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『さくら色の忘却録』  作者: アリス・リゼル
さくら色の忘却録 [真奈編]
22/23

第18話:『桜草の融和』

 広間に満ちる薄桜色の光の中で、真奈が掲げた『黒の針』の槍は、あまりに禍々しく、あまりに絶望的な殺意を放っているように見えた。だが、それは真奈の内に残された最後の、絞り出すような虚勢だった。


 遥香に『宿命の太糸』を抉じ開けられた真奈の心根は、もはや修復不可能なほどに引き裂かれている。彼女を支えていた【瑠璃色の縋り(るりのすがり)】はボロボロに解け、彼女は自分という存在がバラバラに霧散していく恐怖に震えていた。道連れにする力さえ、本当はもう残っていない。真奈はただ、その鋭利な針を自分と世界の間に立てることで、これ以上自分が損なわれるのを防ごうとしていただけだった。なんなら、このまま誰かに討たれ、永遠の眠りにつくことこそが、彼女が密かに望んでいた唯一の終焉だったのかもしれない。


「……来ないで。さくらちゃん……もう、私に構わないで……」


 真奈の瞳から流れるのは、執着の毒ではなく、透明な、救いようのない悲しみの滴だった。だが、さくらはその虚勢を、真奈の手の震えを、すべてを見透かしていた。


「……いいえ。大丈夫だよ、真奈お姉ちゃん」


 さくらは、静かに一歩を踏み出した。


 喉元に向けられた黒の針が、さくらの白い肌を裂き、紅い雫が薄桜の光の中に散る。真奈は驚愕に目を見開いた。引けばいい。逃げればいい。なのに、さくらはあえてその凶器をその身に受けながら、一歩、また一歩と、真奈の孤独の深淵へと足を踏み入れてくる。


「っ、やめて……! 死んじゃう……死んじゃうよ! 私みたいになっちゃうよ!」


 真奈が泣き叫ぶ。だが、さくらは止まらない。切っ先がさくらの左肩に深く食い込み、貫通する。激痛が全身を走る。けれど、さくらは顔色一つ変えず、真奈を見つめ続けた。さくらにとって、自分の肉体が傷つくことなど、この百五十年、真奈が一族から背負わされてきた精神の摩耗に比べれば、あまりに小さな代償だった。


 さくらは、血を流しながらも両腕を伸ばし、そして真奈を強く、強く抱きしめた。


「……真奈お姉ちゃん。……こんなに、冷たくなって……」


 その瞬間、さくらの内側から、静謐で、かつてないほど濃密な輝きが溢れ出した。蒼井家の正当な血が、そしてさくら自身の魂が選んだ真の覚醒――【薄桜の蕾(うすざくらのつぼみ)】。それは、富や栄華を紡ぐための『金の針』ではない。引き裂かれ、泥にまみれ、二度と再生することなど叶わないと思われた『魂の布』を、もう一度繋ぎ合わせるための、慈愛の糸だった。


 さくらの指先から、数多の光の糸が真奈の背中に、胸元に、そして心臓へと這わされる。

 さくらの修復は、驚くほど丁寧だった。それは、ビリビリに引き裂かれ、汚泥にまみれてもはやゴミ同然に棄てられていた天音の魂という名の『布』を、一枚ずつ、一針ずつ、洗浄し、整え、編み直していくような作業だった。


 さくらは、真奈の記憶の中にこびりついた不浄の染みを、光の糸で優しく拭い去る。地下室で静樹に汚された記憶。静江に棄てられた絶望。それらによって綻び、毛羽立ち、ボロボロになっていた真奈の精神の繊維を、さくらは自分の生命の熱で温めながら、元の柔らかな形へと戻していく。


 一針、一針。


 『痛かったね』『寂しかったね』と、言葉にならない想いを糸に乗せ、さくらは真奈の魂を修復していく。不浄を吸い込みすぎて濁りきっていた真奈の瑠璃色の糸が、さくらの薄桜色の光に包まれ、本来の透明な、美しい青色を取り戻していく。それは、今までのどの修復シーンよりも美しく、神聖な静寂に満ちていた。


「……あ……、……あぁ……」


 真奈の手に力がなくなる。さくらの肩を貫いていた『虚勢』としての黒の針は、修復された真奈の心の安らぎに溶けるように、淡い光の粒となって消え去った。真奈の内側にあった引き裂かれた空白が、さくらの糸によって丁寧に埋められていく。もう、どこからも風は吹き込まない。もう、独りで凍える必要はない。


「……どうして……。私、もう……死ぬつもり、だったのに……」


「……だめだよ。……だって、真奈お姉ちゃん。私に、ずっと優しくしてくれたのは、嘘じゃなかったんでしょ?」


 さくらは、血の滲む肩を真奈に預けたまま、穏やかに微笑んだ。その笑顔は、かつて真奈がさくらに向けた慈しみの鏡写しだった。真奈は、崩れ落ちるようにさくらの胸の中で泣きじゃくった。それは、呪縛からの解放というよりは、ようやく『一人の人間』として、誰かの温もりに包まれて生きることを許された、産声のような慟哭だった。


「私、生きていいの……? さくらちゃん……っ! さくらちゃん……!」


 真奈は、自分を『器』として棄てた父や母の名ではなく、自分を『お姉ちゃん』として繋ぎ止めてくれた少女の名を、魂の底から呼び続けた。百五十年の冬が終わり、二人の間には、柔らかな春の気配を孕んだ薄桜色の風が吹いていた。


 ――だが、その救済の瞬間に、残酷な足音が重なる。


「さくら……!」


 広間の扉が、地下から這い上がってきた良樹と香菜恵によって、激しく抉じ開けられた。二人が目にしたのは、光の中で抱き合う二人の姿。


 そして、その傍らで力尽きた遥香と――。


 自らを削り、さくらを守り抜くという執念さえ真奈に食い尽くされ、主であるさくらの声も姿も届かなくなった『空っぽの器』、九条。


 再会の喜びを、あまりに重い喪失の静寂が塗りつぶそうとしていた。


「九条……! おい、九条!」


 良樹が駆け寄り、九条の肩を掴んで揺さぶる。だが、九条の身体は恐ろしいほどに軽く、そこには意志の重みというものが一切存在しなかった。彼を突き動かしていた【濡羽色の執着(ぬればのしゅうちゃく)】は、真奈の闇に完膚なきまでに食い破られ、その魂の欠片は広間の至る所に、見る影もなく散らばっていた。


「……お父様、道を開けてください」


 さくらが静かに告げた。その背後では、真奈を救った【薄桜の蕾】が放つ癒しの奔流に当てられ、力尽きていた遥香が「……っ、ぁ……」と微かな呻きを上げ、煤けた視界を無理やり持ち上げていた。


「さくら…………。さくら……無事、なのか……?」


 遥香は震える腕で上身を起こす。さくらは目覚めた遥香を一度だけ振り返り、万感の思いを込めて微笑んだ。


「遥香ちゃん、ありがとう。……後は、私に任せて。遥香ちゃんが守ってくれたものを、繋ぎ止めるから」


 さくらは九条の傍らに膝を突くと、その冷たくなった手を、自分の両手で包み込んだ。九条は、さくらが目の前にいることさえ分かっていない。彼の中にあった『蒼井さくらを護る』という唯一の存在理由が、消失していたからだ。


 さくらが目を閉じ、深く息を吸い込む。

 その瞬間、広間の空気が一変した。


 真奈を修復した時に放たれた穏やかな光とは違う、もっと根源的で、鮮烈な輝き。さくらの心臓から伸びる光の糸が九条の肉体を伝わり、彼の中から奪い去られた『濡羽色の欠片』を呼び戻し始める。


「……戻ってきなさい、濡羽色」


 さくらの強い意志が、言霊となって広間に響いた。その瞬間、窓もない閉ざされた広間に、どこからともなく猛烈な風が吹き抜けた。それは風ではない。さくらの溢れ出した力が形を成した、圧倒的な桜吹雪だった。


 数万、数億という花びらが、荒れ狂う嵐となって広間を舞う。遥香はその光景に目を奪われた。自分が『銀の針』で抉じ開けた因縁の隙間に、さくらがこれほどまでに強靭な生命の奔流を流し込んでいる。  舞い散る一片一片が、泥にまみれた九条の執念の欠片を拾い上げ、浄化し、さくらの元へと運んでくる。さくらは、視界を埋め尽くす吹雪の中で、バラバラになった九条の心を、一針、一針、丁寧に繋ぎ合わせていった。


 ビリビリに引き裂かれた濡羽色の布が、さくらの指先を伝う光の糸によって、再び一枚の旗へと戻っていく。それは、今までのどの修復よりも美しく、一族の罪を浄化するほどに静謐な手業だった。


「……九条さん。思い出して。……あなたの大切なものを」


 さくらが、九条の胸に手を置く。


 桜吹雪が渦を巻き、九条の身体を包み込んだ。その嵐の中心で、さくらの放つ『金の針』本来の輝きが、九条の空っぽの心臓に『命』の火を灯し直す。


 やがて、狂おしいほどに舞っていた花びらが、その役目を終えたように静かに床へと降り積もっていく。  目覚めた遥香も、良樹も香菜恵も、そして救われた真奈さえも、その『修復』という名の奇跡に、息をすることを忘れて見入っていた。


 静寂が戻った広間。九条の睫毛が、微かに震えた。


「……っ、ぁ……」


 九条の喉から、掠れた音が漏れる。その瞳に、急速に光が戻り始めた。濁っていた瞳孔が焦点を結び、そこに映し出されたのは、肩を血で染めながら、自分を真っ直ぐに見つめる主の姿だった。


「……さくら……お嬢、様……?」


 九条の手が、力強くさくらの手を握り返す。『空っぽ』にされていた男の中に、再び、主を護るというあの苛烈なまでの執念が、今度はさくらの温もりに溶け合った新しい形となって宿ったのだ。


「……ええ。お帰りなさい、九条さん」


 さくらは、九条の目覚めを確認すると、糸が切れたように微笑んだ。九条は瞬時に立ち上がり、ふらつくさくらの身体をその頑健な腕で支えた。そして、目覚めた遥香を、そして良樹を射抜くような鋭い視線で見据える。


「……主、九条。只今……戻りました」


 遥香は、それを見て、自嘲気味に笑いながら呟いた。


「……ったく。世話の焼ける従者だぜ……。さくら……お前、最高の『針』、持ってるじゃねえか」


 降り積もった桜の花びらの中、傷だらけの三人の少女と、一人の従者が、ついに同じ時の中に揃った。


「……お父様。お母様」


 九条に支えられながら、さくらが静かに両親を呼んだ。


「終わらせましょう。……私たちの家の、この長い、長い夜を」


 さくらの凛とした声が、静寂に包まれた広間に響き渡った。九条の腕に支えられ、傷ついた身体を奮い立たせるその姿に、良樹と香菜恵は言葉を失い、ただ圧倒されていた。自分たちが目を背け、逃げ続けてきた『家族』という名の地獄に、この小さな娘が、いま自らの光で終止符を打とうとしている。


「……ああ。そうだね、さくら」


 良樹が、重い口を開いた。彼は地下室で、自身の弟である静樹が、因縁の循環を断たれて消滅した光景を今も網膜に焼き付けている。


「静樹は……もういない。あの地下で、因縁の崩壊と共に影へと還っていった。……天音を縛り付けていた呪いは、たった今、形を失ったよ」


 その報告を聞いた真奈の指先が、ぴくりと跳ねた。さくらの抱擁によって『不浄の』」から『一人の人間』へと編み直された彼女にとって、父の死は、もはや恐怖でも復讐の対象でもなかった。真奈は、さくらの手を強く握り締め、自分に言い聞かせるように、けれど静かな声で呟いた。


「……そっか。あの人も、ようやく……自由になれたのね」


 それは、地獄を共にした者だけが辿り着ける、透明な赦しの響きだった。


「行きましょう。……ここはもう、すぐになくなってしまいますから」


 さくらの言葉に応じるように、屋敷のあちこちできしきしと木材が鳴り始める。主を失い、宿命という名の柱を抜かれた屋敷が、自らの命を終わらせようとしているかのようだった。


 玄関を出ると、冷たく、けれど刺すように清浄な夜明けの空気が一行を包み込んだ。門前には、すでに事態を収束させるために静江が手配した車両が、静かにライトを光らせて待機している。真奈は、療養施設へと向かう車に乗り込む直前、さくらの方を振り返った。


 その瞳には、かつての瑠璃色の濁りは一切ない。さくらが命を削って編み直してくれた『自分』という布を、これから時間をかけて大切に扱っていくという、静かな決意があった。


「さくらちゃん。……私、頑張るね。次に会う時は、ちゃんと、あなたの『お姉ちゃん』として笑えるように」


 さくらは、血の滲む肩を九条に預けたまま、最高の笑顔で頷いた。


「はい、ずっと待ってます。ごきげんよう、真奈お姉ちゃん」


 真奈を乗せた車が、静かに砂埃を上げて去っていく。百五十年の冬を溶かすには、まだ長い時間がかかるだろう。けれど、その車列を見送るさくらの隣には、魂を再構築された九条が、そして銀の熱を瞳に宿した遥香が、しっかりと立っていた。


 朝日が、天音の屋敷を白日の下に晒し始める。瓦礫の山となったその古い邸宅を背に、さくらは、自分を支える従者を見上げた。


「……九条さん。夜が、明けましたね」


「左様でございます、お嬢様。……これより先は、光の中を」


 九条の瞳には、さくらに繋ぎ止められた【濡羽色の執着(ぬればのしゅうちゃく)】が、主を守り抜くという新しく、そして純粋な誓いと共に、強く、深く燃えていた。


 遥香は、そんな二人を呆れたように見つめながら、大きく伸びをする。


「……ったく。世話の焼ける主従だぜ。さくら、次からはもっと穏やかな放課後にしてくれよな」


「……ええ。ありがとう、遥香ちゃん」


 さくらは、良樹と香菜恵が待つ車へと歩き出す。足元に降り積もった桜の花びらは、風に吹かれて空へと舞い上がり、呪われた屋敷の影を優しく、そして完全に覆い隠していった。


 蒼井と天音。


 吸い取り、吸い取られてきた歪な円環は、今、さくらが紡いだ『融和』という名の新しい糸によって、決定的に断ち切られた。


 物語は、因縁という名の夜を越え、自らの手で未来を織り上げるための、静かな眠りへと一度幕を下ろす。



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