結末 笑顔の種
六月上旬の週末、土曜日の午後。
藤咲家の台所に、二つの背中が並んでいた。
蓮がまな板の上でキャベツを千切りにしている。黒髪マッシュの毛先が、包丁を動かすたびに微かに揺れる。リズミカルな包丁の音が台所に響いて、トン、トン、トンと一定の間隔を刻んでいた。
その隣で、陽葵がフライパンの前に立っていた。
エプロンを借りている。蓮のエプロンで、少し大きい。肩紐がずれそうになるのを何度も直しながら、陽葵はボウルの中の卵液を菜箸で混ぜていた。
「いい? 火加減は中火のまま。卵液を入れたら、菜箸でゆっくり巻く」
「わかってるって。あたし、卵焼きだけは得意なんだから」
陽葵が胸を張った。八重歯を覗かせて笑う。
蓮は包丁の手を止めて、陽葵の手元を見た。ボウルの中の卵液は、砂糖と醤油と出汁で味付けされている。分量は計っていなかった。計量スプーンも計量カップも出していない。陽葵の手が覚えている配合。彩おばさんに——蓮の母に、幼い頃に教わったまま。
あの頃のことを、蓮はぼんやりと覚えている。台所に三人で立っていた。母が真ん中にいて、右に蓮、左に陽葵。母の手が大きく見えた。卵を割る手つきが魔法みたいだった。「ひまりちゃん、もうちょっとゆっくりね」と優しい声で教えていた。陽葵は真剣な顔で卵を割ろうとして、殻を中に入れてしまって、母が笑った。蓮も笑った。三人で笑った。
あの台所の光景が、今、目の前に重なる。
母はいない。でも——陽葵がいる。母が教えた味を、手が覚えている。
陽葵がフライパンに卵液を流し入れた。じゅう、と音がして、薄い卵の層が広がっていく。黄金色の卵が、中火の熱でゆっくりと固まり始める。台所に甘い出汁の匂いが広がった。
「巻くよ」
陽葵が呟いた。菜箸を卵の端に差し込んで、くるくると巻いていく。
その手つきを、蓮は横目で見ていた。料理に関しては壊滅的な陽葵が、卵焼きだけは別格だった。ゆっくりだけど丁寧な動き。蓮の包丁さばきとは対照的な、慎重な手つき。でもその慎重さの中に、確かな記憶がある。何度も何度も繰り返して、手に染み込んだ動き。
一層巻いた。二層目の卵液を流す。また巻く。三層目。
フライパンを傾けて、皿に滑らせた。
きれいなきつね色の、ふわふわの卵焼き。形は少しだけ不揃い。蓮が作るような完璧な四角形ではなくて、少し丸みを帯びている。でもそれが——どこか懐かしかった。
「できた!」
陽葵が声を上げた。琥珀色の目がきらきらしている。
「お、いい焼き色」
蓮が箸を取った。卵焼きを一切れ、切り分ける。断面がふわりと崩れる。出汁が染み出して、箸を伝う。
口に運んだ。
噛んだ瞬間——手が止まった。
ほんのりした甘さ。出汁の旨味。ふわふわの食感。
知っている。
この味を、知っている。
毎朝自分が作る卵焼きとは違う。蓮のは出汁をしっかり効かせた、ややしょっぱめの卵焼き。でもこれは——甘い。砂糖が少しだけ多い。出汁は控えめで、代わりに醤油がほんの気持ち濃い。
母の卵焼きだ。
八歳の自分が必死に再現しようとして、少しずつ自分流に変わっていった味。でも陽葵の手は、あの頃のまま止まっている。母に教わった配合を、そのまま守り続けている。
「……母さんの味だ」
声が震えた。自分でも驚くほど。
喉の奥が熱くなった。卵焼きの味が口の中に広がっている。甘くて、温かくて、懐かしくて——もう二度と食べられないと思っていた味。
陽葵がはっとして蓮を見た。蓮は箸を持ったまま、少しだけ俯いていた。黒髪の前髪が目にかかっている。暗褐色の目が、赤くなっている。
「蓮——」
「ごめん。なんか——」
蓮は首の後ろを撫でた。いつもの癖。でも手が震えている。
「——うまいな、これ」
笑おうとした。でも目尻が濡れていた。蓮はそれを拭おうともしなかった。拭ったら、もっと溢れそうだったから。
陽葵は何も言わなかった。蓮の隣に立って、黙っていた。泣いている蓮を見たのは——あの日以来だった。九年前の庭で泣いていた蓮以来。あの時は何も言えなくて、ただ手を握った。今も——何を言えばいいか分からなかった。でも、隣にいることはできる。
「ひなたー、卵焼き焼けたよー」
少しの沈黙の後、陽葵がリビングに向かって声をかけた。明るい声を出そうとしたが、少しだけ掠れていた。
ひなたが走ってきた。黒髪のボブカットが揺れる。スリッパの音が廊下を叩く。
「ひまり姉の卵焼き?」
ひなたが台所に飛び込んできた。皿の上の卵焼きを見て、箸を取る。一切れつまんで、口に入れた。
噛んだ瞬間、ひなたの手が止まった。
暗褐色の吊り目がちな目が、大きく見開かれた。
ひなたは五歳で母を亡くしている。母の記憶はおぼろげだ。顔は写真で知っている。声はもう思い出せない。でも——味は、覚えている。兄が毎朝作ってくれる卵焼きとは少しだけ違う、もっと甘くて、もっと優しかった味。
「……お母さんの味」
小さく呟いた。声が震えた。暗褐色の目が、かすかに潤んでいる。
でも涙は見せなかった。ぐっと唇を噛んで、飲み込んだ。十四歳の意地。
「まあ、普通。ひまり姉にしてはね」
そう言って、もう一切れつまんだ。三切れ目にも手を伸ばした。
蓮と陽葵は目を合わせた。蓮の目はまだ少し赤い。陽葵も鼻の頭が赤い。でも二人とも、小さく笑った。
ひなたはリビングに戻りながら、背中を向けたまま小さく呟いた。
「ひまり姉。また作ってね」
陽葵は「うん」と答えた。声が震えなかったのが、自分でも不思議だった。
六月中旬、日曜日。
母・藤咲彩の命日。
蓮は朝から仏壇の掃除をした。
白い布で仏壇の表面を拭く。位牌を丁寧に磨く。花瓶の水を取り替えて、新しい花を活けた。白と黄色のガーベラ。母の好きだった花。ひなたと一緒に昨日の夕方、商店街の花屋で買ってきた。
線香を焚いた。細い煙が立ち上って、リビングの空気に溶けていく。白檀の香り。この匂いを嗅ぐと、蓮はいつも母のことを思い出す。母が線香を焚いていた記憶はない。でも、母が亡くなってから毎年この日に嗅ぐこの匂いが、いつしか母の匂いになった。
左手首のブレスレットを見つめた。革紐の表面は、何年も身につけてきたから少しすり減っている。色が変わった。新品の頃は明るい茶色だったはずだけど、今はくすんだ飴色に変わっている。でも切れたことは一度もない。母がつけてくれた日から、一日も外していない。
仏壇の前に正座した。手を合わせた。
写真の中の母が笑っている。エプロン姿で両手に卵を持った、あの笑顔。父が不意打ちで撮った一枚。母はカメラに気づいて、驚いた顔をした直後に笑ったのだと父が言っていた。だから少しだけ照れたような、はにかんだ笑顔になっている。
「母さん」
静かに語りかけた。
「今年も来たよ」
毎年、同じ言葉で始める。九年間、一度も欠かさなかった。
写真の中の母は何も答えない。ただ笑っている。卵を持って、エプロンをして、ずっと笑っている。
蓮は目を閉じた。
「報告がある」
背後で足音がした。
誠一郎がリビングに入ってきた。ネクタイを外したラフな格好。休日の父はいつもそうだ。不器用に髪を撫でつけて、蓮の隣に正座した。
父と息子が、並んで仏壇の前に座っている。
誠一郎は手を合わせた。目を閉じて、しばらく黙っていた。長い沈黙だった。蓮はその横顔を見た。父の白髪が増えた。去年より、また少し。こめかみの辺りに目立つ。母が亡くなった時は、まだ黒い髪ばかりだったのに。
誠一郎が目を開けた。蓮を見た。
「聞いたぞ。ひまりちゃんと付き合ってるんだってな」
蓮は目を丸くした。
「ひなたから聞いたのか?」
「大輝さんから」
大輝——陽葵の父だ。天野家の父親から直接聞かされたらしい。蓮は頭を抱えそうになった。
「大輝さんに『蓮くんなら安心だ』って言われたぞ。春香さんにも改めて挨拶しろよ」
「……はい」
誠一郎はふっと笑った。不器用な笑顔。蓮に似ている——いや、蓮が父に似ているのだ。
「母さんに、ちゃんと報告しろよ」
それだけ言い残して、席を立った。
蓮は父の背中を見送った。大きくて、少し猫背で、不器用で——でも温かい背中。「いつもありがとうな」と言おうとして言えない父。でも今の一言に、全部が詰まっている。
蓮は仏壇に向き直った。
「母さん」
もう一度、語りかけた。
「俺、好きな人ができた。——いや、違うな。ずっと好きだったんだと思う。気づくのが遅すぎただけで」
写真の中の母が笑っている。蓮も笑った。照れくさくて、首の後ろを撫でた。
「陽葵。天野の陽葵。……知ってるよな、母さんも。小さい頃からずっと隣にいた子。母さんが卵焼き教えてくれた子」
線香の煙が揺れた。風もないのに、ゆらりと。
「陽葵が焼いた卵焼き、食べたんだ。母さんの味だった。俺が作るのとは違って——母さんが教えてくれた、あの配合のままだった」
声が少しだけ震えた。でも今日は泣かなかった。泣く代わりに、笑った。
「母さんの味を受け継いでくれてたんだ、あいつ。ずっと」
午後二時。玄関の呼び鈴が鳴った。
蓮がドアを開けた。
陽葵が立っていた。
白いワンピースを着ている。いつもの制服やジャージ姿とは違う。膝下まである清楚なワンピースに、小さなカーディガンを羽織っていた。栗色のセミロングを丁寧にブラシで整えて、ヘアピンの代わりに白いバレッタで留めている。
腕に、白と黄色のガーベラの花束を抱えていた。
「……これ、お供え」
陽葵は少しだけ緊張した顔をしていた。琥珀色の目が、蓮をまっすぐ見ている。右目は泳いでいない。嘘がないということだ。
「ありがとう。上がれよ」
蓮は陽葵を迎え入れた。
陽葵の命日の訪問は、毎年のことだった。中学の時からずっと、この日だけは必ず来る。花を持って、仏壇に手を合わせて、静かに過ごす。いつもの陽葵とは別人のように、静かに。
でも今年は——意味が違った。
恋人として、初めての命日。
二人でリビングに入った。ひなたはソファに座っていたが、陽葵を見ると「ひまり姉、おつかれ」と小さく手を上げて、自室に引っ込んだ。気を遣ったのだ。十四歳の、さりげない気遣い。
仏壇の前に、二人で並んで正座した。
陽葵が花束を解いて、ガーベラを花瓶に加えた。蓮が活けた分と合わせて、白と黄色の花がいっぱいになった。仏壇が明るくなった。母が好きだった色で溢れている。
線香を一本ずつ手に取った。火を灯す。小さな炎が揺れて、線香の先端が赤く光った。香炉に立てる。白い煙が二筋、並んで立ち昇った。
手を合わせた。目を閉じた。
陽葵は心の中で語りかけた。
——彩おばさん。
九年前の記憶が蘇る。蓮の母・彩は、陽葵にとっても特別な人だった。隣の家のおばさん、ではなかった。料理を教えてくれた人。笑顔が温かかった人。「ひまりちゃん」と呼んでくれた声を、今でも覚えている。
——あたし、蓮の隣にいます。ずっと。
あの日——蓮が庭で泣いていた日に約束したことを、やっと本当の形で果たせた。
——卵焼き、ちゃんと受け継ぎました。蓮にも、ひなたちゃんにも、お母さんの味だって言ってもらえました。
先週焼いた卵焼き。蓮が「母さんの味だ」と声を震わせた。ひなたが「お母さんの味」と小さく呟いた。あの瞬間——陽葵は、自分がここにいる意味を、はっきりと感じた。
——だから、安心してください。蓮は一人じゃないです。ひなたちゃんも。あたしがいますから。
隣で蓮も目を閉じていた。
母の言葉が、胸の奥から浮かび上がってくる。
ずっと昔——まだ母が元気だった頃。台所で卵焼きを焼きながら、母が言った言葉。
——誰かの笑顔は、自分の笑顔の種になるんだよ。
美味しいものを作って、食べた人が笑顔になる。その笑顔を見た作り手も笑顔になる。笑顔は種のように蒔かれて、芽を出して、また新しい笑顔を咲かせる。
あの頃はよく分からなかった。ただ母の言葉を覚えていた。母が亡くなってからは、その言葉を胸に刻んで、毎朝弁当を作った。ひなたのために。父のために。陽葵のために。誰かが「美味しい」と笑ってくれたら、それが自分の喜びだった。
でも今なら——もっと深く分かる。
蓮は目を開けた。隣の陽葵を見た。
手を合わせて目を閉じている横顔。白いワンピースの肩が、呼吸のたびに微かに上下する。長い睫毛が頬に影を落としている。栗色の髪がさらりと肩にかかって、線香の煙の中で揺れている。
俺の笑顔の種は、ずっと隣にいたんだな。
朝迎えに来てくれた時の「蓮、遅い!」という声。弁当を「味見」する時の嬉しそうな顔。調理室のドア枠からこっちを見ていた琥珀色の目。商店街で「偶然」会った時の泳いだ右目。帰り道で「また明日ね」と言う声。手が触れた時の照れた横顔。泣きながら「ずるい」と言った声。「ずっと好きだった」と告白してくれた声。
全部、蓮の笑顔の種だった。
気づくのが遅すぎた。九年も隣にいてくれたのに。十七年間、ずっとそばにいてくれたのに。
でも——気づけた。遅すぎたけれど、気づけた。
母の言葉の意味が、今、本当にわかった。「誰かの笑顔」は、漠然とした誰かのことじゃなかった。隣にいる人のことだった。毎日顔を合わせて、笑い合って、時には泣いて、怒って、すれ違って——それでも隣にいてくれる人のことだった。
蓮は写真の中の母に微笑んだ。
「ちゃんと蒔いてるよ。笑顔の種」
小さな声で呟いた。陽葵には聞こえなかったかもしれない。でも、写真の中の母には届いた気がした。
陽葵が目を開けた。蓮を見た。
「蓮、何か言った?」
「……いや、何でもない」
蓮は首の後ろを撫でた。耳が赤い。
陽葵は「嘘。何か言ってた」と笑った。でもそれ以上は追求しなかった。仏壇の前で、二人の肩がそっと触れた。
線香の煙が、二筋、並んで天井に昇っていく。写真の中の彩が、卵を持って笑っている。
翌朝、月曜日。
いつもの朝が始まった。
蓮が台所で弁当を作っている。卵焼きを焼きながら、仏壇の母の写真に目をやった。昨日活けたガーベラが、朝日を受けて白と黄色に光っている。
「お兄、卵焼き焦げてる」
「焦げてねえよ」
ひなたが制服姿でお茶を飲んでいる。暗褐色の吊り目がちな目が、兄の背中を見ている。
「……まあ、普通」
卵焼きを一切れつまんで食べたひなたが、いつもの評価を下す。でも今日は、その「普通」の声が少しだけ柔らかかった。
弁当箱に蓋をして、鞄に詰める。蓮はエプロンを外して、制服のシャツの袖を下ろした。左手首のブレスレットが光る。飴色の革紐。母の形見。
「蓮、遅い!」
玄関の外から、よく通る声。
蓮は鞄を掴んで、駆け出した。
外に出ると、陽葵が自転車にまたがって待っていた。栗色の髪をヘアピンで留めて、リボンを少し緩めて。日に焼けた頬に朝日が当たっている。八重歯を覗かせて笑っている。制服のスカートの裾が朝風に揺れた。
「遅くねえだろ」
「あたしが来た時が出発時間!」
いつもの応酬。いつもの朝。何も変わらない。
二人で自転車を漕ぎ出した。
通学路の桜並木は、六月の紫陽花に変わっていた。梅雨の晴れ間の朝。昨夜の雨に洗われた葉が、朝日を反射してきらきら光っている。青と紫のグラデーションが咲き誇る紫陽花のトンネルの中を、二台の自転車が走っていく。
四月には桜のアーチだった。淡いピンクの花びらが風に舞って、アスファルトに薄い筋を残していた。あの頃は——蓮はまだ何も分かっていなかった。陽葵の気持ちも、自分の気持ちも。
今は紫陽花のトンネル。色が変わった。季節が変わった。でも、隣にいる人は変わらない。
信号待ちの交差点で止まった。
赤信号。横断歩道の白線が朝日に照らされている。車が通り過ぎていく。
陽葵がそっと手を伸ばした。
自転車のハンドルを握った蓮の左手に、指先が触れた。
蓮は視線を前に向けたまま——その手を、握り返した。
左手首のブレスレットの革紐が、二人の手の間で温もりを帯びていた。
信号が赤のまま、二人の手が繋がっている。
背後でひなたが自転車で通りかかった。中学の制服姿。二人の繋いだ手を見て、大きなため息をついた。
「はいはい。お幸せに」
呆れた声で言い残して、先に走り去った。黒髪のボブカットが風に揺れて、ヘアピンが朝日に光った。
蓮と陽葵は顔を見合わせて、笑った。
信号が青に変わった。
手を離して、ペダルを踏んだ。紫陽花のトンネルの中を、二人で走る。
日常は続く。
朝の迎え、隣の席、弁当の味見、放課後の調理室。何も変わらない。何も変わらなくていい。
ただ、少しだけ温かくなって。
蓮はペダルを踏みながら、隣の陽葵を見た。朝日を受けて、栗色の髪が金色に光っている。琥珀色の目が前を向いている。八重歯を覗かせて、風を切って、笑っている。
——誰かの笑顔は、自分の笑顔の種になるんだよ。
母さん、ありがとう。
蓮は前を向いた。風が頬を撫でた。紫陽花のトンネルを抜けた先に、学校の屋根が見えた。いつもの景色。いつもの朝。隣に、陽葵がいる。
それだけで——十分だった。




