第二十章 屋上の炎
校庭のキャンプファイヤーに火が入った。
薪が爆ぜて、炎が夜空に立ち昇る。橙色の光が校舎の壁面を這い上がり、窓ガラスに反射して、揺れる影を無数に映した。歓声が上がった。誰かが音楽を流し始め、踊り出す生徒がいる。写真を撮り合い、笑い合い、文化祭の最後の夜を惜しむ声が、校庭いっぱいに広がっていく。
蓮はその喧騒の中を、一人で歩いていた。
校庭を一周した。体育館を覗いた。部室棟に回った。下駄箱も見た。教室も、廊下も、渡り廊下も。
陽葵がいない。
どこにもいない。
胸の奥で焦りが膨らんでいた。「逃げないでくれ」と言ったのは自分だ。あの時、陽葵は何も返さなかった。バレーボールを抱えたまま、震える腕で、ただ立っていた。返事をもらえなかった。頷いてももらえなかった。
それでも——来てくれると信じたかった。
校庭の端を歩きながら、視線を巡らせた。キャンプファイヤーの周りにはクラスメイトが集まっている。二年三組の面々も、踊ったり写真を撮ったりしている。でもその中に、栗色のセミロングは見えない。ポニーテールを解いた陽葵の姿も、八重歯を覗かせて笑う顔も、どこにもなかった。
人混みを抜けて、校庭の隅に出た。
遼太がいた。
サッカー部の仲間数人と話していたが、蓮の姿を見ると、すぐに離れてきた。日焼けした顔に、いつものニヤニヤ笑いはなかった。真面目な顔。明るい茶色の目が、蓮をまっすぐに見ている。
「天野、どこにいるか知らないか」
「屋上」
即答だった。迷いのない声。
「さっきバレー部のやつに聞いた。試合の後、着替えてから上がったっきり降りてこないってさ」
蓮は頷いた。体が動いていた。頷いた瞬間にはもう走り出していた。
「行ってこい」
遼太の声が背中に届いた。短い言葉に力がこもっていた。中学からずっと、二人の恋を近くで見てきた男の声だった。
蓮にはもう、それ以上聞く余裕がなかった。
校舎に飛び込んだ。
文化祭の装飾が壁に残っている。模造紙のポスター、カラフルなガーランド、手書きの看板。蛍光灯が切れかけて点滅する廊下を、蓮は駆け抜けた。靴音が反響する。一階、二階、三階——階段を二段飛ばしで上がった。
四階を過ぎると、階段が狭くなった。屋上への最後の踊り場。非常口の重い鉄の扉が、行く手を塞いでいる。
蓮は立ち止まった。
ここを開けたら、陽葵がいる。遼太がそう言った。バレー部の誰かがそう言った。着替えてから上がったきり、降りてこないのだと。
心臓がうるさかった。走ったせいだけじゃない。
何を言えばいい。どんな顔をすればいい。自分の気持ちは分かった。名前もついた。でもそれを、どうやって伝えればいい。
——考えるな。
蓮は首の後ろを撫でる癖を、自分で止めた。今、逃げるわけにはいかない。考えるより先に動け。
鉄の扉を両手で押した。錆びた蝶番がぎいと鳴った。重い。体重をかけて、押し開ける。
夜風が、頬を打った。
屋上は暗かった。
コンクリートの床が冷たい灰色に沈んでいて、頭上には星が散っている。屋上の端を囲むフェンスの向こうに夜空が広がり、その下——眼下の校庭から、キャンプファイヤーの炎がオレンジの光を投げ上げていた。炎の揺らめきが、屋上のコンクリートの上にも淡い影を踊らせている。
遠くから歓声が聞こえた。音楽が流れている。でもそれは屋上まで上がってくると随分と遠い。まるで違う世界の音みたいだった。
フェンスの前に、人影があった。
天野陽葵が、フェンスにもたれて立っていた。
制服に着替えている。スカートの裾が夜風にわずかに揺れた。リボンはいつも通り少し緩い。栗色のセミロングが夜風に流されて、横顔にかかっている。ヘアピンで留めた前髪の隙間から、キャンプファイヤーの光を映した琥珀色の目が覗いていた。
眼下の炎を見つめていた。フェンスの金網に指をかけて、何かに耐えるように。
蓮の足音が、コンクリートに響いた。
陽葵の肩がびくりと動いた。
「……来ないでよ」
振り向かなかった。声が硬い。昨日の体育館で叫んだ時とは違う、押し殺した声。泣いた後のような掠れが混じっていた。
蓮は足を止めなかった。
一歩。もう一歩。コンクリートを踏む靴音が、自分の心臓の音と重なる。
「来んなって言ってるでしょ——」
陽葵の声が震えた。フェンスを掴む指先が白くなっている。
「昨日のこと——」
蓮が口を開いた。
「忘れて」
陽葵が遮った。まだ振り向かない。
「あれは、ただの——」
「忘れない」
今度は蓮が遮った。
自分の声が、思っていたよりずっと低く聞こえた。静かで、でも揺るがない。
陽葵の背中が強張った。夜風が吹いて、栗色の髪が大きく揺れた。下からの炎の光が、その輪郭を橙色に縁取っている。
「……忘れてよ」
三度目の拒絶。でも今度は声が震えていた。強がりの殻にひびが入っている。
「お願いだから、忘れて。そしたらあたしたち、元に戻れるから。いつも通りの、幼馴染に——」
「戻れない」
蓮は言った。
「戻りたくない」
陽葵がようやく、振り返った。
琥珀色の目が揺れていた。キャンプファイヤーの光を映して、濡れたように光っている。目の縁が赤い。泣いていたのだ。一人で、ここで、ずっと。
蓮は立ち止まった。陽葵との距離はあと二歩。三歩。校庭の音楽がかすかに聞こえる。炎の爆ぜる音が、遠い世界から届くように。
左手首のブレスレット——母の形見の革紐——を、握りしめるように拳を作った。使い込んですり減った革の感触が、掌に食い込む。
「分かってなかった。ずっと」
声が震えた。蓮の声が、初めて震えた。いつも穏やかで、いつも「まあ、なんとかなるっしょ」と笑ってきた蓮の声が。
「お前がなんで朝迎えに来てくれるのか」
四月の朝。「蓮、遅い!」と玄関先で待っていた陽葵。桜並木の通学路を二人で走った。あれは「いつものこと」だと思っていた。
「なんで弁当食べに来るのか」
昼休み。「味見ね、味見」と箸を伸ばす琥珀色の目。卵焼きを一口食べた時に一瞬揺れた表情。あれは「幼馴染特権」だと思っていた。
「なんで調理室覗いてたのか」
放課後。ドア枠にもたれて、蓮の横顔を見つめていた陽葵。遼太に「また蓮見てんの?」とからかわれていた。あれは「料理部の様子見」だと思っていた。
「商店街に来たのか」
四月の土曜日。「偶然」現れた時の泳いだ右目。あれは本当に偶然だと信じていた。
「帰り道で何を言おうとしてたのか」
「ねえ、蓮。蓮は——」。飲み込まれた言葉。「料理部楽しい?」にすり替わった問い。天野家の玄関先で「また明日ね!」と裏返った声で走り去った背中。あれは「いつもの陽葵」だと片づけていた。
「なんで——泣いたのか」
体育館。涙を浮かべた琥珀色の目。「蓮のくせに、何も分かんないくせに!」。あの叫びの意味が、今ならわかる。
「——全部、分かってなかった。ごめん」
蓮の暗褐色の目が、まっすぐに陽葵を見た。はっとするほど真っ直ぐな、嘘のない光。目尻が下がる穏やかな顔ではなく、本気で誰かに向き合う時の、あの光。
陽葵の唇が震えた。
「やめてよ……」
声が掠れていた。
「今さら、そんなこと言わないでよ」
涙が溜まっていく。琥珀色の目に、キャンプファイヤーの橙色が揺れている。
「あたし、ずっと——ずっと待ってたんだよ」
声が割れた。
「中学の時から。ずっと。蓮の隣にいたくて、朝迎えに行って、弁当食べに行って、調理室覗いて。全部——全部、蓮に気づいてほしかったのに」
涙がこぼれた。一筋、頬を伝った。陽葵はそれを拭おうとしなかった。
「なのに蓮は全然気づいてくれなくて。あたしが距離取っても、嘘ついても、泣いても、怒鳴っても——全部『いつもの陽葵』で済ませて——」
「ああ。ごめん」
蓮が一歩、近づいた。
「ほんとに——ほんとにごめん。お前の気持ちに、ずっと気づけなくて」
「謝んないでよ……」
陽葵が首を横に振った。涙が飛んだ。
「謝られたら、怒れなくなるじゃん……」
「怒っていい。俺、馬鹿だったから」
「知ってるよ、そんなの!」
陽葵が声を上げた。泣きながらなのに、いつもの陽葵の強さが覗いた。
「蓮が鈍感なのなんて、あたしが一番知ってるよ! 遼太も知ってるし、ひなたちゃんも知ってるし、クラスの半分は知ってるって遼太に言われたし——」
蓮は思わず苦笑した。遼太の言葉がそのまま返ってきた。
「でもね——」
陽葵の声が、急に小さくなった。
「でも、怖かったの。言ったら、今の関係が壊れるかもって。蓮の隣にいられなくなるかもって。幼馴染の陽葵じゃいられなくなるかもって——」
声が消えかけた。涙で喉が詰まっている。
「あたしにとって、蓮の隣が世界で一番安心する場所だったから。それを失うのが、怖くて——」
蓮は、もう一歩近づいた。
手を伸ばした。
陽葵の頬に、触れた。
涙で濡れた頬。温かい。キャンプファイヤーの光に照らされて、涙の筋がオレンジに光っている。蓮の親指が、その涙を拭った。
陽葵が息を呑んだ。琥珀色の目が大きく見開かれた。蓮の手が温かい。大きくて、少しだけ硬い——家事と料理で鍛えた手。
「お前の場所はなくならない」
蓮の声が、静かに、でも確かに響いた。
「陽葵が朝迎えに来てくれる場所も。弁当食べに来る場所も。調理室を覗きに来る場所も。全部——」
息を吸った。左手首のブレスレットが、夜風に揺れた。
「俺の隣は、陽葵じゃなきゃダメだ」
言った。
ようやく——ようやく、言えた。
遼太に背中を押されて、澪に送り出されて、自分の気持ちにやっと名前をつけて。「好きだ」という言葉はもう調理室で口にした。でも今、陽葵の目の前で、陽葵に向かって言う言葉が必要だった。告白よりもっと手前にある、もっと大切な言葉が。
——お前じゃなきゃダメだ。
キャンプファイヤーの炎が大きく揺れた。薪が爆ぜる音が下から響いて、橙色の光が波のように屋上を洗った。二人の影が、コンクリートの上で伸びて、重なった。
陽葵の目から涙がこぼれた。一筋、二筋。三筋。頬を伝って、顎から落ちる。蓮の手をすり抜けて、制服のリボンに染みを作った。
——それなのに、笑っていた。
泣きながら、笑っていた。唇が震えて、ぐしゃぐしゃで、目が真っ赤で。でも八重歯が覗く、いつもの笑顔。涙で歪んだ、世界で一番きれいな笑顔。
「ずるい……」
声が震える。
「そんなの、ずるいよ蓮……」
涙声なのに、笑っている。
「ずっと待ってたのに。ずっと、蓮の隣にいたのに。全然気づいてくれなくて。あたしが泣いても、怒っても、距離取っても——何にもしてくれなくて——」
「ああ」
「なのに今さら——今さら、そんなこと言って——」
「ああ。遅すぎた」
「ほんとだよ……遅すぎだよ……」
陽葵が俯いた。涙が落ちて、コンクリートに小さな染みを作った。
「でも——」
顔を上げた。涙だらけの琥珀色の目が、まっすぐに蓮を見た。
「でも、嬉しい。すっごく嬉しい。蓮に、そんなふうに言ってもらえるの——ずっと夢みたいに思ってたから——」
声が途切れた。涙が止まらなかった。
蓮は陽葵の涙を拭い続けた。右の頬。左の頬。目尻。指先が震えているのは、自分の手だと気づいた。自分も泣きそうだった。
——あの日の記憶が蘇る。
九年前の夜。母が亡くなった日。家族の前では泣けなくて、ひなたを慰めて、父の背中を見送って。一人で庭の隅にうずくまって、やっと泣いた。
塀の向こうから、パジャマ姿の小さな女の子が現れた。裸足で、塀を乗り越えて、何も言わずに隣に座った。小さな手が、蓮の手を握った。
——ひまりがずっとそばにいるから。
あの約束を、陽葵はずっと守ってくれていた。朝の迎えも、弁当の味見も、調理室のドア枠も、商店街の「偶然」も、帰り道の「また明日」も。全部、あの約束の延長線だった。
今度は、俺の番だ。
「ずっとそばにいてくれて、ありがとう、陽葵」
蓮の声が、夜風に溶けた。
あの日、陽葵が蓮にくれた言葉を——九年分の時間をかけて、蓮が返した。
陽葵の目がまた溢れた。今度は声を上げて泣いた。堪えなかった。堪える必要がなかった。
陽葵は蓮の胸に、額をぶつけた。ぶつけた、というよりぶつかった。勢いよく、不器用に。蓮が半歩よろけて、それでも陽葵を受け止めた。
陽葵のこぶしが、蓮のシャツを握りしめた。ぎゅっと、皺になるくらいに。
「あたし、蓮のこと好き」
震える声が、蓮の胸に直接響いた。
「ずっと好きだった。中学の時から。ううん、もっと前から。あの日——蓮が泣いてた時から」
蓮は右手で陽葵の背中をそっと抱いた。左手が、自然に陽葵の頭に乗った。栗色の髪がさらりと指の間をすり抜ける。ヘアピンの固い感触が、指先に触れた。
「——俺も」
短い言葉だった。でもそれで十分だった。
蓮の声は震えていた。暗褐色の目の端が濡れていた。目尻が下がって、いつもの穏やかな笑顔とは違う——不格好で、不器用で、でも嘘のない表情をしていた。
陽葵が蓮のシャツを握ったまま、顔を上げた。涙だらけの顔で、笑った。八重歯が覗いた。ぐしゃぐしゃの泣き笑い。
「蓮、泣いてるじゃん」
「泣いてない」
「嘘。目、赤い」
「お前に言われたくない」
「あたしは泣いてもいいの。女の子だから」
「何だそれ」
二人とも笑った。涙を流しながら。
校庭からキャンプファイヤーの炎が、ひときわ大きく燃え上がった。歓声が響く。音楽が流れる。後夜祭は続いている。
でも屋上の二人には、それはもう遠い世界の出来事だった。
蓮は陽葵の頭をそっと撫でた。陽葵は蓮のシャツを握ったまま、額を蓮の胸に預けていた。泣いて、笑って、また泣いた。「ずるい」と「好き」を交互に繰り返した。蓮はそのたびに「ああ」と返した。不器用で、言葉が少なくて、でもそれが蓮だった。
やがて陽葵が顔を上げた。涙の跡が頬に光っている。目が真っ赤で、鼻も赤い。でも、琥珀色の目は晴れていた。ずっと溜め込んでいたものが全部流れ出て、透き通ったように。
「蓮」
「ん」
「明日の朝も迎えに行っていい?」
蓮は笑った。目尻が下がる、穏やかな笑顔。でも耳が赤かった。
「当たり前だろ」
「弁当の味見もしていい?」
「いつもしてるだろ」
「調理室、覗きに行ってもいい?」
「ドア枠にもたれるのはやめろ。入ってこい」
陽葵がくすっと笑った。涙の残った目で、蓮を見上げた。
「じゃあ——蓮の隣に、いてもいい?」
蓮は黙って、陽葵の手を取った。左手。革紐のブレスレットが巻かれた手首のすぐ上、陽葵の手首を握る。指先が絡んで、手のひらが重なった。
「いてくれ」
キャンプファイヤーの炎が夜空を橙色に染めている。下から歓声が聞こえる。音楽が流れている。風が吹いて、二人の間を通り抜けていった。
コンクリートの上に、二人の影が寄り添って伸びていた。
二人の距離が、ゼロになった。




