第3話:『濡羽色の執着』
「蒼井さん、この問題、答えは?」
美月千温の声は、かつてないほど弾んでいた。
修復によって教育への情熱を取り戻した今の彼女にとって、教室は希望に満ちた聖域であり、生徒たちはその芽吹きの象徴だった。だが、彼女が注ぐ慈愛の眼差しは、今のさくらにとっては、剥き出しの傷口に押し当てられる熱砂のような苦痛を伴っていた。
さくらは立ち上がったまま、黒板に書かれた算数の問題を見つめていた。
3.5 + 4.8 =
(点……。あの、数字の間に打たれた、小さな、黒い点……)
それが何を意味し、どのような規則で数字を繋いでいるのか、今のさくらには全く理解できなかった。頭の中にあったはずの知識は、誰かにハサミで切り取られたように、ぽっかりと不自然な空白になっている。鉛筆を握る指先が、目に見えて震えていた。
「……分かりません」
さくらの絞り出すような声が、静かな教室の空気を震わせた。
その瞬間、クラスメイトたちの間に走ったのは、困惑と、そして急速に膨れ上がる『娯楽』としての好奇心だった。
「え、嘘……。蒼井さん、昨日のテスト満点だったじゃん」
「……なんだ、結局お嬢様も、家柄だけで中身は空っぽだったってこと?」
「うわ、見て。あの顔……なんか不気味じゃない? 幽霊みたい」
ひそひそという囁き声が、澱んだ湿気のようにさくらの周囲にまとわりつく。昨日まで『完璧な優等生』として遠巻きに羨望の眼差しを送っていた者たちは、その偶像が崩れた瞬間に、容赦なく鋭利な言葉の礫を投げ始めた。美月は一瞬戸惑ったが、すぐに明るく取り繕った。
「あら、少し疲れが出ちゃったのかしら。今日は座っていなさいね」
というその声さえ、さくらには遠い異国の言葉のようにしか聞こえない。
――その時だった。
「……うるさいんだよ、あんたたち!」
教室の空気を一変させる、裂帛の叫びが響いた。
隣の席の常上遥香が、机を派手に叩いて立ち上がっていた。彼女の左腕付近で荒れ狂う【白銀の断ち鋏】の気配が、周囲の澱んだ囁きを粉々に切り裂いた。
「何が『中身は空っぽ』だよ! 勝手な理想ばっかり押し付けて、ちょっとできないだけでバカにする……。あんたたちのほうが、よっぽど中身スカスカなんじゃないの!?」
遥香の剥き出しの怒りに、教室内が水を打ったように静まり返る。美月さえもが絶句する中、遥香は肩を激しく上下させ、周囲の生徒たちを一人ずつ射殺さんばかりの瞳で睨みつけた。
「さくらがどうなろうが、あんたたちには関係ない! 二度と……二度と変な噂流してみな。私がその口、開かなくしてやるから!」
遥香はそう吐き捨てると、まだ呆然としているさくらの腕を乱暴に掴み、椅子に座らせた。その手の熱さに、さくらは初めて自分の身体が芯まで冷え切っていたことに気づく。
放課後。
校門の前に停まった黒塗りの車に乗り込むさくらの足取りは、いつにも増して覚束なかった。
運転席の横には、静江の忠実な従者である九条が、彫像のように直立して待っていた。
「さくら様。……本日は、お疲れのご様子で」
九条の落ち着いた声が、車内の沈黙を破った。彼はバックミラー越しにさくらを見ることはなかったが、その気配だけで、さくらの衰弱を正確に感じ取っているようだった。さくらの背負った薄桜色のランドセルは、西日に照らされているはずなのに、白く褪せた色が戻ることはなかった。
「九条さん……。私、間違っていたのでしょうか。先生はあんなに喜んでいるのに、私は……大切なものを、どこかに落としてしまったみたいで」
さくらの弱音に、九条はすぐには答えなかった。
車が市街地を抜け、鬱蒼とした木々に囲まれた蒼井の屋敷へと近づいていく。その影が車内を横切った瞬間、さくらの視界にある影が落ちた。
運転席に座る九条の背中。
これまでは、静江への忠誠を象徴するような、無機質で硬質な『鉄色』の糸しか見えていなかったはずだった。だが、今のさくらの瞳には、その鉄色の奥底から這い出してきた、形容しがたい色が映り込んでいた。
それは、夜の闇よりも深く、重く、淀んだ【濡羽色の執着】。
ドロリとした粘り気を持つその不気味な糸は、九条の全身を雁字搦めに縛り、心臓の奥深くへと根を張っている。それは美月の抱えていた【倦怠】のような一時的なものではない。長い年月をかけて積もり、固まり、もはや彼という人間の一部となってしまった、救いようのない業の形だった。
(……九条さん。あなたも、何かを『縫い込んで』いるの……?)
金の針が、さくらのポケットの中で、警告のように微かに震えた。
本能が告げていた。この濡羽色の糸は、今の自分の腕では、決して縫いきれない。
触れれば最後、自分という存在が、その深い闇に飲み込まれて消えてしまうような――そんな、冷徹な予感。
九条は静かに車を走らせながら、独り言のように、けれど重厚な確信を込めて呟いた。
「さくら様。……私ども蒼井に仕える者は、ただ、あるべき場所に在り続けるだけでございます。間違いも、正解も、最初から存在いたしません。……例えそれが、どれほど深い泥の中であっても」
その声は、濡羽色の糸と同じく、重く、深い。
蒼井家の広大な敷地に足を踏み入れた瞬間、外界の喧騒は厚い石壁に遮断され、代わりにひんやりとした静寂が肌にまとわりつく。
車を降りたさくらは、九条に付き添われながら母屋へと向かった。背中のランドセルは登校時よりも重く感じられ、廊下を歩く自分の足音が、空っぽの器の中で響いているような奇妙な感覚に陥っていた。
居間の奥からは、微かに沈香の香りが漂ってくる。当主、静江の居場所だ。
九条はさくらを部屋の前まで送り届けると、一度だけ彼女の背中に、誰にも気づかれないほど微かな、けれど温かい視線を送り、音もなくその場から消えた。
さくらが襖を開けると、そこには静江が、古びた黒漆の机を前にして座っていた。彼女の指先は、まるで生き物のように蠢く『黒の針』を弄んでいる。静江の周囲には、家柄という名の呪縛に魂を捧げた者特有の、硬質で冷徹な磁場が形成されていた。
「戻りましたか、さくら」
静江は視線を上げない。その声は、孫娘の心身の疲弊を労るものではなく、ただ『道具』の状態を確認するような響きだった。
「はい、おばあ様。……学校で、少し困ったことがありました」
「算数のことですね。九条から報告を受けています」
静江の言葉に、さくらは胸の奥が冷えるのを感じた。九条は、自分の味方だと思っていた。それなのに、やはりおばあ様の忠実な目として、自分の醜態を報告していたのだ。
「誰かを救えば、自分の一部が欠ける。それは修復師としての資質を測る試金石に過ぎません。……さくら、お前が救った美月という女は、今、幸福の絶頂にいる。一方で、お前は数字という言語の一つを失った。これこそが、この世の正しき理です。……何か不満でもありますか?」
「いえ……不満など。ただ、自分が自分でなくなっていくような、そんな気がして……」
さくらの言葉を、静江は鼻で笑った。
「自意識など、修復には不要な不純物です。お前が『空』になればなるほど、針はより鮮やかに、より残酷なまでの救済を成し遂げるでしょう。……下がりなさい。今夜は香菜恵との夕食を許します。あの子の『棘』をよく見ておきなさい。それが今のあなたの指標です」
静江の言葉は、さくらの心に鉛のような重さを残した。
部屋を出たさくらは、廊下の曲がり角で、九条が入れ違いに静江の部屋へ入っていくのとすれ違った。襖が閉まる間際、さくらの瞳には、九条の背後に渦巻く【濡羽色の執着】が、より一層重く、深く波打つのが見えた。
(……九条さん、あなたは何を願っているの?)
さくらは、その場に留まりたい衝動を抑え、自室へと向かった。
しかし、閉ざされた襖の向こうでは、当主と従者による、一族の根幹に関わる報告が続いていた。
「……九条。さくらの『摩耗』の速度はどうですか」
静江の声から、先ほどまでの冷徹な装いが剥げ落ち、老婆特有の湿った執念が滲み出す。
「……極めて順調にございます、静江様。美月千温の倦怠を吸い上げた際、彼女の算術に関する記憶は完全に焼失いたしました。……ランドセルの退色も、予測の範囲内です」
九条の声は、感情を排した鉄の響きだ。しかし、彼の背後で蠢く濡羽色の糸は、静江の放つ黒い気配に呼応するのではなく、それを『防ぐ』かのように重厚に立ち込めていた。九条の『執着』――それは、蒼井家の歴代当主が辿ってきた血塗られた歴史を誰よりも熟知し、その因果に呑み込まれようとしている幼いさくらを、たとえ自分がどれほどの汚れ仕事を請け負ってでも、その魂の核だけは守り通そうとする、狂気的なまでの忠誠心だった。
「よろしい。あの子を『完璧な器』にする。それが、我が一族が辿り着くべき悲願……。監視を怠るな。特に、あの常上の娘……あれがさくらの心に余計な火を灯さぬように」
「御意。常上遥香の動向は、私が見守っておきましょう」
九条が深く、深々と頭を下げた。彼が静江に報告をするのは、裏切りのためではない。静江の信頼を繋ぎ止め、当主の矛先がより残酷な形でさくらに向かないよう、防波堤として機能するためだった。
その夜の食卓。
母・香菜恵の背後には、相変わらず【赤錆色の棘】が突き刺さっていた。それは、蒼井家という場所に馴染めず、けれど娘を愛するがゆえに逃げ出すこともできない彼女の、沈黙の悲鳴だった。
「……さくら、聞いたわよ。算数の授業で、答えられなかったんですって?」
香菜恵の声は、優しかった。けれど、その優しさの裏にある『自分がさくらをこの家に縛り付けているのではないか』という怯えが、背中の棘をより一層赤く、鋭く光らせる。
「大丈夫よ。わからないところがあったら、お母さんに聞いて。一緒に勉強しましょう。……ね、さくら。あなたは頑張りすぎなの。おばあ様の言うことを、全部ひとりで背負わなくていいのよ」
香菜恵はさくらの手を、祈るように握った。その震える手の温もりが、今のさくらには何よりも痛かった。母の愛は純粋だ。けれど、その愛があるからこそ、さくらは『母を救うための修復師』であることを辞められない。
「……お母様、大丈夫です。私、修復師ですから。頑張らなきゃいけないんです」
さくらは、母を安心させるために、感情の消えかけた瞳で微笑んだ。
母の愛ゆえの『棘』が、さくらの『空白』を埋めるように食い込んでくる。
(私がもっと完璧になれば、お母様も、こんなに震えなくて済むのかな……)
自分自身を削り取ることへの恐怖よりも、母の苦しみを放置していることへの罪悪感が、さくらをさらなる深淵へと誘っていた。
その様子を、廊下の陰から九条が見つめていた。
彼の背負う濡羽色の闇が、さくらの小さな背中を包み込むように、静かに、けれど逃しようのない重さで広がっていった。
翌日の昼休み。
教室の喧騒は、さくらにとって耐え難いほどの『音の壁』となっていた。
頬杖をついて窓の外を眺めるさくらの耳には、自分を遠巻きにするクラスメイトたちの声が、鋭い刃のように届く。昨日、遥香が激昂して見せた一幕は、一時的に彼らを黙らせたに過ぎなかった。むしろそれは、『蒼井さくらは、常上遥香のような問題児に守られなければならないほど壊れている』という、新たな偏見を助長する結果となっていた。
「……おい、さくら。ちょっと来い」
低い声と共に、肩を小突かれた。
そこには不機嫌の塊のような遥香が立っていた。彼女は周囲の視線を一瞥で黙らせると、さくらの腕を掴んで半ば強引に教室の外へと連れ出した。
向かった先は、使われていない北校舎の非常階段だった。埃っぽいコンクリートの臭いと、冷たい風が吹き抜けるその場所は、今のさくらにとっては屋敷の静寂に近い安らぎを与えてくれた。
「常上さん……。授業、始まっちゃいますよ」
「そんなのどうでもいい。……さくら、あんた、このままだと本当に消えるよ」
遥香は、踊り場の手すりに背を預け、鋭い視線をさくらに向けた。
彼女の左腕付近で立ち昇る【白銀の断ち鋏】の気配が、激しく火花を散らしている。さくらには、それが遥香の焦燥そのものに見えた。
「算数のことなら、大丈夫です。お母様が教えてくれるって……」
「そういうこと言ってんじゃない! あんたの顔だよ! どんどん色が抜けて、昨日よりずっと透けて見える。……あのさ、あんたの持ってるその針、一体何なの?」
遥香の問いに、さくらは唇を噛んだ。蒼依織の真実を、外の者に漏らすことは許されない。けれど、目の前の少女は、他の誰よりも鋭く『針』の本質に迫っていた。
遥香もまた、知っていたのだ。
自分の部屋にある、あの古びた銀の針。それを使って裁縫をしようとすると、どれほど丁寧に縫い合わせようとしても、糸は解け、布はバラバラになり、ただ『解体』だけが繰り返される。そして、あの針を手にしてから、自分を取り巻く世界には『余計な色』が溢れ出した。
(私のは、壊すための針。……だけどあいつのは、きっと、もっとタチが悪い)
遥香は、さくらがポケットの箱を握りしめる癖を見逃さなかった。自分が銀の針で感じるあの『世界の裏側に指を突っ込むような感覚』を、さくらもまた、別の形で味わっているのではないか。
「……修復、なんです。壊れたものを、元通りにするだけ」
「……ふざけないで。元通り? 先生は元通りになったかもしれないけど、代わりに『あんた』が壊れてるじゃない。そんなの、修復なんて呼ばない。あんたの針は、他人の穴を埋めるために、あんた自身を切り刻んでるだけだよ」
遥香の言葉は、さくらが意識の底に沈めていた恐怖を正確に突き刺した。
「……ねえ、さくら。一回、その針を私に貸しなよ」
遥香が、さくらに歩み寄った。
「私が……その変な糸、全部解いてやるから。そうすれば、あんたはもう自分を削らなくて済むでしょ?」
遥香の手が、さくらのポケットにある金の針の箱へと伸びる。
その瞬間だった。
「――おやめなさい。それは、常上様のような『外』の方が触れて良いものではございません」
冷徹で、地の底から響くような声。
二人が顔を向けると、階段の下の踊り場に、いつの間にか九条が立っていた。
彼はいつもの黒いスーツを乱れ一つなく着こなし、感情を排した無機質な瞳で遥香を射抜いていた。
「……何だよ。あんた、さっきからずっと見てたのか?」
遥香が、威嚇する獣のように九条を睨みつける。
九条の背後に渦巻く【濡羽色の執着】が、遥香の白銀の気配に呼応するように、ドロリと重く階段を這い上がってきた。それは、さくらを護る盾であると同時に、彼女を一族という因縁に繋ぎ止める重い鎖でもあった。
「さくら様を案ずるお気持ちは分かりますが、これ以上の干渉は、さくら様をさらなる窮地へ追い込むことになります。……さあ、さくら様。戻りましょう。静江様がお待ちです」
九条はさくらの前に進み出ると、優雅な所作で手を差し伸べた。
遥香は、九条から放たれる圧倒的な『色の重圧』に息を呑んだ。自分の中にある銀の針が、目の前の男が纏う不気味な闇に反応し、内側から肌を突き破らんばかりに鋭く脈打っていた。
「常上さん……ごめんなさい。……でも、私はこれしか知らないんです」
さくらは、遥香の引き止めるような視線を振り払い、九条の手を取った。
九条の掌は、凍りつくように冷たかった。
けれど、その濡羽色の闇に包まれている時だけは、さくらは『算数ができない自分』を責める必要がないように感じられた。
階段を下りるさくらの背中に、遥香の声が突き刺さる。
「……さくら、あんた、いつか後悔するよ! その真っ黒な奴に守られて、自分が誰かも分からなくなった時に!」
九条は一瞬だけ、足を止めた。
彼は遥香の方を振り返ることはなかったが、その背中越しに放たれた『色』は、遥香の白銀を圧倒するほどの暗い質量を持っていた。
(……分かっておりますよ、常上様。さくら様が、自分を見失っていくことなど。……それこそが、彼女がこの家で生き延びる唯一の術なのですから)
九条は心の中でそう独りごちると、さくらを優しく、けれど断固とした足取りで車へと導いた。




