第十六章 母さんへ
蓮は、どうやって家に帰ったのか覚えていなかった。
体育館を飛び出して、下駄箱で靴を履き替えて、駐輪場で自転車の鍵を外して。いつもの道を走ったはずだ。桜が散り終えた並木道を、信号を三つ越えて、商店街の角を曲がって。体が勝手に動いてくれた。頭の中にはずっと、一つの声だけが鳴っていた。
——蓮のくせに、何も分かんないくせに!
涙を浮かべた琥珀色の目。震える唇。走り去る栗色のポニーテール。あの表情が、まぶたの裏に焼きついて離れない。
あんな陽葵を見たのは、生まれて初めてだった。
泣き虫なのは知っている。映画で泣くし、小説で泣くし、テレビのペットの番組でも泣く。でも、あの涙は違った。怒りと悲しみがぐちゃぐちゃに混ざった、蓮に向けられた涙だった。
自転車を停めて、玄関のドアに手をかけた。鍵を差し込む指が、少しだけ震えていた。
ガチャリ。ドアを開けると、台所から匂いがした。
味噌汁の匂い。出汁と味噌の、温かくて懐かしい匂い。
ひなたが台所に立っていた。
黒髪のボブカットの後ろ姿。蓮のエプロンを借りたのか、丈が長すぎて膝下まで垂れている。鍋の中で豆腐と油揚げが煮えていて、ひなたは菜箸で慎重にかき混ぜていた。蓮の足音に気づいて振り返る。暗褐色の吊り目がちな目が、兄の顔を一瞬で走査した。
「おかえり。——お兄、顔色悪い」
開口一番がそれだった。
「大丈夫。……ひなた、味噌汁作ってくれたのか」
「たまにはいいでしょ。お兄ばっかりに任せてらんないし」
菜箸を鍋の端に立てかけて、ひなたは腰に手を当てた。百五十三センチの小さな体でエプロンに埋もれながらも、目だけは鋭い。何かを察している。でも、すぐには問い詰めない。その加減を、いつの間にか覚えたらしい。
「ご飯は炊けてるから。おかずは——えっと、冷蔵庫にお兄が昨日作ったきんぴらがある。それでいいでしょ」
「ああ、ありがとう」
蓮が靴を脱いで上がると、ひなたが台所の入り口に寄りかかるようにして兄の顔を見上げた。
「ひまり姉と、なんかあった?」
蓮は無意識に首の後ろを撫でた。指先が襟足をなぞる。考えるときの癖だ。
「……別に」
「嘘」
ひなたの声に迷いはなかった。
「お兄も右目こそ泳がないけど、首の後ろ触るとき嘘ついてるんだよ。知ってた?」
「……お前、いつからそんな観察力つけた」
「ひまり姉と遼太先輩に鍛えられた」
蓮は苦笑した。苦笑するしかなかった。十四歳の妹に見透かされている。陽葵に何も見抜けなかった自分が、妹には簡単に読まれている。その落差が、少しだけ胸に刺さった。
ひなたはそれ以上追及しなかった。鍋の火を止めて、蓋をずらす。
「味噌汁できてるから。ご飯は自分でよそって。あたしは先に食べたから」
「父さんは?」
「残業だって。LINEに九時過ぎるって来てた」
蓮は頷いた。いつものことだ。父の帰りが遅いのは慣れている。母がいなくなってから、この家の夜は静かだった。蓮が台所を埋める音で、その静けさを紛らわせてきた。でも今夜は、ひなたが先に台所に立ってくれていた。
茶碗にご飯をよそい、味噌汁をよそい、冷蔵庫からきんぴらごぼうを出した。一人で食卓について箸を取る。味噌汁を一口啜った。
薄い。出汁の加減がまだ掴めていないのだろう。味噌もやや少ない。豆腐の切り方は不揃いで、大きいのと小さいのが混在している。
でも、不思議と体に染みた。
誰かが自分のために作ってくれたもの。それだけで、冷えた胸の奥がほんの少しだけ温まる気がした。
——誰かの笑顔は、自分の笑顔の種になるんだよ。
ふいに母の声が蘇って、蓮は箸を止めた。
違う。今、笑えていない。笑顔の種どころか、自分は誰かを泣かせた。一番近くにいたはずの人を。
きんぴらを口に運んだ。昨日自分が作った味だ。甘辛い醤油と胡麻油の香り。いつも通りの味。いつも通りなのに、今日はどこか遠い味がした。
食事を終えて、食器を洗った。ひなたの使った鍋も洗って、ふきんで拭いて、棚に戻した。台所の灯りを消して、リビングに戻る。
仏壇が、部屋の隅にあった。
小さな仏壇。線香立てと花瓶。白と黄色のガーベラが、少し萎れかけている。明日には替えないといけない。その隣に、一枚の写真。
母——藤咲彩の写真だ。
エプロン姿で、両手に卵を持って、笑っている。父が不意打ちで撮ったと聞いた。だから表情が自然で、カメラに向かってというより、目の前にいる誰か——きっと幼い蓮かひなたか——に向けて笑っている。丸い頬。優しい目元。蓮とひなたは母の目の色を受け継いだ。
蓮はリビングの照明を落とし、仏壇の前に正座した。
畳の感触が膝に伝わる。背筋を伸ばして、母の写真を見つめた。写真の中の母は、いつも通り笑っている。九年前から変わらず、同じ笑顔で、同じ卵を持って。
左手首のブレスレットに、無意識に触れていた。
細い革紐のブレスレット。母の形見。母が生前つけていたもので、蓮が中学に上がるとき、父が「母さんが持ってろって言ってた」と渡してくれた。以来、一度も外していない。革は使い込まれて柔らかくなり、蓮の手首にぴったり馴染んでいる。指先で革の感触をなぞった。編み込みの凹凸が、指の腹に小さな模様を刻む。
「母さん」
声に出した。静かな部屋に、自分の声が小さく響いた。
「俺さ、なんか間違えてるのかな」
写真の中の母は、何も答えない。ただ笑っている。卵を持った手で、「何の話?」と首を傾げているようにも見えた。
「陽葵に泣かれた」
言葉にすると、胸の奥がぎゅっと絞られるように痛んだ。喉の奥に何かがつかえて、次の言葉が出てくるのに時間がかかった。
「『何も分かんないくせに』って——何が分かんないのか、それすら分かんないんだよ、母さん」
沈黙。線香の煙が細く立ち上っている。白い煙が天井に向かってゆらゆらと昇り、途中で空気に溶けて消えた。
蓮は目を閉じた。まぶたの裏に、陽葵の泣き顔が浮かぶ。体育館の薄暗い照明の下で、琥珀色の目に涙を溜めて、唇を噛んで、それでも叫んだ陽葵。
——蓮のくせに。
何が「蓮のくせに」なのか。蓮だからこそ分からなきゃいけなかった何かが、あるのだろうか。
目を開けると、母の写真が変わらずそこにあった。蓮は深く息を吐いた。
ふと、記憶が蘇った。
唐突に、まるで誰かがアルバムのページをめくったように、鮮明な映像が浮かんだ。
あの日。九年前の六月。母が亡くなった日の夜のこと。
病院から帰ってきた家の中は、静かで、冷たかった。いつも台所から聞こえていた母の鼻歌がない。テレビの上に母が折った折り紙の鶴がまだ並んでいて、もう誰も動かさないそれが、ただの紙に見えた。
父は仏間で動かなかった。親戚の誰かが何か言っていたけれど、耳に入らなかった。ひなたが泣いていた。五歳のひなたは、何が起きたかまだ完全には分かっていなくて、でも母がいないことだけは分かっていて、声を上げて泣き続けていた。
蓮はひなたを抱きしめた。
「大丈夫だよ。お兄がいるから」
八歳の自分が言えたのは、それだけだった。母の口癖を真似しただけだった。母がいつもひなたに言っていた言葉。「大丈夫だよ」。その言葉に、八歳の蓮は自分も縋っていた。
ひなたが泣き疲れて眠ったあと、蓮は一人で庭に出た。夜の庭は暗くて、隣の天野家の窓から漏れる灯りだけがぼんやりと地面を照らしていた。庭の隅のブロック塀の前にしゃがみ込んで、膝を抱えた。
やっと泣けた。
声を出さないように、口を押さえて、肩を震わせて泣いた。涙が指の隙間から溢れて、膝に落ちた。母の顔が浮かぶたびに、胸が裂けるように痛かった。もう母の声が聞けない。もう母の料理が食べられない。もう母のエプロンの匂いを嗅げない。その「もう」の重さが、八歳の体には大きすぎた。
そこに、足音がした。
ぺたぺたという、裸足の足音。
塀の向こうから、小さな影がよじ登ってきた。パジャマ姿の陽葵だった。栗色の髪を寝癖だらけにして、目を真っ赤に泣き腫らして、裸足のまま塀を乗り越えてきた。
蓮の隣に、すとんと座った。
何も言わなかった。しばらく二人とも黙っていた。夏虫の鳴く声と、どこかの家のテレビの音だけが聞こえていた。
それから、陽葵が蓮の右手を取った。小さな両手で、蓮の手を包むように握った。柔らかくて温かい、子供の手。少し汗ばんでいて、爪が短く切られていて、力だけは強かった。
「ひまりがずっとそばにいるから」
小さな声だった。泣いた後だから鼻声で、少しかすれていた。でも、まっすぐだった。八歳の陽葵が絞り出した、精一杯の約束。
蓮はその手を握り返した。また泣いた。今度は声を出して泣いた。陽葵も一緒に泣いた。二人で、朝になるまで庭の隅で泣いた。
——その手の温もりを、蓮は今も覚えている。
時々、不意に思い出す。冬の寒い朝に陽葵が「手、冷たっ」と言いながら蓮の腕を掴んだとき。商店街でひなたの荷物を持って三人で歩いたとき。帰り道で並んで歩いて、指が触れそうで触れなかったとき。
あの夜の温もりが、一瞬だけ蘇る。
蓮は仏壇の前で、両手を膝の上に置いた。左手首のブレスレットが、小さく光を返した。
「母さん」
もう一度呼びかけた。
「あの時、陽葵が来てくれなかったら、俺はどうなってたのかな」
答えはない。分かっている。写真に話しかけても答えは返ってこない。でも、こうして声に出すことで、自分の中の何かが整理されていく気がする。母が生きていたら、何て言っただろう。きっと笑うだろう。エプロンで手を拭きながら、「蓮は相変わらずのんびりさんだねえ」と。
大切だということは分かる。陽葵を失いたくないということも分かる。あの泣き顔を見て胸が痛んだことも。「何も分かんないくせに」と言われて、分かりたいと思ったことも。
でも——それが何なのか、まだ名前がつけられなかった。
自分にとって陽葵が何なのか。陽葵にとって自分が何なのか。幼馴染。隣の家の女の子。一番近くにいる人。一番当たり前にそばにいる人。朝迎えに来て、弁当の卵焼きを奪って、調理室を覗いて、帰り道を一緒に歩く。それは——友達なのか。家族みたいなものなのか。それとも。
「それとも」の先に、言葉が出なかった。
「母さん、俺、どうすればいいんだろう」
答えのない問いかけだった。
写真の中の母は、変わらず笑っている。卵を抱えた両手で、「大丈夫だよ」と言っているように見えた。母の口癖。大丈夫だよ。何があっても大丈夫だよ。
見えただけかもしれない。でも今は、その幻でいい。
蓮は写真に小さく頭を下げて、仏壇の前を離れた。
眠れない夜だった。
部屋に戻ってベッドに横になっても、目が冴えている。明日は文化祭だ。料理部のカフェの仕込みがある。朝は早い。眠らなければいけないのは分かっている。でも、目を閉じるたびに陽葵の泣き顔が浮かぶ。
天井の模様を数えた。横の壁にかけたカレンダーの数字を読んだ。スマホを手に取ってLINEを開いた。陽葵とのトーク画面。最後のやり取りは、三日前。蓮が送った「明日弁当の卵焼き甘めにするけど、食べるか?」に、既読がついたまま返信がない。
その既読が、今になって重かった。
スマホを枕元に伏せた。目を閉じる。陽葵の声が耳に蘇る。
——蓮のくせに、何も分かんないくせに!
——朝練なんてなかった。全部嘘だった。
全部嘘。朝練がある。友達と約束がある。忙しい。全部嘘だった。じゃあ陽葵は、なぜ嘘をついてまで自分を避けたのか。
分からない。分からないことが、こんなに苦しいとは思わなかった。
寝返りを打った。枕に顔を埋めた。母の匂いがするわけもない。自分の汗の匂いがするだけだ。
時計を見た。午前一時十三分。もう三時間以上、こうしている。
深夜一時。蓮の部屋の灯りは、まだ消えていなかった。
廊下を、スリッパの小さな足音が近づいてきた。
ひなただった。トイレに起きたついでか、それとも兄のことが気になって眠れなかったのか。黒髪のボブカットを寝癖で跳ねさせたまま、廊下をそろそろと歩いている。兄の部屋の前で、足が止まった。
ドアの下から、光が漏れている。細い筋のように、黄色い光が廊下の床を這っていた。
ひなたは立ち止まった。ドアの前で、しばらく動かなかった。
ノックしようと手を上げた。拳を握って、ドアの表面まであと五センチのところで止めた。
——今は、声をかけない方がいい。
ひなたはそう判断した。兄が仏壇の前で母に話しかけていたのは、知っている。リビングを通ったとき、正座する兄の背中が見えた。線香の匂いがした。あの背中に声をかけられるほど、ひなたは無神経じゃなかった。
兄は強い。いつも家族のために立っていて、弱さを見せない。母が死んだ後も泣かなかった——家族の前では。でもひなたは知っている。時々、兄の部屋の灯りが深夜まで消えないことを。母の命日が近づくと、仏壇の前で長く座っていることを。
今日はそれとは違う。陽葵のことだ。
ひなたには分かっていた。兄と陽葵の間に何が起きたのか、詳しいことは知らない。でも、兄があの顔色で帰ってきたこと、陽葵の名前を出したとき兄の目が揺れたこと、それだけで十分だった。
手を下ろした。拳を開いて、指先でドアの表面にそっと触れた。何かを祈るような仕草だった。
踵を返して、自室に戻る。布団に潜り込んで、毛布を顎まで引き上げた。天井を見上げる。暗い天井に、街灯の光がうっすらと模様を作っていた。
小さく呟いた。
「ばか兄貴」
声は、泣きそうな響きを帯びていた。
兄が幸せになってほしい。それだけが、ひなたの願いだった。母の代わりに弁当を作り、掃除をし、洗濯をし、自分の世話をしてくれる兄。笑顔の裏で時々寂しそうな目をする兄。その兄を幸せにできるのは、ひなたではない。ひまり姉だ。ずっとそう思ってきた。
だから——早く気づいてほしい。
陽葵がなぜ泣いたのか。陽葵がなぜ嘘をついたのか。陽葵がなぜ毎朝迎えに来ていたのか。
全部同じ理由だということに。
「お兄のくせに、ほんと鈍い」
もう一度呟いて、ひなたは目を閉じた。明日は文化祭だ。陽葵の模擬試合を見に行くと決めている。料理部のカフェには行かない。行ったら兄の味方をしてしまいそうで、今はそうしたくなかった。
今日だけは、ひまり姉の味方でいたかった。




