第十三章 試食と拒絶
五月上旬。風の匂いが変わった。
桜はとっくに散り終えて、通学路の並木は青々とした葉を茂らせている。教室の窓から入ってくる風は、もう春の柔らかさを失って、初夏の明るさを帯び始めていた。
昼休みの調理室で、顧問の山田先生が咳払いをした。
「えー、文化祭の料理部の出し物だが、今年は『カフェ』をやることに決まった」
蓮は「カフェか」と呟いて、隣に立つ澪を見た。澪も蓮を見た。紺色の目が少しだけ大きくなって、それから静かに頷いた。黒髪のストレートロングが、その動きに合わせてさらりと揺れる。
「藤咲、白河、メニューはお前たちに任せる。予算はこの範囲内で。カフェの名前も考えておけ」
山田先生はプリントを一枚置いて、さっさと出ていった。幽霊部員の三年の先輩は今日も来ていない。実質的に蓮と澪の二人だけの部活だ。
「蓮くん、メニューは何にしますか?」
澪が少し身を乗り出して聞いた。緊張すると髪の毛先を弄る癖があるが、今日はそれがない。料理の話になると、この子は別人のように積極的になる。
「だし巻き卵は外せないな。母さんの——いや、俺のレシピの中で一番自信あるやつだから」
蓮は調理台に肘をつきながら考えた。レシピノートの表紙が頭に浮かぶ。母の丸い文字で書かれた、あの古びたノート。
「あとはおにぎりをいくつか種類作って、和風の軽食セットにする。味噌汁もつけたいけど、オペレーション的にきついかな」
「二人ですもんね……。味噌汁は当日の忙しさを見てからでも良いかもしれません」
「だな。澪はデザート系で」
「はい。マドレーヌとフィナンシェは外したくないです。あと、デザートプレートも試してみたいんです。ガトーショコラと季節のフルーツを盛り合わせて」
「いいな、それ。和と洋の組み合わせで差別化できる」
蓮がそう言うと、澪の色白の頬がほんのり染まった。紺色の目が三日月形に細くなる。その表情は、この調理室で料理をしている時にだけ見せるものだ。
「カフェの名前、どうしましょう」
「うーん……」
蓮は窓枠に肘をついた。窓の外に目をやると、グラウンドの向こうに体育館が見える。バレー部の練習の声がかすかに聞こえた。
「旬菜カフェ・あおば、とか」
「旬菜カフェ……いいですね。青葉ヶ丘の『あおば』ですか」
「まあ、安直だけど」
「安直なくらいが覚えやすくていいと思います」
澪がくすりと笑った。蓮も笑った。それで決まった。
それからの日々は、試作の連続だった。
放課後の調理室に、二つの異なる匂いが混じり合う。蓮の出汁と醤油の香りと、澪のバターと砂糖の甘い匂い。和食と洋菓子。対照的だが、不思議と調和している。
蓮はだし巻き卵の出汁の配合を何度も変えた。昆布と鰹節の比率、醤油の量、砂糖の加減。母のレシピノートを開いて、丸い文字を指でなぞりながら、自分なりの最適解を探す。三回目の試作でようやく納得のいく味になった。ふわふわの食感に、ほんのりした甘さと出汁の旨味が広がる。母の味に近い。でも、ほんの少しだけ蓮の味になっている。
隣では澪がガトーショコラの焼き加減を調整していた。左手で泡立て器を回す。澪は左利きだ。最初は調理台の配置が合わなくて手が交差してしまっていたが、蓮が位置を入れ替えてからはスムーズになった。
「蓮くん、これ味見してもらえますか」
澪がフィナンシェを小皿に載せて差し出した。焼きたてで湯気が立っている。蓮は一口かじった。
「うまい。外はサクッとしてて、中がしっとり。バターの風味もちょうどいい」
「本当ですか? もう少し焼き時間を長くしようか迷ったんですけど」
「このくらいがベストだと思う。あと三十秒焼いたら水分飛びすぎるかも」
「そうですよね。私もそう思ってたんです」
二人で頷き合う。料理の話をしている時の蓮と澪は、呼吸が合っている。言葉少なでも意思疎通ができる。それは料理という共通言語が二人を繋いでいるからだ。
蓮が出汁を取りながら、ふと窓の外を見た。体育館の方向。この時間、バレー部は練習中のはずだ。
——最近、陽葵来ないな。
その思いが頭をよぎった。以前は放課後になると、バレー部の練習後に調理室を覗きに来ていた。ドア枠にもたれて、汗を拭きながら「何作ってんの?」と聞いてくる。蓮が「味見するか?」と言うと「当然」と笑って入ってくる。それがいつもの光景だった。
いつからだろう。陽葵が来なくなったのは。
蓮は耳たぶに触れて、その思考を振り払った。バレー部の練習が忙しいんだろう。文化祭の模擬試合デモもあるし。
——まあ、なんとかなるっしょ。
口癖が心の中で空回りした。なんとかなるという言葉が、いつもより少し頼りなく感じたのは、気のせいだろうか。
一週間ほど試作が続いたある日の昼休み。
蓮は紙袋を持って教室に戻った。中には蓮が握ったおにぎり三種類と、澪のプチガトーが二つ。試作の出来栄えを確認するために、誰かに食べてもらいたかった。
真っ先に浮かんだのは陽葵の顔だった。
蓮の弁当のおかずを誰よりも多く食べてきたのは陽葵だ。「幼馴染特権」と言って箸を伸ばし、「うまい」とか「もうちょい塩気ほしい」とか、遠慮なく感想を言う。遼太も率直に評価してくれるが、陽葵の舌はまた別格だった。子供の頃から蓮の料理を食べ続けてきた舌。母の味を知っている舌。微妙な変化を見逃さない。
陽葵の席は——空ではなかった。陽葵は自分の席に座っていた。でも弁当は広げていない。机の上には購買のパンが一つ置いてあるだけだ。クリームパン。
蓮は陽葵の席に向かった。
「陽葵」
「ん……何?」
陽葵は顔を上げた。栗色のセミロングがさらりと揺れる。琥珀色の目が蓮を見る。最近、蓮と話す時の表情が少しぎこちない。笑顔なのに、どこか力が入っている。以前の自然な——弁当を狙う時の無邪気な笑顔とは、何かが違う。
でも蓮はそれに気づかない。気づかないのではなく、その違和感に名前をつけることができない。
「文化祭のカフェのメニュー、試作したんだ。味見してくれよ」
紙袋を差し出した。蓮の目が少しだけ期待を含んで輝いている。暗褐色の目に宿る穏やかな光。
「お前の舌が一番信用できるから」
その言葉に、陽葵の目が一瞬揺れた。嬉しさと、苦しさが同時に走る。蓮が自分の味覚を信頼してくれている。それは昔からずっとそうだ。幼い頃から、蓮が新しい料理を作るたびに最初に食べさせてもらったのは陽葵だった。「どう?」と聞かれて「美味しい」と答えると、蓮は目尻を下げて笑った。あの笑顔が好きだった。あの笑顔を見るために「味見係」をやっていたのだと、今ならわかる。
でも。
紙袋の中を見た。蓮のおにぎりの隣に、小さな焼き菓子がある。きれいに焼き色のついたプチガトー。澪が作ったものだ。
蓮の料理と、白河さんの料理が、同じ袋に入っている。
二人で一緒に作ったものを、あたしに味見してほしいと言っている。
胸の奥が、きゅっと絞られるように痛んだ。
「……忙しいから」
陽葵の右目が泳いだ。視線が蓮の顔から外れて、窓の方に逃げる。
「そっか」
蓮が紙袋を引っ込めた。
「珍しいな」
その言葉は、蓮の口から自然に出てきた。呟くように、小さく。
珍しい。
蓮の中で、その言葉が小石のように沈んでいった。水面に波紋を広げて、ゆっくりと底に沈む。
陽葵が蓮の味見を断ったのは、記憶にある限り初めてだった。頼む前から勝手に食べているのが日常だったのに。「幼馴染特権」と笑って箸を伸ばし、「うまい」と口いっぱいに頬張るのが——当たり前の光景だったのに。
その当たり前が、欠けている。
でも蓮はそれ以上考えなかった。考えることができなかった。その違和感の正体に向き合うには、蓮はまだ準備ができていなかった。
「まあ、忙しいなら仕方ないか」
紙袋を持って席に戻る。足取りはいつも通りだ。でも、背中が——肩が、ほんの少しだけ下がっていたことに、蓮自身は気づいていない。
陽葵はその背中を見ていた。
見ていられなかった。
蓮が自分の席に戻って、遼太と紙袋を分け合っているのが見える。遼太がおにぎりを頬張りながら何か言って、蓮が苦笑している。プチガトーを一口食べた遼太が「うめえ」と言ったのが聞こえた。
あたしが食べるはずだったもの。あたしが「美味しい」って言うはずだったもの。
陽葵はクリームパンの袋を開けた。一口かじる。甘い。甘いだけで、何の味もしなかった。
放課後。調理室。
蓮は試作の片付けをしていた。使った鍋やボウルを洗い、調理台を拭き、出汁の残りを処理する。体が勝手に動く。家でもここでも、片付けは蓮の仕事だ。
隣の作業台では澪がオーブンの庫内を掃除していた。左手にスポンジを持って、丁寧に拭いている。黒髪が作業の邪魔にならないように、珍しく髪ゴムで一つに結んでいた。腰近くまである長い髪が束ねられて、白いうなじが見えている。
蓮の横顔を、澪はちらりと見た。
さっき教室から戻ってきた時、蓮の表情がわずかに変わっていた。いつもの穏やかさの奥に、何か——小さな影がある。困惑でもなく、怒りでもなく、もっと漠然とした何か。蓮自身がそれを理解していないことは、表情を見ればわかる。
澪は蓮が陽葵の名前を呼ぶ時の声を知っている。
「陽葵」と呼ぶ時の蓮の声は、自分に向ける「澪」とは違う。温度が違う。色が違う。「澪」は丁寧で穏やかで、料理仲間としての信頼が込められている。でも「陽葵」は——もっと柔らかくて、もっと自然で、もっと深いところから出てくる声だ。本人はたぶん気づいていない。でも澪には聞こえる。音に敏感な耳が、その違いを捉えてしまう。
そして陽葵が蓮を見る目も、知っている。
教室で蓮が別の子と話している時の陽葵の視線。蓮が笑うたびに揺れる琥珀色の目。自分が蓮の隣にいる時に、廊下の向こうからこちらを見ている陽葵の——あの引き攣ったような笑顔。
蓮にとって、天野さんは特別なんだ。
澪はそれを静かに受け止めていた。
悲しくないと言えば嘘になる。この調理室で蓮の隣に立って料理をする時間は、澪にとって何物にも代えがたい時間だった。転校を繰り返して、どこにも居場所がなくて、「もう深く関わるのはやめよう」と心に壁を作った自分が——ここでは笑えている。蓮の「美味しい」の一言で、胸が温かくなる。フィナンシェの焼き加減を相談して、二人で頷き合う瞬間が嬉しい。
でも、蓮の目の奥に宿る光の色が、自分に向けられたものと陽葵に向けられたものでは違う。
蓮が教室に出ていく時、紙袋を持って「味見してもらってくる」と言った。その時の蓮の表情を、澪は見逃さなかった。期待と、安心と、無自覚な喜びが混じった顔。それは澪に「味見してくれ」と言う時の顔とは全く別のものだった。
澪にとって蓮の「美味しい」は世界で一番嬉しい言葉だ。でも蓮にとっての「美味しい」は——本当に聞きたい相手は、きっと自分ではない。
それを感じ取れるだけの繊細さが、澪にはあった。母の言葉が胸の奥で響く。「美味しいものは人の心を開くの」。その通りだ。美味しいもので心が開く。開いた心は、一番大切な人の方を向く。
オーブンのタイマーが切れる音がした。
澪は最後のマドレーヌを取り出して、冷却台に並べた。きれいなきつね色。焼き上がりは完璧だ。
「蓮くん」
「ん?」
「マドレーヌ、焼けました。味見お願いします」
蓮が手を止めて、マドレーヌを一つ取った。一口かじる。
「うまい。これ本番もこの配合でいこう」
「はい」
澪は小さく微笑んだ。紺色の目が三日月形に細くなる。
この場所を守りたい。この調理室を、「ここにいてもいい」と思えた初めての場所を。蓮への好意は——「料理仲間」という枠の中に、大切にしまっておこう。枠からはみ出さないように、壊さないように。
澪はオーブンの電源を落として、小さく息を吐いた。窓の外では、夕日が校舎の屋根を橙色に染め始めていた。
「ここにいてもいい」と思えた場所に、初めて「いたい」と思えた。それだけで十分だと、自分に言い聞かせる。
蓮が調理台を最後にひと拭きして、エプロンを外した。
「今日もお疲れ。明日は本番のシミュレーションやろうか」
「はい。当日のタイムスケジュール、作ってきます」
「助かる。……じゃあ、また明日」
「また明日、です」
蓮が調理室を出ていった。足音が廊下に遠ざかる。
澪は一人残された調理室で、冷めたマドレーヌを一つ手に取った。自分で焼いたものを自分で食べる。甘くて、バターの香りがして、美味しい。
でも蓮に「美味しい」と言ってもらった時の方が、ずっと美味しく感じるのだ。
それは恋だ。
わかっている。わかっているけれど、この気持ちに名前をつけたら、この調理室にはいられなくなる気がした。だから澪は、マドレーヌを最後まで食べ終えてから、静かに調理室の鍵を閉めた。




