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幼馴染が俺の弁当を毎日味見するのは飯が好きだからじゃないらしい  作者: 試作ノ山
第二部 揺れる距離

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10/22

第十章 並んで立つ背中

 数日後の金曜日、放課後。

 蓮が調理室の扉を引くと、中に人がいた。

 白河澪が、調理台の前に立っていた。エプロンを着けて、ボウルを抱えている。ステンレスの泡立て器が、リズミカルにボウルの中を回っていた。左手で器用に泡立て器を動かし、右手でボウルを押さえている。左利き。

 蓮に気づいて、ぱっと顔を上げた。紺色の目が大きく見開かれる。泡立て器を動かす手が止まった。

 「あ……藤咲くん。すみません、勝手に使って——」

 「いいよ、別に。料理部の部室みたいなもんだし」

 蓮は手を振って、自分のエプロンを取り出した。調理室の壁にかかったフックに鞄を掛け、エプロンを結ぶ。白いエプロン。母が使っていたのと同じ形のものを、去年買い直した。

 「つーかむしろ、人がいるの嬉しいくらいだよ。料理部、俺と三年の先輩だけなんだけど、先輩ほぼ来ないから実質一人だし」

 蓮が近づいて、ボウルの中を覗き込んだ。バターと砂糖を混ぜた生地。きめの細かいクリーム状になっている。小麦粉とアーモンドプードルが、別のボウルに計量されて置かれていた。

 「マドレーヌ?」

 「はい。あと、フィナンシェも作ろうかと思って」

 「へえ、すげえな。両方作るのか」

 蓮は感心して調理台を覗き込んだ。材料の並べ方が几帳面だ。計量スプーンも計量カップも、使い終わったものは洗って元の場所に戻してある。バターは必要な分だけ切り出され、残りはラップに包まれて冷蔵庫に戻されている。

 澪が泡立て器を動かす手つきは、慣れていた。力の入れ方、速度、角度。見れば分かる。これは「お菓子作りが趣味」のレベルではない。

 「お母さんが洋菓子店やってるって言ってたよな。小さい頃から手伝ってたのか?」

 「はい。物心ついた時から、お母さんの隣でボウルを回してました」

 澪は少しだけ照れたように目を伏せた。でも声には誇りが滲んでいた。母の仕事を手伝うこと。それは澪にとって、どの学校でも変わらない、唯一の「自分の居場所」だった。

 蓮は隣の調理台に移動して、自分の準備を始めた。冷蔵庫からじゃがいもと玉ねぎと牛肉を取り出す。今日は肉じゃが。母のレシピの定番中の定番だ。

 まな板を置いて、包丁を取り出した。右手で包丁を持ち、左手でじゃがいもを押さえる。皮を剥き始める。しゅる、しゅる、と薄い皮がまな板の上に落ちていく。

 隣では澪が包丁を取り出した。レモンの皮を削るためだ。マドレーヌにレモンの皮のすりおろしを入れるらしい。包丁を握ったのは、左手だった。

 「左利きなんだな」

 蓮が何気なく言った。別に深い意味はない。ただ気づいたから言っただけだ。

 でも澪の反応は違った。

 「……すみません」

 小さく謝った。顔を伏せて、髪の毛先を指で弄る。

 「なんで謝るんだよ」

 蓮は本気で不思議そうな顔をした。暗褐色の目を瞬いて、澪を見る。

 「左利きは謝ることじゃないだろ」

 「でも、調理台の配置が……右利き用になっていて、私がいると邪魔に——」

 「邪魔じゃねえよ」

 蓮は笑って、自分の調理台に置いてあったまな板やボウルを動かし始めた。蓮が使っている調理台と澪の調理台の間にある共用スペースの道具を、左利きの澪が使いやすいように配置を入れ替える。包丁立て、調味料のラック、布巾掛け。一つ一つ、澪の左手から取りやすい位置に。

 「こうすれば使いやすいだろ?」

 さらりと言って、自分の作業に戻った。何でもないことのように。

 澪は目を瞬いた。

 今まで何度も調理実習をやってきた。家庭科の授業で、クラスメイトと一緒に料理を作ったこともある。その度に「左利きだと大変だね」「やりにくくない?」と心配されたことはあった。でもそれは心配であって、解決ではなかった。

 黙って環境を整えてくれた人は、初めてだった。

 「……ありがとうございます」

 澪の声は、いつもより少しだけ大きかった。


 二人が並んで包丁を動かす。蓮の右手と、澪の左手。鏡合わせのように、対称的な動き。

 蓮はじゃがいもを乱切りにし、玉ねぎを薄切りにした。牛肉に酒を振って下味をつける。鍋にごま油を熱して、牛肉を炒め始めた。じゅわっという音と、肉の焼ける香ばしい匂い。

 隣では澪がマドレーヌの型にバターを塗っている。丸い貝殻型のマドレーヌモールドに、溶かしバターをハケで丁寧に塗り込む。一つ一つ、均等に。

 「藤咲くんは、和食が多いんですか?」

 「うん。母さんが和食好きでさ。レシピノート残してくれたから、それ見て作ってる」

 蓮は玉ねぎを鍋に入れながら、さらりと言った。「残してくれた」という過去形。

 澪は気づいた。母のことを過去形で語る。「残してくれた」ということは、もうレシピノートに新しい料理が加わることはないということだ。

 でも、追及しなかった。蓮がそれ以上言わないなら、聞くべきではないと思った。代わりに、ただ小さく言った。

 「素敵ですね。お母さんのレシピ」

 「うん。字がさ、丸くて柔らかいんだ。読みにくいんだけど、なんか和む」

 蓮が少しだけ笑った。目尻が下がる。その表情に、母への愛情がにじんでいた。

 澪はボウルに卵を割り入れ、砂糖を加えて泡立て始めた。左手で泡立て器を持ち、手首のスナップを効かせてリズミカルに混ぜる。白っぽくなるまで泡立てたら、溶かしバターを少しずつ加えていく。

 「澪のお母さんの洋菓子店って、どんな感じ?」

 蓮は煮汁が煮立つのを待ちながら聞いた。自然に「澪」と呼んでいることに、蓮自身は気づいていない。昨日の昼休みに「蓮でいい」「澪でいい」と名前で呼び合うことにしたのだ。

 「小さなお店です。名前は『パティスリー・ミレイユ』。カウンター席が五つと、ショーケースが一つ。お母さんが一人で切り盛りしていて」

 澪は生地をマドレーヌ型に流し込みながら話した。声がいつもより少し弾んでいる。母の店の話をする時の澪は、教室での澪とは別人のようだった。

 「引っ越しのたびに閉めて、新しい場所で開くんです。看板も、ショーケースも、全部持っていって。常連さんとのお別れは何度もあるのに、お母さんはいつも笑っているんです。『新しい場所で、新しいお客さんに会えるから』って」

 「強いな、お母さん」

 蓮が素直に言った。感心している暗褐色の目を見て、澪はかすかに微笑んだ。紺色の目が三日月のように細くなる。

 「はい。……あの、私のこと、澪って呼んでくれてますけど」

 「え、嫌だった? ごめん——」

 「いえ。嬉しいです。ここに来て初めて、名前で呼んでくれた人なので」

 蓮は視線を逸らした。耳がほんの少し赤くなっている。

 「じゃあ改めて、澪。よろしく」

 「はい。よろしくお願いします、蓮くん」

 転校初日の硬い表情とは、別人のようだった。

 二人で料理を続けた。蓮が肉じゃがの味付けを始める。醤油、みりん、砂糖、だし汁。母のレシピ通りの分量。鍋に落し蓋をして、弱火で煮込む。

 オーブンが予熱完了のブザーを鳴らした。澪がマドレーヌの型をオーブンに入れる。タイマーを十五分にセットして、オーブンの小窓から中を覗き込んだ。

 「膨らむかな……」

 「大丈夫だろ、手つき見てたら。プロっぽかったし」

 「プロなんかじゃないです。まだまだお母さんには遠く及ばなくて」

 澪が照れて俯いた。髪の毛先を弄る手が、いつもの緊張の弄り方ではなく、照れ隠しの弄り方に見えた。

 「でも、お菓子作りが好きなのは伝わる」

 「蓮くんの和食も。肉じゃがの匂い、すごくいい匂いです」

 「まだ煮込み中だけどな」

 蓮が笑った。澪も少しだけ笑った。

 ——笑えている。

 澪は自分の顔の筋肉が動いていることに、ふと驚いた。転校してから、教室では一度も笑っていない。誰かと笑い合ったのはいつぶりだろう。前の学校で美咲と最後に笑った日以来かもしれない。深く関わるのはやめようと決めたはずなのに、この調理室にいると、壁の存在を忘れてしまう。

 調理室に二種類の匂いが混ざっている。肉じゃがの醤油と出汁の香り。マドレーヌのバターと小麦粉の甘い香り。和食と洋菓子。全く違うジャンルなのに、不思議と調和していた。

 十五分後、オーブンが鳴った。澪がオーブンミトンをはめて型を取り出す。ぷっくりと膨らんだマドレーヌが、きれいなきつね色に焼き上がっていた。

 「おお、いい焼き色」

 蓮が覗き込んで感心した。

 「蓮くんも一つどうぞ」

 澪が型から外したマドレーヌを一つ、蓮に差し出した。

 蓮は受け取って、一口かじった。外はカリッと、中はしっとり。バターの風味が口いっぱいに広がった。ほのかにレモンの皮の香りがして、甘さは上品。しつこくない。後味が心地いい。

 「うまい。すごくうまいよ、これ」

 蓮の目が輝いた。暗褐色の目を見開いて、まじまじとマドレーヌを見つめる。

 「マジで? 店で出せるレベルだろ、これ」

 「そんな……大げさです」

 でも澪の紺色の目は嬉しそうに細くなっていた。三日月型の目。笑うとこういう目になるのだと、蓮は初めて知った。

 同じ頃、蓮の肉じゃがも完成した。蓮が小皿に盛りつけて、澪に差し出す。

 「こっちも食べてみてくれ」

 澪は箸を受け取って、肉じゃがを一口。じゃがいもがほくほくで、牛肉は柔らかく、玉ねぎは甘く煮えていた。醤油と出汁のバランスが絶妙で、素朴だけれど深い味わい。

 「……美味しい」

 澪は目を閉じた。あの表情。卵焼きを食べた時と同じだ。目を閉じて、ゆっくり咀嚼する。味を、じっくりと感じている。

 「お母さんの味、ちゃんと受け継いでいるんですね」

 何気ない一言だったが、蓮の手が止まった。

 「……うん。そうだといいんだけど」

 蓮は前髪をかき上げた。視線が一瞬、調理台の隅に置いてあるレシピノートに向いた。母の丸い文字が書かれたノート。もう新しいページが増えることはないノート。

 二人はしばらく無言で料理を食べた。調理室に、グラウンドのサッカー部の掛け声と、体育館のバレーボールが床を打つ音が聞こえてくる。放課後の、穏やかな時間だった。


 その頃、調理室の窓の外に影があった。

 バレー部の練習を終えた陽葵が、いつものようにジャージ姿で調理室を覗きに来ていた。

 ポニーテールにまとめた栗色の髪がまだ揺れている。額の汗を手の甲で拭いながら、調理室の窓に近づいた。

 いつもならドアを開けて入る。「蓮、あたしにも食べさせて」と当たり前の顔で調理台に寄って、味見と称しておかずを奪う。蓮に「お前は食べる専門だな」と笑われて、「うるさい」と肩をバシバシ叩く。それがいつもの光景だった。

 でも今日は、ドアの前で足が止まった。

 窓越しに見えたのは、蓮と澪が並んで料理をする姿だった。

 蓮がまな板の前に立ち、澪がオーブンの前に立っている。二人の背中は、妙に馴染んでいた。まるで最初からそこにいたかのように、自然に。蓮が何か言って、澪が小さく笑う。紺色の目が柔らかく細くなる。蓮も笑う。目尻が下がった、柔和な笑顔。調理室に笑い声が響く。

 甘い匂いが窓の隙間から漏れてきた。バターと小麦粉の匂い。陽葵の知らない匂いだ。蓮の調理室は、いつも出汁と醤油の和食の匂いだった。その中に、知らない匂いが混ざっている。

 陽葵は窓枠に手をかけたまま、動けなかった。

 蓮が窓越しに陽葵に気づいた。

 「お、陽葵。味見する? マドレーヌと肉じゃが、両方あるぞ」

 いつもの言葉。いつもの笑顔。いつもと変わらない、蓮の声。

 でも今日の陽葵は、いつもと違った。

 「今日はいい」

 声が冷たかった。自分でも驚くくらい、素っ気ない声だった。笑顔は作れなかった。八重歯を見せる余裕なんてなかった。

 蓮は「そっか」と首を傾げただけだった。不思議そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。「あ、天野さん」と澪が窓の方を見たが、陽葵はもう背を向けていた。

 陽葵は足早に校舎を出た。

 夕日が校舎を橙色に染めている。渡り廊下を抜けて、自転車置き場まで歩いた。自転車の鍵を外す手が、かすかに震えていた。

 ハンドルを握って、動けなくなった。

 ——あたしが断ったんだ。「今日はいい」って言ったのはあたしだ。蓮は悪くない。蓮はいつも通りだ。「味見する?」って聞いてくれた。いつもと同じように。

 でも「いつもと同じ」じゃなかった。隣にいたのが、あたしじゃなくて、あの転校生だったから。

 蓮の「味見する?」は、いつもあたしだけに向けられていた言葉だった。放課後の調理室で、蓮が作った料理を一番最初に食べるのは、いつもあたしだった。

 今日、その「一番最初」の場所に、別の誰かがいた。

 自転車にまたがって、ペダルを踏んだ。通学路の桜並木は、もう完全に葉桜になっていた。若葉が夕風に揺れて、さわさわと音を立てている。

 信号待ちの交差点。いつもなら蓮が隣にいる場所。今日は一人だ。

 信号が赤のまま、なかなか変わらない。待つ間に、涙が一筋、頬を伝った。

 「なんで……こんな気持ちになるんだろ」

 琥珀色の目から涙がこぼれる。右手の甲で乱暴に拭いた。また一滴。また拭く。きりがない。

 信号が青に変わった。

 陽葵はペダルを踏み込んだ。力いっぱい。ぐん、と自転車が加速する。風が顔に当たって、涙の跡が乾いていく。でも新しい涙がまた滲んでくる。

 隣には誰もいない通学路が、いつもより長く感じた。若葉のトンネルをくぐる。桜の花びらはもうどこにもない。春は終わりかけている。

 天野家の前に着いた。自転車を停めて、門を開ける。隣の藤咲家の窓に灯りはない。蓮はまだ学校だ。調理室で、あの転校生と一緒にいるのだろう。

 玄関のドアを開けた。

 「おかえりー。今日は早いのね」

 母の春香がリビングから声をかけてきた。

 「……ただいま」

 陽葵は靴を脱いで、まっすぐ二階の自分の部屋に上がった。ドアを閉めて、ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋める。

 涙が、止まらなかった。


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