服を選ばなきゃ。蓮に可愛いと思ってもらえる服を。蓮は絶対に何も言わないだろうけど。でも、もしかしたら。

 その「もしかしたら」を胸に抱いて、陽葵はクローゼットを開けた。

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