第一章 桜のアーチ
卵焼きが焦げた。
フライパンの端が少し黒ずんで、甘い匂いの中にかすかな苦みが混じる。蓮は小さく舌打ちして火を弱めた。菜箸でくるりと巻き直し、形を整える。二つ目は綺麗に焼けた。三つ目も。四つ目で、また少し焦がした。
朝の六時半。藤咲家の台所は、だし巻き卵の湯気で春らしくぼやけている。
まな板の上には刻みネギと、昨夜の残りのきんぴらごぼう。弁当箱が二つ並んでいる。一つは自分用の紺色。もう一つは、妹のひなた用の水色だ。卵焼き、きんぴらごぼう、鶏の照り焼き、ほうれん草の胡麻和え。冷蔵庫に残っていた食材で組み立てた、いつもの弁当。
蓮は卵焼きを切り分けながら、ふとリビングの仏壇に目をやった。
小さな写真立ての中で、母が笑っている。
藤咲彩。九年前の六月に、この世を去った人。蓮が八歳のときだった。
写真の中の母は、今の蓮より若い。エプロン姿で、両手に卵を持って笑っている。確か父が撮ったものだ。朝ごはんの支度をしているところを、不意打ちで。母は「もう、やめてよ」と笑いながら手を振っていた。シャッターが切られた瞬間の、あの顔。目尻が下がって、口元が緩んで、どこまでも優しい顔。蓮の目尻が下がる癖は、たぶんこの人から受け継いだものだ。
――誰かの笑顔は、自分の笑顔の種になるんだよ。
母の口癖だった。
蓮は弁当箱にご飯を詰めながら、その言葉を頭の中で繰り返す。もう何百回と反芻した言葉だ。意味はわかる。わかっているつもりだ。でも、母がどんな気持ちでその言葉を言っていたのかは、正直なところ、まだわからない。
きんぴらごぼうを隅に寄せて、鶏の照り焼きを並べる。彩りにほうれん草の緑を添えて、真ん中に卵焼きを置いた。焦げた方は自分の弁当箱に入れる。ひなたの方には綺麗に焼けた方を。
弁当の蓋を閉めて、台所を片づけた。フライパンを洗い、コンロを拭き、まな板を立てかける。母に教わった通り、「使ったらすぐ片づける」。この手順はもう九年間、一日も欠かしていない。
「お兄、卵焼き焦げてる」
背後から声がした。
振り向くと、制服の上にカーディガンを羽織ったひなたが、リビングのドアに寄りかかって立っていた。黒髪のボブカットを揺らし、暗褐色の吊り目がちな瞳で兄を睨んでいる。前髪を留めたヘアピンは、陽葵に選んでもらったお気に入りだ。
「焦げてない。ギリギリセーフだ」
「アウトでしょ。匂いでわかる」
「お前の鼻が敏感すぎるんだよ」
ひなたは大きくため息をついて、冷蔵庫から麦茶を取り出した。コップに注いで、一口飲む。
「お兄のくせに、朝から失敗とか情けない」
「はいはい。じゃあ焦げた方は俺が食べるから」
「当たり前でしょ」
言いながらも、ひなたはちらりと弁当箱を覗き込んだ。きんぴらごぼう、鶏の照り焼き、ほうれん草の胡麻和え、そして卵焼き。毎朝の光景。毎朝の味。ひなたの目が卵焼きに一瞬止まって、すぐに逸れた。
「……まあ、普通」
ひなたの最高の褒め言葉を聞きながら、蓮は弁当箱の蓋を閉じた。
「今日の塩加減、昨日より0.3多い」
「……よくわかるな」
「毎日食べてれば嫌でもわかるし。べつに褒めてないからね」
ひなたはそう言って麦茶のコップを流しに置き、スクールバッグを肩にかけた。玄関に向かう途中で「いってきます」と小さく呟いた声は、兄にだけ聞こえるくらいの音量だった。
四月上旬の月曜日。高校二年の新学期初日。
窓の外では桜が満開だった。
玄関で靴を履いていると、外からドンドンとドアを叩く音がした。
「蓮、遅い!」
聞き慣れた声。聞き慣れすぎた声。
蓮がドアを開けると、明るい栗色のセミロングの髪を朝日に輝かせた少女が、腰に手を当てて仁王立ちしていた。天野陽葵。隣の家に住む、生まれたときからの幼馴染。
琥珀色の瞳が不満げに揺れている。制服のリボンをいつもより緩く結んでいるのは、たぶん寝坊した証拠だ。よく日に焼けた健康的な肌が、朝の光の中で輝いて見える。
「五秒遅い」
「五秒て。そもそも俺が遅いんじゃなくて、お前が早いんだろ」
「同じことでしょ」
全然同じじゃない、と思ったが、言っても無駄なことは十七年の経験で知っている。蓮は「はいはい」と返して玄関を出た。
「ひなたちゃーん、いってらっしゃーい!」
陽葵が家の中に向かって手を振ると、奥からひなたの声が返ってきた。
「いってらっしゃい、ひまり姉。お兄のこと頼んだ」
「任せて!」
任せてって何だよ、と蓮は心の中で突っ込んだ。
自転車を二台並べて、通学路を走り出す。
四月の風が頬を撫でた。空は澄み渡り、通学路の両側に植えられた桜が淡いピンクのアーチを作っている。花びらがちらちらと舞い落ちて、自転車のカゴに溜まる。朝の住宅街は静かで、どこかの家から味噌汁の匂いがした。犬の散歩をしている近所のおじさんが手を振ってくれて、蓮は片手を上げて応えた。
「今年もすごいね、桜」
隣を走る陽葵が、目を細めて空を見上げた。ペダルを漕ぐたびに、ポニーテールにまとめた髪が左右に揺れる。朝練がある日はポニーテール。今日はないからセミロングのまま——のはずが、新学期初日だからか、気合を入れてまとめてきたらしい。
「去年よりきれいかも」
「桜は毎年同じだろ」
「そんなことないよ。毎年ちょっとずつ違うもん」
蓮にはよくわからなかったが、陽葵がそう言うなら、そうなのかもしれない。この幼馴染は、蓮が見落とすようなことによく気づく。花びらが一枚、陽葵の肩に落ちた。陽葵は気づいていない。蓮も指摘しなかった。
信号待ちで並んで止まった。
陽葵がちらりと蓮の顔を見て、すぐに前を向く。
「……ねえ、蓮」
「ん?」
「今年、どんな一年になるかな」
「まあ、なんとかなるっしょ」
蓮のいつもの口癖に、陽葵は小さく笑った。
「出た、なんとかなるっしょ」
「実際なんとかなってきただろ」
「まあね」
陽葵はペダルに足を乗せたまま、蓮の横顔を見ていた。朝日を受けた暗褐色の目。首の後ろをぽりぽりと掻く癖。黒髪のマッシュの毛先が風で揺れている。今年もこの距離で、隣に並んで自転車を漕ぐ。一年間。
胸の奥で何かが弾むのを、陽葵は笑顔の裏に押し込めた。
信号が青に変わる。二人は同時にペダルを踏み込んだ。
桜のトンネルが続く。風が吹いて、花びらが一斉に舞い上がった。陽葵が「わっ」と声を上げて笑う。蓮はその笑顔を横目で見て、いつもの朝だな、と思った。
こういう朝が続けばいい。
それが、蓮の素直な気持ちだった。日常の幸せを大切にする。当たり前の朝を守る。母がいなくなってから、ずっとそう思ってきた。
隣で、陽葵がふと何か言いかけた気がした。振り向くと、桜を見上げたまま口を閉じている。
「ん、どうした?」
「……ううん、なんでもない! 桜きれいだなーって」
陽葵は八重歯を見せて笑った。蓮は「そうだな」と返して、前を向いた。
いつも通りの距離。いつも通りの温度。
それが二人の、今の全てだった。
私立青葉ヶ丘高等学校。
校門をくぐると、新学期特有のざわめきが耳に飛び込んできた。新しいクラス、新しい席、新しい一年。生徒たちが掲示板の前に群がり、自分の名前を探している。
「二年三組——あった! 蓮、一緒だよ!」
陽葵が弾んだ声を上げた。掲示板を指差して、蓮の腕をぐいぐい引っ張る。
「見えてるって。引っ張んな」
「よっし! 今年も同じクラスだ!」
陽葵の口癖が出た。嬉しいときの「よっし」は、声が裏返るからすぐわかる。蓮はいつもの調子で「まあ、なんとかなるっしょ」と返した。
「それ、全然意味合ってないから」
「合ってるだろ。同じクラスでなんとかなる、って意味だ」
陽葵は呆れた顔をしたが、すぐに笑った。八重歯がちらりと覗く。
教室に入ると、見慣れた顔が手を挙げた。
「おーい、蓮! 天野も! またお前ら一緒かよ!」
坂本遼太。中学からの友人で、茶色がかった短髪をワックスで立たせた長身の男。日焼けした肌に白い歯が目立つ。明るい茶色のタレ目が人懐っこく笑っている。制服の第一ボタンはもう開いていた。がっしりとした体格はサッカー部で鍛えたもので、教室の後ろの方にいてもやたら存在感がある。
「遼太も三組か」
「運命だな、これは」
「うるさい」
遼太はひらひらと手を振って、蓮の肩をポンと叩いた。話す時に人の肩を叩くのは遼太の癖で、力加減がいまいちわかっていない。
「で、天野。お前今年の目標は?」
「え? バレーで県大出場」
「あ、そう。へー。バレーね」
遼太の口の端がにやりと上がった。「バレー以外にないの?」と聞きたそうな目をしているが、さすがに初日からそこまで突っ込む気はないらしい。蓮は二人のやり取りを横目で見ながら、荷物を机に入れた。
席替えは一時間目のホームルームで行われた。くじ引き方式。蓮が引いた番号は窓際の三列目。隣を確認すると——陽葵だった。
「まーた始まった」
後方の席から、遼太がニヤリと笑った。口の端を上げる、いつものあの顔だ。蓮と陽葵の席が近くなるたびに見せる、お決まりのリアクション。
「何が始まったんだよ」
「何でもねえよ。何でも」
遼太はひらひらと手を振りながら、ニヤニヤを引っ込めない。蓮は気にしないことにした。遼太の「まーた始まった」は、もはや季節の挨拶みたいなものだ。
陽葵は隣の席に荷物を置きながら、小さくガッツポーズをしていた。蓮に見えないように、机の下で。遼太にはばっちり見えていたが。
窓際の席は悪くなかった。午前中の授業を受けながら、蓮はぼんやりと窓の外を見ていた。桜の花びらが風に乗って、開けた窓から一枚教室に入ってきた。蓮の机の上に落ちる。隣の陽葵がそれを拾って、ノートの間に挟んだ。蓮が「しおりにするの?」と聞くと、陽葵は「記念」とだけ答えて、照れたように前を向いた。
昼休み。
蓮が弁当箱を開けると、予想通りの展開が訪れた。
「蓮、味見」
陽葵が自分の席から身を乗り出し、蓮の弁当を覗き込んでくる。箸はもう構えている。完全に臨戦態勢だ。栗色のセミロングの髪が蓮の机にさらりとかかった。
「味見じゃなくて強奪だろ、それ」
「幼馴染特権」
「そんな特権はない」
抗議は無視された。陽葵の箸が蓮の弁当に伸び、卵焼きをひと切れ摘み上げる。口に運び、噛んだ瞬間——
陽葵の表情が、一瞬だけ揺れた。
琥珀色の瞳に、何かが過ぎった。遠い記憶。台所に立つ女性の後ろ姿。小さな手を引かれて、一緒に卵を割った日のこと。蓮の母——彩さんの、柔らかい笑顔。
――ひまりちゃんも上手に焼けたねえ。
あの声が、不意に蘇る。
陽葵の目が少しだけ潤んだ。一瞬だけ。まばたきを一つ。唇を噛んで、飲み込む。あの台所はもうない。あの声ももう聞こえない。でもこの味は、まだここにある。蓮が毎朝焼いている。あの人の息子が、あの人と同じ味を。
でも、その揺らぎは一瞬だった。
「うん、相変わらずうまい!」
陽葵はいつもの笑顔に戻って、もうひと切れ狙いにきた。蓮は弁当箱を引いて防衛する。
「一個でいいだろ」
「ケチ」
「一日一個までって去年から言ってるだろ」
「今年からルール改定。二個」
「却下」
後ろの席で遼太が肩を震わせて笑っていた。この光景を中学からずっと見てきた男は、呆れながらも安心したような顔をしている。蓮と陽葵のやり取りは、遼太にとっても「いつもの光景」だ。変わらない光景。変わらないでほしい光景。
蓮は気づかなかった。陽葵の表情がほんの一瞬曇ったことに。卵焼きの味に、遠い日の記憶が宿っていることに。
蓮にとって、これはいつもの昼休みだった。陽葵が来て、卵焼きを奪って、ケチと言われて、笑う。毎日の繰り返し。当たり前の風景。
――当たり前って、いいよな。
蓮はそう思いながら、弁当の蓋を戻した。
窓の外では、桜の花びらが風に乗って校庭に舞い降りていた。陽葵がさっき挟んだ花びらが、ノートの間からほんの少しだけ覗いている。
新学期初日の空は青く高く、どこまでも穏やかだった。




