第二章 調理室の残り香
新学期から一週間が経った。
蓮と陽葵の「いつもの距離」は、もはや二年三組の風物詩として定着していた。毎朝一緒に登校してきて、隣同士の席に座り、昼休みには弁当を分け合う二人の姿は、新しいクラスメイトにとっても見慣れた光景になりつつあった。
火曜日、二限目の数学。
授業が始まって十分ほど経った頃、陽葵が蓮の袖をちょいちょいと引っ張った。
「蓮、教科書忘れた。見せて」
「またかよ」
蓮は呆れながらも、机の上の教科書を陽葵側にずらした。二人の机がくっつくくらいの距離になる。
陽葵がノートを取ろうと身を乗り出す。シャープペンシルを握る手と、蓮の腕が触れそうになった。数センチ。いや、もっと近い。蓮の制服の袖から覗く手首に、あの革紐のブレスレットが見えた。
陽葵の耳がうっすらと赤くなった。心臓の音が教室中に響いているんじゃないかと思うくらい、うるさい。黒板に書かれた二次関数の公式なんて、一ミリも頭に入ってこない。蓮のシャンプーの匂いがする。朝、ちゃんと寝癖と格闘してきたんだな、といつもなら笑うところだけど、今はそんな余裕がない。
当の蓮は、黒板を見ながら首の後ろを撫でているだけだった。教科書を共有していることも、腕が触れそうな距離も、陽葵の耳が赤いことも、何も気にしていない。当たり前のように。
後方の席で、遼太が頬杖をつきながら二人を見ていた。口の端がにやりと上がったが、声には出さなかった。
水曜日の昼休み。
蓮が弁当箱を開けると、一秒後には陽葵が向かいの椅子を引いて座っていた。もはや暗黙の了解だ。蓮の弁当は二人で食べるもの。いつからそうなったのか、もう誰も覚えていない。
「今日のおかず何?」
「鮭の塩焼きと、ほうれん草のおひたしと、卵焼き」
「卵焼きもらう」
「聞く前に取ってるだろ」
陽葵はもう箸で卵焼きをつまんでいた。ふわふわの黄金色を口に放り込んで、目を閉じる。砂糖と醤油と出汁の、ほんのり甘い味。毎日食べても飽きない。この味を食べている間だけは、蓮の隣にいる理由を何も考えなくていい。
蓮は蓮で、陽葵に卵焼きを取られることを前提に、一切れ多く入れている。そのことを陽葵は知らないし、蓮も言わない。
「お前ら夫婦か」
後方から遼太の声が飛んできた。パンの袋を破りながら、にやにや笑っている。日焼けした肌に白い歯。第一ボタンを開けた制服は、いつも通りだらしない。
「うるさい!」
陽葵が振り向いて叫ぶ。遼太は「はいはい」と手を振って、メロンパンに齧りついた。
「夫婦って。普通に友達だろ。なあ、陽葵」
蓮は何食わぬ顔で鮭の塩焼きをほぐしていた。「友達」という言葉が陽葵の胸にちくりと刺さったが、蓮は気づかない。当然のように、何も気づかない。
陽葵は「そ、そうだよ! 幼馴染だし!」と笑ってみせた。声が少し裏返ったけれど、蓮は「ほうれん草もいるか?」と箸を差し出してきただけだった。
遼太がため息をつく音が、かすかに聞こえた気がした。
木曜日の放課後。
六限目のチャイムが鳴ると、蓮は教科書を鞄に詰めて教室を出た。向かう先は、三階の調理室だ。
料理部の部室——とは名ばかりで、部員は蓮と三年の先輩一人。その先輩もほぼ幽霊部員だから、実質的に蓮の個人スペースだ。顧問の山田先生は「好きに使っていいよ」と鍵だけ渡して、職員室に引っ込んでいる。
蓮はエプロンを着けて、まず手を洗った。それから冷蔵庫を開けて食材を確認し、母のレシピノートを開く。
ノートは年季が入っていた。角が擦り切れて、ところどころ油のシミがついている。ページを開くと、丸くて柔らかい、少し崩れたひらがなの字が並んでいた。母の字だ。几帳面なのかおおらかなのか分からない独特の書き方で、「じゃがいもは大きめに切る方が煮崩れしにくいよ」なんてメモが余白に書き込まれている。
今日のメニューは肉じゃが。蓮にとっては定番中の定番だ。
じゃがいもの皮をむく。ひとつひとつ、丁寧に。母のノートには「皮むきは急がないこと。急ぐと厚くむきすぎて、もったいないから」と書いてある。蓮はその教えを律儀に守っている。
玉ねぎをくし切りにする。目にしみて少しだけ涙がにじんだが、換気扇の下で切れば大丈夫だと知っている。それも母に教わったことだ。牛肉に醤油と砂糖を軽くまぶして下味をつけ、鍋に油を熱して肉を炒める。じゅう、と音がして、甘辛い匂いが調理室いっぱいに広がった。
野菜を加えて、出汁を注ぐ。母のレシピでは「みりんは最後に加える」とあるが、今日は少し早めに入れてみよう。甘みの出方が変わるかもしれない。
蓮はこういう小さな実験が好きだった。母のレシピを忠実に再現しながら、少しだけ自分なりのアレンジを加えてみる。味見をして「あ、こっちの方がいいかも」と思う瞬間が楽しい。失敗することもあるけれど、それもまた勉強だ。
鍋に蓋をして、弱火にする。あとは煮えるのを待つだけだ。調理室の窓からは、グラウンドの部活の声が聞こえてくる。サッカー部がボールを蹴る音。野球部の掛け声。そして体育館の方からは、バレーボールがフロアを叩く鋭い音。
蓮はその音を聞きながら、鍋の蓋の隙間から立ち上る湯気を眺めていた。ことこと、ことこと。調理室は静かで、温かくて、母の匂いがする場所だった。
バレー部の練習が終わったのは、午後五時を少し過ぎた頃だった。
天野陽葵は体育館で着替えを済ませ、タオルで汗を拭きながら校舎に戻った。ジャージのままだ。汗で前髪が額に張りついている。ポニーテールにまとめた髪をほどいて、手櫛で整えた。
三階の廊下を歩く。調理室の前を通りかかると、ドアの隙間から光と匂いが漏れていた。甘辛い、醤油と砂糖の匂い。蓮だ。
陽葵はドアに手をかけた。少しだけ開ける。覗く。
蓮が鍋の前に立っていた。菜箸を持って、蓋を開けて、中を覗き込んでいる。コンロの火が蓮の横顔を照らしていた。暗褐色の目が真剣で、口元はわずかに緩んでいて、黒髪の毛先が湯気で少し揺れている。エプロンの紐が背中でちょうちょ結びになっているのが、なんだか可愛い。
陽葵はドア枠にもたれたまま、動けなくなった。
バレーの練習の後で、体はくたくただ。シャワーを浴びたい。髪を乾かしたい。でも足が動かない。
——ずるい。なんでそんな顔するの。
料理をしている時の蓮は、教室にいる時と全然違う。いつもの穏やかさの中に、どこか凛としたものがある。集中している時の目。菜箸を動かす手つき。左手首のブレスレットが鍋の縁にかすかに当たって、小さな音を立てた。
陽葵の心臓がうるさい。バレーの試合で決勝セットを迎えた時より全然うるさい。顔が熱い。練習後の火照りとは違う熱さだ。
——もう少しだけ。もう少しだけ、見ていたい。
何秒経っただろう。十秒か、三十秒か。永遠のように感じられた時間は、背後からの声で終わった。
「また蓮見てんの?」
陽葵は文字通り飛び上がった。振り返ると、坂本遼太がスポーツドリンクのボトルを片手に立っていた。サッカー部のジャージ姿。汗をかいた髪をタオルで拭きながら、口の端を上げてニヤリと笑っている。
「りょ、遼太! いつからいた!?」
「お前がフリーズしてから三十秒くらい? 完全に固まってたぞ。マネキンかと思った」
「見てない! 別に見てないから!」
陽葵が遼太の肩をバシバシ叩く。蓮に聞こえないように声を抑えているつもりだが、叩く音はそこそこ響いている。遼太は慣れた様子でそれを受け流して、陽葵の頭越しに調理室を覗いた。
「お、肉じゃがか。いい匂い」
そのまま調理室に入っていく遼太の背中に、陽葵は「ちょっと!」と叫びかけて口を押さえた。
「蓮ー、いい匂いすんな。食っていい?」
「おう。肉じゃが作ってんだけど、食ってく? そろそろいい頃だと思うんだけど」
「マジで? 食う食う。天野も来いよ」
遼太に手招きされて、陽葵も調理室に入った。蓮の隣を通り過ぎる時、肉じゃがの匂いと一緒に蓮の匂いがした。石鹸みたいな、清潔な匂い。心臓がまたうるさくなる。
蓮は三人分の小皿を戸棚から出して、丁寧に肉じゃがを盛りつけた。じゃがいもは大きめに切ってあって、崩れずにホクホクの形を保っている。牛肉に醤油と砂糖の照りが絡んで、玉ねぎはとろりと透き通っている。
「いただきます」
三人で箸をつけた。
「うっま」
遼太が一口食べて目を見開いた。じゃがいもをかじり、牛肉を噛み、煮汁を啜って、もう一口。
「蓮、お前将来料理人になれよ。マジで」
「大げさだろ」
「蓮の肉じゃが最高なんだって」
陽葵が口を挟んだ。箸を振りながら、得意げに語り出す。
「じゃがいもがホクホクで、牛肉にちゃんと味が染みてて、煮汁がしょっぱすぎなくて甘すぎなくて——」
途中で「あ」と口を押さえた。まるで蓮の料理評論家みたいなことを言っている自分に気づいたのだ。蓮のことになると、つい饒舌になってしまう。
蓮は視線を逸らしながら「そんな大げさなもんじゃないって」と呟いた。耳が赤い。褒められると照れるのは昔からだ。
遼太はその二人を交互に見て、長いため息をついた。もう何年もこの光景を見ている。見飽きたと思っていたのに、一向に進展しない二人にため息は止まらない。
「ごちそうさん。うまかった」
遼太が皿を流しに持っていく。蓮が「洗わなくていいよ」と言ったが、遼太はもう蛇口をひねっていた。
「蓮ばっかりに家事させんなよ。——じゃ、俺先帰るわ。お二人さん、ゆっくりね」
最後に余計な一言を残して、遼太は調理室を出ていった。陽葵が「お二人さんって何!」と叫んだが、遼太は手を振るだけで振り返らなかった。
帰り道。
夕焼けが街を橙色に染める中、蓮と陽葵が並んで歩いていた。自転車を押しながら、ゆっくりと。住宅街は静かで、どこかの家からテレビの音が漏れている。庭先の沈丁花が風に揺れて、甘い匂いが鼻をかすめた。
陽葵は蓮の半歩後ろを歩いていた。蓮の背中を見ながら、さっきの調理室の横顔を思い出している。
「今日の肉じゃが、ちょっと味変えた?」
ふと思いついて聞いた。
「わかるか」
蓮が振り向いた。少し驚いた顔。
「みりんの量を母さんのレシピより少し増やしてみた。どうだった?」
「やっぱり。なんか、前より甘かった。あたしは前の方が好きかも。でもこれはこれで美味しい」
「そっか。じゃあ次は戻すわ」
「え、あたしの意見で変えるの?」
「お前の舌は信用してるから」
さらっと言う。蓮にとっては何でもない言葉だろう。でも陽葵には、その一言が心臓に直撃した。自転車のハンドルを握る手に力が入る。
陽葵はそういうところだけは鋭い。蓮の料理の微妙な変化——塩加減が少し違う、火の通し方を変えた——を見逃さない。蓮の料理をずっと食べてきたから、舌が覚えているのだ。
蓮はそれを「鋭い」と思っているけれど、陽葵がなぜ蓮の料理の変化に気づけるのか、その理由までは考えない。
天野家の前で立ち止まった。いつもの別れの場所。玄関のポーチライトが灯っていて、陽葵の栗色の髪を淡く照らしている。
「じゃ、また明日」
「うん。また明日ね、蓮」
陽葵が玄関のドアに手をかけた。ちらりと振り返る。蓮はもう背を向けて歩き出していた。紺色のブレザーの背中が、夕暮れの中で少しずつ小さくなっていく。
陽葵はその背中を見つめた。小さく唇を噛んで、ドアを開けた。
自室に戻り、制服のまま、ベッドに倒れ込んだ。
天井を見上げる。陽葵の部屋は二階の東側で、窓の外にはもう暗くなった空が広がっている。机の上にはバレー部のユニフォームが畳まずに置いてあり、本棚には漫画と小説が乱雑に詰め込まれている。壁には去年の文化祭で撮った写真が一枚——蓮と遼太と三人で、ピースサインをしている写真。
陽葵はその写真にちらりと目をやって、天井に視線を戻した。
ぼそりと呟く。
「好きだ」
声に出してみる。自分の声が、静かな部屋に響いた。
「……好き」
もう一回。今度は小さく。
「蓮のこと、好き」
何度言っても、何度練習しても、この言葉は蓮の前では出てこない。さっきだって帰り道で何度もチャンスがあった。「蓮は」と切り出そうとして、「肉じゃが美味しかった」に逃げた。「あたし」と言いかけて、「あたしもう帰るね」に変えた。
枕を抱きしめて、顔を埋めた。枕カバーの匂いがする。洗濯したての匂い。蓮の匂いじゃない。
「……はあ」
深いため息。
コンコン、とドアが鳴った。
「ひまり、蓮くんと一緒だった?」
母・春香の声だ。穏やかで、どこか楽しそうな声。
陽葵は枕から顔を上げて「……うん」とだけ返した。
「そう。夕ご飯まだだけど、何か食べた?」
「蓮の肉じゃが、ちょっともらった」
「あら、いいわねえ。蓮くんのお料理美味しいもんね」
ドアの向こうで春香が微笑んでいる気配がした。母は何もかもお見通しだろう。娘が蓮の名前を出す時だけ声が変わることも、帰りが遅い日は決まって蓮と一緒だったことも。
足音が遠ざかっていく。陽葵は安堵して枕に顔を戻した。
春の夜。窓を少しだけ開けると、夜風が吹き込んできた。その風に乗って、服に染みついた微かな匂いがした。醤油と砂糖と出汁の甘辛い匂い。調理室の匂い。蓮の匂い。
陽葵は枕を抱きしめたまま、目を閉じた。
「——好き」
もう一度だけ呟いて、そのまま眠りに落ちた。制服のまま、ジャージのまま、肉じゃがの残り香を纏ったまま。




