第十七章 祭りの朝
午前五時二十三分。
目覚まし時計が鳴る前に、蓮は目を開けた。
眠れなかった。正確には、午前三時過ぎに意識が途切れて、そこから断続的にうとうとしただけだ。目を閉じるたびに陽葵の泣き顔が浮かんで、その度に体がびくりと跳ねて目が覚めた。結局、二時間も眠れていない。
体が重い。腕を持ち上げるのにも力がいる。でも頭だけは妙に冴えていて、それが余計にたちが悪かった。
カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込んでいた。五月下旬の朝は早い。空はもう白み始めていて、雀の声が聞こえている。文化祭当日だ。
布団を蹴って起き上がった。洗面所で顔を洗う。鏡に映った自分の顔を見て、思わず目を逸らした。目の下に隈。肌の色も悪い。黒髪のマッシュが寝癖で片側だけ跳ねている。水で濡らして押さえたが、言うことを聞かなかった。
台所に立つ。
今日の仕込みは文化祭用だ。料理部のカフェ「旬菜カフェ・あおば」。蓮の和風軽食と澪のデザートを組み合わせたメニュー。一ヶ月近くかけて試作を重ねてきた。だし巻き卵セット、おにぎりプレート、味噌汁。蓮が全て一人で仕込める量を計算してある。
米を研いだ。水の冷たさが指先から体に染みる。ざるに上げて、出汁を取る。鰹節を削って、昆布と一緒に鍋に入れる。火をつけると、鰹節の香りが台所に広がった。
この匂いを嗅ぐと、落ち着く。
母がいた頃、この台所はいつもこの匂いがしていた。出汁の匂い。味噌の匂い。炊きたてのご飯の匂い。母のエプロンにもこの匂いが染みついていて、抱きしめると出汁と石鹸が混ざったような匂いがした。
卵を割った。ボウルに六個分の卵液を作り、出汁と砂糖と醤油で味付けする。分量は計らない。手が覚えている。何百回と焼いてきた、母のだし巻き卵。
フライパンに油を敷いて、卵液を流し込む。じゅっと音がして、表面が白く固まり始める。菜箸で端から巻いていく。一巻き、二巻き、三巻き。きれいな黄金色の層が重なっていく。
——毎朝、こうして焼いている。
自分と、ひなたの分。そして陽葵の分。陽葵は自分の弁当箱にも卵焼きが入っているくせに、蓮の弁当から必ず一切れ奪っていった。「味見」と称して。そのために蓮は毎朝、いつの間にか三人分の量を焼くようになっていた。
今日は——陽葵は来ない。
卵焼きを巻く手が、一瞬だけ止まった。
「お兄」
ひなたが台所に現れた。制服姿。黒髪のボブカットは綺麗にブラシが通っていて、前髪を陽葵に選んでもらったヘアピンで留めている。日曜だが文化祭は登校日で、中等部の生徒も見学に来られる。
ひなたは蓮の横顔をじっと見た。
「顔色悪いけど」
「大丈夫だ」
「嘘つき」
ひなたの声はいつも通り素っ気なかった。けれど吊り目がちな瞳が蓮の目の下の隈に止まって、動かない。昨夜、灯りが消えなかった部屋を思い出したように、小さく唇を結んだ。
何も言わず、冷蔵庫からお茶を出した。コップに注いで、蓮の横にそっと置いた。蓮の視界に入る位置に、音を立てないように。
「あたし、今日ひまり姉の試合見に行くから」
「ああ、バレー部の模擬試合か」
「うん。十時からだって」
「そうか。楽しんでこい」
ひなたはお茶を一口飲んで、それからぽつりと言った。
「料理部のカフェは行かない」
蓮が卵焼きを巻く手を止めて、振り向いた。
ひなたはそっぽを向いている。暗褐色の吊り目がちな目が、窓の外を見ていた。朝の光がひなたの黒髪を照らしている。
「……どうして?」
「べつに。バレーの方が面白そうなだけ」
嘘だ、と蓮は思った。ひなたは嘘をつくとき、こうして視線を逸らす。陽葵のように右目が泳ぐわけではないが、顔を背ける癖がある。理由は分からない。でも、ひなたにはひなたの考えがある。蓮はそれを尊重することにした。
「分かった。気をつけろよ」
「お兄こそ」
ひなたはコップを流し台に置いて、リビングを出て行った。玄関で靴を履く音がして、「行ってきます」と小さな声がして、ドアが閉まった。
台所に、蓮だけが残った。
だし巻き卵を巻き終えて、まな板の上に置いた。黄金色の層が美しく重なっている。母が教えてくれた通りの巻き方。何百回焼いても、この瞬間だけは母が隣に立っている気がする。
弁当箱に卵焼きを詰めた。自分の分だけ。ひなたの分は、今日は要らない。
残りの仕込み——おにぎり用の具材、味噌汁の出汁——をタッパーに詰めて、保冷バッグに入れた。
朝七時。蓮は学校に着いた。
自転車を駐輪場に停めて、校門をくぐる。文化祭の横断幕が校舎の壁に掛かっていた。「青葉ヶ丘祭」の文字。色とりどりの旗が風に揺れている。校庭では、各クラスや部活がテントを立てたり看板を掲げたりしている。まだ開場前だが、すでに活気があった。
調理室のドアを開けると、すでに灯りがついていた。
澪がいた。
エプロンを丁寧に着けて、黒髪のストレートロングを一つに束ねている。腰近くまで伸びた髪が、背中でさらりと揺れた。調理台の上にはボウルとバターと小麦粉が並び、マドレーヌの生地を仕込んでいる最中だった。左手で泡立て器を動かしている。几帳面な手つきで、生地の状態を確かめるように一定のリズムで混ぜていた。
蓮に気づいて顔を上げた。紺色の目が少しだけ見開かれる。
「おはようございます。——蓮くん、早いですね」
「澪の方が早いだろ」
「緊張して眠れなくて」
澪が照れたように微笑んだ。紺色の目に、少しだけ興奮が混じっている。色白の頬がうっすらと紅潮していた。
澪がオーブンの予熱を確認する手つきが、どこか丁寧すぎた。仕込みの段取りを三回も見直していた紙が、調理台の隅に置いてある。前の学校では、行事の準備に加わっても、当日を迎える前に教室を去った。今回は違う。最初から最後まで、ここにいられる。澪の指先が、マドレーヌの型をそっと撫でた。
「生地の仕込み、もう終わりそうです。オーブンの予熱も入れてあります」
「助かる。じゃあ俺はだし巻きとおにぎりやるな」
「はい」
二人で仕込みを始めた。
蓮がだし巻き卵を焼く。卵液を流し、菜箸で巻く。焼き上がりをまな板に置いて、次の分を流す。同時進行でおにぎりを握る。塩を手のひらに広げて、炊きたてのご飯を三角に整える。具は梅、鮭、昆布の三種。
澪がマドレーヌをオーブンに入れる。タイマーをセットして、次にフィナンシェの生地に取りかかる。焦がしバターを作り、アーモンドプードルと卵白を合わせる。左手で正確に計量し、ボウルに材料を加えていく。
言葉は少ない。でも、手は止まらない。
この一ヶ月の放課後、毎日のように二人で調理室に立ってきた。蓮が場所を空ければ澪が入り、澪が調理台を離れれば蓮が使う。必要な器具を渡すタイミング、互いの動線を妨げない立ち位置、水を使う順番——体が覚えている。声に出さなくても分かる。料理仲間としての呼吸が、自然に合っていた。
オーブンからマドレーヌの甘い香りが漂い始めた。バターと卵と小麦粉が焼ける匂い。蓮の出汁の香りと混ざって、調理室が温かい空気に包まれる。
「蓮くん」
「ん?」
「今日、うまくいくと思いますか?」
澪が生地を混ぜる手を止めずに聞いた。声は落ち着いていたが、指先にわずかな力が入っている。緊張しているのだ。
「うまくいくさ。澪の菓子は美味いからな」
「……ありがとうございます」
澪が小さく微笑んだ。目を細めて、三日月のような笑み。この表情を見せるようになったのは最近のことだ。四月に転校してきた頃の澪は、笑顔をほとんど見せなかった。伏し目がちで、声が小さくて、いつも申し訳なさそうにしていた。
変わったのだ。この調理室で、蓮と料理を作る時間の中で、少しずつ。
午前九時。「旬菜カフェ・あおば」開店。
調理室の入口に手書きの看板を立てた。澪が丁寧な字で書いたメニュー表。だし巻き卵セット、おにぎりプレート(梅・鮭・昆布から選択)、お味噌汁付き。デザートプレート(マドレーヌ、フィナンシェ、季節のフルーツ添え)。窓際にテーブルを並べた簡素なカフェだが、清潔感があった。テーブルクロスは澪が自宅から持ってきた白い布で、小さな花瓶に野花が一輪ずつ活けてある。
開店と同時に、客が入り始めた。
「すみませーん、だし巻き卵セットひとつ!」
「はい、少々お待ちください」
澪が注文を受け、蓮が調理する。澪がデザートプレートを左手で器用に盛りつけ、蓮がおにぎりプレートを運ぶ。澪の盛りつけは丁寧で、フィナンシェの横にミントの葉を添え、フルーツの断面が綺麗に見えるように角度を調整していた。
客が一口食べて「美味しい」と言うたびに、澪の背筋がほんの少しだけ伸びた。それを蓮は横目で見ていた。
予想以上の客入りだった。蓮のだし巻き卵は「ふわふわで美味しい!」「これ本当に高校生が作ったの?」と評判になり、誰かがSNSに写真を上げたのか、十時を過ぎた頃から行列ができ始めた。
「蓮くん、マドレーヌが残り六個です」
「追加焼きだな。生地はまだあるか?」
「はい。予備の分があります」
「助かる。さすが澪」
褒められて、澪の色白の頬がほんのり赤くなった。でも手は止めない。すぐにオーブンの予熱を確認し、マドレーヌ型にバターを塗り始めた。
昼近くになると、カフェは満席が続いた。蓮は休む暇もなく卵を焼き、おにぎりを握り、味噌汁をよそった。澪はデザートを盛りつけ、注文を捌き、合間に追加のフィナンシェを焼いた。二人の動きに無駄がない。一ヶ月の共同作業が、ここに結実していた。
「美味しいです、これ」
午前十一時過ぎ。一人の女子生徒が、澪のマドレーヌを食べてそう言った。
その瞬間、澪の表情が変わった。
ふわりと——花が開くように——小さく、でも確かに誇らしげに笑った。紺色の目がふわりと緩んで、薄い唇の端がゆるやかに上がった。
——この場所にいていい。
その笑顔が、そう語っていた。
澪の手が、エプロンの裾をきゅっと握った。すぐに緩めて、次のマドレーヌを型に流し始める。その動作がほんの少し弾んでいた。いつもは正確に、静かに、余計な力を入れずに動く澪の手が——今日だけは、温かいものを抱えるように。
しかし蓮は、忙しく手を動かしながらも、心ここにあらずだった。
体育館の方角に、視線が何度も吸い寄せられる。
調理室の窓からは、渡り廊下の向こうに体育館の屋根が見える。バレー部の模擬試合デモは午前十時から。もう始まっている。陽葵が——昨日泣いたあの陽葵が——今、あそこでプレーしているはずだ。
ボールを打つ音は、ここまでは聞こえない。でも、想像はできた。栗色の髪をポニーテールにまとめて、ジャージ姿で、助走をつけてジャンプして、全力でスパイクを打ち込む陽葵。コート上の陽葵は別人だ。普段の明るさがそのまま爆発力に変わって、体育館中に声を響かせる。
今日も、そうしているのだろうか。それとも——昨日の今日で、いつも通りにはできていないだろうか。
蓮の手が止まった。だし巻き卵を巻く途中で、菜箸が宙に浮いたまま固まった。
「蓮くん」
澪の声で我に返った。
「大丈夫ですか?」
蓮を見上げる紺色の目に、心配の色があった。
「……ごめん、ちょっとな」
曖昧に返した。卵焼きに意識を戻して、菜箸を動かす。巻きが一つ歪んだ。やり直す余裕はないから、そのまま巻き切った。
澪は蓮の視線の先——調理室の窓越しに見える体育館の方角——をちらりと見て、それから何も言わずに自分の作業に戻った。マドレーヌをオーブンから取り出し、型から外して冷ます。左手で慣れた動きをしながら、視線だけがほんの一瞬、蓮の横顔に向いた。
——蓮くんが見ているのは、あの人だ。
澪には分かっていた。蓮が体育館を気にしているのは、バレー部の試合が気になるからじゃない。天野陽葵のことが気になっているのだ。蓮がカフェの準備中も、調理中も、接客中も、ずっと体育館の方を見ていたのを、澪は全部気づいていた。
自分の隣にいるのに、蓮の目はここにない。卵を巻く手は正確なのに、心はとっくに調理室を出ている。それがほんの少しだけ、胸に刺さった。
澪はマドレーヌを皿に並べた。綺麗に焼けている。こんがりとした焼き色に、バターの香り。母に教わった通りのレシピ。
——大丈夫。自分はここにいる。自分の居場所は、ここにある。
それだけで、十分だと思おうとした。
午後になっても客足は途切れなかった。一時過ぎにようやく少し落ち着いて、蓮と澪は交代で昼食を取った。蓮は自分で作ったおにぎりを一つ食べて、お茶を飲んだ。味が分からなかった。疲れているのか、心がここにないのか。
午後二時。バレー部の模擬試合は午前中で終わったはずだ。陽葵は今どこにいるだろう。教室に戻っているのか。友人といるのか。それとも——。
午後三時を過ぎた頃、ようやく客足が途切れた。
蓮は調理台に手をついて、息をついた。忙しさに紛れて考えないようにしていたものが、静けさの中で戻ってくる。体育館の方角。陽葵の涙。「蓮のくせに、何も分かんないくせに!」。
澪がカウンターを拭きながら、蓮の横顔を見ていた。今日一日、蓮が何度も体育館の方を見ていたこと。だし巻き卵を一つ歪めたこと。全部、見ていた。
朝から知っていた。知っていて、目を逸らしていた。
澪はマドレーヌの残りを数えた。完売まであと少し。今日一日、自分の手で焼いた菓子が、誰かの「美味しい」になった。この調理台に立つ自分を、蓮は「さすが澪」と言ってくれた。それは本当のことだ。嘘じゃない。
——でも、それだけだ。
布巾を絞る手に、少しだけ力がこもった。




