表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第三部 ゼロ距離

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/22

第二十一章 新しい朝

 六月上旬。文化祭が終わって一週間が経った。

 蓮の日常は、ほとんど変わらなかった。

 朝五時半に起きる。台所に立つ。まな板を出して、包丁を研いで、冷蔵庫から食材を取り出す。二人分の弁当を作る。卵焼きを焼く。出汁の匂いが台所に広がって、仏壇の母の写真まで届く。

 いつもの朝。同じ手順。同じ場所。

 ——でも、卵焼きを焼きながら、蓮は笑っていた。

 無自覚に。フライパンの中で卵が巻かれていくのを見つめながら、口元が緩んでいる。今日これを誰が食べるか。「味見ね」と言いながら箸を伸ばしてくる琥珀色の目。それを思い浮かべただけで、勝手に頬が上がる。

「お兄、卵焼きにニヤけてる」

 背後から、容赦のない声が飛んできた。

 ひなたがリビングのテーブルに座っていた。制服姿で、お茶の入ったマグカップを両手で包んでいる。黒髪のボブカットに、陽葵に選んでもらったヘアピンを留めている。暗褐色の吊り目がちな目が、兄を冷静に観察していた。

「してない」

 蓮は首の後ろを撫でた。耳が赤い。

「してる。きもい」

「朝から辛辣だな」

「事実を言ってるだけ」

 ひなたはお茶を一口飲んで、兄の背中をじっと見た。黒髪マッシュの後頭部。エプロンの紐が少し緩んでいる。寝癖がまだ残っている。——いつもの兄だ。でも、何かが違う。背中の力の入り方が違う。軽い。浮いている、と言った方がいいかもしれない。

 ひなたは小さく息を吐いた。何かを言おうとして、やめた。マグカップの中のお茶を見つめた。

 蓮が卵焼きを切り分けて、弁当箱に詰めた。隣にきんぴらと小松菜のお浸し、鶏の照り焼き。彩り良く並べて、蓋を閉める。

「ひなた、弁当」

「はいはい」

 ひなたが受け取った。弁当箱を鞄に入れながら、ちらりと中を見た。

「……今日の卵焼き、いつもより甘くない?」

「そうか?」

「気のせいかも。まあ、普通」

 普通、と言いながら、弁当箱を丁寧に鞄の奥にしまった。


 七時四十分。

「蓮、遅い!」

 玄関の外から、よく通る声。

 蓮の心臓が跳ねた。——いつもと同じ声なのに。毎朝聞いている声なのに。先週まで何とも思わなかった声が、今は胸の奥を直接叩く。

「遅くねえだろ」

 靴を履いて玄関を出た。

 陽葵が自転車にまたがって待っていた。栗色のセミロングをヘアピンで留めて、リボンをいつも通り少し緩めて。日に焼けた頬に朝日が当たっている。琥珀色の目が蓮を見て——一瞬、泳いだ。

 目が合った。

 二人とも、同時に視線を逸らした。

 一秒の沈黙。

 二人とも、同時にまた目を合わせた。

 ——笑った。

 どちらからともなく、笑ってしまった。何がおかしいわけでもない。ただ、目が合っただけ。それだけのことが、今はこんなにも照れくさくて、こんなにもうれしい。

「行くぞ」

「あたしが先!」

 陽葵がペダルを踏み込んで飛び出した。蓮が追いかける。六月の朝の空気が頬を撫でる。通学路の桜並木は緑が濃くなり、梅雨の晴れ間の薄い水色の空が、葉の隙間から見えた。

 並んで走る。いつもの道。いつもの速さ。いつもの距離。

 でも——信号待ちで止まった時、ハンドルを握る互いの手が近づいて、二人とも不自然に手を引っ込めた。蓮が咳払いした。陽葵の耳が赤くなった。

「何」

「何でもない」

「……何でもなくない顔してる」

「してない」

「してる」

 信号が青に変わった。二人とも、同時にペダルを踏んだ。逃げるように走り出した。


 教室に着いても同じだった。

 隣の席。いつもの配置。蓮の右に陽葵。窓際の光が二人の机を照らしている。

 一限目の数学。蓮がノートに数式を書いている。陽葵は——ノートを取るふりをしながら、蓮の横顔を盗み見ていた。黒髪マッシュの毛先が少し跳ねている。暗褐色の目が真剣にノートを見ている。左手首の革紐のブレスレットが、ペンを持つ腕の動きに合わせて微かに揺れている。

 ——今まで何百回と見てきた横顔なのに。

 陽葵は慌てて目をノートに戻した。心臓がうるさい。

 蓮が消しゴムを落とした。拾おうとして手を伸ばした。陽葵も同時に手を伸ばした。

 指が触れた。

 陽葵が椅子ごと飛び上がった。ガタンと音がして、数学の先生が「天野、大丈夫か」と声をかけた。

「大丈夫です! すみません!」

 陽葵が顔を真っ赤にして座り直した。蓮は消しゴムを拾いながら、耳まで赤くなっていた。

 後方の席で、遼太が頬杖をつきながら二人を眺めていた。日焼けした顔に浮かぶのは、いつもの「まーた始まった」ではなく、どこか安堵したような、穏やかな笑顔だった。茶色のタレ目が細くなる。

「よかったな」

 小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。


 昼休み。

 陽葵が蓮の席にやってきた。弁当箱を持って。

「味見ね、味見」

 言いながら、蓮の弁当箱の蓋を開ける。卵焼きに箸を伸ばす。一切れつまんで、口に入れる。

 噛んだ瞬間、陽葵の目が閉じた。

 ほんのりした甘さ。出汁の旨味。ふわふわの食感。——いつもの味。蓮の味。彩おばさんから受け継がれた味。

「……うまい」

 小さく呟いた。目を開けた。琥珀色の目が、少しだけ潤んでいた。

「いつもと同じ味なのに、なんか——今日はすごく美味しい」

 蓮は照れ隠しに視線を逸らした。耳が赤い。

「同じ分量で作ってるけど」

「違う。味が違う。なんか——幸せの味がする」

「何だそれ」

「わかんないけど、するの!」

 陽葵が蓮の肩をバシバシ叩いた。照れた時の癖。蓮は「痛い痛い」と笑いながら避けた。

 二人の弁当を広げて、向かい合わせで食べる。いつもの昼休み。いつもの光景。

 でも今日は——向かい合った目が合うたびに、二人とも照れて笑ってしまう。箸が止まる。何か言おうとして、言えなくて、代わりにおかずを食べる。口いっぱいに詰め込んで、ごまかす。

「お前ら、見てるこっちが恥ずかしいんだけど」

 遼太が後ろから声をかけた。肩をポンと叩く。ニヤリと口の端を上げて、いつものからかい顔。

「うるさい遼太」

「まーた始まった、じゃなくて——やっと始まった、だな」

 遼太がにやにや笑いながら去っていった。蓮と陽葵は顔を見合わせて、また笑った。


 放課後。

 蓮は調理室に向かう前に、足を止めた。

 教室に澪がいた。窓際の席で、いつものように本を読んでいる。黒髪のストレートロングが、腰近くまでまっすぐに流れている。窓からの光が色白の横顔を照らして、紺色の目が本の活字を追っていた。

 蓮は深呼吸した。

 これを言わなければいけない。曖昧にしてはいけない。ごまかしてはいけない。澪は——澪にはちゃんと向き合わなきゃいけない。

「澪、ちょっといいか」

 澪が顔を上げた。「はい」と頷く。静かな声。緊張すると髪の毛先を指で弄る癖があるが、今はしていなかった。まるで、この瞬間が来ることを分かっていたように。

 蓮は教室の中、澪の前に立った。まっすぐに、紺色の目を見た。

「俺、大切な人がいる」

 曖昧にしない。ごまかさない。蓮はそう決めていた。

 教室に沈黙が落ちた。窓の外で、部活に向かう生徒たちの声が遠くに聞こえる。風が吹いて、カーテンが揺れた。

 澪はしばらく黙っていた。本を閉じた。表紙に手を置いて、指先で背表紙をなぞった。紺色の目は穏やかだった。驚きの色はなかった。

「……知ってました」

 蓮は目を見開いた。

「え?」

「蓮くんが天野さんを見る目、ずっと特別でしたから」

 澪の声は静かだった。小さいけれど、はっきりしていた。蓮は言葉に詰まった。

 澪は微笑んでいた。少しだけ切なそうで——でも、確かに前を向いている笑顔だった。伏し目がちな紺色の目が、ゆっくりと瞬きをする。

「蓮くんが天野さんの名前を呼ぶ時の声と、私に向ける声、全然違ったんですよ」

 蓮の胸が痛んだ。

「天野さんの名前を言う時、蓮くんの声はすごく柔らかくなるんです。温かくて、どこか必死で——失いたくないものに触れるみたいな声。私にはあの声は向けられなかった。最初から」

「……澪」

「謝らないでください」

 澪が蓮の言葉を遮った。小さいけれど、はっきりとした声。

「私の方が後から来たんですから。蓮くんと天野さんの間にある十七年分の時間には、誰も割り込めません」

 蓮は何も言えなかった。澪の言葉が正確すぎて、否定のしようがなかった。

 澪は本を閉じて、鞄にしまった。立ち上がった。百五十七センチの小柄な体が、窓からの逆光で輪郭を光らせた。

「でも——」

 澪が少しだけ言葉を区切った。髪の毛先を指で弄った。照れている。

「蓮くんが転校初日に卵焼きを分けてくれたこと、ずっと忘れません。調理室で一緒にメニューを作ったこと、文化祭のカフェが完売したこと、全部——私の、大切な思い出ですから」

 蓮は首の後ろを撫でた。耳が赤い。

「……ありがとう、澪」

「お礼を言うのは私の方です。蓮くんのおかげで、この学校に居場所ができました」

 澪は蓮に向かって、小さく頭を下げた。黒髪がさらりと肩から落ちた。

 顔を上げて、言った。

「料理部は続けます」

 蓮の目が丸くなった。

「——いいのか?」

「はい。ここは私の居場所ですから」

 転校を繰り返し、「もう深く関わるのはやめよう」と心に壁を作ってきた少女が、初めて自分で選んだ居場所。蓮の料理部。蓮の隣ではないけれど、蓮と同じ調理室に立つ場所。

「——それに」

 澪が少しだけ照れたように目を伏せた。ほんの少しだけ目を細めた。

「天野さんに、美味しいもの作ってあげてください。蓮くんの料理は、人を笑顔にしますから」

 お母さんが言ってました——美味しいものは人の心を開くって。蓮くんを見てると、本当にそうだなって思います。

 蓮は一瞬言葉に詰まって、それから笑った。目尻が下がる、穏やかな笑顔。

「ありがとう、澪。お前も——お前のデザート、すげえ美味かったよ。来年もカフェ、やろうな」

「……はい」

 澪の紺色の目が、ほんの少しだけ潤んだ。でも涙はこぼれなかった。

 澪は調理室に向かって歩き出した。白い肌が廊下の光に照らされている。背筋がまっすぐで、足取りは軽かった。左手が鞄の紐を握っている。その歩き姿に、転校初日の緊張した面持ちはもうなかった。

 蓮はその背中を見送った。

 ——澪は強いな。

 心の中でそう思った。自分よりも、ずっと。


 同じ日の夕方。

 蓮が帰宅した。玄関の靴を脱いで、リビングに入った。

 ひなたがソファに座っていた。テレビのリモコンを握ったまま、チャンネルも変えずに兄を見ている。暗褐色の吊り目がちな目が、兄の全身をスキャンするように観察していた。

「お兄」

「ん?」

「ひまり姉と付き合ってるんでしょ」

 蓮が固まった。

 リビングの空気が止まった。テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れているが、蓮の耳には届かなかった。

「わ、わかるのか」

 蓮は首の後ろを撫でた。ひなたが「ほら、首触った」と冷静に指摘した。

「お兄は首の後ろ触る時、照れてるか嘘ついてるかのどっちか。今は照れてる方」

「……お前、いつからそんな——」

「遼太先輩とひまり姉に鍛えられた。で、否定しないってことは認めたってことでいいよね」

 蓮は観念した。否定のしようがなかった。

 ひなたはため息をついた。大きな、深い、芝居がかったため息。百五十三センチの小さな体で、十四歳とは思えない重みのある吐息。

「遅すぎ」

 三文字で全てを片づけた。

 蓮は返す言葉がなかった。澪にも同じことを言われた。遼太にも散々言われた。そして今、妹にまで。

「何年かかってんの。ひまり姉がどんだけ待ったと思ってるの」

「……すまん」

「あたしに謝ってどうすんの。ひまり姉に謝りなよ」

「それは——もう謝った」

「足りない。一生謝り続けなさい」

 ひなたは腕を組んで、兄を見上げた。吊り目がちな暗褐色の目に、真剣な光が宿っている。あの夜、リビングで陽葵に「お兄のこと好きでしょ」と切り込んだ時と同じ目だ。

「ひまり姉を泣かせたら、あたしが許さないから」

「……わかった」

「わかってない顔してる」

「わかった、って言ってるだろ」

「お兄は『わかった』って言う時、半分くらいわかってない」

 蓮は苦笑した。反論できなかった。

 ひなたは「ふん」と鼻を鳴らして、テレビのチャンネルを変えた。バラエティからアニメに切り替わる。

 蓮は台所に向かった。夕食の支度を始める。冷蔵庫を開けて、食材を確認する。今日は生姜焼きにしよう。ひなたが好きだから。

「お兄」

 ひなたがソファから声をかけた。

「ん?」

「……まあ、おめでとう。一応」

 蓮は振り返った。ひなたはテレビの方を向いている。顔は見えない。耳が少しだけ赤い。

「ありがとう」

「べつに。お兄のためじゃないし。ひまり姉のために言ってるだけだし」

 蓮は笑った。

 ひなたは画面を睨みつけるようにしてアニメを見ていたが、口元だけが微かに緩んでいた。


 夜。

 ひなたは自室の布団に入っていた。天井を見つめている。

 スマホが震えた。枕元に置いたスマホを取る。LINEの通知。

 陽葵からだった。

 トーク画面を開いた。長い。すごく長い。スクロールしないと全部読めないくらい長い。

 ——ひなたちゃん、あのね、蓮と付き合うことになったの!

 ——ずっと好きだったの、蓮のこと。中学の時から。ひなたちゃんには前に言ったよね、あの時「ひまり姉ならいい」って言ってくれて、あたしすごく嬉しかったんだよ。

 ——文化祭の後夜祭でね、蓮が屋上まで来てくれて。「俺の隣は、陽葵じゃなきゃダメだ」って。あたし、泣いちゃった。めちゃくちゃ泣いた。

 ——でもね、蓮も泣いてたんだよ。ちょっとだけ。本人は認めてないけど。

 ——あたし、蓮の隣にずっといるから。ひなたちゃんのお兄ちゃんを、大切にするね。

 ひなたは最後まで読んだ。

 返事に「知ってる」とだけ打って、送信した。

 スマホを枕元に戻して、目を閉じた。

 暗い部屋の中で、天井の模様がぼんやり見える。

 ——お兄、幸せそう。

 小さく笑った。誰にも聞こえない声で。暗褐色の吊り目がちな目が細くなった。兄と同じ目の色。同じ血。

 ひなたの口元だけが、柔らかく緩んでいた。


 同じ頃、天野家。

 陽葵は布団の中で、蓮からのLINEを何度も見返していた。

 「待ってる」

 たった三文字。明日の朝の迎えのことだ。いつもと同じ——今までなら何でもない言葉。

 でも今は違う。「待ってる」の三文字に、屋上で言われた全てが詰まっている気がする。「俺の隣は、陽葵じゃなきゃダメだ」。「ずっとそばにいてくれて、ありがとう」。その全部が、この三文字に凝縮されている。

 陽葵はスマホを胸に抱えて、布団の中でじたばたした。足をばたばたさせて、枕を抱きしめて、顔を埋めた。

「……好き」

 布団の中で呟いた。今度は泣かなかった。泣く代わりに、笑った。枕に顔を押しつけて、にやにや笑いが止まらなかった。

 ドアの向こうで足音がした。

「ひまりー、布団の中で暴れないのー。壁に響くのよー」

 春香の声。生温かい声。娘の恋が実ったことを知っている母の声。

 陽葵は枕から顔を上げた。

「うるさいお母さん! 寝てるから!」

「暴れてる音してたけど」

「寝てるの!」

 ドアの向こうで春香が笑った。小さく、優しく。

「おやすみ、ひまり。蓮くんによろしくね」

 足音が遠ざかった。

 陽葵はまた枕に顔を埋めた。頬が熱い。琥珀色の目に、涙ではなく笑顔が浮かんでいた。

 スマホの画面が暗くなる。「待ってる」の三文字が消える。でも消えても大丈夫。明日の朝、蓮が玄関で待っている。そして明後日も。その次も。

 陽葵はそっと目を閉じた。

 眠りに落ちる直前、幼い日の記憶がよぎった。パジャマ姿で塀を越えて、泣いている蓮の手を握った夜。「ひまりがずっとそばにいるから」と約束した夜。

 ——あの約束、叶ったよ。

 陽葵は微笑んだまま、眠りに落ちた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ