第2話:『枯草色の倦怠』
六時間目の授業の終りを告げるチャイムは、日常という名の織物に打たれた、無機質な終止符のようだった。
教室中を埋めていた生徒たちの喧騒は、潮が引くように廊下の向こうへと消えていく。放課後の教室に残されたのは、斜めに差し込む午後の気だるい光と、舞い上がる微細な埃、そして澱のように停滞した『沈黙』だけだった。
教卓の前に座る担任の美月千温は、タブレット端末の青白い光に照らされながら、石像のように固まっていた。
彼女は、この学び舎において『完璧な教師』として振る舞い続けてきた女性だ。理性的で、公平で、常に生徒たちの模範となるべく自分を律してきた。しかし、十歳という節目を迎え、金の針の継承儀式を経てしまった蒼井さくらの瞳には、美月の背後に渦巻く悍ましいまでの変質が、あまりにも鮮明に映し出されていた。
美月の背中を覆っているのは、情熱が燃え尽きた後に残る、灰のようにパサついた【枯草色の倦怠】であった。
それは、効率的な教育という理想を追い求める理性が、繰り返される事務作業、形式的なコンプライアンス、そして保護者たちの終わりのない要求という現実に削り取られ、枯れ果ててしまった成れの果てだ。美月が小さく、重苦しい溜息を吐くたび、その枯草色の糸はパサパサと音を立てるようにして彼女の肩から溢れ出し、教室の床を侵食していく。さくらにとって、その空気は肺の奥がザラつくような、言いようのない不快感を伴うものだった。
(……縫い、直さないと)
さくらは、机の下で小さな、けれど冷徹な使命感を宿した拳を握りしめた。
その指先には、常に持ち歩くよう命じられた黒檀の小箱――金の針が収められた器の感触がある。
前日の夜、本邸の広間で行われた最初の儀式を、さくらは苦い後味と共に思い出していた。母・香菜恵の胸元に突き刺さっていた【赤錆色の棘】を救おうとして、さくらは失敗した。当主である静江の冷徹な眼差しと、自らの無力さへの絶望。それが今のさくらを、異様なまでの焦燥へと突き動かしている。
誰かに「針など使わなくていい、そのままでいい」と慈しまれれば、かえって自分の欠落が、一族における「無価値」が浮き彫りになるような気がして。さくらは一刻も早く、誰かを救うことで自分の存在を証明したかった。静江に認められ、蒼井の名に恥じぬ修復師にならなければならない。その強迫観念は、十歳の少女が背負うにはあまりにも鋭利な刃となって、彼女の内側を削り始めていた。
「……蒼井さん。忘れ物?」
美月の声は、砂漠の砂が擦れ合うような乾燥した響きを持っていた。視線は端末の画面に固定されたままで、そこには生徒への慈愛も、教育者としての矜持も感じられない。あるのはただ、眼前のタスクを機械的に処理し、一分一秒でも早くこの場から逃げ出したいという、切実で卑屈な焦燥だけであった。
「いえ。……美月先生、少しお疲れのように見えたので」
さくらが静かに歩み寄ると、美月は自嘲気味に、歪んだ笑みを口の端に浮かべた。
「そうね。少しだけ、頭の中の糸がこんがらがっちゃったみたい。でも大丈夫、これは私の仕事だから。……さあ、九条さんがもう校門の前で待っているわよ。早く帰りなさい」
美月が再び、死んだような瞳を画面へと戻した、その時だった。
教室の入り口。閉ざされたはずの空間に、他者の意志が割り込むような、鋭い気配が奔った。
「……あんた、またそれやんの」
低く、地を這うような、それでいて震えるような少女の声。
振り返ると、そこにはリュックのストラップを指に食い込ませ、不機嫌という言葉だけでは説明のつかない、複雑な表情を浮かべた常上遥香が立っていた。
遥香の左腕のあたりから、目に見えない火花が散っている。さくらにだけは、それが研ぎ澄まされた刃物の反射――【白銀の断ち鋏】の幻影として、威嚇するように明滅して見えた。
「常上さん……。まだ、残っていらしたんですか」
「あんたこそ。……さっきから、先生の汚い色ばっかり見て。あんたが何をしようとしてるか、私は知らないけど……。それ、やめたほうがいいよ。きっと、ろくなことにならない」
遥香は、さくらが纏う「自分を自分として保つための輪郭」が、今にも霧散してしまいそうなほど脆くなっていることを、本能的に察知していた。
「私は、先生を救いたいだけです。……常上さんには、関係ありません」
「関係あるよ。……あんたのその顔。……消えちゃいそうなんだよ。昨日よりも、もっと白くなって、透けて……」
遥香の言葉は、装飾を剥ぎ取った刃のように、さくらの核心を突いた。遥香にとって、さくらのその献身は、美徳などではなかった。それは、自分自身を価値のない供物として差し出す、歪んだ自虐にしか見えなかった。自分を大切にしないさくらの在り方が、遥香には無性に、そして耐え難いほどに腹立たしかったのである。
「常上さん……。離れてください」
さくらの声から、体温が消えた。
彼女の瞳には、十歳の少女らしい揺らぎも、遥香の忠告に対する迷いも、もう残っていなかった。代わりに宿ったのは、職人としての、そして冷徹な『供物』としての静かな覚悟だ。
さくらはゆっくりと、教卓の美月へと歩み寄る。金の針を収めた袋から、その『器』を取り出した。
金の針が、さくらの生命の熱を吸い取り、夕闇の迫る教室の中で、鈍く、けれど確実に拍動するように光り始めた。その光は、救済の輝きか、あるいは破滅の予兆か。
背後で、遥香が息を呑む音が聞こえたが、さくらはもう、振り返ることはなかった。
金の針が、さくらの指先を通じて美月千温の『領域』へと侵入した。
それは、目に見える肉体への接触ではない。意識の深層、感情という名の糸が複雑に絡み合い、一人の人間の精神を織り成している、その根源的な設計図への介入である。
さくらの視界の中で、美月の背後から溢れ出していた【枯草色の倦怠】が、より一層その濃度を増した。それは、水分を失って久しい枯れ木の群れのようであり、触れればボロボロと崩れ落ちる、無機質な絶望の集積だった。美月の理性が必死に保っていた『教師としての形』は、この枯草色の糸によって内側から絞め殺されかけていた。
(……結んで、繋ぎ合わせる。不要なものは、私が引き受ける)
さくらは、金の針を宙に走らせた。
針孔に通されているのは、さくらの生命力そのものを染め上げた『薄桜色の糸』だ。
針が枯草色の糸の芯を捉える。その瞬間、さくらの右腕に、何千もの氷の粒が血管を逆流してくるような激痛が走った。美月が長年積み重ねてきた――あるいは耐え忍んできた――『意味のない日々』の重みが、金の針を伝ってさくらへと流れ込んできたのだ。
「う……っ」
さくらは膝を折りそうになるのを、奥歯を噛み締めて堪えた。
教卓に座る美月は、何が起きているのかさえ気づいていない。ただ、彼女の視線が、わずかに焦点を失い、深い催眠状態にあるかのように虚空を彷徨っている。
背後で、遥香の叫びが聞こえたような気がした。
「やめなよ……! さくら、あんた、本当に壊れちゃうって……!」
遥香の声が、さくらの名を呼んだ。
苗字ではなく、名前を。
だが、今のさくらには、その必死な呼びかけさえも、遠い海の底で鳴っている鐘の音のようにしか聞こえなかった。
さくらは、修復の手を止めない。
枯れ果てた糸の一本一本を、薄桜色の糸で丁寧に括り、束ねていく。バラバラに散らばり、意味を失っていた『教育への情熱』という断片を、強引に元の形へと縫い合わせる。
針を動かすたび、さくらの脳裏に奇妙な現象が起きた。
――カチリ、と。
自分の中の『記憶の貯蔵庫』が開き、中身が強制的に書き換えられていく感覚。
(……あれ? 私、何を……忘れたの?)
つい先ほどまで、さくらは今日の算数の授業で習ったことを完璧に理解していた。
0.1と0.2を足せば、0.3になる。小数点の位置を揃えて、位を間違えないように計算する。昨夜、自室の机で何度も繰り返した、あの鉛筆の感触。
その『知識』が、今のさくらの頭から、音もなく消えていた。
代わりに、そこには得体の知れない『空白』が広がっていた。
小数点とは何だったのか。数字の横に打たれたあの小さな点は、何を意味していたのか。どれほど思い出そうとしても、霧がかかったように概念そのものが掴めない。
さくらが美月の『倦怠』を縫い合わせる代償として、さくら自身の『積み重ねた時間』が、対価として奪われていた。
だが、その犠牲と引き換えに、奇跡は起きた。
枯草色に染まっていた美月の背後の糸が、さくらの薄桜色の糸に導かれ、瑞々しい輝きを取り戻していく。パサついていた糸の表面に、かつての彼女が持っていたであろう『若草色の活力』が宿り始めた。
「……あ」
美月の唇から、微かな、けれど確かな感嘆の吐息が漏れた。
彼女の瞳に、色が戻る。
曇っていた水晶体が、磨き上げられた鏡のように周囲の景色を反射し始めた。彼女はゆっくりと、自分の両手を見つめ、それから信じられないものを見るような目で、教室の情景を見渡した。
「……私、何をしていたのかしら」
美月の声から、あの砂漠のような乾燥が消えていた。
彼女は教卓から立ち上がった。その動作には、数分前までの重苦しさは微塵もなく、まるで重力から解放されたかのような軽やかさがあった。
「蒼井さん。……ごめんなさいね、私、なんだか急に視界が開けたみたい。明日からの授業、もっと面白いことを考えられそうな気がするわ。……そう、私がやりたかったのは、こういうことだったはずなのに」
美月は、さくらに向けて、心からの、一点の曇りもない笑顔を向けた。
その笑顔は、さくらがこれまで見てきたどの大人の表情よりも輝いて見えた。
「……よかったです。先生」
さくらは金の針を収め、力なく微笑んだ。
成功だ。修復師としての、初めての『成果』。
自分を削り、誰かを救う。その蒼井家の宿命が、今、さくらの身体を通じて完成した。
だが、その光景を。
美月の劇的な復活と、さくらの異様なまでの憔悴を、遥香だけは震えるような恐怖を瞳に宿して見つめていた。
「……ねえ。さくら、あんた……」
遥香が、怯えたようにさくらの肩を掴んだ。
「あんたの、ランドセルの色……。なんで、そんなに白くなってるんだよ」
さくらが背負う『薄桜色』のランドセル。
その色は、朝よりも明らかに色褪せ、まるで長年雨風に晒されたかのように、白っぽく変質していた。
それは、さくらの魂から何かが決定的に失われたことを示す、沈黙の警告だった。
「何のことですか、常上さん……。私は、大丈夫ですよ。……あ」
さくらはふと、自分の開いたノートの、算数のページに目を落とした。
そこには、昨日の自分が書いたはずの計算式が並んでいる。
けれど、さくらにはその数字の間に打たれた『点』が、まるで未知の言語、あるいは不気味な虫の死骸のようにしか見えなかった。
「……これ、なんて読むんでしたっけ?」
さくらの無垢な問いかけに、遥香は息を呑み、言葉を失った。
夕闇の迫る教室で、救われたはずの教師の笑い声と、壊れ始めた少女の空白が、残酷なコントラストを描いていた。
翌朝、教室の空気は一変していた。
教壇に立つ美月千温は、まるで数年前の自分を呼び戻したかのように、快活で、生命力に満ち溢れていた。彼女が発する言葉の一つひとつが、生徒たちの眠気を覚ます新鮮な響きを持っている。昨日までの彼女を覆っていた枯草色の澱は、さくらの薄桜色の糸によって美しく織り直され、今や彼女自身の血肉となっていた。
「さあ、みんな! 今日は算数の小テストを返却するわよ。今回の小数点の計算は、これからの基礎になるからしっかり復習しましょうね」
美月の明るい声に、クラスの生徒たちは驚きつつも、どこか安堵した表情で頷く。教師が情熱を取り戻すことは、子供たちにとって何よりの福音だった。
だが、さくらだけは、その輪の中に加わることができなかった。
手元に返ってきたテスト用紙。
そこには、昨日の自分が一生懸命に書いたはずの解答が並んでいる。真っ赤な丸がつけられた『100点』の数字。しかし、さくらにはその数字の並びが、どうしても理解できなかった。
(1.2……。この、数字の間の『点』は、何?)
思い出そうとすればするほど、脳の奥に鋭い痛みが走る。知識が保管されていたはずの場所は、今や完全に更地となっていた。それは『忘却』という生易しいものではなく、最初から自分の中にそんな知識は存在しなかったかのような、絶対的な虚無。
さくらは震える手で、鉛筆を握った。
ノートの隅に、同じ数字を書いてみる。けれど、手が止まる。
書き方を、思い出せない。点の位置も、その意味も。
修復の代償――。金の針が、美月の倦怠を縫い合わせるために奪い取ったのは、さくらの努力の結晶であった【算数の記憶】だった。
「……やっぱり、そうなんだな」
隣の席から、押し殺したような声がした。
振り返ると、遥香が鋭い、けれどどこか悲しげな瞳で、さくらの白紙のノートを睨みつけていた。
「常上さん……」
「あんた、昨日までは普通に解いてたでしょ。……なんで、そんな『生まれて初めて数字を見た』みたいな顔してんだよ」
遥香の言葉に、さくらは何も言い返せない。嘘をつこうにも、目の前の数字が理解できないという事実が、彼女の喉を塞いでいた。
「私は……。ただ、先生が元気になってくれれば、それで……」
「バカじゃないの!? 先生が笑えば、あんたは自分が空っぽになってもいいってわけ!?」
遥香の怒鳴り声が教室に響き、生徒たちの視線が二人に集まる。
美月が不思議そうにこちらを振り返る。
「常上さん、どうしたの?」
遥香は唇を噛み締め、椅子を乱暴に引いて立ち上がった。
「……なんでもないです。ただ、隣の奴がバカすぎて、イライラしただけ」
遥香はそう吐き捨てると、さくらの顔を見ることなく、そのまま視線を逸らした。彼女の左腕のあたりで、銀色の輝きが激しく爆ぜるように明滅している。それは遥香の『怒り』であり、同時に、親しくなりかけたさくらが、自分の知らない『何か』によって壊されていくことへの、痛切な拒絶反応だった。
放課後。
迎えの車に乗り込むさくらの足取りは、いつにも増して重かった。
九条は、バックミラー越しにさくらの様子を伺っていた。彼は、主人の娘が何を失ったのか、正確には知らない。だが、彼女が纏う薄桜色のランドセルが、明らかに色を失い、白く褪せているのを見て、その真意を悟っていた。
「……さくら様。お疲れでございますか」
「九条さん。……私、何か大事なことを忘れているような気がするんです。でも、何だったのかさえ、分からないの」
さくらの呟きに、九条は答えなかった。ただ、車を走らせる速度を少しだけ落とした。それは彼なりの、無言の慈悲だったのかもしれない。
蒼井の本邸に戻ると、玄関で静江が待ち構えていた。
彼女の冷徹な眼差しが、さくらの顔と、その背中のランドセルを貫く。
「……美月先生の修復、成功したようですね」
さくらは弾かれたように頭を下げた。
「はい、おばあ様。金の針を使いました」
「代償は何でしたか」
「……算数の、小数点の計算です。もう、思い出せません」
静江は、わずかに眉を動かした。それは称賛でも憐憫でもなく、ただの『計算』を終えた学者のような顔だった。
「そうですか。……些細な記憶で済みましたね。香菜恵の『棘』を縫うには、もっと多くの代償が必要になります。日々、自分を磨き、差し出すべきものを準備しておきなさい」
静江はそれだけ言うと、背を向けて奥の間へと去っていった。
さくらは、冷たい床の上に立ち尽くした。
先生は救われた。おばあ様にも認められた。
けれど、心に空いた穴は、少しも埋まることはなかった。
その日の夜。
さくらは自室の学習机に座り、算数の教科書を開いていた。
昨日の自分が引いたアンダーライン。丁寧に書き込まれたメモ。
それらは今や、自分ではない『誰か』が残した、意味不明な暗号にしか見えない。
(……救えば、救うほど。私は、私じゃなくなっていくの?)
窓の外に広がる、蒼井の広大な庭。
そこには、春の夜にふさわしくない、凍てつくような静寂が広がっていた。
さくらは、机の引き出しから、美月先生が今日返してくれた「100点」のテスト用紙を取り出した。
それを、そっとゴミ箱に捨てる。
自分が誰であったかを、証明するものは、もうどこにもなかった。




