第十九章 走れ
蓮は澪の前で立ち止まった。
澪の紺色の目は穏やかだった。いつもの伏し目がちな雰囲気とは少し違う。まっすぐに蓮を見ていた。その奥にかすかな揺らぎがあることに、蓮は気づいていた。睫毛の影が頬に落ちて、薄い唇がかすかに震えていた。
「澪」
「はい」
声は静かだった。いつもの「……すみません」と謝りがちな口調ではなく、芯のある声。
「ごめん。どうしても行かなきゃいけない場所がある」
蓮は頭を下げた。深く。腰から折るように。
澪は黙っていた。
数秒の沈黙が、調理室に落ちた。蛇口から最後の一滴が落ちる音がぽたりと鳴った。窓の外で、文化祭の喧噪が遠く聞こえている。
遼太は後ろのテーブルに腰かけて、腕を組んで二人を見ていた。口を挟む気配はない。これは蓮と澪の間の話だ。
澪の脳裏に、いくつもの場面が浮かんでいた。
この二ヶ月間の記憶が、静かに巡る。
最初に蓮と話した日。教室で一人でいた自分に、蓮が弁当のおかずを持ってきた。卵焼きを一切れ。「よかったら食べてくれ」。何の躊躇いもなく、当たり前のように差し出された。一口食べて、目を閉じた。ふわふわで、甘くて、出汁がきいていて。——美味しかった。本当に美味しかった。転校ばかりの生活で冷えていた心に、あの卵焼きの温もりが染みた。
あの日から、蓮の隣にいることが少しずつ当たり前になっていった。
調理室で初めて一緒に料理した日。蓮が和食を作り、澪が洋菓子を作った。左手で包丁を握る自分に、蓮は「左利きなんだな」と言っただけで、調理台の配置を入れ替えてくれた。「すみません」と謝ったら、蓮は笑って「謝ることじゃないだろ」と言った。あの笑顔に、澪の心は揺れた。
蓮の隣は居心地がよかった。母が言っていた通り、「美味しいものは人の心を開く」——蓮と料理をする時間が、閉じていた澪の心を少しずつこじ開けた。
でも——気づいていた。
蓮が陽葵の名前を呼ぶ時の声。それは、自分に向ける声とは明らかに違った。
澪に向ける声は温かい。穏やかで、優しくて、料理仲間としての信頼と親しみが込められている。それは本物だ。蓮は誰に対しても分け隔てなく接するが、澪に対しては特に、転校生の孤独を理解しようとする気遣いがあった。それが嬉しかった。
でも、陽葵の名前が出た時の蓮の声は、別のものだった。
もっと柔らかくて、もっと温かくて、どこか切実で。まるで失いたくないものに触れるような声。蓮自身が気づいていない声。無意識に漏れ出す感情が、声の端に宿っていた。
「お母さんの味みたい」と言った時の蓮の笑顔。あれは嬉しそうだった。澪が蓮の料理に母の味を重ねた時、蓮は共鳴してくれた。料理を通じた共感。それは本物だった。でも——それだけだった。蓮にとって澪は「料理仲間」であり、「助けたい人」であり、「大切なクラスメイト」だった。そこに恋愛感情はない。
一方で、陽葵が味見を断った時の蓮の「珍しいな」。あの一言に込められた動揺を、澪は見逃さなかった。蓮の顔色が変わったのだ。わずかに——本当にわずかに——不安が目に宿った。陽葵が来なくなった昼休みに、蓮がちらりと教室の入口を見る仕草。誰かを待っている目。あの目は、澪には一度も向けられなかった。
体育館に走り出した足。文化祭の間中ずっと体育館の方角を見ていた視線。そして今、「好きだ」という声。
全部、知っていた。とうに気づいていた。
蓮が好きなのは、天野陽葵だ。
澪にとって蓮は、転校先で初めて心を開けた人。初めて「ここにいてもいい」と思わせてくれた人。——好きだった。澪は蓮のことが好きだった。料理仲間としての好意の延長線上に、いつの間にか恋が芽生えていた。蓮の笑顔に胸が温かくなること。蓮の料理を食べると安心すること。蓮の隣にいると、もう転校しなくていいのだと思えること。
でも、蓮が自分を見る目と、陽葵を見る目が違うことに、ずっと気づいていた。
痛い。胸の奥が、きゅっと痛む。
でも——仕方がない。仕方がないことは、最初から分かっていた。
「……行ってください」
澪が微笑んだ。
三日月のように目を細めて、小さく頷いた。色白の頬にほんのりと赤みが差している。唇が少し震えていたけれど、声は震えなかった。
「澪——」
「大丈夫です」
澪は一歩下がって、蓮の通り道を空けた。髪の毛先を指で弄る癖が出かけて、ぐっと堪えた。今は弱いところを見せたくなかった。
「蓮くんが行くべき場所は、ここじゃないですから」
蓮は一瞬言葉に詰まった。澪の紺色の目を見た。その目に映っているものを——切なさと、強さと、蓮への想いと、それでも送り出す決意を——全部受け取った。
「ありがとう」
蓮はもう一度深く頭を下げた。
そして、走り出した。
調理室を飛び出した。廊下に出る。上履きのゴム底が床を蹴る音が響いた。文化祭の装飾が壁に貼られた廊下を駆け抜ける。色紙で作られた花や、手書きのポスターや、風船が視界の端を流れていく。
渡り廊下に出た。五月の午後の光が眩しかった。空は青くて、雲が白くて、風が吹いていた。校庭ではクラスの出し物のテントが並んでいて、生徒たちの笑い声が聞こえている。文化祭の華やかさが、蓮の周囲を彩っていた。でも今の蓮には、何も見えていなかった。
走った。ただ走った。
体育館に向かって。陽葵がいる場所に向かって。
左手首のブレスレットが、走る振動で揺れた。母の形見の革紐。あの夜、陽葵が握ってくれた手首と同じ場所にある。
——母さん、俺、やっと分かった。
心の中で呟いた。
——陽葵が何で泣いたのか。陽葵が何で嘘をついたのか。陽葵が何で毎朝迎えに来てくれたのか。全部、同じ理由だ。
体育館の入口が見えた。重い扉。蓮は両手で押し開けた。
体育館の中は、がらんとしていた。
模擬試合はとっくに終わっていた。パイプ椅子が片付けられ、得点板が壁際に寄せられている。観客はいない。バレー部の部員も帰っている。ネットだけが張られたままで、天井の蛍光灯が白い光を落としていた。
その中に、一人だけ残っている人がいた。
天野陽葵。
コートの中央から少し離れた位置で、バレーボールを壁に打ちつけていた。
ばん。ばん。ばん。
規則的な音が体育館に反響している。壁に当たったボールが跳ね返り、陽葵がそれを受け止めて、また打つ。スパイクのフォームで、全身を使って。助走はない。その場に立ったまま、腕だけで叩きつけている。それでも、打球は重い。壁に当たる度に、鈍い衝撃音が鳴った。
栗色の髪がポニーテールにまとめられていて、汗で濡れた後れ毛が首筋に張りついている。ジャージのまま。模擬試合が終わってからずっとここにいたのだろう。額から汗が流れて、顎先から落ちる。白いTシャツの肩口が汗で透けていた。
蓮は入口に立ったまま、その姿を見つめた。
——きれいだ。
不意に、そう思った。
汗だくのジャージ姿。乱れた髪。赤く染まった顔。必死にボールを打つ、その姿。化粧もしていない。制服でもない。ただのバレー部のジャージ。なのに、蓮の目には、世界で一番きれいに見えた。
陽葵がボールを打つ時、体が伸びる。百六十一センチの体が跳ね上がるように伸び切って、右腕を振り下ろす。バレー部で鍛えた筋肉が、ジャージの上からでも分かる。力強くて、しなやかで、眩しくて。
ずっと、隣にいたのに。毎日毎日、この人が隣にいたのに。こんなに近くにいたのに。この気持ちに、なぜ今まで気づかなかったのか。
陽葵がボールを打つ手を止めた。
蓮の存在に気づいたのだ。体育館の入口から差し込む光に照らされた蓮のシルエットを見て、手が止まった。
ゆっくりと振り返った。
琥珀色の目が大きく見開かれた。
昨日泣いたのだろう。目が少し腫れている。まぶたが赤い。でも、涙の跡はなかった。今は泣いていない。その代わりに、表情が固まっていた。蓮を見て、体が硬直していた。
「なに」
声が出た。かすれていた。
「こっち来んな」
震えている。声も、手も。ボールを握った指が、白くなるほど力が入っていた。
蓮は歩き出した。止まらなかった。
体育館の床を、上履きが擦る音がした。コートのラインを越えて、陽葵に向かって歩く。一歩、二歩、三歩。
「来んなって——」
陽葵が後ずさった。半歩。でもそれ以上は下がらなかった。逃げたいのに、足が動かない。蓮から目を逸らせない。琥珀色の目が蓮を捉えて、離さない。
蓮が立ち止まった。
陽葵との距離は、まだ遠い。コートの半分くらい。五メートルほど。でも蓮の目はまっすぐだった。暗褐色の瞳に、はっとするほど真っ直ぐな光が宿っている。いつもの穏やかな目じゃない。何かを決めた目。
「後夜祭の時に、もう一回来る」
蓮の声が、がらんとした体育館に響いた。高い天井に反射して、余韻が残った。
「逃げないでくれ」
それだけ言って、蓮は踵を返した。
背を向けて、体育館の入口に歩いていく。上履きの音が遠ざかっていく。光の差し込む入口に向かって、蓮の黒髪のシルエットが小さくなっていく。
陽葵は一人、コートの上に立ち尽くしていた。
バレーボールを抱えた腕が、小さく震えていた。
——逃げないでくれ。
蓮の声が、耳に残っている。あの真っ直ぐな目。今まで見たことのない蓮の目。穏やかで柔らかいだけだった暗褐色の瞳に、はっとするほどの光が宿っていた。あんな目で見られたのは、初めてだった。
膝が震えた。
その場にしゃがみ込んだ。ボールを抱えたまま、膝を折って、体育館の床に座り込んだ。
「ずるい」
声が漏れた。
「ずるいよ、蓮」
涙は出なかった。昨日散々泣いたから、もう涙が枯れたのかもしれない。でも胸の奥が熱くて、喉の奥が詰まって、呼吸がうまくできなかった。
逃げないでくれ、と蓮は言った。
逃げたい。逃げたいに決まっている。昨日あんなに泣いて、あんなに叫んで、全部ぶちまけて。恥ずかしくて、蓮の顔なんか見られない。
でも。
——蓮が「来る」と言った。
蓮の方から来ると言った。後夜祭に来ると言った。蓮が自分から動くなんて、今まで一度もなかった。いつも蓮は待っている側で、受け止める側で、自分から走り出すことはなかった。
それが——今日、走ってきた。
体育館のドアを開けて、息を切らせて、まっすぐにここに来た。
なぜ?
陽葵はボールを抱きしめた。栗色の髪が頬に張りつく。汗が乾き始めて、少し肌寒くなってきた。
答えは分からない。でも、逃げないでくれ、と言われたのだ。蓮にそう言われたら——逃げられるわけがない。
陽葵は深く息を吸った。吐いた。もう一度吸った。
立ち上がった。
ボールを片付けて、体育館を出る。後夜祭は夕方からだ。まだ時間がある。
逃げない、と心の中で呟いた。
逃げない。今度は、逃げない。
蓮は調理室に戻った。
澪と遼太が片付けをしていた。棚に食器を戻し、調理台を拭いている。蓮が入ってきたのを見て、遼太が顔を上げた。
「おう、戻ったか」
「ああ」
「で、どうだった」
「……後夜祭に、もう一回行く」
遼太がにやりと笑った。いつもの、口の端を上げた笑い方。
「お前にしちゃ上出来だ」
「うるせえ」
蓮はカウンターの横に立って、片付けを手伝い始めた。食器を棚に戻し、調理台を拭き、ゴミをまとめる。体を動かしていると、少しだけ気持ちが落ち着いた。
「カフェ、完売だってさ」
遼太が報告した。蓮は「マジか」と少しだけ笑った。澪と一ヶ月かけて準備してきたカフェ。全部売り切れた。
澪がテーブルを拭く手を止めた。蓮が何を言うか、待っている。紺色の目が、静かに蓮を見ていた。
「澪」
「はい」
蓮は澪の前に立った。澪の目を見た。真っ直ぐに。
「カフェ、楽しかったな。お前と一緒にメニュー作れてよかった」
澪の紺色の目が、ほんの少しだけ潤んだ。
睫毛の先に光が溜まったように見えた。でも涙はこぼれなかった。澪はそれを許さなかった。ぐっと堪えて、唇を引き結んで、それから——笑った。
「私も」
声が少しだけ震えた。でも、笑顔は本物だった。
「蓮くんとカフェができて、楽しかったです」
小さいけれど、確かな笑顔。紺色の目を細めて、色白の頬をほんのり染めて。転校を繰り返して居場所がなかった少女が、初めての文化祭で見つけた笑顔。
蓮はその笑顔を見て、胸が痛んだ。澪が何を感じているか——全部とは言わないまでも、いくらかは分かった。澪は聡い人だ。蓮が陽葵を見る目と自分を見る目の違いに、とうに気づいていたはずだ。それでも「行ってください」と送り出してくれた。それがどれだけの強さか、蓮には分かる。
「天野さんに、美味しいもの作ってあげてください」
澪が言った。唐突に。でも、そこに込められた意味は明確だった。
蓮は一瞬目を見開いて、それから頷いた。
「ああ。——ありがとう、澪」
遼太は二人のやり取りを見て、黙って片付けを続けた。時々、口元だけ笑っていた。
片付けが終わって、三人で調理室を出た。
蓮が最後に灯りを消して、ドアを閉めた。「旬菜カフェ・あおば」の看板を外して、廊下の壁に立てかけた。
外に出ると、校庭では後夜祭の準備が始まっていた。
中央に薪が組まれている。キャンプファイヤー用の大きな薪の山。まだ火はついていないが、日が沈み始めて、空が橙色に染まっていく。雲の端が金色に光って、校舎の屋上のシルエットが黒く浮かび上がっていた。
五月の夕暮れ。風が温かい。文化祭の喧噪が少しずつ静まっていく中で、後夜祭への期待が空気に満ち始めている。
「じゃ、俺はサッカー部の奴らと合流するわ」
遼太が手を上げた。
「蓮」
「ん?」
「がんばれよ」
遼太はそれだけ言って、振り返らずに歩いて行った。茶色の短髪が夕日に照らされて、日焼けした首筋が光っていた。百七十八センチの大きな背中が、人混みの中に消えていく。
澪も「お疲れさまでした」と小さく頭を下げて、校舎に戻っていった。黒髪のストレートロングが夕日を受けて、かすかに藍色に光った。
蓮は一人、校庭の端に立っていた。
薪の山を見つめた。もうすぐ、あそこに火がつく。キャンプファイヤーの炎が夜空に上がる。
胸の中で、一つの言葉が何度も繰り返されている。
——俺の隣は、陽葵じゃなきゃダメだ。
あとは——それを、陽葵に伝えるだけだ。
蓮は左手首のブレスレットに触れた。革紐の感触が指に馴染む。母の形見。
——母さん、見ててくれ。
空が、暮れていく。




