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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第三部 ゼロ距離

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第二十章 屋上の炎

 校庭のキャンプファイヤーに火が入った。

 薪が爆ぜて、炎が夜空に立ち昇る。橙色の光が校舎の壁面を這い上がり、窓ガラスに反射して、揺れる影を無数に映した。歓声が上がった。誰かが音楽を流し始め、踊り出す生徒がいる。写真を撮り合い、笑い合い、文化祭の最後の夜を惜しむ声が、校庭いっぱいに広がっていく。

 蓮はその喧騒の中を、一人で歩いていた。

 校庭を一周した。体育館を覗いた。部室棟に回った。下駄箱も見た。教室も、廊下も、渡り廊下も。

 陽葵がいない。

 どこにもいない。

 胸の奥で焦りが膨らんでいた。「逃げないでくれ」と言ったのは自分だ。あの時、陽葵は何も返さなかった。バレーボールを抱えたまま、震える腕で、ただ立っていた。返事をもらえなかった。頷いてももらえなかった。

 それでも——来てくれると信じたかった。

 校庭の端を歩きながら、視線を巡らせた。キャンプファイヤーの周りにはクラスメイトが集まっている。二年三組の面々も、踊ったり写真を撮ったりしている。でもその中に、栗色のセミロングは見えない。ポニーテールを解いた陽葵の姿も、八重歯を覗かせて笑う顔も、どこにもなかった。

 人混みを抜けて、校庭の隅に出た。

 遼太がいた。

 サッカー部の仲間数人と話していたが、蓮の姿を見ると、すぐに離れてきた。日焼けした顔に、いつものニヤニヤ笑いはなかった。真面目な顔。明るい茶色の目が、蓮をまっすぐに見ている。

「天野、どこにいるか知らないか」

「屋上」

 即答だった。迷いのない声。

「さっきバレー部のやつに聞いた。試合の後、着替えてから上がったっきり降りてこないってさ」

 蓮は頷いた。体が動いていた。頷いた瞬間にはもう走り出していた。

「行ってこい」

 遼太の声が背中に届いた。短い言葉に力がこもっていた。中学からずっと、二人の恋を近くで見てきた男の声だった。

 蓮にはもう、それ以上聞く余裕がなかった。


 校舎に飛び込んだ。

 文化祭の装飾が壁に残っている。模造紙のポスター、カラフルなガーランド、手書きの看板。蛍光灯が切れかけて点滅する廊下を、蓮は駆け抜けた。靴音が反響する。一階、二階、三階——階段を二段飛ばしで上がった。

 四階を過ぎると、階段が狭くなった。屋上への最後の踊り場。非常口の重い鉄の扉が、行く手を塞いでいる。

 蓮は立ち止まった。

 ここを開けたら、陽葵がいる。遼太がそう言った。バレー部の誰かがそう言った。着替えてから上がったきり、降りてこないのだと。

 心臓がうるさかった。走ったせいだけじゃない。

 何を言えばいい。どんな顔をすればいい。自分の気持ちは分かった。名前もついた。でもそれを、どうやって伝えればいい。

 ——考えるな。

 蓮は首の後ろを撫でる癖を、自分で止めた。今、逃げるわけにはいかない。考えるより先に動け。

 鉄の扉を両手で押した。錆びた蝶番がぎいと鳴った。重い。体重をかけて、押し開ける。

 夜風が、頬を打った。


 屋上は暗かった。

 コンクリートの床が冷たい灰色に沈んでいて、頭上には星が散っている。屋上の端を囲むフェンスの向こうに夜空が広がり、その下——眼下の校庭から、キャンプファイヤーの炎がオレンジの光を投げ上げていた。炎の揺らめきが、屋上のコンクリートの上にも淡い影を踊らせている。

 遠くから歓声が聞こえた。音楽が流れている。でもそれは屋上まで上がってくると随分と遠い。まるで違う世界の音みたいだった。

 フェンスの前に、人影があった。

 天野陽葵が、フェンスにもたれて立っていた。

 制服に着替えている。スカートの裾が夜風にわずかに揺れた。リボンはいつも通り少し緩い。栗色のセミロングが夜風に流されて、横顔にかかっている。ヘアピンで留めた前髪の隙間から、キャンプファイヤーの光を映した琥珀色の目が覗いていた。

 眼下の炎を見つめていた。フェンスの金網に指をかけて、何かに耐えるように。

 蓮の足音が、コンクリートに響いた。

 陽葵の肩がびくりと動いた。

「……来ないでよ」

 振り向かなかった。声が硬い。昨日の体育館で叫んだ時とは違う、押し殺した声。泣いた後のような掠れが混じっていた。

 蓮は足を止めなかった。

 一歩。もう一歩。コンクリートを踏む靴音が、自分の心臓の音と重なる。

「来んなって言ってるでしょ——」

 陽葵の声が震えた。フェンスを掴む指先が白くなっている。

「昨日のこと——」

 蓮が口を開いた。

「忘れて」

 陽葵が遮った。まだ振り向かない。

「あれは、ただの——」

「忘れない」

 今度は蓮が遮った。

 自分の声が、思っていたよりずっと低く聞こえた。静かで、でも揺るがない。

 陽葵の背中が強張った。夜風が吹いて、栗色の髪が大きく揺れた。下からの炎の光が、その輪郭を橙色に縁取っている。

「……忘れてよ」

 三度目の拒絶。でも今度は声が震えていた。強がりの殻にひびが入っている。

「お願いだから、忘れて。そしたらあたしたち、元に戻れるから。いつも通りの、幼馴染に——」

「戻れない」

 蓮は言った。

「戻りたくない」

 陽葵がようやく、振り返った。

 琥珀色の目が揺れていた。キャンプファイヤーの光を映して、濡れたように光っている。目の縁が赤い。泣いていたのだ。一人で、ここで、ずっと。

 蓮は立ち止まった。陽葵との距離はあと二歩。三歩。校庭の音楽がかすかに聞こえる。炎の爆ぜる音が、遠い世界から届くように。

 左手首のブレスレット——母の形見の革紐——を、握りしめるように拳を作った。使い込んですり減った革の感触が、掌に食い込む。

「分かってなかった。ずっと」

 声が震えた。蓮の声が、初めて震えた。いつも穏やかで、いつも「まあ、なんとかなるっしょ」と笑ってきた蓮の声が。

「お前がなんで朝迎えに来てくれるのか」

 四月の朝。「蓮、遅い!」と玄関先で待っていた陽葵。桜並木の通学路を二人で走った。あれは「いつものこと」だと思っていた。

「なんで弁当食べに来るのか」

 昼休み。「味見ね、味見」と箸を伸ばす琥珀色の目。卵焼きを一口食べた時に一瞬揺れた表情。あれは「幼馴染特権」だと思っていた。

「なんで調理室覗いてたのか」

 放課後。ドア枠にもたれて、蓮の横顔を見つめていた陽葵。遼太に「また蓮見てんの?」とからかわれていた。あれは「料理部の様子見」だと思っていた。

「商店街に来たのか」

 四月の土曜日。「偶然」現れた時の泳いだ右目。あれは本当に偶然だと信じていた。

「帰り道で何を言おうとしてたのか」

 「ねえ、蓮。蓮は——」。飲み込まれた言葉。「料理部楽しい?」にすり替わった問い。天野家の玄関先で「また明日ね!」と裏返った声で走り去った背中。あれは「いつもの陽葵」だと片づけていた。

「なんで——泣いたのか」

 体育館。涙を浮かべた琥珀色の目。「蓮のくせに、何も分かんないくせに!」。あの叫びの意味が、今ならわかる。

「——全部、分かってなかった。ごめん」

 蓮の暗褐色の目が、まっすぐに陽葵を見た。はっとするほど真っ直ぐな、嘘のない光。目尻が下がる穏やかな顔ではなく、本気で誰かに向き合う時の、あの光。

 陽葵の唇が震えた。

「やめてよ……」

 声が掠れていた。

「今さら、そんなこと言わないでよ」

 涙が溜まっていく。琥珀色の目に、キャンプファイヤーの橙色が揺れている。

「あたし、ずっと——ずっと待ってたんだよ」

 声が割れた。

「中学の時から。ずっと。蓮の隣にいたくて、朝迎えに行って、弁当食べに行って、調理室覗いて。全部——全部、蓮に気づいてほしかったのに」

 涙がこぼれた。一筋、頬を伝った。陽葵はそれを拭おうとしなかった。

「なのに蓮は全然気づいてくれなくて。あたしが距離取っても、嘘ついても、泣いても、怒鳴っても——全部『いつもの陽葵』で済ませて——」

「ああ。ごめん」

 蓮が一歩、近づいた。

「ほんとに——ほんとにごめん。お前の気持ちに、ずっと気づけなくて」

「謝んないでよ……」

 陽葵が首を横に振った。涙が飛んだ。

「謝られたら、怒れなくなるじゃん……」

「怒っていい。俺、馬鹿だったから」

「知ってるよ、そんなの!」

 陽葵が声を上げた。泣きながらなのに、いつもの陽葵の強さが覗いた。

「蓮が鈍感なのなんて、あたしが一番知ってるよ! 遼太も知ってるし、ひなたちゃんも知ってるし、クラスの半分は知ってるって遼太に言われたし——」

 蓮は思わず苦笑した。遼太の言葉がそのまま返ってきた。

「でもね——」

 陽葵の声が、急に小さくなった。

「でも、怖かったの。言ったら、今の関係が壊れるかもって。蓮の隣にいられなくなるかもって。幼馴染の陽葵じゃいられなくなるかもって——」

 声が消えかけた。涙で喉が詰まっている。

「あたしにとって、蓮の隣が世界で一番安心する場所だったから。それを失うのが、怖くて——」

 蓮は、もう一歩近づいた。

 手を伸ばした。

 陽葵の頬に、触れた。

 涙で濡れた頬。温かい。キャンプファイヤーの光に照らされて、涙の筋がオレンジに光っている。蓮の親指が、その涙を拭った。

 陽葵が息を呑んだ。琥珀色の目が大きく見開かれた。蓮の手が温かい。大きくて、少しだけ硬い——家事と料理で鍛えた手。

「お前の場所はなくならない」

 蓮の声が、静かに、でも確かに響いた。

「陽葵が朝迎えに来てくれる場所も。弁当食べに来る場所も。調理室を覗きに来る場所も。全部——」

 息を吸った。左手首のブレスレットが、夜風に揺れた。


「俺の隣は、陽葵じゃなきゃダメだ」


 言った。

 ようやく——ようやく、言えた。

 遼太に背中を押されて、澪に送り出されて、自分の気持ちにやっと名前をつけて。「好きだ」という言葉はもう調理室で口にした。でも今、陽葵の目の前で、陽葵に向かって言う言葉が必要だった。告白よりもっと手前にある、もっと大切な言葉が。

 ——お前じゃなきゃダメだ。

 キャンプファイヤーの炎が大きく揺れた。薪が爆ぜる音が下から響いて、橙色の光が波のように屋上を洗った。二人の影が、コンクリートの上で伸びて、重なった。

 陽葵の目から涙がこぼれた。一筋、二筋。三筋。頬を伝って、顎から落ちる。蓮の手をすり抜けて、制服のリボンに染みを作った。

 ——それなのに、笑っていた。

 泣きながら、笑っていた。唇が震えて、ぐしゃぐしゃで、目が真っ赤で。でも八重歯が覗く、いつもの笑顔。涙で歪んだ、世界で一番きれいな笑顔。

「ずるい……」

 声が震える。

「そんなの、ずるいよ蓮……」

 涙声なのに、笑っている。

「ずっと待ってたのに。ずっと、蓮の隣にいたのに。全然気づいてくれなくて。あたしが泣いても、怒っても、距離取っても——何にもしてくれなくて——」

「ああ」

「なのに今さら——今さら、そんなこと言って——」

「ああ。遅すぎた」

「ほんとだよ……遅すぎだよ……」

 陽葵が俯いた。涙が落ちて、コンクリートに小さな染みを作った。

「でも——」

 顔を上げた。涙だらけの琥珀色の目が、まっすぐに蓮を見た。

「でも、嬉しい。すっごく嬉しい。蓮に、そんなふうに言ってもらえるの——ずっと夢みたいに思ってたから——」

 声が途切れた。涙が止まらなかった。

 蓮は陽葵の涙を拭い続けた。右の頬。左の頬。目尻。指先が震えているのは、自分の手だと気づいた。自分も泣きそうだった。

 ——あの日の記憶が蘇る。

 九年前の夜。母が亡くなった日。家族の前では泣けなくて、ひなたを慰めて、父の背中を見送って。一人で庭の隅にうずくまって、やっと泣いた。

 塀の向こうから、パジャマ姿の小さな女の子が現れた。裸足で、塀を乗り越えて、何も言わずに隣に座った。小さな手が、蓮の手を握った。

 ——ひまりがずっとそばにいるから。

 あの約束を、陽葵はずっと守ってくれていた。朝の迎えも、弁当の味見も、調理室のドア枠も、商店街の「偶然」も、帰り道の「また明日」も。全部、あの約束の延長線だった。

 今度は、俺の番だ。

「ずっとそばにいてくれて、ありがとう、陽葵」

 蓮の声が、夜風に溶けた。

 あの日、陽葵が蓮にくれた言葉を——九年分の時間をかけて、蓮が返した。

 陽葵の目がまた溢れた。今度は声を上げて泣いた。堪えなかった。堪える必要がなかった。

 陽葵は蓮の胸に、額をぶつけた。ぶつけた、というよりぶつかった。勢いよく、不器用に。蓮が半歩よろけて、それでも陽葵を受け止めた。

 陽葵のこぶしが、蓮のシャツを握りしめた。ぎゅっと、皺になるくらいに。

「あたし、蓮のこと好き」

 震える声が、蓮の胸に直接響いた。

「ずっと好きだった。中学の時から。ううん、もっと前から。あの日——蓮が泣いてた時から」

 蓮は右手で陽葵の背中をそっと抱いた。左手が、自然に陽葵の頭に乗った。栗色の髪がさらりと指の間をすり抜ける。ヘアピンの固い感触が、指先に触れた。

「——俺も」

 短い言葉だった。でもそれで十分だった。

 蓮の声は震えていた。暗褐色の目の端が濡れていた。目尻が下がって、いつもの穏やかな笑顔とは違う——不格好で、不器用で、でも嘘のない表情をしていた。

 陽葵が蓮のシャツを握ったまま、顔を上げた。涙だらけの顔で、笑った。八重歯が覗いた。ぐしゃぐしゃの泣き笑い。

「蓮、泣いてるじゃん」

「泣いてない」

「嘘。目、赤い」

「お前に言われたくない」

「あたしは泣いてもいいの。女の子だから」

「何だそれ」

 二人とも笑った。涙を流しながら。

 校庭からキャンプファイヤーの炎が、ひときわ大きく燃え上がった。歓声が響く。音楽が流れる。後夜祭は続いている。

 でも屋上の二人には、それはもう遠い世界の出来事だった。

 蓮は陽葵の頭をそっと撫でた。陽葵は蓮のシャツを握ったまま、額を蓮の胸に預けていた。泣いて、笑って、また泣いた。「ずるい」と「好き」を交互に繰り返した。蓮はそのたびに「ああ」と返した。不器用で、言葉が少なくて、でもそれが蓮だった。

 やがて陽葵が顔を上げた。涙の跡が頬に光っている。目が真っ赤で、鼻も赤い。でも、琥珀色の目は晴れていた。ずっと溜め込んでいたものが全部流れ出て、透き通ったように。

「蓮」

「ん」

「明日の朝も迎えに行っていい?」

 蓮は笑った。目尻が下がる、穏やかな笑顔。でも耳が赤かった。

「当たり前だろ」

「弁当の味見もしていい?」

「いつもしてるだろ」

「調理室、覗きに行ってもいい?」

「ドア枠にもたれるのはやめろ。入ってこい」

 陽葵がくすっと笑った。涙の残った目で、蓮を見上げた。

「じゃあ——蓮の隣に、いてもいい?」

 蓮は黙って、陽葵の手を取った。左手。革紐のブレスレットが巻かれた手首のすぐ上、陽葵の手首を握る。指先が絡んで、手のひらが重なった。

「いてくれ」

 キャンプファイヤーの炎が夜空を橙色に染めている。下から歓声が聞こえる。音楽が流れている。風が吹いて、二人の間を通り抜けていった。

 コンクリートの上に、二人の影が寄り添って伸びていた。

 二人の距離が、ゼロになった。


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