第十一章 朝が来ない
四月下旬。蓮の日常は、少しずつ形を変え始めていた。
ただし、蓮自身はそれに気づいていなかった。
月曜日の朝。
玄関の呼び鈴は鳴らない。
蓮は台所で二人分の弁当を作りながら、スマートフォンの画面を確認した。陽葵からのLINE。
「バレー部の朝練あるから先行くね!」
太陽のスタンプ。いつもの明るいメッセージ。
「おう、がんばれ」
短く返信して、蓮は卵焼きを弁当箱に詰めた。
火曜日の朝。
呼び鈴は鳴らない。
「今日も朝練! がんばるぞー!」
炎のスタンプ。
「気合入ってんな」
水曜日の朝。
呼び鈴は鳴らない。
「朝練朝練!」
筋肉のスタンプ。
蓮は「いつもえらいな」と返した。一人で自転車を漕いで、若葉の茂り始めた桜並木を通学路を走った。隣に陽葵がいない朝が、三日目になっていた。
木曜日。
ここでようやく蓮は気づいたかもしれない。「あれ、バレー部の朝練って毎日あるんだっけ」と。でも気づかなかった。蓮が知っている限り、バレー部の朝練は火曜と木曜だけのはずだった。月曜と水曜に朝練があるなら、強化期間に入ったのだろう。大会が近いのかもしれない。陽葵はバレー部のエースアタッカーなのだから、忙しくて当然だ。
蓮はそう結論づけて、一人でペダルを踏んだ。
陽葵の嘘に気づく手がかりは、いくつもあった。
朝練は火曜と木曜だけなのに月曜から毎日「朝練」と言っていること。LINEのメッセージがいつもの陽葵らしくないこと——普段なら絵文字やスタンプをたくさん使って、どうでもいいことまで長文で送ってくるのに、最近は一行で終わること。そして何より、陽葵が嘘をつく時に右目が泳ぐ癖があること。LINEでは目が見えないから、蓮に気づかれないと思ったのだろう。
蓮はその全てを見逃した。
昼休みも変わった。
月曜日。蓮が弁当箱を開けて、隣の席を見た。陽葵がいない。
「天野? さっき友達と食べるって——」
前の席のクラスメイトが教えてくれた。
蓮は「そっか」と言って、弁当を食べた。卵焼き二切れ。全部自分の分。
火曜日。蓮が弁当箱を開けて、隣を見た。陽葵がいない。
「天野なら、さっき出てったよ」
蓮は「ああ、そうか」と言って、弁当を食べた。
水曜日。蓮が弁当箱を開けた。もう隣を確認しなかった。陽葵はいないだろうとわかっていたからだ。
「友達と約束がある」。陽葵はいつもそう言った。でもその「友達」が誰なのかを、陽葵は一度も言わなかった。蓮も聞かなかった。
木曜日の昼休み。蓮は弁当を食べながら、ふと窓の外を見た。体育館の方角。バレー部の練習は昼休みにはない。陽葵はどこで昼ごはんを食べているのだろう。
——まあ、友達と食べてるならいいか。
蓮はそう思って、卵焼きを口に入れた。
実際のところ、陽葵は一人だった。
購買でメロンパンとカフェオレを買って、一階の廊下の隅にある、誰も使わないベンチに座って食べていた。
壁にもたれて、メロンパンを齧る。甘いはずなのに、味がしない。カフェオレを飲む。冷たい液体が喉を通る感覚だけがある。
ここなら誰にも会わない。蓮にも、あの転校生にも、遼太にも。
栗色のセミロングの髪をいじりながら、陽葵はスマートフォンの画面を見た。蓮からの返信。「おう、がんばれ」。短い。いつも通り。何も疑っていない。
——よかった。バレてない。
安堵と、悲しさが、同時に押し寄せた。
バレていないことが嬉しいはずなのに、なぜか悲しい。気づいてほしいのか。嘘だって見抜いてほしいのか。「本当は朝練じゃないだろ」って言ってほしいのか。
わからない。自分でもわからない。
琥珀色の目がじわりと滲む。慌てて目を擦った。泣くもんか。学校で泣くわけにはいかない。
メロンパンの残りを口に押し込んで、カフェオレで流し込んだ。立ち上がって、制服のスカートの裾を叩いた。
「よっし」
気合の掛け声。でも声に力がない。
陽葵は笑顔を作った。いつもの明るい笑顔。八重歯がちらりと覗く。鏡の前で何度も練習した笑顔。
廊下を歩いて教室に戻る途中、窓から調理室が見えた。まだ灯りは点いていない。放課後にならないと蓮は調理室に来ない。
でも放課後になったら、あの転校生が来る。白河澪。黒髪のストレートロング。紺色の目。小さな声。左利き。蓮の隣で笑う人。
陽葵は窓から目を逸らして、教室に戻った。
放課後の調理室は、蓮と澪の時間になっていた。
この週、澪は木村先生に入部届を提出した。正式に料理部のメンバーだ。もともと蓮と三年の幽霊部員だけだった料理部に、澪が加わって実質二人体制。放課後は毎日のように二人で調理室に立った。
月曜日。蓮が鯖の味噌煮を作り、澪がフィナンシェを焼いた。
火曜日。蓮が鶏の唐揚げを作り、澪がシュークリームに挑戦した。シュー生地が思うように膨らまなくて、澪が「……すみません」と落ち込み、蓮が「三回目でうまくいくやつだよ、これ」と笑った。
水曜日。蓮が筑前煮を作り、澪がもう一度シュークリームに挑戦した。今度はふっくらと膨らんだ。澪が小さくガッツポーズをして、蓮が「やるじゃん」と拍手した。
木曜日。二人で並んで料理をしながら、会話が自然に流れるようになっていた。
その木曜日の放課後。
蓮が筑前煮の仕上げをしている横で、澪がカスタードクリームを練っていた。左手で木べらを動かし、右手で鍋の取っ手を持つ。焦がさないように、絶えず混ぜ続ける。
「澪のお菓子、毎回うまいよな。昨日のシュークリームも完璧だったし」
「完璧じゃないです。シューの形がまだ不揃いで。お母さんのは全部同じ大きさに膨らむんです」
「十分だろ、高校生の手作りなら」
蓮が笑いながら、筑前煮を小皿に盛った。澪に差し出す。
「味見してくれ」
澪は箸を受け取り、一口食べた。目を閉じる。いつもの癖だ。美味しいものを食べると、目を閉じてゆっくり咀嚼する。
「……美味しい。蓮くんの煮物は、いつも出汁がしっかり効いていて」
「母さんのレシピだからな。出汁だけは手を抜くなって書いてある」
蓮は自分も一口食べて、「よし」と頷いた。母の味に近い。あの頃の台所の匂いに、少しずつ近づいている。
澪がカスタードクリームを火から下ろして、バットに移した。ラップを密着させて、粗熱を取る。その間に、蓮がお茶を入れた。調理室の棚にある急須で、緑茶を二人分。
湯気の立つ湯のみを澪に渡した。
「ありがとうございます」
二人で調理台にもたれて、お茶を飲む。夕日が窓から差し込んで、調理室を橙色に染めていた。
「……蓮くんの料理を食べると、なんだか安心します」
澪がぽつりと言った。湯のみを両手で包んで、湯気越しに蓮を見ている。
「安心?」
「はい。上手く言えないんですけど……お母さんの味みたい、って言ったら変ですけど」
蓮の手が止まった。湯のみを持つ指に、わずかに力がこもった。
母さんの味。
その言葉は、蓮にとって特別な重みを持っている。八歳の時に母を亡くして以来、母の味を再現するために台所に立ち続けてきた。ひなたに「お母さんの味がする」と言われた時の、あの泣き笑い。それ以来ずっと、この味を守ってきた。
「……俺の料理、母さんのレシピがベースなんだ」
蓮は湯のみから目を上げた。暗褐色の目が、窓の外の夕日を見ている。
「母さん、料理好きでさ。俺が小さい頃から台所で一緒に作ってた。卵焼きとか肉じゃがとか、全部母さんに教わった」
「素敵なお母さんですね」
「うん。——もういないけど」
さらりと言った。感情を押し殺しているわけではない。九年という歳月が、その言葉をさらりと言えるだけの距離を作った。でも完全に癒えているわけでもない。左手首の革紐のブレスレット——母の形見——に、無意識に触れていた。
澪は驚いたように目を見開いたが、何も聞かなかった。「いつ」も「どうして」も聞かない。ただ「そうだったんですね」と静かに言って、それ以上触れなかった。
その沈黙が、蓮には心地よかった。
普通なら「大変だったね」とか「寂しいでしょう」とか言われる。悪気はないとわかっている。でもその言葉が、時として重く感じることがある。澪は何も言わなかった。ただ隣にいて、同じ夕日を見て、お茶を飲んでいた。
蓮にとって、母のことを話すのは特別なことだ。ひなたや陽葵、遼太以外の誰かに話したのは、初めてかもしれない。なぜこの子に話す気になったのか、蓮自身にもわからなかった。
料理仲間としての共感。同じ「母の味」を受け継ぐ者同士の共鳴。蓮はそう理解していた。それ以上でもそれ以下でもない——と蓮は思っている。
でもその「特別」の正体に、蓮自身は気づいていなかった。
澪もまた、気づいていた。自分が壁を下ろし始めていることに。「深く関わるのはやめよう」と決めたはずの壁が、この調理室では、いつの間にか膝の高さまで低くなっている。怖くないわけではない。でも蓮の隣で料理をする時間が、怖さより少しだけ大きくなっていた。
同じ頃。
体育館で、陽葵はバレーボールを壁に打ちつけていた。
ばん。
力いっぱい、手のひらでボールを叩く。壁に当たって跳ね返る。拾って、また打つ。
ばん。ばん。ばん。
練習はとっくに終わっている。部員はとっくに帰った。体育館の照明は半分だけ点いていて、陽葵の影が床に長く伸びていた。ジャージ姿のポニーテールが、打つたびに揺れる。体育館の高窓から見える空は、桜の季節より少しだけ暗い色をしていた。春が終わりかけている。何かが変わりかけている。
昼休みは購買のメロンパンを廊下の隅で食べた。一人で。蓮の弁当を食べたかった。卵焼きを「味見」したかった。「幼馴染特権」を主張して、蓮の箸を奪いたかった。
でも行けなかった。
調理室を覗いて、蓮と澪が笑い合っている光景を見るのが怖くて。蓮が澪のお菓子を「うまい」と褒める声を聞くのが怖くて。自分の知らない匂いが調理室に漂っているのが怖くて。
ばん。
力任せにボールを叩く。手のひらがじんじんする。赤くなっている。それでもやめられない。
「ひまり姉、最近全然来ないね」
昨日、ひなたと電話した時に言われた。
「え、何が?」と聞き返したら、ひなたが「うちに来ないねって言ってるの」と呆れたように言った。そうだ。最近、藤咲家に行っていない。
「バレー部忙しくてさ。大会近いから」
嘘だ。大会はまだ先だ。でもひなたには言えなかった。ひなたは「ひまり姉なら」と兄を託してくれた。その信頼を裏切っている気がした。
「……ひまり姉」
ひなたが電話越しに、少し沈黙した。何かを考えている間だった。
「お兄って、ほんと鈍い」
ひなたの声は、呆れと、心配と、少しの怒りが混ざっていた。
「え? なに急に」
「べつに。じゃあね」
電話が切れた。
ひなたの言う通りだ。蓮は鈍い。バレー部の朝練が毎日あるわけないって、普通気づくだろう。「友達と約束がある」を何日も続けたら、おかしいと思うだろう。あたしの右目が泳いでることに、対面なら気づいてよ。
——でも、蓮は気づかない。
だって蓮の隣には、もう別の子がいるから。黒髪の、小柄な、色白の、左利きの女の子。お菓子を作る女の子。蓮の料理を「お母さんの味みたい」と言える女の子。あたしには言えない言葉を、さらりと言える女の子。
ばん。最後の一球を全力で叩いた。ボールが壁に当たって、大きく跳ね返った。天井近くまで弾んで、陽葵の足元に落ちた。
拾い上げた。手のひらが真っ赤になっている。汗が床にぽたりと落ちた。
体育館の窓から、校舎の方が見えた。三階の調理室の灯り。まだ点いている。橙色の光が窓から漏れて、夕暮れの校舎を照らしている。あの光の中に蓮がいる。そして蓮の隣に、澪がいる。
陽葵は目を逸らした。ボールをカゴに戻して、体育館の隅に置いた。タオルで顔を拭いて、ジャージのファスナーを引き上げた。
体育館を出た。夕暮れの校庭を横切って、自転車置き場に向かう。途中で調理室の窓の前を通らなければならない。
足が速くなった。走った。調理室の窓を見ないように、前だけを見て走った。
自転車にまたがって、ペダルを踏み込んだ。帰り道は一人だった。いつも一人だった。一週間前までは蓮と並んで帰っていたのに。信号待ちの交差点で止まって、蓮の返信を見た。「いつもえらいな」。三日前のメッセージだ。
えらくなんかない。嘘をついているだけだ。蓮から逃げているだけだ。
信号が青に変わった。陽葵はペダルを踏み込んで、若葉のトンネルを走り抜けた。
天野家の前に着いた。隣の藤咲家の窓は暗い。蓮はまだ学校だ。
自転車を停めて、ふと空を見上げた。夕焼けが消えかけて、東の空に星が一つ見え始めていた。
——あたし、なにやってるんだろう。
答えは出ない。
玄関を開けて、「ただいま」と言った。母の春香が「おかえり、今日も遅かったわね」と声をかけてきた。
「うん、練習長引いて」
嘘だ。練習は五時に終わっている。残りの時間は一人で壁打ちをしていただけだ。
「蓮くんは? 一緒じゃないの?」
「蓮は、まだ学校」
それだけ言って、二階に上がった。部屋のドアを閉めて、ベッドに倒れ込む。天井を見つめた。
——朝が来なければいいのに。
朝が来たら、また嘘をつかなければいけない。「バレー部の朝練あるから」。「友達と約束があるから」。蓮の前で笑顔を作って、何でもないふりをしなければいけない。
でも朝は来る。毎日来る。
陽葵は枕を抱きしめて、目を閉じた。
スマートフォンが震えた。蓮からのLINE。
「明日も朝練? 最近忙しいんだな」
蓮が心配しているのか、ただの確認なのか、わからない。多分ただの確認だ。蓮はそういう人だ。深い意味はない。
陽葵は返信を打った。
「うん! 大会近いからがんばるよ!」
炎のスタンプ。太陽のスタンプ。ガッツポーズのスタンプ。明るく。元気に。いつものあたしらしく。
送信ボタンを押して、スマートフォンを布団に伏せた。
「……がんばってなんか、ないよ」
小さく呟いて、布団を頭まで被った。
春の夜は、まだ少しだけ肌寒かった。




