第十五章 限界
五月下旬。文化祭の準備期間に入った。
校舎のあちこちで段ボールや画用紙が行き交い、ペンキの匂いが廊下に漂っている。黒板にはチョークで「文化祭まであと5日」と大きく書かれ、その横にクラスの出し物担当表が貼ってある。放課後は部活よりも出し物の準備が優先される日々で、校舎は夕方遅くまで生徒たちの声で賑わっていた。
料理部のカフェ「旬菜カフェ・あおば」のメニューが最終決定した。
蓮のだし巻き卵セット。和風おにぎりプレート三種。そして澪のデザートプレートとマドレーヌ。試作を重ねて、何度も配合を調整して、ようやく二人が納得したメニューだ。蓮は母のレシピノートの丸い文字を指でなぞりながら、だし巻き卵の味を最終確認した。ふわふわの食感に、ほんのりした甘さ、出汁の旨味。母の味に限りなく近い。でもほんの少しだけ、蓮の味になっている。
調理室で蓮と澪は、当日のタイムスケジュールを確認していた。
「開場が十時。最初のピークは十一時から十二時。午後は二時頃にもう一回来ると思う」
「オーダーが入ってからだし巻きを焼くと、一人三分はかかります。ピーク時は先に焼いてストックしておいた方が——」
「だな。保温用の容器、山田先生に借りてある。おにぎりは朝のうちに握っておく」
「マドレーヌは前日の夜に焼いておきます。デザートプレートのフルーツカットは当日朝で」
澪がタイムスケジュールの紙にペンで書き込んでいく。左手で。きれいな字だ。蓮は隣で頷きながら、窓の外に視線を飛ばした。体育館の方向。バレー部の練習の声がかすかに聞こえる。
蓮と澪の連携は、ますますスムーズになっていた。言葉少なでも、互いの動きが読める。澪が左手で包丁を動かし、蓮が右隣で出汁を取る。対照的な手つきが、一つの流れを作っている。澪の動きにはもう遠慮がちな影はない。最初の頃のように「すみません」と謝ることも減った。この調理室が、澪にとっての居場所になりつつある。
一方、体育館ではバレー部が文化祭の模擬試合デモの練習を重ねていた。陽葵がスパイクを打つ姿は、相変わらず力強い。百六十一センチの体が跳躍して、栗色のポニーテールが宙で弧を描き、鋭い打球がコートの向こう側に突き刺さる。チームメイトが「ナイスキー!」と声を上げる。
少なくとも、外から見る限りは。
ボールを追う目は鋭い。スパイクを打つ腕には力がある。声も出ている。エースアタッカーとして、陽葵は完璧に機能している。
でもバレー部の後輩たちは気づいていた。天野先輩の笑顔が、ここ最近どこか硬い。以前は練習後に「よっし、今日もいい練習だった!」と全身で喜んでいたのに、最近は静かにタオルで汗を拭いて、一人で体育館を出ていく。
文化祭三日前の昼休み。
蓮は教室で弁当を食べていた。二人分の弁当——自分の分とひなたの分——を毎朝作るのは日課だが、最近はもう一つ余分に作りたい衝動を感じることがある。誰のために? それを考えると、顎に手が伸びた。
陽葵の席は——空だ。
もう慣れてしまった。陽葵が蓮の席に弁当を持って来なくなって、もう三週間以上が経つ。最初は「忙しいんだな」と思った。次に「避けられてる気がする」と感じた。でもそこから先は——思考が止まる。壁にぶつかったように、それ以上先に進めない。
慣れてしまったこと自体が、どこか寂しい気もした。蓮はその感覚に名前をつけなかった。名前をつけてしまったら、何かが変わってしまう。変わるのが怖いのか。変わらないのが怖いのか。どちらなのかすらわからない。
弁当の蓋を閉じて、箸を箸箱に戻した。今日の卵焼きは、自分で言うのもなんだが、良い出来だった。でも「美味しい」と言ってくれる声が聞こえない。遼太は昼休みにサッカー部の連中と食堂に行っている。澪は窓際の自分の席で、本を読みながら静かに弁当を食べている。
蓮は弁当箱を鞄に入れて、席を立った。午後の授業の前に、調理室で文化祭の備品の確認をしておきたかった。
渡り廊下を歩いていた時だった。
声が聞こえた。
渡り廊下は校舎と特別教室棟を繋ぐ屋根つきの通路で、左右はガラス張りになっている。昼休みの陽光がガラスを通して床に四角い光を落としていた。風が吹くたびに中庭の木々が揺れて、光の四角が揺らめく。
「藤咲くん」
角の向こうから澪の声がした。蓮は足を止めた。壁の向こう側にいるらしい。見えないが、声は聞こえる。
「あの……文化祭の日、カフェの合間に空いた時間があったら、一緒に回りませんか?」
澪の声だ。少し緊張した、でもはっきりした声。普段の澪より少しだけ声が大きい。緊張すると髪の毛先を弄る癖があるが、今はどうだろう。蓮には見えない。
「一緒に? いいけど」
蓮の声。深く考えていない、いつもの調子。「困っている人がいたら助ける」のと同じくらい自然に、「誘われたら応じる」のが蓮だった。そこに特別な意味は——蓮の中には——ない。
「ほんとですか? クラスの出し物とか、色々見たくて。でも一人だと行きづらくて」
「わかる。俺も去年一人でうろうろしてたら遼太に『ぼっちかよ』って笑われたし。二人の方が楽しいだろ」
「……はい。ありがとうございます」
澪の声が少しだけ弾んだ。紺色の目が三日月形に細くなっているのが、見なくてもわかる。
渡り廊下の角の手前で、天野陽葵は立ち止まっていた。
調理室に向かう途中だった。午後の授業の前に、体育館の横を通って特別教室棟に行こうとしていた。渡り廊下を曲がろうとした瞬間に、声が聞こえた。
蓮と白河さんの声。
聞いてしまった。
二人の会話を、聞いてしまった。
文化祭の日に、一緒に回る。蓮と白河さんが。カフェの合間に。二人で。
陽葵の足が地面に縫いつけられたように動かなくなった。渡り廊下のガラス越しに差し込む光が、陽葵の栗色の髪を照らしている。琥珀色の目が大きく見開かれて、それから——ゆっくりと揺れた。
二人の足音が遠ざかっていく。蓮と澪が渡り廊下を調理室の方に歩いていったのだろう。声が聞こえなくなっても、陽葵はしばらくその場から動けなかった。
やがて、陽葵は一歩後ずさった。二歩。三歩。それから踵を返して、来た道を戻り始めた。早足で。ほとんど走るように。
陽葵の中で、何かがぱきりと音を立てた。
ずっと耐えてきた。蓮が白河さんと調理室で料理をするのを見ても。蓮が白河さんに弁当のおかずを分けるのを見ても。相合傘で帰るのを見ても。全部、耐えてきた。蓮は誰にでも優しい。特別なことじゃない。あたしは幼馴染で、一番近くにいて、一番わかっている——はずだった。
でも、もう無理だった。
「一緒に回りませんか」——「いいけど」。
たったそれだけの会話が、陽葵の限界を超えた。
文化祭前日の放課後。
校舎は準備の最終段階で慌ただしかった。廊下を段ボールを抱えた生徒が走り、教室からはハンマーの音やテープの切れる音が響いている。校門には「明日開催!」の横断幕が張られ、受付用のテーブルが校庭に運び出されていた。
蓮は調理室で最後の仕込みをしていた。明日の分のだし巻き卵の出汁を仕込み、おにぎりの具材を下ごしらえし、澪が焼いたマドレーヌの数を確認した。全部で八十個。十分な数だ。
「澪、マドレーヌの梱包よろしく。俺は出汁を冷蔵庫に入れてくる」
「はい」
澪が頷いて、マドレーヌを一つずつ透明の袋に入れ始めた。左手で器用に袋を持ち、右手でマドレーヌを滑り込ませる。
蓮が出汁の鍋を持って冷蔵庫に向かう途中、窓の外を見た。体育館が見える。灯りがついている。バレー部がまだ練習しているのだろう。明日の模擬試合デモの最終確認。陽葵がスパイクを打っているだろうか。汗を光らせて、ポニーテールを揺らしながら——。
蓮は首を振って、出汁を冷蔵庫に入れた。
仕込みが終わって、調理室を片付けて、澪と一緒に校舎を出たのは午後五時過ぎだった。夕日が校舎の屋根を橙色に染めている。
「明日、頑張りましょうね」
「ああ。朝七時集合な」
「はい。……おやすみなさい」
「おやすみ」
澪が校門を出ていく。蓮は靴紐を結び直してから、自分も校門に向かった——。
その時、体育館の方から音が聞こえた。
ばん。
ボールが壁を叩く音。
バレー部の練習は終わったはずだ。体育館の灯りも半分消えている。なのに——。
ばん。ばん。ばん。
一定のリズムで、ボールが壁を叩き続けている。一人だけの壁打ち。複数人でやる練習の音じゃない。
蓮は校門に向かう足を止めた。
体育館の扉は半開きになっていた。
蓮は扉の隙間から中を覗いた。広い体育館の中に、一人だけ立っている人影がある。
陽葵だった。
練習着のまま、一人でバレーボールを壁に打ちつけ続けていた。トスを上げて、スパイクのフォームで叩く。ボールが壁に激突して跳ね返る。それを拾い上げて、またトスを上げる。同じ動作の繰り返し。
でも、いつものストレス発散の壁打ちとは違った。
力の入り方が異常だった。全身を使ったスパイクのフォームで、体ごとぶつかるようにボールを叩いている。着地するたびにスニーカーが床を鳴らす。汗が飛び散る。栗色のポニーテールが宙で乱れて、顔に張りつく。
手のひらが赤く腫れている。何十回、何百回と打ち続けた手。汗が目に入って、瞬きを繰り返す。目は赤い。汗なのか涙なのか——たぶん、両方だ。
ばん。
ボールが壁に当たって、斜めに跳ね返った。コートの端まで転がっていく。陽葵はそれを追わなかった。肩で息をしながら、壁を見つめている。
ばん。
別のボールを拾い上げて、また打つ。
——朝練なんて、なかった。
ばん。
——友達との約束なんて、なかった。
ばん。
——全部、嘘だった。蓮から逃げるための嘘。
ばん。
——蓮のバカ。鈍感。何も気づかない。あたしがこんなに苦しいのに、何も——。
ばん。
ボールが壁に叩きつけられる音が、体育館に反響する。天井の高い空間に、一人の少女の怒りと悲しみがぶつかって、跳ね返って、消えていく。
蓮は扉を開けた。
蝶番が軋んで、小さな音を立てた。陽葵がボールを持ったまま、その音に反応した。背中が強張る。
「陽葵、どうした——」
蓮は体育館に足を踏み入れた。調理室から走ってきたのか、手にはまだ小麦粉の粉が少し残っている。エプロンはもう外しているが、制服のシャツの袖が捲り上げられたままだ。暗褐色の目が、陽葵を見つめている。穏やかで、心配そうで、何もわかっていない目。
陽葵が振り返った。
涙を浮かべた琥珀色の目が、蓮をまっすぐに射抜いた。
汗で顔が光っている。栗色の髪がほどけかけたポニーテールから何本もはみ出して頬に張りついている。ヘアピンが一つ落ちている。手のひらは赤く腫れて、指先が震えている。
でもその目は——怒りと悲しみと、言葉にならない何かで満ちていた。
「朝練なんてなかった」
声が震えていた。でもはっきりしていた。遼太に告白した時と同じだ。喉の奥に詰まっていた言葉が、限界を超えてこぼれ落ちる。
「バレー部の朝練があるって、嘘だった。最初からなかった」
蓮の目が見開かれた。理解が追いつかない顔。
「友達との約束も、全部嘘だった。サキとご飯食べるって言ったの、嘘。購買のパン一人で食べてた」
陽葵の声が大きくなる。体育館の壁に反響して、何重にも重なって蓮に降り注ぐ。
「忙しいから味見できないって言ったのも、嘘。忙しくなんかなかった。蓮のおにぎり食べたかった。あたしが一番に食べたかった。でも——白河さんのお菓子と一緒の袋に入ってるの見たら、もう——」
声が裏返った。陽葵はバレーボールを床に落とした。ボールが弾んで、コートの端まで転がっていった。
「陽葵——」
「蓮のくせに、何も分かんないくせに!」
叫んだ。
体育館に声が反響する。天井まで届いて、跳ね返って、陽葵自身に降ってくる。
蓮が息を呑んだ。
「あたしが朝迎えに行かなくなっても、蓮は『忙しいんだな』で終わりでしょ。弁当食べに行かなくなっても、『珍しいな』で終わりでしょ。あたしがどんな気持ちで——」
声が詰まった。涙がぼろぼろとこぼれた。琥珀色の目から、堰を切ったように。
蓮は動けなかった。体育館の入口に立ったまま、手を伸ばすことも、声をかけることもできない。目の前で泣いている幼馴染に、何と言えばいいのかわからなかった。
陽葵は袖で涙を拭った。でも拭いた先から新しい涙が出てくる。意味がなかった。
「もういい」
震える声で、そう言った。
「もういい。忘れて。あたしが勝手に怒ってるだけだから。蓮は何も悪くない。白河さんも何も悪くない。悪いのは——あたしだ。勝手に期待して、勝手に傷ついて、勝手に逃げて——」
最後の言葉は声にならなかった。
陽葵はバレーボールを拾わずに、蓮の横を駆け抜けた。体育館の出口に向かって走る。蓮の腕をかすめるように通り過ぎた瞬間、涙の雫が散った。蓮の制服の袖に、小さな染みが落ちた。
「陽葵——」
蓮が名前を呼んだ。でも陽葵は振り返らなかった。体育館の扉を押し開けて、夕暮れの校庭に飛び出していった。橙色の光の中を、栗色の髪が揺れながら遠ざかっていく。
蓮は追いかけなかった。追いかけられなかった。足が動かない。体育館の床に根が生えたように、その場に立ち尽くしている。
体育館に一人残された。
半分消えた蛍光灯の下で、バレーボールが三つ転がっている。壁にはボールの跡がいくつもついている。陽葵が打ちつけた跡だ。何十回、何百回と同じ場所を叩いた、赤く腫れた手のひらの跡。
胸の中に、名前のつかない感情が広がっている。
痛い。苦しい。何かが壊れる音がする。
陽葵の泣き顔がまぶたの裏に焼きついている。涙を浮かべた琥珀色の目。「蓮のくせに、何も分かんないくせに!」という叫び声が、まだ耳の中で反響している。
蓮は左手首の革紐のブレスレット——母の形見——に、無意識に触れた。指先が革紐をなぞる。
何が起きたのか。何を言われたのか。言葉の一つ一つは理解できる。でもそれが意味する全体像が——陽葵の涙の理由が——蓮にはまだわからなかった。
わからないのに、こんなに苦しいのはなぜだ。
ボールが転がって、蓮の足元で止まった。陽葵が最後に打ちつけたボール。拾い上げると、ほんのり温かかった。陽葵の手の温もりが、まだ残っている。
蓮はそのボールを両手で持ったまま、しばらく動けなかった。
体育館の外では、夕日が校舎の向こうに沈もうとしていた。橙色の光が窓から差し込んで、蓮の影を長く伸ばしている。
明日は文化祭だ。
でも今の蓮には、明日のことを考える余裕はなかった。




