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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第三部 ゼロ距離

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17/22

第十七章 祭りの朝

 午前五時二十三分。

 目覚まし時計が鳴る前に、蓮は目を開けた。

 眠れなかった。正確には、午前三時過ぎに意識が途切れて、そこから断続的にうとうとしただけだ。目を閉じるたびに陽葵の泣き顔が浮かんで、その度に体がびくりと跳ねて目が覚めた。結局、二時間も眠れていない。

 体が重い。腕を持ち上げるのにも力がいる。でも頭だけは妙に冴えていて、それが余計にたちが悪かった。

 カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。五月下旬の朝は早い。空はもう白み始めていて、雀の声が聞こえている。文化祭当日だ。

 布団を蹴って起き上がった。洗面所で顔を洗う。鏡に映った自分の顔を見て、思わず目を逸らした。目の下に隈。肌の色も悪い。黒髪のマッシュが寝癖で片側だけ跳ねている。水で濡らして押さえたが、言うことを聞かなかった。

 台所に立つ。

 今日の仕込みは文化祭用だ。料理部のカフェ「旬菜カフェ・あおば」。蓮の和風軽食と澪のデザートを組み合わせたメニュー。一ヶ月近くかけて試作を重ねてきた。だし巻き卵セット、おにぎりプレート、味噌汁。蓮が全て一人で仕込める量を計算してある。

 米を研いだ。水の冷たさが指先から体に染みる。ざるに上げて、出汁を取る。鰹節を削って、昆布と一緒に鍋に入れる。火をつけると、鰹節の香りが台所に広がった。

 この匂いを嗅ぐと、落ち着く。

 母がいた頃、この台所はいつもこの匂いがしていた。出汁の匂い。味噌の匂い。炊きたてのご飯の匂い。母のエプロンにもこの匂いが染みついていて、抱きしめると出汁と石鹸が混ざったような匂いがした。

 卵を割った。ボウルに六個分の卵液を作り、出汁と砂糖と醤油で味付けする。分量は計らない。手が覚えている。何百回と焼いてきた、母のだし巻き卵。

 フライパンに油を敷いて、卵液を流し込む。じゅっと音がして、表面が白く固まり始める。菜箸で端から巻いていく。一巻き、二巻き、三巻き。きれいな黄金色の層が重なっていく。

 ——毎朝、こうして焼いている。

 自分と、ひなたの分。そして陽葵の分。陽葵は自分の弁当箱にも卵焼きが入っているくせに、蓮の弁当から必ず一切れ奪っていった。「味見」と称して。そのために蓮は毎朝、いつの間にか三人分の量を焼くようになっていた。

 今日は——陽葵は来ない。

 卵焼きを巻く手が、一瞬だけ止まった。

「お兄」

 ひなたが台所に現れた。制服姿。黒髪のボブカットは綺麗にブラシが通っていて、前髪を陽葵に選んでもらったヘアピンで留めている。日曜だが文化祭は登校日で、中等部の生徒も見学に来られる。

 ひなたは蓮の横顔をじっと見た。

「顔色悪いけど」

「大丈夫だ」

「嘘つき」

 ひなたの声はいつも通り素っ気なかった。けれど吊り目がちな瞳が蓮の目の下の隈に止まって、動かない。昨夜、灯りが消えなかった部屋を思い出したように、小さく唇を結んだ。

 何も言わず、冷蔵庫からお茶を出した。コップに注いで、蓮の横にそっと置いた。蓮の視界に入る位置に、音を立てないように。

「あたし、今日ひまり姉の試合見に行くから」

「ああ、バレー部の模擬試合か」

「うん。十時からだって」

「そうか。楽しんでこい」

 ひなたはお茶を一口飲んで、それからぽつりと言った。

「料理部のカフェは行かない」

 蓮が卵焼きを巻く手を止めて、振り向いた。

 ひなたはそっぽを向いている。暗褐色の吊り目がちな目が、窓の外を見ていた。朝の光がひなたの黒髪を照らしている。

「……どうして?」

「べつに。バレーの方が面白そうなだけ」

 嘘だ、と蓮は思った。ひなたは嘘をつくとき、こうして視線を逸らす。陽葵のように右目が泳ぐわけではないが、顔を背ける癖がある。理由は分からない。でも、ひなたにはひなたの考えがある。蓮はそれを尊重することにした。

「分かった。気をつけろよ」

「お兄こそ」

 ひなたはコップを流し台に置いて、リビングを出て行った。玄関で靴を履く音がして、「行ってきます」と小さな声がして、ドアが閉まった。

 台所に、蓮だけが残った。

 だし巻き卵を巻き終えて、まな板の上に置いた。黄金色の層が美しく重なっている。母が教えてくれた通りの巻き方。何百回焼いても、この瞬間だけは母が隣に立っている気がする。

 弁当箱に卵焼きを詰めた。自分の分だけ。ひなたの分は、今日は要らない。

 残りの仕込み——おにぎり用の具材、味噌汁の出汁——をタッパーに詰めて、保冷バッグに入れた。


 朝七時。蓮は学校に着いた。

 自転車を駐輪場に停めて、校門をくぐる。文化祭の横断幕が校舎の壁に掛かっていた。「青葉ヶ丘祭」の文字。色とりどりの旗が風に揺れている。校庭では、各クラスや部活がテントを立てたり看板を掲げたりしている。まだ開場前だが、すでに活気があった。

 調理室のドアを開けると、すでに灯りがついていた。

 澪がいた。

 エプロンを丁寧に着けて、黒髪のストレートロングを一つに束ねている。腰近くまで伸びた髪が、背中でさらりと揺れた。調理台の上にはボウルとバターと小麦粉が並び、マドレーヌの生地を仕込んでいる最中だった。左手で泡立て器を動かしている。几帳面な手つきで、生地の状態を確かめるように一定のリズムで混ぜていた。

 蓮に気づいて顔を上げた。紺色の目が少しだけ見開かれる。

「おはようございます。——蓮くん、早いですね」

「澪の方が早いだろ」

「緊張して眠れなくて」

 澪が照れたように微笑んだ。紺色の目に、少しだけ興奮が混じっている。色白の頬がうっすらと紅潮していた。

 澪がオーブンの予熱を確認する手つきが、どこか丁寧すぎた。仕込みの段取りを三回も見直していた紙が、調理台の隅に置いてある。前の学校では、行事の準備に加わっても、当日を迎える前に教室を去った。今回は違う。最初から最後まで、ここにいられる。澪の指先が、マドレーヌの型をそっと撫でた。

「生地の仕込み、もう終わりそうです。オーブンの予熱も入れてあります」

「助かる。じゃあ俺はだし巻きとおにぎりやるな」

「はい」

 二人で仕込みを始めた。

 蓮がだし巻き卵を焼く。卵液を流し、菜箸で巻く。焼き上がりをまな板に置いて、次の分を流す。同時進行でおにぎりを握る。塩を手のひらに広げて、炊きたてのご飯を三角に整える。具は梅、鮭、昆布の三種。

 澪がマドレーヌをオーブンに入れる。タイマーをセットして、次にフィナンシェの生地に取りかかる。焦がしバターを作り、アーモンドプードルと卵白を合わせる。左手で正確に計量し、ボウルに材料を加えていく。

 言葉は少ない。でも、手は止まらない。

 この一ヶ月の放課後、毎日のように二人で調理室に立ってきた。蓮が場所を空ければ澪が入り、澪が調理台を離れれば蓮が使う。必要な器具を渡すタイミング、互いの動線を妨げない立ち位置、水を使う順番——体が覚えている。声に出さなくても分かる。料理仲間としての呼吸が、自然に合っていた。

 オーブンからマドレーヌの甘い香りが漂い始めた。バターと卵と小麦粉が焼ける匂い。蓮の出汁の香りと混ざって、調理室が温かい空気に包まれる。

「蓮くん」

「ん?」

「今日、うまくいくと思いますか?」

 澪が生地を混ぜる手を止めずに聞いた。声は落ち着いていたが、指先にわずかな力が入っている。緊張しているのだ。

「うまくいくさ。澪の菓子は美味いからな」

「……ありがとうございます」

 澪が小さく微笑んだ。目を細めて、三日月のような笑み。この表情を見せるようになったのは最近のことだ。四月に転校してきた頃の澪は、笑顔をほとんど見せなかった。伏し目がちで、声が小さくて、いつも申し訳なさそうにしていた。

 変わったのだ。この調理室で、蓮と料理を作る時間の中で、少しずつ。


 午前九時。「旬菜カフェ・あおば」開店。

 調理室の入口に手書きの看板を立てた。澪が丁寧な字で書いたメニュー表。だし巻き卵セット、おにぎりプレート(梅・鮭・昆布から選択)、お味噌汁付き。デザートプレート(マドレーヌ、フィナンシェ、季節のフルーツ添え)。窓際にテーブルを並べた簡素なカフェだが、清潔感があった。テーブルクロスは澪が自宅から持ってきた白い布で、小さな花瓶に野花が一輪ずつ活けてある。

 開店と同時に、客が入り始めた。

「すみませーん、だし巻き卵セットひとつ!」

「はい、少々お待ちください」

 澪が注文を受け、蓮が調理する。澪がデザートプレートを左手で器用に盛りつけ、蓮がおにぎりプレートを運ぶ。澪の盛りつけは丁寧で、フィナンシェの横にミントの葉を添え、フルーツの断面が綺麗に見えるように角度を調整していた。

 客が一口食べて「美味しい」と言うたびに、澪の背筋がほんの少しだけ伸びた。それを蓮は横目で見ていた。

 予想以上の客入りだった。蓮のだし巻き卵は「ふわふわで美味しい!」「これ本当に高校生が作ったの?」と評判になり、誰かがSNSに写真を上げたのか、十時を過ぎた頃から行列ができ始めた。

「蓮くん、マドレーヌが残り六個です」

「追加焼きだな。生地はまだあるか?」

「はい。予備の分があります」

「助かる。さすが澪」

 褒められて、澪の色白の頬がほんのり赤くなった。でも手は止めない。すぐにオーブンの予熱を確認し、マドレーヌ型にバターを塗り始めた。

 昼近くになると、カフェは満席が続いた。蓮は休む暇もなく卵を焼き、おにぎりを握り、味噌汁をよそった。澪はデザートを盛りつけ、注文を捌き、合間に追加のフィナンシェを焼いた。二人の動きに無駄がない。一ヶ月の共同作業が、ここに結実していた。

「美味しいです、これ」

 午前十一時過ぎ。一人の女子生徒が、澪のマドレーヌを食べてそう言った。

 その瞬間、澪の表情が変わった。

 ふわりと——花が開くように——小さく、でも確かに誇らしげに笑った。紺色の目がふわりと緩んで、薄い唇の端がゆるやかに上がった。

 ——この場所にいていい。

 その笑顔が、そう語っていた。

 澪の手が、エプロンの裾をきゅっと握った。すぐに緩めて、次のマドレーヌを型に流し始める。その動作がほんの少し弾んでいた。いつもは正確に、静かに、余計な力を入れずに動く澪の手が——今日だけは、温かいものを抱えるように。


 しかし蓮は、忙しく手を動かしながらも、心ここにあらずだった。

 体育館の方角に、視線が何度も吸い寄せられる。

 調理室の窓からは、渡り廊下の向こうに体育館の屋根が見える。バレー部の模擬試合デモは午前十時から。もう始まっている。陽葵が——昨日泣いたあの陽葵が——今、あそこでプレーしているはずだ。

 ボールを打つ音は、ここまでは聞こえない。でも、想像はできた。栗色の髪をポニーテールにまとめて、ジャージ姿で、助走をつけてジャンプして、全力でスパイクを打ち込む陽葵。コート上の陽葵は別人だ。普段の明るさがそのまま爆発力に変わって、体育館中に声を響かせる。

 今日も、そうしているのだろうか。それとも——昨日の今日で、いつも通りにはできていないだろうか。

 蓮の手が止まった。だし巻き卵を巻く途中で、菜箸が宙に浮いたまま固まった。

「蓮くん」

 澪の声で我に返った。

「大丈夫ですか?」

 蓮を見上げる紺色の目に、心配の色があった。

「……ごめん、ちょっとな」

 曖昧に返した。卵焼きに意識を戻して、菜箸を動かす。巻きが一つ歪んだ。やり直す余裕はないから、そのまま巻き切った。

 澪は蓮の視線の先——調理室の窓越しに見える体育館の方角——をちらりと見て、それから何も言わずに自分の作業に戻った。マドレーヌをオーブンから取り出し、型から外して冷ます。左手で慣れた動きをしながら、視線だけがほんの一瞬、蓮の横顔に向いた。

 ——蓮くんが見ているのは、あの人だ。

 澪には分かっていた。蓮が体育館を気にしているのは、バレー部の試合が気になるからじゃない。天野陽葵のことが気になっているのだ。蓮がカフェの準備中も、調理中も、接客中も、ずっと体育館の方を見ていたのを、澪は全部気づいていた。

 自分の隣にいるのに、蓮の目はここにない。卵を巻く手は正確なのに、心はとっくに調理室を出ている。それがほんの少しだけ、胸に刺さった。

 澪はマドレーヌを皿に並べた。綺麗に焼けている。こんがりとした焼き色に、バターの香り。母に教わった通りのレシピ。

 ——大丈夫。自分はここにいる。自分の居場所は、ここにある。

 それだけで、十分だと思おうとした。


 午後になっても客足は途切れなかった。一時過ぎにようやく少し落ち着いて、蓮と澪は交代で昼食を取った。蓮は自分で作ったおにぎりを一つ食べて、お茶を飲んだ。味が分からなかった。疲れているのか、心がここにないのか。

 午後二時。バレー部の模擬試合は午前中で終わったはずだ。陽葵は今どこにいるだろう。教室に戻っているのか。友人といるのか。それとも——。

 午後三時を過ぎた頃、ようやく客足が途切れた。

 蓮は調理台に手をついて、息をついた。忙しさに紛れて考えないようにしていたものが、静けさの中で戻ってくる。体育館の方角。陽葵の涙。「蓮のくせに、何も分かんないくせに!」。

 澪がカウンターを拭きながら、蓮の横顔を見ていた。今日一日、蓮が何度も体育館の方を見ていたこと。だし巻き卵を一つ歪めたこと。全部、見ていた。

 朝から知っていた。知っていて、目を逸らしていた。

 澪はマドレーヌの残りを数えた。完売まであと少し。今日一日、自分の手で焼いた菓子が、誰かの「美味しい」になった。この調理台に立つ自分を、蓮は「さすが澪」と言ってくれた。それは本当のことだ。嘘じゃない。

 ——でも、それだけだ。

 布巾を絞る手に、少しだけ力がこもった。


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