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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第二部 揺れる距離

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14/22

第十四章 雨のち涙

 五月中旬。天気予報は「午後から曇り、夜に小雨」と言っていた。

 蓮は朝、出がけに空を見上げて少し迷った。雲はまだ薄い。傘を持っていくかどうか。結局、折り畳み傘を鞄の底に押し込んでおいた。母が生きていた頃、「蓮、空の機嫌は変わりやすいから、一本持っておきなさい」と言っていたのを、体が覚えている。

 玄関で靴を履きながら、ひなたが横を通り過ぎた。

「お兄、今日傘いるかな」

「一応持っていけ」

「めんどくさ」

 ひなたは傘を持たずに家を出た。蓮はため息をついた。中学校の方が近いからまあいいか、と思う。

 通学路の桜並木は、もうすっかり青葉に覆われている。枝の間から差し込む光が歩道に木漏れ日を落として、自転車のタイヤが影と光の縞模様を踏んでいく。

 陽葵の迎えは、もうない。

 四月の終わりから、陽葵は朝、蓮を迎えに来なくなった。最初は「バレー部の朝練がある」と言っていた。蓮はそのまま信じた。でもそれは嘘で——嘘だということに蓮はまだ気づいていない。

 一人で自転車を漕ぐ通学路は、二人の時より静かだ。信号待ちで隣に誰もいないのが、どこか落ち着かない。でもそれがなぜ落ち着かないのか、蓮にはわからなかった。

「まあ、なんとかなるっしょ」

 信号が青に変わる。ペダルを踏む。風が頬を撫でる。いつもの朝だ。いつもの——はずだ。


 六限目の終わり。

 空の機嫌は、天気予報の予測よりずっと早く変わった。

 五限目の途中から窓の外が暗くなり始め、六限目の英語の授業中に最初の雨粒がガラスを叩いた。それがぱらぱらだったのは最初の三分だけで、あっという間に本降りになった。雨脚はどんどん強くなって、校舎を叩く音が教室まで響いてくる。まるで空が破れたようだった。

 終業のチャイムが鳴った瞬間、教室がざわめいた。

「うわ、傘持ってきてない——」

「天気予報午後って言ってたじゃん!」

「もう土砂降りじゃん」

 蓮は鞄から折り畳み傘を取り出した。母の教えに感謝する瞬間だ。

 昇降口に降りると、生徒たちがごった返していた。天気予報を信じて傘を持ってこなかった連中が、昇降口の屋根の下に溜まって雨が弱まるのを待っている。靴を履き替えた者、まだ上履きのままの者。携帯で迎えを呼ぶ声や、「誰か傘ない?」という声が飛び交っている。

 傘立てには忘れ物のビニール傘が数本、骨が折れたり布が破れたりしたものに混じって残っている。まともに使えそうなのは一、二本だった。

 その光景の隅に——澪がいた。

 昇降口の端、壁際に立って鞄を両手で抱えている。黒髪のストレートロングが湿気で少しだけうねっていた。前髪が目にかかるギリギリの長さで、紺色の目が不安そうに雨空を見つめている。色白の肌が蛍光灯の下でいっそう白く見える。髪の毛先を弄る指が、緊張を物語っていた。

 周囲の生徒は友達同士で相合傘の相談をしたり、親に電話をかけたりしている。澪の隣には——誰もいない。

「澪、傘ないのか」

 蓮は自然に声をかけた。困っている人がいたら、放っておけない。それが藤咲蓮という人間だった。小さい頃からそうだ。母に教わったわけではない。教わる前から、そういう子供だった。母はそれを見て笑っていた。「蓮はやさしい子ね」と。

「はい……天気予報、見忘れて。午後から曇りだと思って」

 澪の声は小さい。いつも小さいが、今日はさらに消え入りそうだった。少し俯き加減で、申し訳なさそうに目を伏せている。制服のリボンは几帳面にきっちり結ばれている。

 蓮は傘立てを見た。忘れ物のビニール傘を一本引き抜く。骨は折れていない。布にも穴はない。開いてみると、ちゃんと開いた。これなら使える。

「一緒に帰ろう。途中まで方向同じだろ」

「え——でも、蓮くんの傘は——」

「俺は折り畳みあるから。これ澪が使えよ」

 蓮はビニール傘を澪に渡そうとした。でも澪は首を横に振った。

「一人だけ使うわけには……」

「じゃあ一緒に入ればいい。途中まで同じ方向だし」

 蓮は折り畳み傘を開いて、当然のように澪の隣に立った。折り畳み傘は大きくない。二人で入ると、どうしても片方の肩が濡れる。蓮は自然と車道側を歩き、傘を澪の方に傾けた。

 雨の中に踏み出す。アスファルトを叩く雨音が、傘の布越しにぱたぱたと響く。排水溝に水が流れ込む音。遠くの車がタイヤで水たまりを跳ねる音。五月の雨は、四月の柔らかい春雨と違って勢いがあった。

「蓮くん、肩濡れてます」

 澪が蓮の右肩を見て言った。制服のブレザーの肩が、じわじわと色を変えていく。

「別にいいよ。制服なんてすぐ乾く」

「でも——」

「澪が濡れる方がまずいだろ。女の子の方が冷えやすいし」

 蓮はそう言って、少し歩く速度を緩めた。澪は百五十七センチ。蓮より十八センチ低い。歩幅を合わせないと、澪が小走りになってしまう。

「……すみません」

 澪の口癖が出た。謝りがち。蓮はもう慣れている。

「謝ることじゃないだろ」

 蓮が笑った。目尻が下がる、穏やかな笑顔。澪は傘の影から蓮の横顔を見上げた。百七十五センチの蓮の横顔が、雨に煙る街並みを背景にして、やけに近くに見える。

 二人は黙って歩いた。雨音が会話の代わりをしていた。

 住宅街に入ると、雨がさらに強くなった。排水溝から水が溢れ始めている。蓮は水たまりを見つけるたびに澪を反対側に誘導した。大きな水たまりは蓮が先に踏んで深さを確かめた。スニーカーがびしょ濡れになったが、気にしていない。

「蓮くん、靴——」

「洗えばいいよ」

 澪は黙った。蓮の優しさは、こういう形をしている。押しつけがましくなく、さりげなく、当然のこととして。困っている人の隣に立つ。それだけのことを、いつもやっている。

 商店街の手前の交差点で、信号が赤になった。

「澪の家、この先だよな。ここで別れよう。傘はそのまま持ってけ」

「え、でも——」

「明日返してくれればいい」

 蓮はビニール傘を澪の手に握らせた。それから折り畳み傘を自分で差し直す。右肩はもうかなり濡れていた。

「ありがとうございます。……明日、必ず返します」

「おう。じゃあまた明日」

「はい。また明日、です」

 澪が頭を下げて、ビニール傘を差しながら交差点を渡っていった。雨の中を歩く小柄な背中と、揺れる黒髪のロングヘア。蓮はその背中を少しだけ見送ってから、反対方向に歩き出した。


 その光景を、校門の影から見ている人がいた。

 天野陽葵は、昇降口から校門まで走ってきていた。雨の中。傘は——持っている。鞄の中に折り畳み傘がある。朝、天気予報を見て持ってきた。陽葵は蓮と違って、天気予報をきちんとチェックする方だ。

 でも、傘は開けなかった。

 蓮と白河さんが、相合傘で歩いていく。蓮は車道側。傘は白河さんの方に傾いている。蓮の右肩が濡れている。水たまりを避けて、白河さんを誘導している。商店街の手前で別れて——蓮がビニール傘を白河さんに持たせている。

 全部見えた。

 蓮は、いつもそうだ。困っている人がいたら、自然に助ける。あたしにも、ひなたにも、遼太にも、商店街のおばちゃんにも。白河さんにも。誰に対しても分け隔てなく優しい。特別なことじゃない。蓮にとっては「当たり前」のことをしているだけだ。

 わかっている。頭ではわかっている。蓮の優しさに順番なんかない。誰かに優しくしたからって、あたしへの優しさが減るわけじゃない。そんなことは——

 わかってるのに。

 胸が痛い。

 蓮の右肩が濡れているのを見た。白河さんの方に傘を傾けているのを見た。水たまりから守っているのを見た。あれは蓮がいつもあたしにしてくれたことと同じだ。雨の日に迎えに来てくれた時、傘を差してくれた時、水たまりを踏んで深さを確かめてくれた時。あの優しさは、あたしだけのものじゃなかった。最初から、誰にでも向けられるものだった。

 わかっていたはずなのに、こんなに痛い。

 陽葵は折り畳み傘を握りしめたまま、校門の柱にもたれた。雨が制服の肩に落ちる。栗色の髪が湿気で頬に張りつく。琥珀色の目が滲んで、視界がぼやけた。

 それから、陽葵は傘を畳んだまま——いや、最初から開けていなかった——雨の中に飛び出した。自転車は駐輪場に置いたまま。取りに戻る気にもなれなかった。走った。全力で走った。

 制服がみるみる濡れていく。スカートが脚に張りつく。スニーカーがびしょびしょになる。栗色の髪が顔に貼りつき、ヘアピンがずれる。傘は鞄の中にあるのに、開けなかった。開けたくなかった。

 なぜ開けないのか、自分でもわからなかった。ただ、今は雨に打たれていたかった。冷たい雨に打たれて、胸の中の熱いものを冷やしたかった。泣いているのか雨なのかわからなくなりたかった。

 信号を二つ無視した。車が来なかったから良かったものの、普段の陽葵なら絶対にしない行動だ。でも今の陽葵に「普段」は存在しなかった。

 天野家の玄関に辿り着いた時、全身ずぶ濡れだった。靴を脱ぎ捨てるように玄関に放り、「ただいま」も言わずに二階に駆け上がった。

 階段の途中で母の声が追いかけてきた。

「ひまり? どうしたの、びしょ濡れじゃない——」

「大丈夫! シャワー浴びる!」

 声が裏返った。春香が何か言いかけたが、陽葵は聞こえないふりをして脱衣所に飛び込んだ。制服を脱ぎ捨てて、シャワーを全開にした。

 温かい湯が体に当たった。

 冷えた肌がじんじんする。雨で冷たくなった指先が、湯に触れてぴりぴりと痛む。

 そして——涙が混じった。

 温かい湯と、冷たい涙が、頬の上で溶け合う。声を殺して泣いた。シャワーの音に紛れて、誰にも聞こえないように。壁に額を押し当てて、目をきつく閉じて、歯を食いしばって泣いた。

 蓮の横顔が浮かぶ。白河さんに傘を傾ける蓮。水たまりから白河さんを守る蓮。「別にいいよ」と笑う蓮。

 あの笑顔は、あたしに向けられるのと同じ笑顔だった。同じ温度の、同じ優しさの、同じ蓮の笑顔だった。

 それが、一番苦しい。

 蓮が白河さんに特別な感情を持っているなら、まだ戦える。でもそうじゃない。蓮はただ優しいだけだ。あたしに対しても、白河さんに対しても、同じように優しい。区別がない。特別がない。あたしだけの蓮なんて——最初からどこにもなかった。

 シャワーの湯が、涙の跡を全部洗い流した。泣き終わっても、顔が赤いのは湯のせいだと言い訳できる。陽葵はシャワーを止めて、タオルで体を拭いた。鏡に映る自分の顔は、目が腫れて赤くなっていた。


 夜。

 ベッドに横になって、天井を見つめていた。部屋の灯りは消している。カーテンの隙間から、街灯のオレンジ色の光がうっすらと差し込んでいる。雨はまだ降っている。窓を叩く音が、規則正しく続いている。

 スマートフォンが振動した。

 枕元に置いていたスマホを手に取る。画面の光が暗い部屋に広がって、陽葵は目を細めた。

 蓮からのLINE。

「今日雨大丈夫だったか?」

 陽葵はスマホの画面を見つめた。蓮の名前の横に、いつものアイコン。卵焼きの写真。蓮が得意の卵焼きを接写したもので、ふわふわの焼き色がきれいに写っている。このアイコンを見るたびに、いつもは「美味しそう」と思うのに、今日は胸が痛かった。

 蓮はあたしのことを心配してくれている。雨に濡れなかったかと聞いてくれている。蓮は優しい。いつも通り優しい。

 指が動いた。

「大丈夫、心配すんな!」

 明るい絵文字を三つ付けた。太陽と、ピースサインと、笑顔。陽葵らしい、元気いっぱいの返信。

 送信ボタンを押した。

 それからスマホを裏返して布団の上に伏せた。画面の光が消える。

「大丈夫じゃないよ……」

 天井に向かって呟いた声は、誰にも届かなかった。雨の音に溶けて、暗い部屋の中に消えた。

 陽葵は布団を頭まで引き上げて、丸くなった。枕に顔を埋めて、小さく息を吐く。涙はもう出なかった。シャワーで全部流した。体は温まったけど、胸の奥はまだ冷たい。

 蓮の笑顔が浮かぶ。目尻が下がる、穏やかな笑顔。あの笑顔を見るたびに好きだと思った。あの笑顔に守られて育った。あの笑顔がいつも隣にあることが「当たり前」だった。

 その当たり前が、壊れていく。自分で壊しているのだと、わかっていた。


 同じ頃、藤咲家。

 蓮は自分の部屋のベッドに腰かけて、スマホの画面を見ていた。陽葵からの返事。「大丈夫、心配すんな!」。太陽とピースと笑顔の絵文字。いつもの陽葵だ。

「よかった」

 短く返信して、スマホをベッドの上に置いた。

 ——大丈夫なら、いいけど。

 首の後ろを撫でた。考え事をする時の癖。何を考えているのか、自分でもよくわからない。ただ、陽葵の「大丈夫」の三文字が、いつもより軽く感じたのは気のせいだろうか。普段の陽葵なら「大丈夫に決まってんでしょ! あたしをなめんな!」くらいのテンションで返してくるのに。

 でもそれ以上は考えなかった。考えることをやめた。深く考えると、何か大事なものに触れてしまいそうで——それが怖いのだと、蓮はまだ知らない。

「お兄」

 ドアの向こうから、ひなたの声がした。

「ん?」

「ひまり姉と、喧嘩した?」

 蓮は少し考えた。喧嘩。陽葵と喧嘩したことは——記憶にある限り、一度もない。小さい頃から。ケンカになりそうになると、蓮が先に引くからだ。母に教わった。「ケンカは最後の手段。その前にできることがある」と。

「してない」

「ふーん」

 ひなたの声には、明らかに「嘘でしょ」というニュアンスが含まれていた。暗褐色の目——兄と同じ色の目——が、ドアの向こうで兄を見透かしているのが想像できた。

「でも……避けられてる気がする」

 初めて口にした。自分でもびっくりするくらい、自然に言葉が出てきた。頭で考えるより先に、口が動いた。

 避けられている。朝の迎えが来ない。昼の弁当を一緒に食べなくなった。放課後の調理室に顔を出さなくなった。味見を断られた。全部、ここ数週間で変わったことだ。

 ドアの向こうでひなたが黙った。数秒の沈黙。

 ひなたは何かを言いかけた。兄の鈍感さと陽葵の気持ちの板挟みで、言葉を選んでいるのだろう。ひなたは知っている。陽葵が蓮を好きだということを。リビングで「お兄のこと好きでしょ」と聞いた日のことを、覚えている。「ひまり姉なら、いい」と答えた自分の言葉も。

 言ってやりたかった。「ひまり姉はお兄のことが好きなんだよ」と。一言で済む。たった一言で、この鈍感な兄の目を覚ませるかもしれない。

 でも——それは陽葵の言葉だ。ひなたが代わりに言うことじゃない。

 だから結局——

「……お兄のくせに、鈍すぎ」

 それだけ言って、足音が遠ざかっていった。ぱたぱたとスリッパが廊下を叩いて、ひなたの部屋のドアが閉まる音がした。

 蓮は左手首のブレスレットに触れた。

 鈍い、か。何に対して鈍いのかすら、わからなかった。

 左手首の革紐のブレスレット——母の形見——に視線が落ちた。細い革紐が、蛍光灯の下で鈍く光っている。母がつけていたもの。蓮が引き継いだもの。

「母さん、俺さ——」

 仏壇のある一階のリビングに向かって、小さく呟きかけて、やめた。エプロン姿で卵を持って笑う母の写真が、階下でこちらを見ている——気がした。

 雨音が窓を叩いている。

 同じ雨が、隣の天野家の窓も叩いている。

 二つの家の距離は、ほんの数メートルだ。声を出せば届くかもしれない。でも今夜、その距離は——とてつもなく遠く感じた。


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