第十八章 あいつの弁当
カフェの客足が落ち着いたのは、午後二時を過ぎた頃だった。
午前中のピーク時には調理室の前に行列ができていた。だし巻き卵セットが一番の人気で、おにぎりプレートも昼前に完売した。味噌汁は何度も追加で仕込み直した。蓮と澪は二人で調理と盛りつけを回し続け、接客は他のクラスメイトに任せていた。
今はもう、調理台の上は片付いている。余った食材を保存容器に分け、調理器具を洗い、カウンターを拭いた。窓の外から文化祭の喧噪が聞こえてくる。クラスの出し物の呼び込み、吹奏楽部の演奏、笑い声。調理室の中だけが、静かだった。
遼太がやってきたのは、そんなタイミングだった。
サッカー部のジャージ姿。部の模擬試合デモは午前で終わったらしく、タオルを首にかけて、スポーツドリンクのボトルを片手に調理室のドアを開けた。日焼けした顔に汗の跡。いつもの軽い足取りで入ってきて、カウンター越しに蓮を見た。
「よう。まだ何か食えるもんある?」
「卵焼きの切れ端が残ってる。食うか」
「食う食う」
蓮が皿にだし巻き卵の残りを盛った。形の崩れたものや端っこの部分だが、味は同じだ。遼太はカウンターの前の椅子に座って、箸を受け取った。
一切れ目を口に入れて、目を閉じた。
「……うっま。やっぱうまいわ、蓮の卵焼き」
「残り物だけどな」
「残り物とか関係ねえよ。味は味だ」
遼太はだし巻き卵の最後の一切れを口に放り込んで、ゆっくりと噛んだ。
うまい。やっぱりうまい。蓮の卵焼きは出汁がきいていて、ふわふわで、ほんのり甘い。毎朝これを食べられる人間がこの世に存在するという事実が、遼太には信じがたかった。
箸を置いた。茶色のたれ目で、カウンターの向こうに立つ蓮を見た。
蓮は動かなかった。布巾を握ったまま、どこか遠くを見ている。暗褐色の目に、いつもの穏やかさがない。代わりにあるのは、自分でも持て余しているような、名前のつかない感情だった。
遼太はそれを見逃さなかった。実家の居酒屋で客の顔を見続けた男だ。誰かが何かを抱えている時の空気は、すぐにわかる。蓮のこの顔は、昨日の体育館から——陽葵が泣きながら走り去ってから、ずっと続いているのだろう。
「毎朝これ食ってる天野がうらやましいわ」
自分が放った一言が、蓮の中で何かを動かしたのが分かった。蓮の手が止まった。布巾を握る指に力が入った。
澪は調理台の端で洗い物をしていた。蛇口から水が流れる音が、しんとした調理室に響いている。遼太と蓮の間の空気が変わったことに気づいているはずだが、口を挟まない。タオルで手を拭いて、背を向けたまま静かに立っていた。
遼太が席から立ち上がった。
椅子を引く音がガタリと鳴って、蓮がびくりと顔を上げた。遼太はカウンターに腰を預けるように寄りかかって、蓮を正面から見た。日焼けした顔。いつものニヤニヤ笑いは消えている。代わりに、真剣な目。中学から四年間、蓮と陽葵の横にいた男の目。
「なあ蓮」
「……何だよ」
「お前さ、天野が毎日弁当食べに来てたの、飯が食いたかったからだと思ってんの?」
蓮は答えられなかった。
当たり前だろう、と言おうとした。陽葵は蓮の弁当が好きなのだ。卵焼きが好きなのだ。美味いから食べに来る。それだけの話だ。——そう言おうとした。でも、口が動かなかった。喉の奥で言葉が詰まって、声にならなかった。
当たり前だろう、という言葉が、初めて嘘に聞こえた。
遼太は蓮の沈黙を見て、続けた。声は静かだった。からかいの調子は一切ない。
「あいつが朝迎えに来るのは?」
「それは——」
幼馴染だから。家が隣だから。通学路が同じだから。
「放課後調理室覗くのは?」
「料理部を——」
応援してくれてるから。料理が好きだから。味見が楽しいから。
「商店街に『偶然』来るのは?」
蓮の言葉が途切れた。
商店街。四月の土曜日。蓮が買い出しをしていたら、陽葵が「偶然」現れた。その時——右目が泳いでいたのを、蓮は見ていた。偶然じゃなかった。あの時は何も考えなかった。陽葵はそういう奴だと思っていた。深い意味なんてないと。
遼太の声が、静かに調理室に落ちた。
「——お前の隣にいたかったからだろ」
蓮の中で、何かが弾けた。
音がしたわけじゃない。物理的に何かが壊れたわけでもない。でも、胸の奥で——ずっと閉じていた蓋が、弾け飛んだ。
映像が、フラッシュバックのように流れ込んでくる。
堰を切ったように。息もつけないほどの速さで。一つ一つの場面が鮮明に蘇り、全てが別の意味を帯びて蓮に襲いかかった。
四月の朝。桜並木の通学路。
藤咲家の玄関先で、「蓮、遅い!」と叫ぶ陽葵。栗色のセミロングが朝の光に透けて、琥珀色の目が笑っている。毎朝毎朝、欠かさず迎えに来た。雨の日も、風の日も、テスト前の寝不足の日も。当たり前だと思っていた。隣の家だから当然だと思っていた。
——当然じゃなかった。
昼休みの教室。
「味見ね、味見」と箸を伸ばす陽葵。蓮の弁当から卵焼きを一切れ取って、口に入れる。目を閉じて、「うん、相変わらずうまい!」と笑う。八重歯が覗く。その笑顔が、蓮は好きだった。——好きだった?
陽葵が卵焼きを食べるたびに、一瞬だけ表情が揺れることを、蓮は見落としていた。母と一緒に料理をした記憶がよぎっていたのだと、今なら分かる。
調理室。
ドア枠にもたれて、蓮の横顔を見つめていた陽葵。遼太に「また蓮見てんの?」とからかわれて、慌てて遼太の肩をバシバシ叩いていた。照れた時にそうする癖。蓮はそれを何度も見てきたのに、なぜ照れるのかを考えたことがなかった。
陽葵はバレー部の練習後、汗を拭きながら調理室に来ていた。疲れているはずなのに。部室で着替えてから来ればいいのに。わざわざ練習着のまま来ていた。料理する蓮の横顔を見に——蓮の隣にいるために。
商店街の午後。
「偶然」現れた陽葵。蓮のSNSの投稿を見て、居場所を推測してきたのだ。右目が泳いでいた。嘘をつくと右目が泳ぐ。知っていた。知っていて、気にしなかった。「偶然」を信じたふりをして——いや、本当に信じていた。
松田のおばちゃんに「彼女さん?」と聞かれた時、陽葵が一瞬だけ嬉しそうな顔をして、すぐに否定しなければならなかった時の表情。あの痛みに、蓮は気づかなかった。
帰り道。天野家の前。
「ねえ、蓮。蓮は——」と言いかけて、飲み込んだ陽葵。あの時、蓮のいつもの穏やかな笑顔を見て、言葉が出なくなったのだと。蓮が何も変わらないから。蓮が何も気づかないから。陽葵は言えなかった。
「また明日ね!」と笑って走り去った声が、どこか裏返っていた。あの声の震えの意味を、蓮は考えなかった。
距離を取り始めた日々。
「朝練がある」。嘘だった。「友達と約束がある」。嘘だった。右目が泳いでいた——はずだ。LINEの文面だから見えなかったけれど、陽葵は画面の向こうで右目を泳がせていたはずだ。
蓮は「忙しいんだな」と額面通りに受け取った。馬鹿だ。馬鹿すぎる。陽葵が蓮を避けたのは——蓮の隣にいるのが辛くなったからだ。好きな人の隣にいて、何も気づいてもらえないことが、限界だったのだ。
雨の放課後。
昇降口で澪に傘を差し出した蓮。その場面を見ていた陽葵。傘を持っていたのに畳んで、一人で雨の中を走って帰った。夜のLINE。「大丈夫、心配すんな!」。——大丈夫じゃなかっただろう。あの夜、陽葵は泣いていたはずだ。蓮が別の女の子に傘を差し出すのを見て、自分には何もない距離を突きつけられて。
味見を断られた日。
「お前の舌が一番信用できる」と差し出した試食の紙袋を、「忙しいから」と断った陽葵。あの時の右目。泳いでいた。そして蓮は「珍しいな」と呟いた。珍しい——その一言に、どれだけの意味があったか。陽葵が蓮の味見を断ったことは、一度もなかった。生まれてから十七年間、一度も。それを「珍しいな」で片付けた。
そして——体育館。
涙を浮かべた琥珀色の目。
「蓮のくせに、何も分かんないくせに!」
あの叫びの意味が、今、全部分かった。
フラッシュバックが止まった。
蓮は調理室に立っていた。カウンターに両手をついていた。いつの間にかそうしていた。体が震えていた。呼吸が浅くなっている。視界がぼやけていて——ああ、これは涙だ。
蓮の胸に、名前がついた。
ずっとそこにあったのに、見えていなかった。陽葵が毎朝迎えに来ること。弁当を食べに来ること。調理室を覗くこと。帰り道を一緒に歩くこと。全部が「当たり前」で、全部が「いつものこと」で——だから見えなかった。あまりにも近くにありすぎて。空気みたいに自然にそこにあって。
でも、その「当たり前」がなくなった時、蓮の日常は色を失った。朝の通学路に陽葵がいない。昼休みに弁当を狙いに来ない。放課後の調理室を覗かない。「珍しいな」と感じたあの違和感は——喪失の予感だった。「変わらないでほしい」と願ったあの漠然とした思いは——陽葵を失う恐怖だった。
それに、ようやく名前がついた。
「好きだ」
声に出していた。
自分でも驚くほど、自然に。まるで最初からそこにあった言葉を、ようやく見つけたみたいに。当たり前のように。呼吸をするみたいに。口から出て、空気に溶けて、調理室の中に響いた。
小さな声だった。でも、確かな声だった。
——俺は、陽葵が好きだ。
頭の中で繰り返した。何度も。好きだ。好きだった。ずっと好きだった。あの手を握り返した九年前から、いや、もしかしたらもっと前から。母が生きていた頃、三人で台所に立っていた頃から。陽葵の笑顔を見ると安心したあの感覚は、最初から恋だったのかもしれない。
蓮の左手首で、革紐のブレスレットが調理室の蛍光灯の光を受けて鈍く光っていた。母の形見。ずっと身につけてきた。母がいなくなった日、陽葵が手を握ってくれた時、このブレスレットも一緒にあった。
遼太がふっと笑った。
いつものニヤニヤ笑いじゃない。どこか安堵したような、肩の荷が下りたような笑顔だった。明るい茶色の目が、柔らかく細まっている。
「やっと言ったな、このバカ」
蓮は遼太を見た。涙が一筋、頬を伝った。慌てて手の甲で拭う。遼太は気づかないふりをした。
「お前がそれに気づくまで何年かかったと思ってんだよ。俺は中学から見てたんだぞ」
「……悪い」
「俺に謝ってどうすんだ。謝る相手は別にいるだろ」
遼太の声は穏やかだったが、どこかに安堵が滲んでいた。中学から四年間、二人の近くで見守り続けた。陽葵が蓮を見る目の意味を、蓮がいつ気づくかと、ずっとやきもきしてきた。「人のことは分かるくせに、自分のことになると何もできない」——遼太はそれが自分のことだと知っている。でも今日だけは、他人のために動けた。今日の遼太は、蓮の背中を押すために来た。
遼太は拳を差し出した。日焼けした、大きな拳。蓮もこぶしを作って、軽くぶつけた。骨と骨が触れ合う小さな音が鳴った。
「行けよ」
「ああ」
「天野は多分、体育館にいる。試合終わった後、いつもの壁打ちしてるはずだ。あいつ、気持ちの整理がつかない時は必ず打つからな」
遼太の観察眼。実家の居酒屋で客の顔を見続けた男の目。陽葵のストレス発散の癖まで見抜いている。
蓮がエプロンを外した。首からかけたエプロンの紐をほどいて、頭から抜く。カウンターに置いた。布巾を畳んで、その横に置いた。カフェの後片付けは済んでいる。調理台は拭いてある。食材も片付けた。文化祭はまだ続いているが、料理部カフェの仕事はもう終わった。
「俺、行かなきゃ」
カウンターを回り込んで、調理室の入口に向かった。
——そこに、澪が立っていた。
洗い物を終えてタオルで手を拭く澪が、入口の横に静かに立っていた。黒髪のストレートロングが背中に流れ、色白の顔がまっすぐ蓮に向いている。紺色の目が、蓮を見ていた。
その目には、全部が映っていた。蓮の涙も。遼太の拳も。「好きだ」という声も。
澪は、全部聞いていた。




