第二十一章 新しい朝
六月上旬。文化祭が終わって一週間が経った。
蓮の日常は、ほとんど変わらなかった。
朝五時半に起きる。台所に立つ。まな板を出して、包丁を研いで、冷蔵庫から食材を取り出す。二人分の弁当を作る。卵焼きを焼く。出汁の匂いが台所に広がって、仏壇の母の写真まで届く。
いつもの朝。同じ手順。同じ場所。
——でも、卵焼きを焼きながら、蓮は笑っていた。
無自覚に。フライパンの中で卵が巻かれていくのを見つめながら、口元が緩んでいる。今日これを誰が食べるか。「味見ね」と言いながら箸を伸ばしてくる琥珀色の目。それを思い浮かべただけで、勝手に頬が上がる。
「お兄、卵焼きにニヤけてる」
背後から、容赦のない声が飛んできた。
ひなたがリビングのテーブルに座っていた。制服姿で、お茶の入ったマグカップを両手で包んでいる。黒髪のボブカットに、陽葵に選んでもらったヘアピンを留めている。暗褐色の吊り目がちな目が、兄を冷静に観察していた。
「してない」
蓮は首の後ろを撫でた。耳が赤い。
「してる。きもい」
「朝から辛辣だな」
「事実を言ってるだけ」
ひなたはお茶を一口飲んで、兄の背中をじっと見た。黒髪マッシュの後頭部。エプロンの紐が少し緩んでいる。寝癖がまだ残っている。——いつもの兄だ。でも、何かが違う。背中の力の入り方が違う。軽い。浮いている、と言った方がいいかもしれない。
ひなたは小さく息を吐いた。何かを言おうとして、やめた。マグカップの中のお茶を見つめた。
蓮が卵焼きを切り分けて、弁当箱に詰めた。隣にきんぴらと小松菜のお浸し、鶏の照り焼き。彩り良く並べて、蓋を閉める。
「ひなた、弁当」
「はいはい」
ひなたが受け取った。弁当箱を鞄に入れながら、ちらりと中を見た。
「……今日の卵焼き、いつもより甘くない?」
「そうか?」
「気のせいかも。まあ、普通」
普通、と言いながら、弁当箱を丁寧に鞄の奥にしまった。
七時四十分。
「蓮、遅い!」
玄関の外から、よく通る声。
蓮の心臓が跳ねた。——いつもと同じ声なのに。毎朝聞いている声なのに。先週まで何とも思わなかった声が、今は胸の奥を直接叩く。
「遅くねえだろ」
靴を履いて玄関を出た。
陽葵が自転車にまたがって待っていた。栗色のセミロングをヘアピンで留めて、リボンをいつも通り少し緩めて。日に焼けた頬に朝日が当たっている。琥珀色の目が蓮を見て——一瞬、泳いだ。
目が合った。
二人とも、同時に視線を逸らした。
一秒の沈黙。
二人とも、同時にまた目を合わせた。
——笑った。
どちらからともなく、笑ってしまった。何がおかしいわけでもない。ただ、目が合っただけ。それだけのことが、今はこんなにも照れくさくて、こんなにもうれしい。
「行くぞ」
「あたしが先!」
陽葵がペダルを踏み込んで飛び出した。蓮が追いかける。六月の朝の空気が頬を撫でる。通学路の桜並木は緑が濃くなり、梅雨の晴れ間の薄い水色の空が、葉の隙間から見えた。
並んで走る。いつもの道。いつもの速さ。いつもの距離。
でも——信号待ちで止まった時、ハンドルを握る互いの手が近づいて、二人とも不自然に手を引っ込めた。蓮が咳払いした。陽葵の耳が赤くなった。
「何」
「何でもない」
「……何でもなくない顔してる」
「してない」
「してる」
信号が青に変わった。二人とも、同時にペダルを踏んだ。逃げるように走り出した。
教室に着いても同じだった。
隣の席。いつもの配置。蓮の右に陽葵。窓際の光が二人の机を照らしている。
一限目の数学。蓮がノートに数式を書いている。陽葵は——ノートを取るふりをしながら、蓮の横顔を盗み見ていた。黒髪マッシュの毛先が少し跳ねている。暗褐色の目が真剣にノートを見ている。左手首の革紐のブレスレットが、ペンを持つ腕の動きに合わせて微かに揺れている。
——今まで何百回と見てきた横顔なのに。
陽葵は慌てて目をノートに戻した。心臓がうるさい。
蓮が消しゴムを落とした。拾おうとして手を伸ばした。陽葵も同時に手を伸ばした。
指が触れた。
陽葵が椅子ごと飛び上がった。ガタンと音がして、数学の先生が「天野、大丈夫か」と声をかけた。
「大丈夫です! すみません!」
陽葵が顔を真っ赤にして座り直した。蓮は消しゴムを拾いながら、耳まで赤くなっていた。
後方の席で、遼太が頬杖をつきながら二人を眺めていた。日焼けした顔に浮かぶのは、いつもの「まーた始まった」ではなく、どこか安堵したような、穏やかな笑顔だった。茶色のタレ目が細くなる。
「よかったな」
小さく呟いた。誰にも聞こえない声で。
昼休み。
陽葵が蓮の席にやってきた。弁当箱を持って。
「味見ね、味見」
言いながら、蓮の弁当箱の蓋を開ける。卵焼きに箸を伸ばす。一切れつまんで、口に入れる。
噛んだ瞬間、陽葵の目が閉じた。
ほんのりした甘さ。出汁の旨味。ふわふわの食感。——いつもの味。蓮の味。彩おばさんから受け継がれた味。
「……うまい」
小さく呟いた。目を開けた。琥珀色の目が、少しだけ潤んでいた。
「いつもと同じ味なのに、なんか——今日はすごく美味しい」
蓮は照れ隠しに視線を逸らした。耳が赤い。
「同じ分量で作ってるけど」
「違う。味が違う。なんか——幸せの味がする」
「何だそれ」
「わかんないけど、するの!」
陽葵が蓮の肩をバシバシ叩いた。照れた時の癖。蓮は「痛い痛い」と笑いながら避けた。
二人の弁当を広げて、向かい合わせで食べる。いつもの昼休み。いつもの光景。
でも今日は——向かい合った目が合うたびに、二人とも照れて笑ってしまう。箸が止まる。何か言おうとして、言えなくて、代わりにおかずを食べる。口いっぱいに詰め込んで、ごまかす。
「お前ら、見てるこっちが恥ずかしいんだけど」
遼太が後ろから声をかけた。肩をポンと叩く。ニヤリと口の端を上げて、いつものからかい顔。
「うるさい遼太」
「まーた始まった、じゃなくて——やっと始まった、だな」
遼太がにやにや笑いながら去っていった。蓮と陽葵は顔を見合わせて、また笑った。
放課後。
蓮は調理室に向かう前に、足を止めた。
教室に澪がいた。窓際の席で、いつものように本を読んでいる。黒髪のストレートロングが、腰近くまでまっすぐに流れている。窓からの光が色白の横顔を照らして、紺色の目が本の活字を追っていた。
蓮は深呼吸した。
これを言わなければいけない。曖昧にしてはいけない。ごまかしてはいけない。澪は——澪にはちゃんと向き合わなきゃいけない。
「澪、ちょっといいか」
澪が顔を上げた。「はい」と頷く。静かな声。緊張すると髪の毛先を指で弄る癖があるが、今はしていなかった。まるで、この瞬間が来ることを分かっていたように。
蓮は教室の中、澪の前に立った。まっすぐに、紺色の目を見た。
「俺、大切な人がいる」
曖昧にしない。ごまかさない。蓮はそう決めていた。
教室に沈黙が落ちた。窓の外で、部活に向かう生徒たちの声が遠くに聞こえる。風が吹いて、カーテンが揺れた。
澪はしばらく黙っていた。本を閉じた。表紙に手を置いて、指先で背表紙をなぞった。紺色の目は穏やかだった。驚きの色はなかった。
「……知ってました」
蓮は目を見開いた。
「え?」
「蓮くんが天野さんを見る目、ずっと特別でしたから」
澪の声は静かだった。小さいけれど、はっきりしていた。蓮は言葉に詰まった。
澪は微笑んでいた。少しだけ切なそうで——でも、確かに前を向いている笑顔だった。伏し目がちな紺色の目が、ゆっくりと瞬きをする。
「蓮くんが天野さんの名前を呼ぶ時の声と、私に向ける声、全然違ったんですよ」
蓮の胸が痛んだ。
「天野さんの名前を言う時、蓮くんの声はすごく柔らかくなるんです。温かくて、どこか必死で——失いたくないものに触れるみたいな声。私にはあの声は向けられなかった。最初から」
「……澪」
「謝らないでください」
澪が蓮の言葉を遮った。小さいけれど、はっきりとした声。
「私の方が後から来たんですから。蓮くんと天野さんの間にある十七年分の時間には、誰も割り込めません」
蓮は何も言えなかった。澪の言葉が正確すぎて、否定のしようがなかった。
澪は本を閉じて、鞄にしまった。立ち上がった。百五十七センチの小柄な体が、窓からの逆光で輪郭を光らせた。
「でも——」
澪が少しだけ言葉を区切った。髪の毛先を指で弄った。照れている。
「蓮くんが転校初日に卵焼きを分けてくれたこと、ずっと忘れません。調理室で一緒にメニューを作ったこと、文化祭のカフェが完売したこと、全部——私の、大切な思い出ですから」
蓮は首の後ろを撫でた。耳が赤い。
「……ありがとう、澪」
「お礼を言うのは私の方です。蓮くんのおかげで、この学校に居場所ができました」
澪は蓮に向かって、小さく頭を下げた。黒髪がさらりと肩から落ちた。
顔を上げて、言った。
「料理部は続けます」
蓮の目が丸くなった。
「——いいのか?」
「はい。ここは私の居場所ですから」
転校を繰り返し、「もう深く関わるのはやめよう」と心に壁を作ってきた少女が、初めて自分で選んだ居場所。蓮の料理部。蓮の隣ではないけれど、蓮と同じ調理室に立つ場所。
「——それに」
澪が少しだけ照れたように目を伏せた。ほんの少しだけ目を細めた。
「天野さんに、美味しいもの作ってあげてください。蓮くんの料理は、人を笑顔にしますから」
お母さんが言ってました——美味しいものは人の心を開くって。蓮くんを見てると、本当にそうだなって思います。
蓮は一瞬言葉に詰まって、それから笑った。目尻が下がる、穏やかな笑顔。
「ありがとう、澪。お前も——お前のデザート、すげえ美味かったよ。来年もカフェ、やろうな」
「……はい」
澪の紺色の目が、ほんの少しだけ潤んだ。でも涙はこぼれなかった。
澪は調理室に向かって歩き出した。白い肌が廊下の光に照らされている。背筋がまっすぐで、足取りは軽かった。左手が鞄の紐を握っている。その歩き姿に、転校初日の緊張した面持ちはもうなかった。
蓮はその背中を見送った。
——澪は強いな。
心の中でそう思った。自分よりも、ずっと。
同じ日の夕方。
蓮が帰宅した。玄関の靴を脱いで、リビングに入った。
ひなたがソファに座っていた。テレビのリモコンを握ったまま、チャンネルも変えずに兄を見ている。暗褐色の吊り目がちな目が、兄の全身をスキャンするように観察していた。
「お兄」
「ん?」
「ひまり姉と付き合ってるんでしょ」
蓮が固まった。
リビングの空気が止まった。テレビからはバラエティ番組の笑い声が流れているが、蓮の耳には届かなかった。
「わ、わかるのか」
蓮は首の後ろを撫でた。ひなたが「ほら、首触った」と冷静に指摘した。
「お兄は首の後ろ触る時、照れてるか嘘ついてるかのどっちか。今は照れてる方」
「……お前、いつからそんな——」
「遼太先輩とひまり姉に鍛えられた。で、否定しないってことは認めたってことでいいよね」
蓮は観念した。否定のしようがなかった。
ひなたはため息をついた。大きな、深い、芝居がかったため息。百五十三センチの小さな体で、十四歳とは思えない重みのある吐息。
「遅すぎ」
三文字で全てを片づけた。
蓮は返す言葉がなかった。澪にも同じことを言われた。遼太にも散々言われた。そして今、妹にまで。
「何年かかってんの。ひまり姉がどんだけ待ったと思ってるの」
「……すまん」
「あたしに謝ってどうすんの。ひまり姉に謝りなよ」
「それは——もう謝った」
「足りない。一生謝り続けなさい」
ひなたは腕を組んで、兄を見上げた。吊り目がちな暗褐色の目に、真剣な光が宿っている。あの夜、リビングで陽葵に「お兄のこと好きでしょ」と切り込んだ時と同じ目だ。
「ひまり姉を泣かせたら、あたしが許さないから」
「……わかった」
「わかってない顔してる」
「わかった、って言ってるだろ」
「お兄は『わかった』って言う時、半分くらいわかってない」
蓮は苦笑した。反論できなかった。
ひなたは「ふん」と鼻を鳴らして、テレビのチャンネルを変えた。バラエティからアニメに切り替わる。
蓮は台所に向かった。夕食の支度を始める。冷蔵庫を開けて、食材を確認する。今日は生姜焼きにしよう。ひなたが好きだから。
「お兄」
ひなたがソファから声をかけた。
「ん?」
「……まあ、おめでとう。一応」
蓮は振り返った。ひなたはテレビの方を向いている。顔は見えない。耳が少しだけ赤い。
「ありがとう」
「べつに。お兄のためじゃないし。ひまり姉のために言ってるだけだし」
蓮は笑った。
ひなたは画面を睨みつけるようにしてアニメを見ていたが、口元だけが微かに緩んでいた。
夜。
ひなたは自室の布団に入っていた。天井を見つめている。
スマホが震えた。枕元に置いたスマホを取る。LINEの通知。
陽葵からだった。
トーク画面を開いた。長い。すごく長い。スクロールしないと全部読めないくらい長い。
——ひなたちゃん、あのね、蓮と付き合うことになったの!
——ずっと好きだったの、蓮のこと。中学の時から。ひなたちゃんには前に言ったよね、あの時「ひまり姉ならいい」って言ってくれて、あたしすごく嬉しかったんだよ。
——文化祭の後夜祭でね、蓮が屋上まで来てくれて。「俺の隣は、陽葵じゃなきゃダメだ」って。あたし、泣いちゃった。めちゃくちゃ泣いた。
——でもね、蓮も泣いてたんだよ。ちょっとだけ。本人は認めてないけど。
——あたし、蓮の隣にずっといるから。ひなたちゃんのお兄ちゃんを、大切にするね。
ひなたは最後まで読んだ。
返事に「知ってる」とだけ打って、送信した。
スマホを枕元に戻して、目を閉じた。
暗い部屋の中で、天井の模様がぼんやり見える。
——お兄、幸せそう。
小さく笑った。誰にも聞こえない声で。暗褐色の吊り目がちな目が細くなった。兄と同じ目の色。同じ血。
ひなたの口元だけが、柔らかく緩んでいた。
同じ頃、天野家。
陽葵は布団の中で、蓮からのLINEを何度も見返していた。
「待ってる」
たった三文字。明日の朝の迎えのことだ。いつもと同じ——今までなら何でもない言葉。
でも今は違う。「待ってる」の三文字に、屋上で言われた全てが詰まっている気がする。「俺の隣は、陽葵じゃなきゃダメだ」。「ずっとそばにいてくれて、ありがとう」。その全部が、この三文字に凝縮されている。
陽葵はスマホを胸に抱えて、布団の中でじたばたした。足をばたばたさせて、枕を抱きしめて、顔を埋めた。
「……好き」
布団の中で呟いた。今度は泣かなかった。泣く代わりに、笑った。枕に顔を押しつけて、にやにや笑いが止まらなかった。
ドアの向こうで足音がした。
「ひまりー、布団の中で暴れないのー。壁に響くのよー」
春香の声。生温かい声。娘の恋が実ったことを知っている母の声。
陽葵は枕から顔を上げた。
「うるさいお母さん! 寝てるから!」
「暴れてる音してたけど」
「寝てるの!」
ドアの向こうで春香が笑った。小さく、優しく。
「おやすみ、ひまり。蓮くんによろしくね」
足音が遠ざかった。
陽葵はまた枕に顔を埋めた。頬が熱い。琥珀色の目に、涙ではなく笑顔が浮かんでいた。
スマホの画面が暗くなる。「待ってる」の三文字が消える。でも消えても大丈夫。明日の朝、蓮が玄関で待っている。そして明後日も。その次も。
陽葵はそっと目を閉じた。
眠りに落ちる直前、幼い日の記憶がよぎった。パジャマ姿で塀を越えて、泣いている蓮の手を握った夜。「ひまりがずっとそばにいるから」と約束した夜。
——あの約束、叶ったよ。
陽葵は微笑んだまま、眠りに落ちた。




