第十二章 右目の嘘
四月の最終週、木曜日の昼休み。
坂本遼太は購買の列に並びながら、ガラス越しに中庭を眺めていた。晴れているのに風が冷たい。もうすぐ五月だというのに、空気だけがまだ春を引きずっている。
メロンパンとカフェオレを受け取り、レジの小銭を制服のポケットに突っ込んだ。教室に戻ろうと踵を返したところで——購買の前のベンチに、見覚えのある栗色の髪を見つけた。
天野陽葵だった。
制服のリボンをいつもの癖で少し緩めに結んだまま、一人でメロンパンをちぎっている。ちぎって、口に入れて、咀嚼して、また千切る。そこに「美味い」とか「腹減った」とか、陽葵らしい感想は一切ない。ただ機械的にパンを減らしているだけだ。
隣の席は空いている。
ここ最近、陽葵が蓮の弁当を食べに行っている気配がない。購買のパンを一人で食べているのを、遼太は何度か見かけていた。二年三組の教室では蓮と澪が向かい合って弁当を広げている。蓮の表情はいつもの穏やかなそれで、陽葵の不在に気づいているのか気づいていないのか、判断しかねる顔だった。
——気づいてねえんだろうな、あのバカ。
遼太は内心でため息をつきながら、陽葵の隣にどさりと腰を下ろした。ベンチの木の板が軋む。
「よう」
「……遼太」
陽葵が顔を上げた。琥珀色の目に、いつもの輝きがない。バレー部のエースアタッカーが、こんなに力のない目をしているのは、中学の時でも見たことがなかった。
「今日も蓮と食ってないのか」
単刀直入に聞いた。遠回しに聞いても仕方がない。陽葵はパンをかじる手を止めて、視線を地面に落とした。
「友達と約束が——」
「どの友達?」
「えっと——バレー部の、サキと——」
「はい嘘。右目泳いでる」
陽葵がびくりとした。反射的に右手で右目を押さえる。指先が震えているのが見えた。
遼太はメロンパンの袋を破りながら、横目で陽葵を観察した。日焼けした健康的な肌は変わっていないが、目の下に薄い隈がある。食事量も減っているんだろう。栗色のセミロングの毛先が外ハネしているのはいつも通りだが、ヘアピンの位置がずれている。普段の陽葵なら、そういう細かいところにきちんと気を使う。
「お前最近おかしいぞ。蓮避けてるだろ」
「避けてない——」
「右目」
「……っ」
陽葵は唇を噛んだ。八重歯が下唇に食い込んで、白い跡を残す。
遼太はメロンパンをひと口かじって立ち上がった。購買前のベンチは人通りが多い。クラスメイトが通りかかれば、嫌でも聞こえてしまう。
「場所変えるぞ」
陽葵は黙って従った。
中庭の奥、花壇の裏にあるベンチまで歩いた。ここなら人目につかない。藤棚の影が足元に紫色の斑点を落としていて、風が吹くたびに淡い花びらがはらはらと舞い落ちる。
二人で並んで座った。遼太はメロンパンを膝の上に置いて、カフェオレのストローを差した。陽葵は千切りかけのメロンパンを握ったまま、膝の上で手を止めている。
しばらく沈黙が続いた。
遠くで野球部の打球音がカキンと響く。渡り廊下を歩く生徒たちの笑い声が、やけに遠い世界のことのように聞こえた。藤の花の甘い匂いが風に乗って鼻先をかすめるたびに、季節が確実に進んでいるのだと思い知らされる。
遼太はメロンパンを半分ほど食べて、残りを膝に戻した。カフェオレを一口飲んで、口の中の甘さを流す。
「別に、無理に話せとは言わねえけどさ」
そう言って、遼太は空を見上げた。雲ひとつない青空。嫌になるくらいいい天気だ。こんなに晴れているのに、隣に座っている女の顔は曇りっぱなしなんだから、世の中うまくいかない。
「——蓮のこと、好き」
唐突だった。
陽葵の声は震えていたけれど、はっきりしていた。まるで喉の奥に詰まっていた言葉が、限界を超えてこぼれ落ちたような——そんな声だった。
遼太は驚かなかった。顔を空に向けたまま、カフェオレのストローを噛んだ。
「知ってるよ」
「え?」
陽葵が遼太の方を振り向いた。琥珀色の目が大きく見開かれている。
「クラスの半分は知ってる」
「——は?」
陽葵の口が半開きになった。遼太は肩をすくめて、やっと陽葵の方を見た。茶色の目を少しだけ細めて、いつものニヤリとした笑みを浮かべる。
「知らねえのは蓮だけだ」
「——なにそれ」
陽葵が泣き笑いのような顔をした。琥珀色の目に涙が浮かんでいるのに、口元が引きつったように笑っている。八重歯がちらりと覗いて、それがなんだか痛々しかった。
「そんな……みんな知ってるの? あたし、そんなにバレバレなの?」
「バレバレもいいとこだよ。お前、蓮の席に弁当食いに行く時の顔見たことあるか? 自分じゃ見えねえだろうけど、もう告白してるようなもんだ。弁当の蓋開ける前からニヤニヤして、蓮が『味見するか?』って聞く前に箸伸ばしてて、蓮がうまいって褒めると耳まで赤くなって」
「やめて——」
陽葵が両手で顔を覆った。耳が真っ赤だ。恥ずかしさと、やるせなさと、全部ごちゃまぜの感情が指の隙間からこぼれている。
「あと、蓮が女子と話してる時。お前あからさまに不機嫌になるのよ。自分じゃ隠せてると思ってるだろ。全然隠せてねえ。こう、口がへの字になって、前髪いじり始めて、バレー部の壁打ちに行く。毎回同じパターン」
「遼太」
「ん?」
「もう一個も言うな」
「はいはい」
遼太はカフェオレを飲みながら、少しだけ笑った。からかいすぎた。でもこのくらいの軽さがないと、陽葵が泣き崩れてしまいそうだった。
風が吹いて、藤の花びらが二人の間に舞い落ちた。陽葵は顔を覆ったまま、肩を小さく震わせている。泣いているのか笑っているのか、たぶん本人にもわからないのだろう。
遼太は残りのメロンパンを一口で頬張り、ゆっくり咀嚼してから飲み込んだ。カフェオレで喉を潤す。それから少しだけ真面目な顔になった。
「なあ、陽葵」
「……なに」
「だからさ、避けてんじゃねえよ」
陽葵が指の隙間から遼太を見た。遼太は膝に肘をつき、少し前かがみの姿勢で中庭の向こうを見ていた。ニヤニヤした表情は消えて、いつもの軽薄さの奥に隠れている真剣な目が顔を出している。
「あいつ馬鹿なんだから。バカがつくほど鈍いんだから。お前が朝の迎えやめて、弁当食いに来なくなって、あいつがそれをどう解釈してるか知ってるか?」
「……知らない」
「『バレー部忙しいんだな』だよ。そんだけ。額面通り。お前の気持ちなんか一ミリも察してない。あいつの鈍感は筋金入りだからな。中学の時から見てきた俺が保証する」
陽葵が両手を顔から離した。目が赤い。涙の筋が頬に残っている。風に吹かれた前髪が額に張りついて、ヘアピンからはみ出している。
「そばにいなきゃ気づかねえぞ。つーかそばにいても気づくかわかんねえけど、少なくとも離れてたら絶対に無理だ。あいつの辞書に『察する』って言葉はねえんだから」
正論だった。中学一年からずっと蓮と陽葵を見てきた遼太の、五年分の観察と経験に裏打ちされた正論。
「わかってる」
陽葵が顔を上げた。涙を拭わないまま、真っ直ぐに前を見ている。
「わかってるよ。遼太の言う通りだって、頭ではわかってる。でも——」
声が詰まった。喉の奥が締め付けられるように震えて、言葉が出てこない。陽葵はメロンパンの残りを握りつぶすように力を込めて、それから力なく膝の上に落とした。
「調理室で、蓮と白河さんが並んで笑ってるの見たら、あたし、もう——」
声が震える。唇が歪む。八重歯を噛みしめるようにして、陽葵は言葉を搾り出した。
「あたしが隣にいた場所に、あの子がいるの。蓮が笑ってるの。あたしじゃない子の作った料理食べて、美味しいって笑ってるの。蓮の味見はあたしの役目だったのに」
嫉妬だ——遼太は陽葵の声の震え方で、すぐにわかった。本人もわかっているのだろう。白河澪は何も悪いことをしていない。蓮も何も悪いことをしていない。わかっているから、余計に苦しいのだ。
「だからって逃げたらますます遠くなるだろ」
遼太の声は穏やかだが、逃げ道を塞ぐような響きがあった。
「距離を取ったって、あいつは『バレー部忙しいんだな』で終わりだ。お前が苦しんでること、一ミリも伝わってない。このまま避け続けたら——お前の席、そのまま空きっぱなしになるぞ」
その言葉が刺さった。蓮の隣の席。弁当の卵焼きを「味見」と称して奪い、「幼馴染特権」と言い張ってきた、あの場所。もしそこに自分以外の誰かが座ったら——座り続けたら——。
「わかってるって! わかってるけど、できないの!」
陽葵が叫んだ。中庭に声が響いて、藤棚の向こうで鳩が驚いて飛び立った。遠くで部活動の掛け声が聞こえる。世界は何事もなかったように回り続けているのに、自分だけが止まっている。
「怖いの。蓮の隣に行って、いつも通りにして、でもその横に白河さんがいて、蓮が白河さんの方を向いて笑ってたら——あたし、もう立っていられないかもしれない」
声が裏返った。陽葵は両手で膝を抱えるようにして身を縮めた。百六十一センチのバレー部のエースアタッカーが、こんなに小さく見えることがある。
遼太は黙った。
何か気の利いたことを言ってやりたかった。「大丈夫だ」とか「きっとうまくいく」とか、そういう安い保証でもいいから口にしてやりたかった。でもそれは嘘になる。蓮が陽葵の気持ちに気づく保証なんか、どこにもない。
だから遼太は、ただ隣に座っていた。
藤の花びらが風に舞う。日差しが傾いて、二人の影が少し伸びた。昼休みの喧噪が遠い場所の出来事みたいに聞こえる。
やがて、遼太はゆっくりと口を開いた。
「……そっか」
それ以上は言わなかった。強く背中を押しすぎたら、陽葵が壊れる。ギリギリのところで踏みとどまっている人間を、力ずくで動かしたらどうなるか——実家の居酒屋で酔っ払いの相手をしてきた遼太には、そのくらいの判断がついた。
代わりに、少しだけ声のトーンを落とした。
「まあ、焦んなよ。タイミングが来たら、お前なら言える」
「……ほんとに?」
陽葵が膝に顔を埋めたまま、くぐもった声で聞いた。
「おう。なんたって天野陽葵だからな。行動力と度胸は中学ん時から保証済みだ。県大会で三本目のスパイク決めた時、お前めちゃくちゃかっこよかったぞ。あれ蓮も見てたからな」
「……なにそれ、関係ないじゃん」
「あるだろ。あの度胸があんなら、告白のひとつやふたつ——」
「ひとつでいい」
陽葵が顔を上げた。目は赤くて、鼻もすすっていたけれど、口元にかすかな笑みが浮かんでいた。泣き笑い。今度は笑いの方が少し多い。
「ひとつでいいから。ちゃんと、蓮に言いたい」
「だろ?」
遼太はにやりと笑った。日焼けした肌に白い歯が光る。
「遼太」
「ん?」
「ありがと」
「礼はいらねえよ。その代わり早く蓮に言え。俺もう見てらんねえんだわ、お前ら二人のやり取り。もどかしすぎて胃に穴開きそう」
「……うん」
陽葵は立ち上がって、制服のスカートについた花びらを払った。両手で頬をぱんぱんと叩いて、目を袖でごしごしと拭う。赤くなった目を隠すように前髪を直して、ずれていたヘアピンの位置を整える。
「よっし」
小さく気合を入れた。それは陽葵の口癖だ。何かを始める時、勇気が必要な時の掛け声。聞き慣れたその一言が、今日はいつもより少しだけ掠れていた。
陽葵は振り返らずに、校舎の方に歩いていった。日差しの中に溶け込むように、栗色の髪が揺れる。
遼太は一人、ベンチに残された。
握りつぶされたメロンパンの残骸が、陽葵の座っていた場所に残っている。遼太はそれを拾い上げて、隣のゴミ箱に放り込んだ。カフェオレの残りをストローで吸い切って、空になったパックも捨てる。
それから、ベンチの背もたれに体を預けて空を見上げた。
雲ひとつない青空。藤の花が風に揺れている。甘い匂いが鼻を刺す。
「人のことは分かるくせに、自分のことになると何もできねえんだよな」
呟いた声は、自分に向けたものだった。
実家の居酒屋で、物心ついた頃から客の顔を見続けて育った。カウンターの向こう側で、親父がつまみを出しながら常連と笑い合う横で、遼太は客の表情を読むのが日課だった。あの人は今日機嫌がいい、あの人は仕事で嫌なことがあった、あの人は奥さんと喧嘩した——顔を見れば大体わかる。
誰が嘘をついているか、誰が無理して笑っているか、誰が本当は泣きたいのか。そういうことが、遼太には手に取るように見える。陽葵の右目の癖も、蓮の首を撫でる仕草も、全部見えている。
でも、その目は自分自身には向けられない。
自分が何を考えているのか、自分が何を望んでいるのか。そういうことに限って、遼太はとんと鈍い。テストの点が壊滅的なのはまた別の話だが、自分の内面に関しては、蓮の恋愛感覚と大差ないかもしれない。
遼太はそれを知っていた。知っていたが、今はそれでいいと思った。
今は、自分のことより先にやることがある。あの二人のバカを、どうにかしなきゃいけない。
予鈴が鳴った。
遼太は立ち上がって、制服の第一ボタンが開いているのを確認してから——閉める気はないが——教室に向かって歩き出した。
廊下ですれ違ったクラスメイトに「遼太、どこ行ってたの?」と聞かれて、「ちょっと中庭で昼飯」と答えた。嘘じゃない。ただ、誰と食べてたかは言わなかった。
教室に入ると、蓮が席で弁当箱を片付けていた。その隣——陽葵の席——は空だった。
蓮が遼太に気づいて「おう」と手を挙げる。穏やかな暗褐色の目。いつもの、何も知らない顔。
遼太は「おう」と返して、蓮の肩をポンと叩いて自分の席に着いた。
——お前さ、いつになったら気づくんだよ。
口にはしない。まだ、その時じゃない。
でもその時は、きっとそう遠くない。
遼太はそう信じて、五限目の数学のノートを——白紙のまま——開いた。




