第十章 並んで立つ背中
数日後の金曜日、放課後。
蓮が調理室の扉を引くと、中に人がいた。
白河澪が、調理台の前に立っていた。エプロンを着けて、ボウルを抱えている。ステンレスの泡立て器が、リズミカルにボウルの中を回っていた。左手で器用に泡立て器を動かし、右手でボウルを押さえている。左利き。
蓮に気づいて、ぱっと顔を上げた。紺色の目が大きく見開かれる。泡立て器を動かす手が止まった。
「あ……藤咲くん。すみません、勝手に使って——」
「いいよ、別に。料理部の部室みたいなもんだし」
蓮は手を振って、自分のエプロンを取り出した。調理室の壁にかかったフックに鞄を掛け、エプロンを結ぶ。白いエプロン。母が使っていたのと同じ形のものを、去年買い直した。
「つーかむしろ、人がいるの嬉しいくらいだよ。料理部、俺と三年の先輩だけなんだけど、先輩ほぼ来ないから実質一人だし」
蓮が近づいて、ボウルの中を覗き込んだ。バターと砂糖を混ぜた生地。きめの細かいクリーム状になっている。小麦粉とアーモンドプードルが、別のボウルに計量されて置かれていた。
「マドレーヌ?」
「はい。あと、フィナンシェも作ろうかと思って」
「へえ、すげえな。両方作るのか」
蓮は感心して調理台を覗き込んだ。材料の並べ方が几帳面だ。計量スプーンも計量カップも、使い終わったものは洗って元の場所に戻してある。バターは必要な分だけ切り出され、残りはラップに包まれて冷蔵庫に戻されている。
澪が泡立て器を動かす手つきは、慣れていた。力の入れ方、速度、角度。見れば分かる。これは「お菓子作りが趣味」のレベルではない。
「お母さんが洋菓子店やってるって言ってたよな。小さい頃から手伝ってたのか?」
「はい。物心ついた時から、お母さんの隣でボウルを回してました」
澪は少しだけ照れたように目を伏せた。でも声には誇りが滲んでいた。母の仕事を手伝うこと。それは澪にとって、どの学校でも変わらない、唯一の「自分の居場所」だった。
蓮は隣の調理台に移動して、自分の準備を始めた。冷蔵庫からじゃがいもと玉ねぎと牛肉を取り出す。今日は肉じゃが。母のレシピの定番中の定番だ。
まな板を置いて、包丁を取り出した。右手で包丁を持ち、左手でじゃがいもを押さえる。皮を剥き始める。しゅる、しゅる、と薄い皮がまな板の上に落ちていく。
隣では澪が包丁を取り出した。レモンの皮を削るためだ。マドレーヌにレモンの皮のすりおろしを入れるらしい。包丁を握ったのは、左手だった。
「左利きなんだな」
蓮が何気なく言った。別に深い意味はない。ただ気づいたから言っただけだ。
でも澪の反応は違った。
「……すみません」
小さく謝った。顔を伏せて、髪の毛先を指で弄る。
「なんで謝るんだよ」
蓮は本気で不思議そうな顔をした。暗褐色の目を瞬いて、澪を見る。
「左利きは謝ることじゃないだろ」
「でも、調理台の配置が……右利き用になっていて、私がいると邪魔に——」
「邪魔じゃねえよ」
蓮は笑って、自分の調理台に置いてあったまな板やボウルを動かし始めた。蓮が使っている調理台と澪の調理台の間にある共用スペースの道具を、左利きの澪が使いやすいように配置を入れ替える。包丁立て、調味料のラック、布巾掛け。一つ一つ、澪の左手から取りやすい位置に。
「こうすれば使いやすいだろ?」
さらりと言って、自分の作業に戻った。何でもないことのように。
澪は目を瞬いた。
今まで何度も調理実習をやってきた。家庭科の授業で、クラスメイトと一緒に料理を作ったこともある。その度に「左利きだと大変だね」「やりにくくない?」と心配されたことはあった。でもそれは心配であって、解決ではなかった。
黙って環境を整えてくれた人は、初めてだった。
「……ありがとうございます」
澪の声は、いつもより少しだけ大きかった。
二人が並んで包丁を動かす。蓮の右手と、澪の左手。鏡合わせのように、対称的な動き。
蓮はじゃがいもを乱切りにし、玉ねぎを薄切りにした。牛肉に酒を振って下味をつける。鍋にごま油を熱して、牛肉を炒め始めた。じゅわっという音と、肉の焼ける香ばしい匂い。
隣では澪がマドレーヌの型にバターを塗っている。丸い貝殻型のマドレーヌモールドに、溶かしバターをハケで丁寧に塗り込む。一つ一つ、均等に。
「藤咲くんは、和食が多いんですか?」
「うん。母さんが和食好きでさ。レシピノート残してくれたから、それ見て作ってる」
蓮は玉ねぎを鍋に入れながら、さらりと言った。「残してくれた」という過去形。
澪は気づいた。母のことを過去形で語る。「残してくれた」ということは、もうレシピノートに新しい料理が加わることはないということだ。
でも、追及しなかった。蓮がそれ以上言わないなら、聞くべきではないと思った。代わりに、ただ小さく言った。
「素敵ですね。お母さんのレシピ」
「うん。字がさ、丸くて柔らかいんだ。読みにくいんだけど、なんか和む」
蓮が少しだけ笑った。目尻が下がる。その表情に、母への愛情がにじんでいた。
澪はボウルに卵を割り入れ、砂糖を加えて泡立て始めた。左手で泡立て器を持ち、手首のスナップを効かせてリズミカルに混ぜる。白っぽくなるまで泡立てたら、溶かしバターを少しずつ加えていく。
「澪のお母さんの洋菓子店って、どんな感じ?」
蓮は煮汁が煮立つのを待ちながら聞いた。自然に「澪」と呼んでいることに、蓮自身は気づいていない。昨日の昼休みに「蓮でいい」「澪でいい」と名前で呼び合うことにしたのだ。
「小さなお店です。名前は『パティスリー・ミレイユ』。カウンター席が五つと、ショーケースが一つ。お母さんが一人で切り盛りしていて」
澪は生地をマドレーヌ型に流し込みながら話した。声がいつもより少し弾んでいる。母の店の話をする時の澪は、教室での澪とは別人のようだった。
「引っ越しのたびに閉めて、新しい場所で開くんです。看板も、ショーケースも、全部持っていって。常連さんとのお別れは何度もあるのに、お母さんはいつも笑っているんです。『新しい場所で、新しいお客さんに会えるから』って」
「強いな、お母さん」
蓮が素直に言った。感心している暗褐色の目を見て、澪はかすかに微笑んだ。紺色の目が三日月のように細くなる。
「はい。……あの、私のこと、澪って呼んでくれてますけど」
「え、嫌だった? ごめん——」
「いえ。嬉しいです。ここに来て初めて、名前で呼んでくれた人なので」
蓮は視線を逸らした。耳がほんの少し赤くなっている。
「じゃあ改めて、澪。よろしく」
「はい。よろしくお願いします、蓮くん」
転校初日の硬い表情とは、別人のようだった。
二人で料理を続けた。蓮が肉じゃがの味付けを始める。醤油、みりん、砂糖、だし汁。母のレシピ通りの分量。鍋に落し蓋をして、弱火で煮込む。
オーブンが予熱完了のブザーを鳴らした。澪がマドレーヌの型をオーブンに入れる。タイマーを十五分にセットして、オーブンの小窓から中を覗き込んだ。
「膨らむかな……」
「大丈夫だろ、手つき見てたら。プロっぽかったし」
「プロなんかじゃないです。まだまだお母さんには遠く及ばなくて」
澪が照れて俯いた。髪の毛先を弄る手が、いつもの緊張の弄り方ではなく、照れ隠しの弄り方に見えた。
「でも、お菓子作りが好きなのは伝わる」
「蓮くんの和食も。肉じゃがの匂い、すごくいい匂いです」
「まだ煮込み中だけどな」
蓮が笑った。澪も少しだけ笑った。
——笑えている。
澪は自分の顔の筋肉が動いていることに、ふと驚いた。転校してから、教室では一度も笑っていない。誰かと笑い合ったのはいつぶりだろう。前の学校で美咲と最後に笑った日以来かもしれない。深く関わるのはやめようと決めたはずなのに、この調理室にいると、壁の存在を忘れてしまう。
調理室に二種類の匂いが混ざっている。肉じゃがの醤油と出汁の香り。マドレーヌのバターと小麦粉の甘い香り。和食と洋菓子。全く違うジャンルなのに、不思議と調和していた。
十五分後、オーブンが鳴った。澪がオーブンミトンをはめて型を取り出す。ぷっくりと膨らんだマドレーヌが、きれいなきつね色に焼き上がっていた。
「おお、いい焼き色」
蓮が覗き込んで感心した。
「蓮くんも一つどうぞ」
澪が型から外したマドレーヌを一つ、蓮に差し出した。
蓮は受け取って、一口かじった。外はカリッと、中はしっとり。バターの風味が口いっぱいに広がった。ほのかにレモンの皮の香りがして、甘さは上品。しつこくない。後味が心地いい。
「うまい。すごくうまいよ、これ」
蓮の目が輝いた。暗褐色の目を見開いて、まじまじとマドレーヌを見つめる。
「マジで? 店で出せるレベルだろ、これ」
「そんな……大げさです」
でも澪の紺色の目は嬉しそうに細くなっていた。三日月型の目。笑うとこういう目になるのだと、蓮は初めて知った。
同じ頃、蓮の肉じゃがも完成した。蓮が小皿に盛りつけて、澪に差し出す。
「こっちも食べてみてくれ」
澪は箸を受け取って、肉じゃがを一口。じゃがいもがほくほくで、牛肉は柔らかく、玉ねぎは甘く煮えていた。醤油と出汁のバランスが絶妙で、素朴だけれど深い味わい。
「……美味しい」
澪は目を閉じた。あの表情。卵焼きを食べた時と同じだ。目を閉じて、ゆっくり咀嚼する。味を、じっくりと感じている。
「お母さんの味、ちゃんと受け継いでいるんですね」
何気ない一言だったが、蓮の手が止まった。
「……うん。そうだといいんだけど」
蓮は前髪をかき上げた。視線が一瞬、調理台の隅に置いてあるレシピノートに向いた。母の丸い文字が書かれたノート。もう新しいページが増えることはないノート。
二人はしばらく無言で料理を食べた。調理室に、グラウンドのサッカー部の掛け声と、体育館のバレーボールが床を打つ音が聞こえてくる。放課後の、穏やかな時間だった。
その頃、調理室の窓の外に影があった。
バレー部の練習を終えた陽葵が、いつものようにジャージ姿で調理室を覗きに来ていた。
ポニーテールにまとめた栗色の髪がまだ揺れている。額の汗を手の甲で拭いながら、調理室の窓に近づいた。
いつもならドアを開けて入る。「蓮、あたしにも食べさせて」と当たり前の顔で調理台に寄って、味見と称しておかずを奪う。蓮に「お前は食べる専門だな」と笑われて、「うるさい」と肩をバシバシ叩く。それがいつもの光景だった。
でも今日は、ドアの前で足が止まった。
窓越しに見えたのは、蓮と澪が並んで料理をする姿だった。
蓮がまな板の前に立ち、澪がオーブンの前に立っている。二人の背中は、妙に馴染んでいた。まるで最初からそこにいたかのように、自然に。蓮が何か言って、澪が小さく笑う。紺色の目が柔らかく細くなる。蓮も笑う。目尻が下がった、柔和な笑顔。調理室に笑い声が響く。
甘い匂いが窓の隙間から漏れてきた。バターと小麦粉の匂い。陽葵の知らない匂いだ。蓮の調理室は、いつも出汁と醤油の和食の匂いだった。その中に、知らない匂いが混ざっている。
陽葵は窓枠に手をかけたまま、動けなかった。
蓮が窓越しに陽葵に気づいた。
「お、陽葵。味見する? マドレーヌと肉じゃが、両方あるぞ」
いつもの言葉。いつもの笑顔。いつもと変わらない、蓮の声。
でも今日の陽葵は、いつもと違った。
「今日はいい」
声が冷たかった。自分でも驚くくらい、素っ気ない声だった。笑顔は作れなかった。八重歯を見せる余裕なんてなかった。
蓮は「そっか」と首を傾げただけだった。不思議そうな顔をしていたが、それ以上は何も言わなかった。「あ、天野さん」と澪が窓の方を見たが、陽葵はもう背を向けていた。
陽葵は足早に校舎を出た。
夕日が校舎を橙色に染めている。渡り廊下を抜けて、自転車置き場まで歩いた。自転車の鍵を外す手が、かすかに震えていた。
ハンドルを握って、動けなくなった。
——あたしが断ったんだ。「今日はいい」って言ったのはあたしだ。蓮は悪くない。蓮はいつも通りだ。「味見する?」って聞いてくれた。いつもと同じように。
でも「いつもと同じ」じゃなかった。隣にいたのが、あたしじゃなくて、あの転校生だったから。
蓮の「味見する?」は、いつもあたしだけに向けられていた言葉だった。放課後の調理室で、蓮が作った料理を一番最初に食べるのは、いつもあたしだった。
今日、その「一番最初」の場所に、別の誰かがいた。
自転車にまたがって、ペダルを踏んだ。通学路の桜並木は、もう完全に葉桜になっていた。若葉が夕風に揺れて、さわさわと音を立てている。
信号待ちの交差点。いつもなら蓮が隣にいる場所。今日は一人だ。
信号が赤のまま、なかなか変わらない。待つ間に、涙が一筋、頬を伝った。
「なんで……こんな気持ちになるんだろ」
琥珀色の目から涙がこぼれる。右手の甲で乱暴に拭いた。また一滴。また拭く。きりがない。
信号が青に変わった。
陽葵はペダルを踏み込んだ。力いっぱい。ぐん、と自転車が加速する。風が顔に当たって、涙の跡が乾いていく。でも新しい涙がまた滲んでくる。
隣には誰もいない通学路が、いつもより長く感じた。若葉のトンネルをくぐる。桜の花びらはもうどこにもない。春は終わりかけている。
天野家の前に着いた。自転車を停めて、門を開ける。隣の藤咲家の窓に灯りはない。蓮はまだ学校だ。調理室で、あの転校生と一緒にいるのだろう。
玄関のドアを開けた。
「おかえりー。今日は早いのね」
母の春香がリビングから声をかけてきた。
「……ただいま」
陽葵は靴を脱いで、まっすぐ二階の自分の部屋に上がった。ドアを閉めて、ベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋める。
涙が、止まらなかった。




