表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第三部 ゼロ距離

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

22/22

結末 笑顔の種

 六月上旬の週末、土曜日の午後。

 藤咲家の台所に、二つの背中が並んでいた。

 蓮がまな板の上でキャベツを千切りにしている。黒髪マッシュの毛先が、包丁を動かすたびに微かに揺れる。リズミカルな包丁の音が台所に響いて、トン、トン、トンと一定の間隔を刻んでいた。

 その隣で、陽葵がフライパンの前に立っていた。

 エプロンを借りている。蓮のエプロンで、少し大きい。肩紐がずれそうになるのを何度も直しながら、陽葵はボウルの中の卵液を菜箸で混ぜていた。

「いい? 火加減は中火のまま。卵液を入れたら、菜箸でゆっくり巻く」

「わかってるって。あたし、卵焼きだけは得意なんだから」

 陽葵が胸を張った。八重歯を覗かせて笑う。

 蓮は包丁の手を止めて、陽葵の手元を見た。ボウルの中の卵液は、砂糖と醤油と出汁で味付けされている。分量は計っていなかった。計量スプーンも計量カップも出していない。陽葵の手が覚えている配合。彩おばさんに——蓮の母に、幼い頃に教わったまま。

 あの頃のことを、蓮はぼんやりと覚えている。台所に三人で立っていた。母が真ん中にいて、右に蓮、左に陽葵。母の手が大きく見えた。卵を割る手つきが魔法みたいだった。「ひまりちゃん、もうちょっとゆっくりね」と優しい声で教えていた。陽葵は真剣な顔で卵を割ろうとして、殻を中に入れてしまって、母が笑った。蓮も笑った。三人で笑った。

 あの台所の光景が、今、目の前に重なる。

 母はいない。でも——陽葵がいる。母が教えた味を、手が覚えている。

 陽葵がフライパンに卵液を流し入れた。じゅう、と音がして、薄い卵の層が広がっていく。黄金色の卵が、中火の熱でゆっくりと固まり始める。台所に甘い出汁の匂いが広がった。

「巻くよ」

 陽葵が呟いた。菜箸を卵の端に差し込んで、くるくると巻いていく。

 その手つきを、蓮は横目で見ていた。料理に関しては壊滅的な陽葵が、卵焼きだけは別格だった。ゆっくりだけど丁寧な動き。蓮の包丁さばきとは対照的な、慎重な手つき。でもその慎重さの中に、確かな記憶がある。何度も何度も繰り返して、手に染み込んだ動き。

 一層巻いた。二層目の卵液を流す。また巻く。三層目。

 フライパンを傾けて、皿に滑らせた。

 きれいなきつね色の、ふわふわの卵焼き。形は少しだけ不揃い。蓮が作るような完璧な四角形ではなくて、少し丸みを帯びている。でもそれが——どこか懐かしかった。

「できた!」

 陽葵が声を上げた。琥珀色の目がきらきらしている。

「お、いい焼き色」

 蓮が箸を取った。卵焼きを一切れ、切り分ける。断面がふわりと崩れる。出汁が染み出して、箸を伝う。

 口に運んだ。

 噛んだ瞬間——手が止まった。

 ほんのりした甘さ。出汁の旨味。ふわふわの食感。

 知っている。

 この味を、知っている。

 毎朝自分が作る卵焼きとは違う。蓮のは出汁をしっかり効かせた、ややしょっぱめの卵焼き。でもこれは——甘い。砂糖が少しだけ多い。出汁は控えめで、代わりに醤油がほんの気持ち濃い。

 母の卵焼きだ。

 八歳の自分が必死に再現しようとして、少しずつ自分流に変わっていった味。でも陽葵の手は、あの頃のまま止まっている。母に教わった配合を、そのまま守り続けている。

「……母さんの味だ」

 声が震えた。自分でも驚くほど。

 喉の奥が熱くなった。卵焼きの味が口の中に広がっている。甘くて、温かくて、懐かしくて——もう二度と食べられないと思っていた味。

 陽葵がはっとして蓮を見た。蓮は箸を持ったまま、少しだけ俯いていた。黒髪の前髪が目にかかっている。暗褐色の目が、赤くなっている。

「蓮——」

「ごめん。なんか——」

 蓮は首の後ろを撫でた。いつもの癖。でも手が震えている。

「——うまいな、これ」

 笑おうとした。でも目尻が濡れていた。蓮はそれを拭おうともしなかった。拭ったら、もっと溢れそうだったから。

 陽葵は何も言わなかった。蓮の隣に立って、黙っていた。泣いている蓮を見たのは——あの日以来だった。九年前の庭で泣いていた蓮以来。あの時は何も言えなくて、ただ手を握った。今も——何を言えばいいか分からなかった。でも、隣にいることはできる。

「ひなたー、卵焼き焼けたよー」

 少しの沈黙の後、陽葵がリビングに向かって声をかけた。明るい声を出そうとしたが、少しだけ掠れていた。

 ひなたが走ってきた。黒髪のボブカットが揺れる。スリッパの音が廊下を叩く。

「ひまり姉の卵焼き?」

 ひなたが台所に飛び込んできた。皿の上の卵焼きを見て、箸を取る。一切れつまんで、口に入れた。

 噛んだ瞬間、ひなたの手が止まった。

 暗褐色の吊り目がちな目が、大きく見開かれた。

 ひなたは五歳で母を亡くしている。母の記憶はおぼろげだ。顔は写真で知っている。声はもう思い出せない。でも——味は、覚えている。兄が毎朝作ってくれる卵焼きとは少しだけ違う、もっと甘くて、もっと優しかった味。

「……お母さんの味」

 小さく呟いた。声が震えた。暗褐色の目が、かすかに潤んでいる。

 でも涙は見せなかった。ぐっと唇を噛んで、飲み込んだ。十四歳の意地。

「まあ、普通。ひまり姉にしてはね」

 そう言って、もう一切れつまんだ。三切れ目にも手を伸ばした。

 蓮と陽葵は目を合わせた。蓮の目はまだ少し赤い。陽葵も鼻の頭が赤い。でも二人とも、小さく笑った。

 ひなたはリビングに戻りながら、背中を向けたまま小さく呟いた。

「ひまり姉。また作ってね」

 陽葵は「うん」と答えた。声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。


 六月中旬、日曜日。

 母・藤咲彩の命日。

 蓮は朝から仏壇の掃除をした。

 白い布で仏壇の表面を拭く。位牌を丁寧に磨く。花瓶の水を取り替えて、新しい花を活けた。白と黄色のガーベラ。母の好きだった花。ひなたと一緒に昨日の夕方、商店街の花屋で買ってきた。

 線香を焚いた。細い煙が立ち上って、リビングの空気に溶けていく。白檀の香り。この匂いを嗅ぐと、蓮はいつも母のことを思い出す。母が線香を焚いていた記憶はない。でも、母が亡くなってから毎年この日に嗅ぐこの匂いが、いつしか母の匂いになった。

 左手首のブレスレットを見つめた。革紐の表面は、何年も身につけてきたから少しすり減っている。色が変わった。新品の頃は明るい茶色だったはずだけど、今はくすんだ飴色に変わっている。でも切れたことは一度もない。母がつけてくれた日から、一日も外していない。

 仏壇の前に正座した。手を合わせた。

 写真の中の母が笑っている。エプロン姿で両手に卵を持った、あの笑顔。父が不意打ちで撮った一枚。母はカメラに気づいて、驚いた顔をした直後に笑ったのだと父が言っていた。だから少しだけ照れたような、はにかんだ笑顔になっている。

「母さん」

 静かに語りかけた。

「今年も来たよ」

 毎年、同じ言葉で始める。九年間、一度も欠かさなかった。

 写真の中の母は何も答えない。ただ笑っている。卵を持って、エプロンをして、ずっと笑っている。

 蓮は目を閉じた。

「報告がある」

 背後で足音がした。

 誠一郎がリビングに入ってきた。ネクタイを外したラフな格好。休日の父はいつもそうだ。不器用に髪を撫でつけて、蓮の隣に正座した。

 父と息子が、並んで仏壇の前に座っている。

 誠一郎は手を合わせた。目を閉じて、しばらく黙っていた。長い沈黙だった。蓮はその横顔を見た。父の白髪が増えた。去年より、また少し。こめかみの辺りに目立つ。母が亡くなった時は、まだ黒い髪ばかりだったのに。

 誠一郎が目を開けた。蓮を見た。

「聞いたぞ。ひまりちゃんと付き合ってるんだってな」

 蓮は目を丸くした。

「ひなたから聞いたのか?」

「大輝さんから」

 大輝——陽葵の父だ。天野家の父親から直接聞かされたらしい。蓮は頭を抱えそうになった。

「大輝さんに『蓮くんなら安心だ』って言われたぞ。春香さんにも改めて挨拶しろよ」

「……はい」

 誠一郎はふっと笑った。不器用な笑顔。蓮に似ている——いや、蓮が父に似ているのだ。

「母さんに、ちゃんと報告しろよ」

 それだけ言い残して、席を立った。

 蓮は父の背中を見送った。大きくて、少し猫背で、不器用で——でも温かい背中。「いつもありがとうな」と言おうとして言えない父。でも今の一言に、全部が詰まっている。

 蓮は仏壇に向き直った。

「母さん」

 もう一度、語りかけた。

「俺、好きな人ができた。——いや、違うな。ずっと好きだったんだと思う。気づくのが遅すぎただけで」

 写真の中の母が笑っている。蓮も笑った。照れくさくて、首の後ろを撫でた。

「陽葵。天野の陽葵。……知ってるよな、母さんも。小さい頃からずっと隣にいた子。母さんが卵焼き教えてくれた子」

 線香の煙が揺れた。風もないのに、ゆらりと。

「陽葵が焼いた卵焼き、食べたんだ。母さんの味だった。俺が作るのとは違って——母さんが教えてくれた、あの配合のままだった」

 声が少しだけ震えた。でも今日は泣かなかった。泣く代わりに、笑った。

「母さんの味を受け継いでくれてたんだ、あいつ。ずっと」


 午後二時。玄関の呼び鈴が鳴った。

 蓮がドアを開けた。

 陽葵が立っていた。

 白いワンピースを着ている。いつもの制服やジャージ姿とは違う。膝下まである清楚なワンピースに、小さなカーディガンを羽織っていた。栗色のセミロングを丁寧にブラシで整えて、ヘアピンの代わりに白いバレッタで留めている。

 腕に、白と黄色のガーベラの花束を抱えていた。

「……これ、お供え」

 陽葵は少しだけ緊張した顔をしていた。琥珀色の目が、蓮をまっすぐ見ている。右目は泳いでいない。嘘がないということだ。

「ありがとう。上がれよ」

 蓮は陽葵を迎え入れた。

 陽葵の命日の訪問は、毎年のことだった。中学の時からずっと、この日だけは必ず来る。花を持って、仏壇に手を合わせて、静かに過ごす。いつもの陽葵とは別人のように、静かに。

 でも今年は——意味が違った。

 恋人として、初めての命日。

 二人でリビングに入った。ひなたはソファに座っていたが、陽葵を見ると「ひまり姉、おつかれ」と小さく手を上げて、自室に引っ込んだ。気を遣ったのだ。十四歳の、さりげない気遣い。

 仏壇の前に、二人で並んで正座した。

 陽葵が花束を解いて、ガーベラを花瓶に加えた。蓮が活けた分と合わせて、白と黄色の花がいっぱいになった。仏壇が明るくなった。母が好きだった色で溢れている。

 線香を一本ずつ手に取った。火を灯す。小さな炎が揺れて、線香の先端が赤く光った。香炉に立てる。白い煙が二筋、並んで立ち昇った。

 手を合わせた。目を閉じた。

 陽葵は心の中で語りかけた。

 ——彩おばさん。

 九年前の記憶が蘇る。蓮の母・彩は、陽葵にとっても特別な人だった。隣の家のおばさん、ではなかった。料理を教えてくれた人。笑顔が温かかった人。「ひまりちゃん」と呼んでくれた声を、今でも覚えている。

 ——あたし、蓮の隣にいます。ずっと。

 あの日——蓮が庭で泣いていた日に約束したことを、やっと本当の形で果たせた。

 ——卵焼き、ちゃんと受け継ぎました。蓮にも、ひなたちゃんにも、お母さんの味だって言ってもらえました。

 先週焼いた卵焼き。蓮が「母さんの味だ」と声を震わせた。ひなたが「お母さんの味」と小さく呟いた。あの瞬間——陽葵は、自分がここにいる意味を、はっきりと感じた。

 ——だから、安心してください。蓮は一人じゃないです。ひなたちゃんも。あたしがいますから。

 隣で蓮も目を閉じていた。

 母の言葉が、胸の奥から浮かび上がってくる。

 ずっと昔——まだ母が元気だった頃。台所で卵焼きを焼きながら、母が言った言葉。

 ——誰かの笑顔は、自分の笑顔の種になるんだよ。

 美味しいものを作って、食べた人が笑顔になる。その笑顔を見た作り手も笑顔になる。笑顔は種のように蒔かれて、芽を出して、また新しい笑顔を咲かせる。

 あの頃はよく分からなかった。ただ母の言葉を覚えていた。母が亡くなってからは、その言葉を胸に刻んで、毎朝弁当を作った。ひなたのために。父のために。陽葵のために。誰かが「美味しい」と笑ってくれたら、それが自分の喜びだった。

 でも今なら——もっと深く分かる。

 蓮は目を開けた。隣の陽葵を見た。

 手を合わせて目を閉じている横顔。白いワンピースの肩が、呼吸のたびに微かに上下する。長い睫毛が頬に影を落としている。栗色の髪がさらりと肩にかかって、線香の煙の中で揺れている。

 俺の笑顔の種は、ずっと隣にいたんだな。

 朝迎えに来てくれた時の「蓮、遅い!」という声。弁当を「味見」する時の嬉しそうな顔。調理室のドア枠からこっちを見ていた琥珀色の目。商店街で「偶然」会った時の泳いだ右目。帰り道で「また明日ね」と言う声。手が触れた時の照れた横顔。泣きながら「ずるい」と言った声。「ずっと好きだった」と告白してくれた声。

 全部、蓮の笑顔の種だった。

 気づくのが遅すぎた。九年も隣にいてくれたのに。十七年間、ずっとそばにいてくれたのに。

 でも——気づけた。遅すぎたけれど、気づけた。

 母の言葉の意味が、今、本当にわかった。「誰かの笑顔」は、漠然とした誰かのことじゃなかった。隣にいる人のことだった。毎日顔を合わせて、笑い合って、時には泣いて、怒って、すれ違って——それでも隣にいてくれる人のことだった。

 蓮は写真の中の母に微笑んだ。

「ちゃんと蒔いてるよ。笑顔の種」

 小さな声で呟いた。陽葵には聞こえなかったかもしれない。でも、写真の中の母には届いた気がした。

 陽葵が目を開けた。蓮を見た。

「蓮、何か言った?」

「……いや、何でもない」

 蓮は首の後ろを撫でた。耳が赤い。

 陽葵は「嘘。何か言ってた」と笑った。でもそれ以上は追求しなかった。仏壇の前で、二人の肩がそっと触れた。

 線香の煙が、二筋、並んで天井に昇っていく。写真の中の彩が、卵を持って笑っている。


 翌朝、月曜日。

 いつもの朝が始まった。

 蓮が台所で弁当を作っている。卵焼きを焼きながら、仏壇の母の写真に目をやった。昨日活けたガーベラが、朝日を受けて白と黄色に光っている。

「お兄、卵焼き焦げてる」

「焦げてねえよ」

 ひなたが制服姿でお茶を飲んでいる。暗褐色の吊り目がちな目が、兄の背中を見ている。

「……まあ、普通」

 卵焼きを一切れつまんで食べたひなたが、いつもの評価を下す。でも今日は、その「普通」の声が少しだけ柔らかかった。

 弁当箱に蓋をして、鞄に詰める。蓮はエプロンを外して、制服のシャツの袖を下ろした。左手首のブレスレットが光る。飴色の革紐。母の形見。

「蓮、遅い!」

 玄関の外から、よく通る声。

 蓮は鞄を掴んで、駆け出した。

 外に出ると、陽葵が自転車にまたがって待っていた。栗色の髪をヘアピンで留めて、リボンを少し緩めて。日に焼けた頬に朝日が当たっている。八重歯を覗かせて笑っている。制服のスカートの裾が朝風に揺れた。

「遅くねえだろ」

「あたしが来た時が出発時間!」

 いつもの応酬。いつもの朝。何も変わらない。

 二人で自転車を漕ぎ出した。

 通学路の桜並木は、六月の紫陽花に変わっていた。梅雨の晴れ間の朝。昨夜の雨に洗われた葉が、朝日を反射してきらきら光っている。青と紫のグラデーションが咲き誇る紫陽花のトンネルの中を、二台の自転車が走っていく。

 四月には桜のアーチだった。淡いピンクの花びらが風に舞って、アスファルトに薄い筋を残していた。あの頃は——蓮はまだ何も分かっていなかった。陽葵の気持ちも、自分の気持ちも。

 今は紫陽花のトンネル。色が変わった。季節が変わった。でも、隣にいる人は変わらない。

 信号待ちの交差点で止まった。

 赤信号。横断歩道の白線が朝日に照らされている。車が通り過ぎていく。

 陽葵がそっと手を伸ばした。

 自転車のハンドルを握った蓮の左手に、指先が触れた。

 蓮は視線を前に向けたまま——その手を、握り返した。

 左手首のブレスレットの革紐が、二人の手の間で温もりを帯びていた。

 信号が赤のまま、二人の手が繋がっている。

 背後でひなたが自転車で通りかかった。中学の制服姿。二人の繋いだ手を見て、大きなため息をついた。

「はいはい。お幸せに」

 呆れた声で言い残して、先に走り去った。黒髪のボブカットが風に揺れて、ヘアピンが朝日に光った。

 蓮と陽葵は顔を見合わせて、笑った。

 信号が青に変わった。

 手を離して、ペダルを踏んだ。紫陽花のトンネルの中を、二人で走る。

 日常は続く。

 朝の迎え、隣の席、弁当の味見、放課後の調理室。何も変わらない。何も変わらなくていい。

 ただ、少しだけ温かくなって。

 蓮はペダルを踏みながら、隣の陽葵を見た。朝日を受けて、栗色の髪が金色に光っている。琥珀色の目が前を向いている。八重歯を覗かせて、風を切って、笑っている。

 ——誰かの笑顔は、自分の笑顔の種になるんだよ。

 母さん、ありがとう。

 蓮は前を向いた。風が頬を撫でた。紫陽花のトンネルを抜けた先に、学校の屋根が見えた。いつもの景色。いつもの朝。隣に、陽葵がいる。

 それだけで——十分だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ