第4話:『萌葱色の嫉妬』
教室の空気は、数日前とは比べものにならないほど『鋭く』なっていた。
窓から差し込む午後の陽光さえも、今のさくらには冷たく、無機質なメスのように感じられる。教壇に立つ美月千温の背中からは、かつての枯草色の倦怠――何事にも無関心で、魂が抜け落ちたようなあのもろさは微塵も感じられない。代わりに、若葉のような瑞々しさを通り越し、毒々しいほどに鮮やかな【萌葱色の糸】が、彼女の背中から無数に噴き出し、教室の隅々まで触手のように伸びていた。
それは、さくらが『良かれと思って』縫い合わせた情熱の成れの果てだった。
過剰に増幅された教育への熱意は、今や『完璧でない生徒』や『自分と同じ熱量を持たない者』への激しい攻撃性へと変質している。
「どうして、こんな簡単なことができないの? 昨夜、ちゃんと復習したと言ったわよね? 蒼井さんのような優秀な生徒がいる中で、あなたたちは恥ずかしくないの?」
美月の声が、鞭のように一人の男子生徒に突き刺さる。
指された生徒は顔を伏せ、小刻みに震えていた。美月の背後で蠢く萌葱色の糸は、クラス全体の『不完全さ』を計るように不気味に揺れ、教室の温度を数度下げたかのような錯覚を抱かせる。
さくらは、机の下で震える右手を反対の手で必死に押さえていた。
視界に入るすべての『色』が、歪んで見える。美月先生の糸が、まるで物理的な質量を持って、生徒たちの首元を絞めつけているかのように見えてならない。
「……先生。さっきから言い過ぎだよ。みんな、一生懸命やってるじゃん」
静まり返る教室で、その声は凛として響いた。
隣の席に座る常上遥香だった。彼女は椅子を鳴らして立ち上がり、真っ直ぐに美月を見据えていた。遥香の周囲には、昨日よりも激しく火花を散らす【白銀の断ち鋏】の気配が漂っている。
その瞬間、美月の肩がぴくりと跳ねた。
彼女の背後にある萌葱色の糸が一斉に逆立ち、獲物を見定めた蛇のように、矛先を一点に絞った。標的は、遥香だ。
「常上さん……。あなた、昨日からさくらさんの足を引っ張ってばかりね。勉強もせず、非常階段でサボって。……さくらさんは、蒼井家の立派な跡継ぎなのよ。あなたのような子が、彼女を惑わし、その輝かしい未来を汚すのは許せません」
「なっ……! 何だよ、それ……! さくらが蒼井家だろうが何だろうが、今のあんたのやり方はおかしいって言ってんだよ!」
遥香の怒声は正論だった。しかし、今の美月には届かない。
美月の瞳には、遥香の持つ自由や、さくらとの間に芽生え始めた純粋な絆への、無意識の嫉妬が燃えていた。萌葱色の糸が、遥香を締め上げるように鋭い棘を伴って絡みついていく。遥香は苦しげに胸元を押さえた。普通の人間の目には見えないはずの『糸』が、彼女の精神を確実に蝕み、その自由を奪おうとしていた。
「やめて……。先生、やめてください……っ」
さくらは思わず立ち上がった。
膝が笑い、視界がチカチカと明滅する。その脳裏に、昨夜、離れで過ごした従姉妹・真奈との時間が鮮明に蘇った。
本邸の喧騒から切り離された、静謐な離れ。沈香の香りが漂うその部屋で、真奈はさくらの小さな手を、自分の両手で壊れ物を扱うように優しく包み込んでいた。
「さくらちゃん。……そんなに顔色を悪くして。美月先生を救った代償で、算数がわからなくなったのでしょう? おばあ様から聞いたわ。……本当に、おいたわしいこと」
真奈の瞳は、潤んでいるように見えた。彼女はさくらの指先を愛おしそうにさすり、静江――当主への微かな反発さえ滲ませていた。
「もうやめて、さくらちゃん。これ以上、あの針を使わないで。あなたが何かを失うたびに、私、胸が張り裂けそうなの。……ねえ、これ以上自分を壊さないで。あなたは私の、大切な家族なんだから。おばあ様の道具になんて、ならないで……」
真奈の言葉は、氷のような蒼井家の中で、唯一さくらを温めてくれる灯火だった。真奈はさくらを『修復師』としてではなく、心を持った一人の女の子として、心から心配し、守ろうとしていた。その優しさに、さくらは何度救われたかわからない。
(真奈お姉ちゃん、ごめんなさい。……でも、私……)
さくらはポケットの中にある、あの冷たい『金の針』の箱を握りしめた。
まだ、この指には確かな感覚がある。机の木目のざらつきも、自分の肌を流れる血の熱さも、握りしめた箱の硬さも。
(見ているだけなんて、できません。常上さんは、私を……「さくら」って呼んでくれた。おばあ様の道具じゃなくて、ただの私を、守ろうとしてくれた……!)
さくらは震える指先で箱を開け、黄金の輝きを放つ針を取り出した。
教室の時間は、美月の狂気と遥香の抵抗の狭間で停止しているように見えた。
「……常上さんを、傷つけないでください……!」
叫びと共に、さくらは金の針を虚空へ突き出した。
「金の針」は、他者の綻びを縫い合わせる。だが、その糸はどこから来るのか。それは、さくら自身の存在そのものを糧として紡がれるものだ。
「――結んで、繋ぎ合わせる……。この方の過ちも、その痛みも……私が、すべて引き受けます!」
金の針が、美月の背中から伸びる萌葱色の糸を、一本残らず射抜いた。
さくらは、自分の中に残っている『触覚』という概念を糸に換え、必死に、狂おしいほどに虚空を縫い合わせた。一針ごとに、さくらの魂が削られ、金の針を通じて美月の心へと流動していく。
「……さくら!?」
遥香の驚愕の声が遠くで聞こえる。
金の針が描く薄桜色の軌跡が、毒々しい萌葱色の暴発を優しく、けれど断固として縫い止めていく。歪んでいた情熱が、あるべき形へと再構成され、美月の心に穏やかな秩序が戻っていくのが見えた。
修復は、成功した。
美月の背後の糸が静まり、彼女の瞳から異常な熱が消えた。彼女は「私は一体何を……」と呟きながら、ふらりと教壇に手をついた。
――その瞬間だった。
「……あ」
さくらの手から、金の針が音もなく滑り落ちた。
床に落ちたはずの針の音が、聞こえない。
それだけではない。
右手の先にあるはずの机の感触が、消失した。
自分の服の袖が肌に触れる感覚も、握りしめていた左手の力強さも、指先に感じるはずの体温さえも、すべてが唐突に、断絶された。
さくらは、自分の右腕を恐る恐る見下ろした。
そこには確かに自分の腕がある。しかし、その感覚は自分の身体の一部ではなく、冷たい石や、陶器で作られた義手を無理やり繋げられたかのように、重く、無機質で、死んでいる。
成功の代償。
さくらは、常上さんを守り、美月を正気に戻した引き換えに、自らの『右手の触覚』という、世界を感じるための大切な鍵を、その瞬間に差し出したのだ。
さくらの顔から血の気が失せていく。
ランドセルの色は、さらに白く、透き通るような不気味な色へと褪せていった。
「さくら! あんた、それ……!」
遥香が駆け寄ろうとした時、さくらは力なくその場に膝をついた。
右手が、何にも触れていない。
さくらの世界から、また一つ、『現実』が消え去った。
教室は、嵐が過ぎ去った後のような不気味な静寂に包まれていた。
教壇で力なく椅子に座り込んだ美月先生は、自分がこれまでに発した言葉の刃と、教え子たちに向けた異常な執着に怯え、震えていた。
「……ごめんなさい。私、どうかしていたわ……」
美月の謝罪は、誰の耳にも届かなかった。
それよりも先に、遥香はさくらの異変を敏感に感じ取っていた。
膝をつき、蒼白な顔で自分の右手を見つめるさくら。その瞳には、恐怖を通り越した「虚無」が宿っていた。さくらの右腕は、机に触れているはずなのに、その質量を感じさせていない。まるで、そこだけ世界から切り離された空白地帯になっているかのようだった。
「さくら! 立てる!? ……あんた、何したんだよ!」
遥香はさくらの肩を掴もうとして、一瞬躊躇した。今のさくらに触れれば、彼女の輪郭そのものが霧のように消えてしまうのではないか――そんな予感に襲われたからだ。だが、遥香は迷いを振り切り、さくらの左腕を強く掴んで無理やり立たせた。
「先生、さくらを連れて保健室に行きます! ……いや、外の空気吸わせてくる!」
遥香は美月の返事も待たず、さくらの右手を庇うようにして教室を飛び出した。
廊下を走る足音が、無機質な校舎に響き渡る。さくらの足取りは覚束なく、引きずられるようにして遥香についていく。
二人が辿り着いたのは、北校舎の裏手、古い桜の木が並ぶ裏庭だった。今はもう花も散り、生い茂る葉が西日を遮って、柔らかな影を落としている。
「……っ、ここまで来れば大丈夫。……さくら、ちょっと見せて」
遥香はさくらをベンチに座らせると、ずっと気にしていた『右手』を覗き込んだ。
「常上さん……ごめんなさい……。私、また、勝手なことをして……」
「謝らなくていい! それより、その手、どうなってんの?」
遥香がさくらの右手に触れようとした時、さくらは反射的に手を引っ込めた。
「触らないで……ください。……感触が、ないんです。冷たいのか、温かいのかも。……自分の手じゃないみたいで、気持ち悪いから……」
さくらの声は震えていた。算数の知識を失った時とは違う、もっと根源的な恐怖。自分の身体が、少しずつ『無』に書き換えられていく恐怖が、彼女を支配していた。
「気持ち悪いわけないじゃん! あんた、私を助けるためにやったんでしょ!」
遥香は強引にさくらの右手を両手で挟み込んだ。
――冷たかった。
血の通っている人間の体温ではない。まるで、真冬の石像に触れているような、芯まで凍りついた冷たさ。
「……冷たい。ねえ、さくら。これ、治るの?」
「修復の代償は……消えません。……一度縫い合わせた糸は、ほどけないんです。おばあ様が言っていました。それが、修復師の運命だって」
さくらは、感情の乏しい瞳で遥香を見つめた。
その姿は、九条が予言した通り、少しずつ『人形』に近づいているように見えた。
「……馬鹿じゃないの」
遥香の目から、一粒の涙が溢れた。
「そんなの、運命でも何でもないよ。あんたが勝手に背負わされてるだけ。……さくら、あんたは私を助けた。だから、次は私が、あんたを守る番なんだよ」
遥香は、さくらの冷たい右手を自分の頬に押し当てた。
さくらには、その温もりは伝わらない。遥香の皮膚の柔らかさも、涙の熱さも、何もわからない。
けれど、視界に入る遥香の必死な表情が、さくらの心の奥底に眠っていた『何か』を微かに震わせた。
「常上さん……」
「『常上さん』はやめて。……遥香でいい。……っていうか、遥香って呼んで。あんたが私の名前を呼んでくれないと、あんたが本当に消えちゃいそうで怖いんだよ」
遥香の【白銀の断ち鋏】の気配が、今までにないほど穏やかに、さくらの周囲を包み込む。それは何かを切るためではなく、さくらを一族の呪縛から切り離し、孤独から守るための壁になろうとしていた。
さくらは、感覚のない右手を見つめ、それから遥香の瞳を真っ直ぐに見返した。
静江にも、九条にも、母にも、真奈にも言えなかった言葉。
自分自身を失うことへの、本当の叫び。
「……遥香ちゃん。……怖い。私……私が、いなくなっちゃいそうで、怖いよ……」
さくらの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。
それは修復師としてではなく、10歳の少女としての、初めての『綻び』だった。
遥香は何も言わず、さくらを強く抱きしめた。
西日が、二人の影を長く、一つに重ねていた。
翌朝のダイニングには、高級な豆を挽いたコーヒーの香りが満ちていた。
蒼井良樹は、完璧にプレスされたシャツの袖口を整えながら、優雅にカップを口に運んでいた。その瞳は穏やかで、向かいに座るさくらに向ける微笑みには一点の曇りもない。
「さくら、最近は学校が楽しいようだな。」
良樹の声は、心地よい低音で響く。しかし、さくらの瞳に映る父は、依然として厚い【乳白色の膜】の向こう側にいた。
彼は、さくらが昨日失った右手の感覚にも、母・香菜恵が震える手でスープを啜っていることにも、一切気づかない。いや、彼の脳はその情報を『不都合なノイズ』として処理し、膜の外へ弾き出しているのだ。大企業の社長として外の世界で成功を収めている彼にとって、家庭とは、自分が守っている『平穏な虚像』が揺らぎなく存在すべき場所でしかなかった。
「……はい、お父様。ありがとうございます」
さくらは、感覚の消えた右手をテーブルの下で左手で強く押さえていた。
感覚がない右腕は、気を抜くと自分の意思を離れて、無機質な棒のように滑り落ちそうになる。それを目で必死に追いながら、不自然な動きにならないよう固定する。
父の『無関心な優しさ』は、時に静江の鋭い言葉よりも深く、さくらの孤独を抉った。目の前にいるのに、手が届かない。父が纏う乳白色の膜は、さくらの助けを求める声をすべて吸い込み、無効化してしまう。
上座に座る静江は、一度も箸をつけることなく、ただじっとさくらの手元を見つめていた。
静江が放つのは、有無を言わさぬ圧迫感だ。彼女は家族の前で余計な指示を出すことはしない。ただ、その氷のように冷たい視線が、さくらの右手の不自然な動きを、そして『代償』の存在を完全に見抜いていることを告げていた。
九条は、部屋の隅で音もなく控えていた。彼は一言も発さず、彫像のように直立している。しかし、その濡羽色の瞳は、膜の中に逃げ込んで微笑む良樹の背中を、静かな怒りを込めて射抜いていた。
主が目を逸らし、当主が『道具』として見定めているその少女の魂を、泥を被ってでも守り抜く。九条の沈黙には、誰にも知られてはならない決死の覚悟が宿っていた。
その日の放課後。
校門を出ると、街路樹の陰から遥香がひょっこりと顔を出した。
「さくら! ……おーい、こっち!」
自分に向かって大きく手を振る遥香の姿を見ると、さくらの胸の奥に小さな、けれど確かな灯がともるのを感じた。
「……待っててくれたの、遥香ちゃん」
「! ……うん。……えへへ、昨日さ、あんな風に約束したけど。いざ『ちゃん』付けで呼ばれると、なんか照れるね」
遥香は頭を掻きながら、照れ隠しにさくらの左腕を軽く小突いた。
「……右手の具合はどう? やっぱり、まだ冷たいまま?」
遥香の問いに、さくらは小さく頷いた。
「……うん。何も、感じない。……でも、大丈夫。……遥香ちゃんが、守ってくれるって言ってくれたから」
さくらが絞り出すように言うと、遥香は一瞬、驚いたように目を見開いた。そして、すぐに意志の強い瞳で頷いた。
「任せとけって。……昨日は勢いで言っちゃったけど、本気だよ。……さ、行こう。今日は駄菓子屋の新作のアイス、食べに行こうよ。あんたは左手でアイス食べな。右手は私が持ってるからさ」
遥香はさくらの感覚のない右手を、壊れ物を扱うように、けれどもしっかりと、温めるように自分の左手で握りしめた。
さくらには握られた感覚はない。けれど、遥香が自分の腕を離さないように力を込めていることは、腕の筋肉のわずかな緊張を通じて、左腕や胸の奥に伝わってきた。
寄り道をして、少しだけ『普通の女の子』の時間を過ごした後。さくらは九条の運転する車で本邸へと送り届けられた。
帰宅したさくらは、吸い寄せられるように本邸の離れを訪ねた。
部屋に入った瞬間、真奈が椅子から立ち上がり、さくらの元へ駆け寄った。
「さくらちゃん! ……ああ、やっぱり。そんなに顔色を悪くして」
真奈は、さくらの感覚のない右手をそっと自分の両手で包み込んだ。そして、その手が氷のように冷たいことを確認すると、美しい瞳にみるみるうちに大粒の涙を溜めた。
「どうして……どうして私の言うことを聞いてくれなかったの? 昨日の放課後、あんなに約束したじゃない、さくらちゃん。これ以上、自分を削らないでって……。美月先生のことなんて、放っておけばよかったのに……!」
真奈はさくらの右手を自分の頬に押し当て、嗚咽を漏らした。真奈の瞳からこぼれる涙の熱さを、さくらは知識として知っている。けれど、今の右手には、その湿り気さえ伝わらない。
「ごめんなさい、真奈お姉ちゃん。……でも、友達が、私のせいで先生に酷いことを言われているのを見ていられなくて」
「……さくらちゃん、あなたの優しさは、いつかあなた自身を全部消してしまうわ。おばあ様は、あなたが空っぽになるのを待っているのよ。……お願い、もうこれ以上、その子のためにも針を握らないで。私お姉ちゃん、悲しいよ……」
真奈の叫びは、さくらを想う純粋な悲痛に満ちていた。いとことして、この歪な蒼井家の中で唯一守りたい存在。真奈の献身的なまでの制止は、さくらの心に深い罪悪感を植え付けたが、同時に『自分を心配して泣いてくれる人がいる』という事実に、微かな安らぎを感じさせていた。
離れの外。影の中でそのやり取りを察知していた九条は、静かに目を伏せた。
良樹が目を背け、静江が利用しようとするさくらの『心』。それを必死に繋ぎ止めようとする遥香と真奈。
九条は、この危うい均衡をどこまで守り通せるか、静かな決意を固めていた。




