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『さくら色の忘却録』  作者: アリス・リゼル
さくら色の忘却録 [静江編]
6/23

第5話:『瑠璃色の忘却』

 朝の光は、蒼井家のダイニングを冷ややかに照らし出していた。  三日前から、さくらの右腕は彼女の意志を半分裏切り続けている。朝食の席、彼女は左手でスプーンを握り、ポタージュを口に運んでいた。感覚を失った右手は、ただそこにあるだけの肉の塊のようにテーブルの上に置かれている。


 向かい側に座る父・良樹は、上質なリネンのナプキンで口元を拭い、穏やかに微笑んだ。


「さくら、最近はよく左手を使っているね。器用なのはいいことだ。私の知り合いの経営者にも、両利きでノートを取る男がいるよ」


 良樹の声には、一点の曇りもない。だが、その言葉こそが、さくらを包む孤独を際立たせていた。父を覆う【乳白色の膜(にゅうはくのまく)】は、不自由な娘の姿を『努力家で健気な娘』という都合の良い虚像に変換し、一切の歪みを通さない。彼は優しい。しかし、その優しさはさくらの真実を何一つ捉えてはいなかった。


 さくらは返事をする代わりに、感覚のない右手の指先を、目で追いながら数ミリ動かした。動いている。だが、自分の皮膚がテーブルに触れている感触も、袖口が擦れる音も、彼女には伝わらない。


 その時、静寂を切り裂くように、陶器がカチリと鳴る音が響いた。  上座に座る静江が、ティーカップをソーサーに戻した音だった。静江は一度も食事を口に運ばず、ただじっとさくらの右手を見つめていた。


「……さくら。無駄な隠し事は、体力を消耗させるだけですよ」


 静江の低く、底冷えする声が食卓に落ちた。良樹は新聞に目を戻し、母・香菜恵はびくりと肩を震わせる。静江だけが、さくらの絶望を真っ向から見据えていた。


「失ったものは戻りません。不自由な腕を隠すために心血を注ぐより、その欠損を受け入れ、修復師としての『質』を上げなさい。……蒼井の道具に、羞恥心など不要です」


 さくらは息を呑み、顔を伏せた。すべてを見抜かれ、その上で『隠す努力さえ無駄だ』と断じられる。父の膜による無関心よりも、静江の冷徹な正論の方が、さくらの幼い心を深く削り取っていった。


 控えていた九条は、一言も発さず頭を下げた。彼の背後に蠢く【濡羽色の執着(ぬれはのしゅうちゃく)】が、主・良樹への忠義と、さくらへの憐憫の間で激しく波打っていた。九条は、良樹が目を逸らし続けている『泥』を、すべて自分が飲み込む決意を固めていた。



 学校では、遥香がその『泥』を払うための光となっていた。  遥香は、さくらがノートを取る際に紙が滑らないよう、さりげなく自分の大きな筆箱を重しにしたり、給食の重い食器を代わりに運んだりと、徹底して『右側の担当』を全うしていた。


「さくら、次は移動教室。教科書、私が持っていくから。……あんたは左手で私の制服の裾を掴んでな。はぐれないようにさ」


「……ありがとう、遥香ちゃん」


 『遥香ちゃん』と呼ぶことは、さくらにとっての命綱だった。その名前を口にするたび、自分の実在感がわずかに繋ぎ止められる気がしたからだ。


 だが、放課後。修復師の宿命は、容赦なくその光を奪いに来た。 中庭を通ったとき、一人の下級生が泣いているのを見つけた。大事にしていた小さなガラス細工の小鳥が、石床に落ちて砕けてしまったのだ。下級生の背中からは、どす黒い【絶望の澱】が、泥のように溢れ出していた。


(……ほんの少し、縫うだけなら。おばあ様の言う通り、道具として……)


 さくらは、ポケットの中の金の針を握った。

 

遥香が忘れ物を取りに教室へ戻った、わずか数分の出来事。 一針。 さくらは空を縫い、下級生の心を修復した。砕けたガラスは戻らないが、下級生の心からは「絶望」が消え、穏やかな諦念へと書き換えられた。


 ――その直後、さくらの脳内に、鋭い耳鳴りが走った。


「……あれ?」


 さくらは、自分のランドセルに揺れる『瑠璃色の鈴』を見つめた。


 それは、三年前の誕生日に父・良樹から贈られたものだ。父が仕事帰りに、まだ【膜】の中に完全に閉じこもる前、自分を高く抱き上げて「さくらに似合うと思って買ったよ」と笑ってくれた……大切な宝物。


 思い出せない。  父の温かい手の感触も、抱き上げられた時の視界の高さも、その時かけてくれた優しい声のトーンも。  瑠璃色の鈴という『物』は目の前にあるのに、それに付随する良樹との大切な記憶だけが、ごっそりと抜け落ち、名前のない空白に変わっていた。


「さくら! 待たせてごめん、行こう!」


 遥香が走ってくる。  さくらは、感覚のない右手で必死に瑠璃色の鈴を握りしめた。だが、その冷たささえも伝わってこない。


(身体だけじゃなくて……記憶まで、食べられてるの……?)


 自分を自分たらしめる過去さえも、『金の針』は食い尽くし始めたのだ。



 帰宅し、逃げるように離れの真奈を訪ねると、真奈はさくらの顔を見ただけで崩れるように泣き出した。


「さくらちゃん……また使ったのね? その鈴を見るあなたの目が……もう、何も映していないわ」


 真奈はさくらの小さな身体を抱きしめ、激しく肩を震わせた。


「そんなに自分を捨てないで……。あなたが良樹さんの思い出を失えば、あの人はもっと『膜』の奥へ行ってしまう。……お願い、これ以上自分を空っぽにしないで……!」


 真奈の献身的な涙。それはさくらにとって、失われゆく自分を現世に繋ぎ止める、唯一の錨だった。真奈はさくらの右手を自分の両手で包み、祈るように額を押し当てた。



 その夜、静江の私室。  静江は『黒の針』を愛おしそうに磨きながら、控える九条に背を向けたまま告げた。


「九条。さくらの中から、不要な『情』が剥がれ落ち始めました。……仕上げが必要です」


 静江の影が、蜘蛛の足のように壁を這う。


「あの常上の娘……遥香を、さくらから切り離しなさい。……『銀の針』が現れる前に、さくらを完璧な器にするのです。……九条、あなたなら、どうすべきか分かっていますね?」


 九条は、表情一つ変えずに深々と頭を下げた。


「……御意に。すべては、蒼井の悲願のために」


 九条の背後にある執着の糸が、かつてないほど濃く、深い濡羽色の闇を纏って膨れ上がった。



次の日の放課後、空は不穏な鉛色に塗り潰されていた。遥香は校門の前で、焦燥に駆られながらさくらを待っていた。だが、いつもさくらを連れ去る黒塗りのセダンの横に、あの時と同じ、地の底のような冷気を纏った男が立ちはだかった。


「……また、あんたか」


 遥香は、かつて非常階段で自分を圧倒した九条の姿を認め、一歩も引かずに睨みつけた。九条は乱れ一つないスーツ姿で直立し、背後に蠢く【濡羽色の執着(ぬれはのしゅうちゃく)】をドロリと路面に這わせている。遥香の【白銀の断ち鋏(しろがねのたちばさみ)】が、その闇に反応して鋭く脈打った。


「常上遥香様。以前、非常階段でも申し上げましたはずです。深入りは不幸を招くと」


「うるさい。不幸にしてるのは、あんたたちの家だろ! さくらを出せよ、今日は一緒に帰るって約束してんだ!」


「……さくら様なら、今しがた良樹様がお迎えに上がりました。しばらくは、あなたと会うことは叶わないでしょう」


 九条の声は無機質で、逃れられない宣告のように響いた。


「お迎え? ……どういうことだよ。さくらは私が……!」


「あなたが彼女の傍に居続けることは、彼女に『自分を削ってでも誰かを守る』という歪な動機を与え続ける。……即ち、あなたが彼女を壊しているのです。自覚しなさい。あなたのその『正義』が、彼女の記憶を、命を、切り売りさせているのだと」


 九条の言葉は、鋭い針となって遥香の胸を刺した。九条自身、これが静江の命令に従った『排除』であると同時に、良樹が目を逸らす『泥』を自分がすべて飲み込み、さくらをこれ以上摩耗させないための、彼なりの残酷な『守護』であることを知っていた。


「ふざけんな……! 私がさくらを……壊してるなんて……っ!」


 遥香の叫びを、九条は濡羽色の闇で無慈悲に撥ね退けた。


 同じ頃、校舎の廊下。さくらは父・良樹と並んで歩いていた。寄付の挨拶を終えた良樹が、珍しく「一緒に帰ろう」と娘を誘ったのだ。周囲の教師たちが恭しく頭を下げる中、良樹は完璧な紳士として微笑み、さくらの肩に手を置いた。


 だが、さくらにとって、その手の温もりは一切伝わってこない。さくらは、ランドセルに下げられた瑠璃色の鈴を、感覚のない右手で必死に握りしめていた。


「お父様。……これ、三年前の誕生日に、お父様が買ってくれたものですよね? 私を高く抱き上げて……似合うって言ってくれたんですよね?」


 静かな廊下で、さくらの震える声が響いた。良樹は足を止めた。彼の瞳が、娘の差し出した瑠璃色の鈴を捉える。しかし、その視線は鈴の表面で滑るように逸れ、さくらの顔さえも通り過ぎていった。


「……ああ、その鈴かい。……そうだったかな。仕事帰りに、秘書に選ばせたものだったかもしれないね。……さくら、お父さんは今から大事な会議があるんだ。車の中では行儀よくしているんだよ」


 良樹の言葉は、さくらの期待を無残に粉砕した。父を覆う【乳白色の膜(にゅうはくのまく)】は、以前よりもさらに厚く、濁っていた。彼は、娘が必死に縋り付こうとしている『大切な思い出』さえも、自分を煩わせる雑音としてシャットアウトしたのだ。


「……お父様、見て。私の右手、動かないの。……感覚も、ないの」


 さくらは泣きながら、感覚のない右手を父の高級なスーツの袖に押し当てた。だが、良樹は「冷たいね、風邪かな」とだけ呟き、膜の向こう側で穏やかに微笑んだまま、さくらの手をそっと払い、校門に待たせている車へと促した。


 絶望が、さくらの心に黒いインクを落としたようだった。父の優しさは、自分に向けられたものではない。彼が愛しているのは、膜の向こうで不自由なく笑っている『理想の娘』という虚像でしかなかった。


(……誰も、見てくれない。……おばあ様は私を『道具』として見て、お父様は私を『見ない』ことで愛してる……)


 その時、さくらのポケットの中で、金の針が共鳴するように鋭く光った。


「……縫わなきゃ。……この痛みを、全部……」


 さくらの瞳から光が消え、修復師としての本能が、その小さな身体を突き動かし始めた。


 父・良樹に「思い出」を拒絶された痛み。それを自分を削ってでも『無』へと修復しなければ、心が砕けてしまう。さくらは良樹に促されるまま、操り人形のような足取りで、校門に待機する黒塗りのセダンへと向かった。


 一方、校門の脇にある大銀杏の陰。遥香を冷徹な言葉で突き放した九条は、彼女が絶望に立ち尽くすのを確認すると、背後の濡羽色の闇を収め、静かに一礼した。


「……さくら様がいらっしゃいました。これ以上は、お互いのためになりません」


九条が視線を向けた先、十数メートル先の正門に、良樹とさくらの姿があった。


「さくら! さくら、そこにいんの!?」


遥香が叫び、駆け出そうとする。だが、九条がその前に音もなく立ち塞がった。九条の【濡羽色の執着(ぬれはのしゅうちゃく)】が壁となり、遥香の声さえも吸い込んでいくかのように。


 さくらは、遥香の叫びを聞いたはずだった。だが、今の彼女の耳に届くのは、耳の奥で鳴り続ける金の針の共鳴音だけ。彼女は隣を歩く良樹の『膜』に同調するように、すぐ近くにいるはずの遥香の存在を、意識の外へと追い遣っていた。


 九条は遥香を背中で制止したまま、良樹とさくらを迎え入れるべく、流麗な所作で車のドアを開けた。良樹は九条に軽く頷くと、さくらを見ることなく先に車内へと滑り込んだ。


「さあ、さくら様。お乗りください」


 九条の声に、さくらは吸い込まれるように後部座席へ入った。隣に座る良樹は、つい数分前に廊下で娘の『感覚のない右手』に触れたことなど、既に記憶の外へ追い出していた。良樹は膝の上にタブレット端末を広げ、画面の数字に視線を落としたまま、冷淡に言い放った。


「九条、出しなさい」


 数秒前まで共に歩いていた娘への、あまりに無機質な言葉。九条はバックミラー越しに、校門の陰で崩れ落ちる遥香と、虚空を見つめるさくらの横顔を同時に捉えた。


「御意に」


 九条はアクセルを踏み、校門に立ち尽くす遥香を夕闇の中に置き去りにして、蒼井の本邸へと車を走らせた。



 やがて車が本邸へ到着すると、そこには静江が、夕闇を背負って立っていた。


「……おばあ様」


 さくらが車を降りると、静江の手元で一筋の、濁った黒い光が走った。代々当主が秘匿してきた『黒の針』。一族の執念を吸い込み続けたその針が、夕闇の中で不気味に脈打っている。


「さくら、良樹。お帰りなさい」


 静江の声には慈悲の欠片もない。良樹は「お母様、お疲れ様です」と短く会釈すると、娘の異変を無視して、自らの膜の中へ消えるように屋敷の奥へと去って行った。


「さくら。……父に拒絶され、絶望したようですね。その『痛み』こそが、修復師を研ぎ澄ませる砥石となります」


 静江が歩み寄り、さくらの右手に自らの『黒の針』をかざした。その瞬間、さくらの脳裏に激痛が走る。金の針が共鳴するが、静江の放つ圧倒的な『黒』の質量に押し潰されていく。


「見てごらんなさい。今のあなたの色を」


 静江が指し示した鏡の中。さくらのランドセルに下がる鈴までもが完全に色を失い、真っ白な虚無へと変わり果てていた。


「記憶を失うことを恐れてはいけません。大切な思い出など、修復を妨げるおりに過ぎない。その常上の娘への『情』も、父への『未練』も、すべてこの黒の針が吸い取ってあげましょう」


「……いや……っ。遥香ちゃんのこと、だけは……!」


 さくらは必死に後ずさったが、背後には九条が壁のように立っていた。九条は、静江の非情な所業を無言で見届けながら、自身の【濡羽色の執着(ぬれはのしゅうちゃく)】でさくらを包囲した。主・良樹との約束を守るための、狂気にも似た守護だった。


「……さくら様。これが、蒼井の家に生きるということです」


 九条の冷徹な声が、さくらの最期の抵抗を断ち切った。



 翌朝。


 遥香は、登校してきたさくらの姿を見て、言葉を失った。


「……さくら?」


 さくらは、いつも通り端正な顔立ちで微笑んでいた。けれど、その瞳には、昨日まで確かに宿っていた『温もり』が何一つ残っていなかった。


「おはよう、常上さん。……教科書、ありがとうございます。右手の補助はもう結構ですから。左手だけで、十分に扱えますので」


 『常上さん』。遥香が守り抜くと誓った絆が、名前の呼び方一つで、いとも容易く引き裂かれた。さくらの中から、良樹との記憶だけでなく、遥香と過ごした日々の体温までもが、完全に消去されていた。


「……嘘だろ。……さくら、あんた……」


 遥香の【白銀の断ち鋏(しろがねのたちばさみ)】が、かつてないほど激しく鳴り響いた。



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