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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第二部 揺れる距離

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12/22

第十二章 右目の嘘

 四月の最終週、木曜日の昼休み。

 坂本遼太は購買の列に並びながら、ガラス越しに中庭を眺めていた。晴れているのに風が冷たい。もうすぐ五月だというのに、空気だけがまだ春を引きずっている。

 メロンパンとカフェオレを受け取り、レジの小銭を制服のポケットに突っ込んだ。教室に戻ろうと踵を返したところで——購買の前のベンチに、見覚えのある栗色の髪を見つけた。

 天野陽葵だった。

 制服のリボンをいつもの癖で少し緩めに結んだまま、一人でメロンパンをちぎっている。ちぎって、口に入れて、咀嚼して、また千切る。そこに「美味い」とか「腹減った」とか、陽葵らしい感想は一切ない。ただ機械的にパンを減らしているだけだ。

 隣の席は空いている。

 ここ最近、陽葵が蓮の弁当を食べに行っている気配がない。購買のパンを一人で食べているのを、遼太は何度か見かけていた。二年三組の教室では蓮と澪が向かい合って弁当を広げている。蓮の表情はいつもの穏やかなそれで、陽葵の不在に気づいているのか気づいていないのか、判断しかねる顔だった。

 ——気づいてねえんだろうな、あのバカ。

 遼太は内心でため息をつきながら、陽葵の隣にどさりと腰を下ろした。ベンチの木の板が軋む。

「よう」

「……遼太」

 陽葵が顔を上げた。琥珀色の目に、いつもの輝きがない。バレー部のエースアタッカーが、こんなに力のない目をしているのは、中学の時でも見たことがなかった。

「今日も蓮と食ってないのか」

 単刀直入に聞いた。遠回しに聞いても仕方がない。陽葵はパンをかじる手を止めて、視線を地面に落とした。

「友達と約束が——」

「どの友達?」

「えっと——バレー部の、サキと——」

「はい嘘。右目泳いでる」

 陽葵がびくりとした。反射的に右手で右目を押さえる。指先が震えているのが見えた。

 遼太はメロンパンの袋を破りながら、横目で陽葵を観察した。日焼けした健康的な肌は変わっていないが、目の下に薄い隈がある。食事量も減っているんだろう。栗色のセミロングの毛先が外ハネしているのはいつも通りだが、ヘアピンの位置がずれている。普段の陽葵なら、そういう細かいところにきちんと気を使う。

「お前最近おかしいぞ。蓮避けてるだろ」

「避けてない——」

「右目」

「……っ」

 陽葵は唇を噛んだ。八重歯が下唇に食い込んで、白い跡を残す。

 遼太はメロンパンをひと口かじって立ち上がった。購買前のベンチは人通りが多い。クラスメイトが通りかかれば、嫌でも聞こえてしまう。

「場所変えるぞ」

 陽葵は黙って従った。

 中庭の奥、花壇の裏にあるベンチまで歩いた。ここなら人目につかない。藤棚の影が足元に紫色の斑点を落としていて、風が吹くたびに淡い花びらがはらはらと舞い落ちる。

 二人で並んで座った。遼太はメロンパンを膝の上に置いて、カフェオレのストローを差した。陽葵は千切りかけのメロンパンを握ったまま、膝の上で手を止めている。

 しばらく沈黙が続いた。

 遠くで野球部の打球音がカキンと響く。渡り廊下を歩く生徒たちの笑い声が、やけに遠い世界のことのように聞こえた。藤の花の甘い匂いが風に乗って鼻先をかすめるたびに、季節が確実に進んでいるのだと思い知らされる。

 遼太はメロンパンを半分ほど食べて、残りを膝に戻した。カフェオレを一口飲んで、口の中の甘さを流す。

「別に、無理に話せとは言わねえけどさ」

 そう言って、遼太は空を見上げた。雲ひとつない青空。嫌になるくらいいい天気だ。こんなに晴れているのに、隣に座っている女の顔は曇りっぱなしなんだから、世の中うまくいかない。

「——蓮のこと、好き」

 唐突だった。

 陽葵の声は震えていたけれど、はっきりしていた。まるで喉の奥に詰まっていた言葉が、限界を超えてこぼれ落ちたような——そんな声だった。

 遼太は驚かなかった。顔を空に向けたまま、カフェオレのストローを噛んだ。

「知ってるよ」

「え?」

 陽葵が遼太の方を振り向いた。琥珀色の目が大きく見開かれている。

「クラスの半分は知ってる」

「——は?」

 陽葵の口が半開きになった。遼太は肩をすくめて、やっと陽葵の方を見た。茶色の目を少しだけ細めて、いつものニヤリとした笑みを浮かべる。

「知らねえのは蓮だけだ」

「——なにそれ」

 陽葵が泣き笑いのような顔をした。琥珀色の目に涙が浮かんでいるのに、口元が引きつったように笑っている。八重歯がちらりと覗いて、それがなんだか痛々しかった。

「そんな……みんな知ってるの? あたし、そんなにバレバレなの?」

「バレバレもいいとこだよ。お前、蓮の席に弁当食いに行く時の顔見たことあるか? 自分じゃ見えねえだろうけど、もう告白してるようなもんだ。弁当の蓋開ける前からニヤニヤして、蓮が『味見するか?』って聞く前に箸伸ばしてて、蓮がうまいって褒めると耳まで赤くなって」

「やめて——」

 陽葵が両手で顔を覆った。耳が真っ赤だ。恥ずかしさと、やるせなさと、全部ごちゃまぜの感情が指の隙間からこぼれている。

「あと、蓮が女子と話してる時。お前あからさまに不機嫌になるのよ。自分じゃ隠せてると思ってるだろ。全然隠せてねえ。こう、口がへの字になって、前髪いじり始めて、バレー部の壁打ちに行く。毎回同じパターン」

「遼太」

「ん?」

「もう一個も言うな」

「はいはい」

 遼太はカフェオレを飲みながら、少しだけ笑った。からかいすぎた。でもこのくらいの軽さがないと、陽葵が泣き崩れてしまいそうだった。

 風が吹いて、藤の花びらが二人の間に舞い落ちた。陽葵は顔を覆ったまま、肩を小さく震わせている。泣いているのか笑っているのか、たぶん本人にもわからないのだろう。

 遼太は残りのメロンパンを一口で頬張り、ゆっくり咀嚼してから飲み込んだ。カフェオレで喉を潤す。それから少しだけ真面目な顔になった。

「なあ、陽葵」

「……なに」

「だからさ、避けてんじゃねえよ」

 陽葵が指の隙間から遼太を見た。遼太は膝に肘をつき、少し前かがみの姿勢で中庭の向こうを見ていた。ニヤニヤした表情は消えて、いつもの軽薄さの奥に隠れている真剣な目が顔を出している。

「あいつ馬鹿なんだから。バカがつくほど鈍いんだから。お前が朝の迎えやめて、弁当食いに来なくなって、あいつがそれをどう解釈してるか知ってるか?」

「……知らない」

「『バレー部忙しいんだな』だよ。そんだけ。額面通り。お前の気持ちなんか一ミリも察してない。あいつの鈍感は筋金入りだからな。中学の時から見てきた俺が保証する」

 陽葵が両手を顔から離した。目が赤い。涙の筋が頬に残っている。風に吹かれた前髪が額に張りついて、ヘアピンからはみ出している。

「そばにいなきゃ気づかねえぞ。つーかそばにいても気づくかわかんねえけど、少なくとも離れてたら絶対に無理だ。あいつの辞書に『察する』って言葉はねえんだから」

 正論だった。中学一年からずっと蓮と陽葵を見てきた遼太の、五年分の観察と経験に裏打ちされた正論。

「わかってる」

 陽葵が顔を上げた。涙を拭わないまま、真っ直ぐに前を見ている。

「わかってるよ。遼太の言う通りだって、頭ではわかってる。でも——」

 声が詰まった。喉の奥が締め付けられるように震えて、言葉が出てこない。陽葵はメロンパンの残りを握りつぶすように力を込めて、それから力なく膝の上に落とした。

「調理室で、蓮と白河さんが並んで笑ってるの見たら、あたし、もう——」

 声が震える。唇が歪む。八重歯を噛みしめるようにして、陽葵は言葉を搾り出した。

「あたしが隣にいた場所に、あの子がいるの。蓮が笑ってるの。あたしじゃない子の作った料理食べて、美味しいって笑ってるの。蓮の味見はあたしの役目だったのに」

 嫉妬だ——遼太は陽葵の声の震え方で、すぐにわかった。本人もわかっているのだろう。白河澪は何も悪いことをしていない。蓮も何も悪いことをしていない。わかっているから、余計に苦しいのだ。

「だからって逃げたらますます遠くなるだろ」

 遼太の声は穏やかだが、逃げ道を塞ぐような響きがあった。

「距離を取ったって、あいつは『バレー部忙しいんだな』で終わりだ。お前が苦しんでること、一ミリも伝わってない。このまま避け続けたら——お前の席、そのまま空きっぱなしになるぞ」

 その言葉が刺さった。蓮の隣の席。弁当の卵焼きを「味見」と称して奪い、「幼馴染特権」と言い張ってきた、あの場所。もしそこに自分以外の誰かが座ったら——座り続けたら——。

「わかってるって! わかってるけど、できないの!」

 陽葵が叫んだ。中庭に声が響いて、藤棚の向こうで鳩が驚いて飛び立った。遠くで部活動の掛け声が聞こえる。世界は何事もなかったように回り続けているのに、自分だけが止まっている。

「怖いの。蓮の隣に行って、いつも通りにして、でもその横に白河さんがいて、蓮が白河さんの方を向いて笑ってたら——あたし、もう立っていられないかもしれない」

 声が裏返った。陽葵は両手で膝を抱えるようにして身を縮めた。百六十一センチのバレー部のエースアタッカーが、こんなに小さく見えることがある。

 遼太は黙った。

 何か気の利いたことを言ってやりたかった。「大丈夫だ」とか「きっとうまくいく」とか、そういう安い保証でもいいから口にしてやりたかった。でもそれは嘘になる。蓮が陽葵の気持ちに気づく保証なんか、どこにもない。

 だから遼太は、ただ隣に座っていた。

 藤の花びらが風に舞う。日差しが傾いて、二人の影が少し伸びた。昼休みの喧噪が遠い場所の出来事みたいに聞こえる。

 やがて、遼太はゆっくりと口を開いた。

「……そっか」

 それ以上は言わなかった。強く背中を押しすぎたら、陽葵が壊れる。ギリギリのところで踏みとどまっている人間を、力ずくで動かしたらどうなるか——実家の居酒屋で酔っ払いの相手をしてきた遼太には、そのくらいの判断がついた。

 代わりに、少しだけ声のトーンを落とした。

「まあ、焦んなよ。タイミングが来たら、お前なら言える」

「……ほんとに?」

 陽葵が膝に顔を埋めたまま、くぐもった声で聞いた。

「おう。なんたって天野陽葵だからな。行動力と度胸は中学ん時から保証済みだ。県大会で三本目のスパイク決めた時、お前めちゃくちゃかっこよかったぞ。あれ蓮も見てたからな」

「……なにそれ、関係ないじゃん」

「あるだろ。あの度胸があんなら、告白のひとつやふたつ——」

「ひとつでいい」

 陽葵が顔を上げた。目は赤くて、鼻もすすっていたけれど、口元にかすかな笑みが浮かんでいた。泣き笑い。今度は笑いの方が少し多い。

「ひとつでいいから。ちゃんと、蓮に言いたい」

「だろ?」

 遼太はにやりと笑った。日焼けした肌に白い歯が光る。

「遼太」

「ん?」

「ありがと」

「礼はいらねえよ。その代わり早く蓮に言え。俺もう見てらんねえんだわ、お前ら二人のやり取り。もどかしすぎて胃に穴開きそう」

「……うん」

 陽葵は立ち上がって、制服のスカートについた花びらを払った。両手で頬をぱんぱんと叩いて、目を袖でごしごしと拭う。赤くなった目を隠すように前髪を直して、ずれていたヘアピンの位置を整える。

「よっし」

 小さく気合を入れた。それは陽葵の口癖だ。何かを始める時、勇気が必要な時の掛け声。聞き慣れたその一言が、今日はいつもより少しだけ掠れていた。

 陽葵は振り返らずに、校舎の方に歩いていった。日差しの中に溶け込むように、栗色の髪が揺れる。

 遼太は一人、ベンチに残された。

 握りつぶされたメロンパンの残骸が、陽葵の座っていた場所に残っている。遼太はそれを拾い上げて、隣のゴミ箱に放り込んだ。カフェオレの残りをストローで吸い切って、空になったパックも捨てる。

 それから、ベンチの背もたれに体を預けて空を見上げた。

 雲ひとつない青空。藤の花が風に揺れている。甘い匂いが鼻を刺す。

「人のことは分かるくせに、自分のことになると何もできねえんだよな」

 呟いた声は、自分に向けたものだった。

 実家の居酒屋で、物心ついた頃から客の顔を見続けて育った。カウンターの向こう側で、親父がつまみを出しながら常連と笑い合う横で、遼太は客の表情を読むのが日課だった。あの人は今日機嫌がいい、あの人は仕事で嫌なことがあった、あの人は奥さんと喧嘩した——顔を見れば大体わかる。

 誰が嘘をついているか、誰が無理して笑っているか、誰が本当は泣きたいのか。そういうことが、遼太には手に取るように見える。陽葵の右目の癖も、蓮の首を撫でる仕草も、全部見えている。

 でも、その目は自分自身には向けられない。

 自分が何を考えているのか、自分が何を望んでいるのか。そういうことに限って、遼太はとんと鈍い。テストの点が壊滅的なのはまた別の話だが、自分の内面に関しては、蓮の恋愛感覚と大差ないかもしれない。

 遼太はそれを知っていた。知っていたが、今はそれでいいと思った。

 今は、自分のことより先にやることがある。あの二人のバカを、どうにかしなきゃいけない。

 予鈴が鳴った。

 遼太は立ち上がって、制服の第一ボタンが開いているのを確認してから——閉める気はないが——教室に向かって歩き出した。

 廊下ですれ違ったクラスメイトに「遼太、どこ行ってたの?」と聞かれて、「ちょっと中庭で昼飯」と答えた。嘘じゃない。ただ、誰と食べてたかは言わなかった。

 教室に入ると、蓮が席で弁当箱を片付けていた。その隣——陽葵の席——は空だった。

 蓮が遼太に気づいて「おう」と手を挙げる。穏やかな暗褐色の目。いつもの、何も知らない顔。

 遼太は「おう」と返して、蓮の肩をポンと叩いて自分の席に着いた。

 ——お前さ、いつになったら気づくんだよ。

 口にはしない。まだ、その時じゃない。

 でもその時は、きっとそう遠くない。

 遼太はそう信じて、五限目の数学のノートを——白紙のまま——開いた。


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