第三章 南蛮漬けと沈黙
翌日の放課後。六限目の終わりを告げるチャイムが鳴ると、蓮は素早く教科書を鞄に詰めた。
「蓮、今日も調理室?」
隣の席で頬杖をついていた陽葵が聞いた。栗色のセミロングをヘアピンで留めた横顔が、午後の日差しに照らされている。
「ああ。南蛮漬け作ろうと思って」
「南蛮漬け! あたし好きなやつ」
「知ってる」
蓮は立ち上がりながら答えた。陽葵の好物を把握しているのは、何年も隣にいれば当然のことだ。蓮にとっては。
「じゃ、あたしバレー部行ってくるね。終わったら覗きに行くから」
「おう」
陽葵が教室を出ていく。ポニーテールにまとめた髪が揺れる後ろ姿を、蓮は特に意識することもなく見送った。後方の席で遼太が「まーた始まった」と小声で呟いたが、誰も拾わなかった。
調理室は三階の奥にある。廊下を歩いていくと、窓の外からグラウンドの部活の声が聞こえてきた。サッカー部のホイッスル、野球部の掛け声、そして体育館から響くバレーボールがフロアを叩く鋭い音。
蓮は調理室の鍵を開け、中に入った。エプロンを着けて手を洗い、冷蔵庫から食材を取り出す。鶏もも肉、玉ねぎ、人参、酢、醤油、砂糖。それから、調理台の隅に置いてある母のレシピノートを開いた。
ノートは何度も開かれてきた証拠に、背表紙の糸が少しほつれている。油のシミが点々とついたページをめくると、「鶏の南蛮漬け」のレシピがあった。丸くて柔らかい、少し崩れたひらがなで書かれた文字。母の字だ。
「鶏肉は揚げたてをすぐ漬ける。冷めてからだと味が染みない」
「南蛮酢は少し甘めにすると、子どもも食べやすいよ」
余白に書き込まれたメモを、蓮は指でなぞった。
——変わらないでほしい。
漠然とした思いが胸をよぎった。何が変わらないでほしいのか、自分でもよくわからない。ただ、この調理室で母のレシピノートを開いて、いつもの放課後を過ごしている時間。窓から差し込む西日の角度。コンロの火をつける時の小さなカチッという音。そういうものが全部、ずっとこのままであってほしい。
すぐに振り払った。考えても仕方ないことだ。
まず鶏もも肉を一口大に切る。母のノートには「少し大きめに。揚げた時に縮むから」とある。余分な脂を取り除いて、塩と胡椒を軽く振る。片栗粉をバットに広げ、鶏肉をまぶしていく。一切れずつ、丁寧に。粉が均等につくように、手のひらで軽く押さえる。
別の鍋で南蛮酢を作る。酢、醤油、砂糖を合わせて火にかける。母のレシピの分量通りだが、今日は砂糖を気持ち多めにした。陽葵が「甘めの方が好き」と前に言っていたのを思い出したからだ。本人には言わないけれど。
千切りにした玉ねぎと人参を南蛮酢に加え、弱火で煮る。玉ねぎが透き通って、人参がしんなりするまで。酢の酸味と砂糖の甘みが混ざり合った匂いが、調理室に広がり始めた。
鍋に油を注ぎ、温度を確認する。菜箸の先を油に入れて、細かい泡が立つのを見る。百七十度くらいか。片栗粉をまぶした鶏肉を、一切れずつ油に落としていく。じゅわっと音がして、白い粉の衣が淡い金色に変わっていく。
蓮は菜箸で鶏肉を転がしながら、揚げ具合を見守った。表面がカリッときつね色になったら引き上げて、すぐに南蛮酢に漬ける。母のノートの通り、揚げたてを即座に。じゅわっ、と酢の中で鶏肉が音を立てた。甘酸っぱい匂いが一気に広がる。
二回目、三回目と揚げていく。調理室の窓が少し曇った。油の熱気と南蛮酢の湯気で、空気がほんのり白く霞んでいる。蓮は集中していた。揚げる温度、時間、漬け込むタイミング。すべてが噛み合った時に、母の味に近づける。
最後の一切れを南蛮酢に沈めて、蓮は息をついた。ガスコンロの火を消す。油の鍋を脇に寄せ、南蛮漬けの鍋に蓋をして味を馴染ませる。
窓の外では夕日が傾き始めていた。グラウンドの喧騒は少し静かになり、体育館からのバレーボールの音だけが、まだ響いている。
体育館の出口で、陽葵は遼太とすれ違った。
サッカー部のグラウンドは体育館の向かいだ。遼太はジャージ姿で、スポーツドリンクのペットボトルを片手にぶら下げている。日焼けした肌に汗が光っていて、茶色がかった短髪がタオルで適当に拭かれたまま立っていた。
「おう、天野。今日も調理室行くんだろ」
からかいの調子ではなかった。事実確認みたいな声だ。
「……うるさい」
陽葵はバレー部のジャージのまま、タオルで首筋の汗を拭いた。ポニーテールをほどいた栗色の髪が、汗で肩に張りついている。
「行かないかも。今日は」
「嘘つけ。足そっち向いてるぞ」
遼太が顎で校舎の方を指した。陽葵の体は確かに、体育館の出口から校舎——三階の調理室がある方——に向かっている。自分でも気づいていなかった。
陽葵は立ち止まった。遼太も立ち止まった。夕暮れのグラウンドに、サッカー部の掛け声と、遠くから響くバレーボールの残響が混じっている。
「……遼太」
「ん?」
陽葵は校舎を見上げた。三階の調理室の窓から、灯りが漏れている。蓮がいる。南蛮漬けを作っている蓮が。
「あたしさ、蓮に言いたいことがあるんだけど」
遼太の表情が変わった。ニヤニヤ笑いではない。口を引き結んで、まっすぐに陽葵を見る。中学からの付き合いだ。陽葵がこの声を出す時、冗談じゃないことくらいわかる。
「言えばいいじゃん」
「言えないから困ってんの」
陽葵の声が、少しだけ震えた。
「もし言って、今の関係が壊れたらどうすんの。毎朝迎えに行って、隣の席で授業受けて、弁当食べて、帰り道一緒に歩いて——全部なくなったら、あたし」
言葉が詰まった。喉の奥が熱い。
「あたしには蓮しかいないの。生まれた時からずっと隣にいて、おばさんが亡くなった時もずっと一緒で——あの時あたし、蓮の手を握って約束したの。ずっとそばにいるって。でもそれは友達としての約束で、あたしが勝手に意味を変えちゃっただけで——」
「おい、落ち着け」
遼太が陽葵の肩をぽんと叩いた。力加減は優しい。からかう時とは全然違う手つきだ。
「なくならねえよ」
遼太が言った。断言だった。
「相手は蓮だぞ。あいつが陽葵との関係を切るわけないだろ。たとえ気まずくなったとしても、あいつは逃げねえよ。蓮ってそういうやつだろ」
「でも——」
「でもじゃねえよ。言わないと一生気づかないぞ、あのバカは」
陽葵は唇を噛んだ。遼太の言葉が正しいことは、わかっている。蓮は鈍い。鈍すぎる。弁当を奪っても、耳が赤くなっても、肩をバシバシ叩いても、全部「いつもの陽葵」で処理される。
「わかってる。わかってるけど——怖いの。蓮に拒まれるのが怖いんじゃない。蓮の顔が変わるのが怖い。あたしを見る目が、今までと違うものになるのが」
遼太は黙った。しばらく何も言わずに、陽葵の言葉を噛みしめていた。
「……まあ、無理にとは言わねえけどさ」
遼太がもう一度、陽葵の頭をぽんと叩いた。今度は少し乱暴に。髪が乱れたが、陽葵は文句を言わなかった。
「タイミング逃すなよ。蓮のまわりに女子が増えないとも限らねえんだから」
その言葉に、陽葵の胸がちくりと痛んだ。蓮は料理部で、部員は蓮と幽霊部員の先輩だけ。女子はいない。でも来月には文化祭がある。何があるかわからない。
「……うん」
「よし。じゃ、南蛮漬け食いに行こうぜ。腹減った」
遼太が先に歩き出した。陽葵は目の端を手の甲でごしごしと擦って、その背中を追いかけた。
調理室のドアを開けると、甘酸っぱい匂いが一気に押し寄せてきた。
「蓮ー、南蛮漬けできた?」
「おう。ちょうどいい頃だ」
蓮が鍋の蓋を開けた。揚げたての鶏肉に、南蛮酢がしっかり染みている。千切りの玉ねぎと人参が絡まって、照りのある飴色に輝いていた。
蓮が三人分の小皿に盛りつける間、陽葵はコンロの横に立っていた。蓮の横顔が近い。菜箸を動かす手つき。左手首のブレスレットが鍋の縁にかすかに当たって、小さな音を立てた。
一口食べた。甘い。昨日の肉じゃがより、少し甘めの味付けだ。
「蓮、今日の南蛮漬け、ちょっと甘くない?」
「砂糖、気持ち多めにした。甘い方が好きって言ってただろ」
さらっと言う。何でもないように。
陽葵の箸が止まった。蓮は自分の好みを覚えて、味付けを変えてくれた。そんなの、ずるい。でも蓮にとっては「友達の好みに合わせた」だけで、それ以上の意味はない。
遼太は黙って南蛮漬けを食べながら、二人を見ていた。口の端がわずかに上がったが、今日はからかわなかった。
蓮が窓の外を見た。夕焼けが校舎の屋根を橙色に染めている。
「来月の文化祭、料理部何やるか決めないとな」
「蓮の料理が食べられるなら何でもいい」
「参考にならないな」
陽葵は笑った。遼太がため息をついた。蓮は前髪をかき上げた。
南蛮漬けの甘酸っぱい匂いが、調理室いっぱいに満ちている。この匂いを嗅ぐたびに、きっとこの放課後を思い出す。遼太の「タイミング逃すなよ」も、蓮の「甘い方が好きって言ってただろ」も、全部。
——明日こそ。
陽葵は最後の一切れを口に入れて、南蛮漬けの甘酸っぱさを噛みしめた。




