最終話:『鈴蘭の再会』
天音家別邸での凄絶な一夜が明けてから、一週間が過ぎた。
天音の屋敷は解体が進み、百五十年の怨嗟を吸い込み続けてきた地下室も、今はもう厚い土の下に埋め戻されている。蒼井家が天音へと一方的に押し付けてきた『不浄の濾過』という歪な構造は、物理的にも霊的にもその拠り所を失っていた。
そんなある日の午後、遥香は蒼井家を訪れていた。普段なら足を踏み入れることさえ厭う場所だが、今日ばかりは果たさねばならない役目がある。彼女の懐には、裁縫屋で偶然出会い、さくらを救うための武器として振るった『銀の針』があった。
応接室。遥香は蒼井静江を前に、布に包まれた『それ』を無造作に差し出した。
「……返しに来たぜ。元々、これのせいで全部始まったんだろ」
静江が震える手でその包みを解くと、中から静謐な、けれどどこか寂しげな輝きを湛えた『銀の針』が現れた。
百五十年前のあの嵐の夜。先祖・良兵衛が賊の刃に身を裂かれ、血の海に沈みながらも死守しようとした三本の針。良兵衛は、金の針と黒の針を懐に抱き込み、決して離さなかった。だが、賊の一人が良兵衛の指を蹴り上げ、こぼれ落ちた銀の針だけが、闇の中へと強奪された。
良兵衛は、おしずとはなに見守られながら、高熱に浮かされる意識の中で「銀の針が悪しき手に渡れば……」と、残される家族の未来を案じ続け、三日後に息を引き取った。その『失われた半分』への恐怖と負い目が、蒼井と天音を分け、憎しみを増幅させる種となったのだ。
「……良兵衛さんが命を懸け、そして失ったことに絶望しながら亡くなった、魂の欠片。……ようやく、この家にあるべき姿が戻ったのですね」
静江は、ただ一言そう呟き、その針を慈しむように見つめた。銀の針は『解放』を司る。怨念や未練が染み付いた古い因縁を解き、さらさらと清らかな状態に戻す力。対して、さくらが持つ金の針は『結び』を司る。綻びを修復し、明日への希望を縫い止める力。
金で結び、銀で解く。二本の針が再び揃った今、蒼井家はもう、誰かを犠牲にする必要はない。また、あの日真奈の絶望と共にあった『黒の針』は、さくらの修復の光に溶けるようにして、その役目を終えて消失していた。もはやこの家には、闇を繋ぎ止めるための針など、どこにも存在しなかった。
「ふん。供養だとか難しいことは、あんたたちがしっかりやりなよ」
遥香はそう言い残し、廊下へ出た。そこには影のように控える従者の姿があった。九条である。あの日、魂をバラバラに砕かれ、自らの執着さえ食い尽くされていた彼は、さくらが放った【薄桜の蕾】による修復を経て、今、以前よりもずっと『生きた』空気を纏っていた。
「……お。あんた、体はもういいのかよ」
「遥香様。ご足労、痛み入ります。……私の身は、すでに完調でございます」
九条は深く一礼した。その仕草こそ以前と変わらぬ精密さだが、遥香は微かな違和感を覚えた。
銀の針を返却した遥香には、もう色を見る力も失われているが、元来持ち合わせていたであろう野生の勘が働いているようだった。
九条の核である【濡羽色の執着】。その真っ黒な糸の隙間に、さくらが修復の際に織り込んだ、極細の「薄桜色の糸」が血管のように複雑に絡み合っている。それはさくらの慈愛が九条という器の中で拍動し続けている証であり、彼を中から温め続ける、消えない灯火だった。
「なんか……あんたさ。前より顔つきが、人間らしくなったんじゃないか?」
遥香がニヤニヤしながら冷やかすと、そこへ肩に白い包帯を巻いたさくらが歩いてきた。九条は瞬時に背筋を伸ばし、最敬礼で主を迎える。
「九条さん。お話ししていた通りですよ。嬉しいときは、我慢せずに笑ってもいいんです。悲しいときは、私に寄りかかって泣いてもいい。……あなたはもう、ただの道具ではないのですから」
さくらは九条の隣に立ち、その大きな手を両手で包み込んだ。九条は一瞬だけ困惑したように眉を寄せ、主の言葉を咀嚼するように、ぎこちなく口角を動かした。
「……お嬢様がそのようにお望みであれば。……練習は必要かと思いますが、このように、でしょうか」
九条は、精一杯の『微笑み』を作ってみせた。だが、表情筋の使い方が根本から分からない男のそれは、頬が引きつり、目は据わったままという、あまりにも不器用で奇妙なものだった。
「ぶふっ……! っはははは! なんだよそれ! 怖いって! 呪いの人形が無理やり笑ってるみたいだぜ!」
遥香が壁に手をついて爆笑する。さくらも思わず吹き出し、口元を抑えてクスクスと肩を揺らした。九条は即座に無表情に戻ったが、その耳たぶは、夕焼けのような深い赤に染まっていた。
「……やはり、私には不要な機能のようです。修復の際、手違いがあったのかもしれません」
「そんなことありません。……私にとっては、世界で一番、素敵な微笑みでしたよ」
さくらはそう言って、恥じらう従者を見つめ、優しく微笑んだ。
かつて奪い、奪われ、傷つけ合った因縁の糸。それが今、この廊下を吹き抜ける柔らかな風の中で、新しい絆として編み直されていく。
蒼井と天音、そしてその陰で生きてきた者たち。彼らの長い、長い夜は、この不器用な笑い声と共に、ついに本当の終わりを迎えたのだった。
――――それから、三年の月日が流れた。
蒼井の本家を囲む庭園には、今年も鈴蘭がその白い頭を垂らし、甘い香りを振りまいている。かつて重苦しい因縁と沈黙が支配していたこの屋敷も、今は窓から陽光がたっぷりと差し込み、どこか穏やかな時間が流れる場所へと変わりつつあった。
織り部屋の窓際。そこに座るさくらは、もう『守られるだけの少女』ではなかった。
中学生になった彼女の背は伸び、腰まで届く見事なロングストレートの茶髪は、窓からの光を浴びて絹のような光沢を放っている。切り揃えられた姫カットの毛先が、機を織る動きに合わせてしなやかに揺れる。その瞳にはかつての儚さではなく、自らの人生を切り開こうとする強い光が宿っていた。 彼女は今、自らの意志で新しい物語を織っていた。
さくらの指先が操るのは、自らの内から溢れる薄桜色の糸。そして、その横には、大切に保管された一筋の瑠璃色の糸がある。それは、遠方の施設で療養を続け、ようやく自分自身の言葉と『天音真奈』としての心を取り戻しつつある彼女から届いた、最新の手紙に添えられていたものだ。
「真奈お姉ちゃん……。いつか、一緒にこの鈴蘭を見られる日が来たら、その時は二人で、新しい布を織りましょうね」
さくらは慈しむように呟き、その瑠璃色の糸を、薄桜色の地の中に織り込んでいく。『金』で結び、『銀』で解く。二本の針を自在に使い分け、不浄を排するのではなく、光と影の調和として布を編み上げていく彼女の手つきは、もはや伝説的な織り手たちのそれさえも凌駕しようとしていた。
「お嬢様、そろそろお時間のようです。……あまり没頭されますと、遅刻してしまいますよ」
扉の側で時計を手に声をかけたのは、九条だった。彼はあの日から一日たりともさくらの側を離れず、今も彼女の最も忠実な盾として、そして最も近い理解者として控えている。制服姿のさくらを見守る彼の瞳には、かつての冷徹な『執着』だけではなく、慈しみという名の新しい糸が確かに通っていた。
「ええ。ありがとう、九条さん。あともう一列だけ……」
「なりません。遥香様が、すでに門の前でお待ちです。……彼女を待たせると、後が少々騒がしくなります」
九条に促され、さくらは名残惜しそうに機から立ち上がった。通学カバンを手に取り、部屋を出ようとした時、九条が一瞬だけ足を止め、窓の外に視線を投げた。彼の脳裏に、不意に、あの日の記憶がよぎる。真奈の嘘で、さくらが攫われていったあの日。無力だった自分。その雑念を『執着』という名の古い殻が呼び覚まそうとする。九条はそれを振り払うように一呼吸置いた。
「九条さん? ……どうかしましたか?」
「……いえ。失礼いたしました。……車を用意してございます。玄関までお供いたします」
九条はいつも通り車で送迎するつもりで、車のキーを手にした。だが、さくらはそんな九条の『保護欲という名の不安』を、すべて見透かしていた。彼女は九条の前に立ち、その頑丈な胸元にそっと手を添える。
「いいえ。今日は、車はいりません。遥香ちゃんと一緒に、自分の足で歩いて行く約束をしているのですから」
「ですが、お嬢様。お一人で、あるいは遥香様と二人だけで外を歩くのは……万が一、不逞な輩が……」
九条の声に、わずかな焦燥が混じる。さくらは微笑み、自らの手首を九条に示した。そこには、金と銀の糸で自ら編み上げた、丈夫なミサンガが巻かれている。
「大丈夫です。私はもう、あの日の『さくら』ではありません。……それに、九条さんがこうして見送ってくれる。その祈りがあれば、私はどこへだって行けます」
さくらの真っ直ぐな瞳に、九条は負けた、とでも言うように微かに肩の力を抜いた。主を檻に閉じ込めて守るのではなく、彼女が進む道を信じて送り出す。それこそが、今の九条に課せられた、真の忠誠であることを彼は理解した。
「……承知いたしました。……お気をつけて。行ってらっしゃいませ、お嬢様」
「はい。行ってきます、九条さん!」
玄関の扉を開けると、そこには待ちきれない様子で塀に寄りかかり、スマホをいじっていた遥香がいた。
「遅えよ、さくら! 購買の限定パン、売り切れちまうだろ!」
「ごめんなさい、遥香ちゃん! 急ぎましょう!」
駆け出す二人の背中。初夏の朝の光を浴びて、さくらの長い茶髪がさらさらと揺れている。九条は、その光が完全に見えなくなるまで、門の前に立ち尽くし、彼女の背中を、かつてないほど穏やかな眼差しで見守り続けた。
――主人のいなくなった、誰もいないさくらの部屋。
開け放たれた窓から、春の風が吹き込んだ。揺れるカーテンの向こう、庭に咲く鈴蘭の香りが、部屋の隅々まで行き渡る。
その時、机の上に置かれた『鈴』が、チリン……と、澄み渡った音色が響いた。それは、かつて良樹から贈られ、あの日、無惨に砕け散った、あの白い鈴だ。
かつての良樹は、母・静江の圧力に屈し、自分を保つために【乳白色の膜】という殻に閉じこもっていた。だが、さくらを、そして自分自身を取り戻そうとした彼は、殻から抜け出した。この鈴は、そんな彼が、さくらの健やかな未来を願いながら、徹夜で欠片を繋ぎ合わせ、一から修復したものだ。
表面には、細かな継ぎ目が走り、傷跡も残っている。かつての完璧な『死の白』ではない。けれど、修復されたその鈴は、以前の死を象徴する鈍い音など、欠片も感じさせなかった。それは、再生と、赦しと、未来を祝福する――どこまでも澄み切った、命の音色。
風に揺られ、何度も、何度も、その鈴は鳴り続けた。
過去の痛みも、欠落も、すべてを織り込んで。さくらたちが紡ぎ出す新しい物語は、この鈴の音色と共に、どこまでも広がる青い空へと溶けていった。




