第17話:『弟切草の断絶』
天音家別邸を包む大気は、上階の広間で繰り広げられている遥香と真奈の死闘によって激しく波打っていた。屋敷の躯体が不気味な軋みを上げ、微細な塵が舞い落ちる中、蒼井良樹と香菜恵の夫妻は、一族の禁忌が封印された地下室へと続く、重く閉ざされた扉の前に立っていた。
香菜恵の呼吸は浅く、その指先は凍りついたように扉の取っ手で止まっている。彼女の脳裏には、つい先ほど起きたばかりの光景が、剥がれることのない劇薬のようにこびりついて離れない。
(……私のせいよ。あの時、あの子がうちに遊びに来てさえいなければ。私が自分の仕事を優先して、あの子に迎えを任せたりしなければ……!)
今日。さくらの放課後に合わせて迎えに行くはずだった、ごくありふれた日常の始まり。だが、急遽舞い込んだ会社のトラブル。焦燥に駆られた香菜恵の視界に入ったのは、いつものように穏やかな微笑みを浮かべ、蒼井の家に遊びに来ていた親戚の娘、真奈だった。信頼していた。家族同然だと思っていた。だからこそ、何の疑いもなく香菜恵は真奈にさくらの迎えを託し、自分は会社へと急いだのだ。その『ごく当たり前の判断』が、愛娘をこの世の地獄へと突き落とす招待状になるとも知らずに。良樹たちの帰宅とほぼ同時に起きた本家の混乱、そしてさくらの失踪。すべては今日という一日の、ほんの数時間の間に起きた悪夢だった。
良樹は、震える妻の手の上から、自らの温かく、しかし力強い手を重ねた。
「……開けよう、香菜恵。……九条も、戦ってくれているんだ」
良樹の声には、かつて【乳白色の膜】に逃げ込んでいた頃の脆弱さはなかった。九条に『私を支えろ』と命じ、共にこの血塗られた因縁に立ち向かうと決めた家長としての覚悟。だが、その声の底には、母・静江に数十年もの間、弟の生存さえ隠され、『幸福な家長』という役割を演じさせられ続けてきたことへの、逃れようのない悲しみと憤怒が沈殿していた。
二人の力で抉じ開けられた扉の先には、深淵へと続く階段が口を開けていた。そこから這い出してきたのは、湿った土の匂いと、嗅いだだけで脳を麻痺させるような、不浄な情念が混ざり合った異様な死臭。熟れすぎた果実が腐敗し、その中から怨嗟が芽吹いたような、救いのない臭気だ。
一歩、階段を降りるごとに、良樹が数十年信じてきた世界が音を立てて崩壊していく。若くして『病死した』と静江から聞かされていた弟、静樹。
他人の困惑を糧にし、小動物を無機質な手つきで殺めていた異質な弟。良樹は、彼が死んだと聞かされたあの日から今日まで、それでも兄としてその死を真摯に悼み、彼の『闇』さえも過去のものとして祈りを捧げ続けてきたのだ。その数十年間の祈りが、今のこの一歩ごとに、無意味な虚飾へと剥ぎ取られていく。
地下室の最深部。そこは、かつて静樹が真奈の尊厳を蹂躙し、彼女を『器』という名の地獄へ叩き落とした、天音家の膿の源泉だった。だが、今、その空間を支配しているのは、立場を逆転させた真奈の怨念だ。
天井から垂れ下がる無数の瑠璃色の糸。それは、真奈が外界から吸い上げた、あるいは彼女自身の内側から溢れ出した『不浄』を循環させるための血管のようだった。その中央、糸に全身を貫かれ、肉体そのものが『屋敷の濾過装置』として編み込まれた巨大な繭。その中に埋もれるようにして、もはや人としての原型を失いかけた『生ける屍』、静樹がいた。
「……嘘だろ。静、樹……本当に、そんな姿で、生きていたのか……?」
良樹は崩れ落ちるように膝を突き、無残な弟の姿を仰ぎ見た。死んだと信じていた弟は、救われることも、断罪されることもなく、ただ生きながらにして屋敷の膿を吸わされ続ける『装置』へと成り果てていた。蒼井の家が謳歌してきた数十年間の安寧。その裏側で、この地下室では、時が止まったままの醜悪な地獄が拍動し続けていたのだ。
その時、頭上の広間から、遥香の白銀の楔が放った強烈な衝撃が地下室を揺らした。真奈の支配力が一時的に揺らぎ、繭の中の静樹の、白濁した瞳が痙攣するように開いた。
「…………ぁ、……ぁ……あ……」
静樹の口から漏れたのは、言葉というよりは、肺に残った汚泥を絞り出すような、掠れた喘鳴だった。 真奈に意識を完全に掌握され、まともに喋ることすら不可能なはずの静樹だったが、自分を『光』の中で死んだことにしていた良樹の存在を認めた瞬間、崩壊した精神の底から、底なしの毒念が溢れ出した。
「……にい……さん……?」
良樹という存在を認識した瞬間、静樹の白濁した瞳に、かつて小動物を弄んでいた時のような歪んだ感情が灯る。
「……おまえ……だけ……きれい、だ……。ぼくを……死んだことにして……その……光の中で……しあわせ、か……?」
「静樹、何を言っている……! 私は、お母様からお前は死んだと……! ずっと、お前のことを……」
「……きもち、いい……だろう? ……おまえが……さくらを……愛する、たびに……ぼくの……のどに……不浄が、たまる……」
それは、もはや対等な対話ではなかった。
静樹は幼い頃から、良樹という『まっとうで、光輝く人間』を生理的に激しく憎んでいた。自分がこの暗い地下室で真奈を汚し、一族の膿を一身に引き受ける一方で、何も知らずに光の中で家族を慈しみ、正しく祈る良樹。その対比そのものが、静樹の狂気を肥大させてきたのだ。今のこの無惨な姿さえ、彼は『兄が幸福でいたせいだ』という身勝手な逆恨みの燃料へと変えていた。
「……殺せ……にい……さん……。おまえの……その綺麗な……手で……とどめを……。おまえが……しあわせな、かぎり……ぼくは……終われない……」
静樹の、ひきつけを起こすような呪詛。その言葉は、まるで鋭利な針のように、良樹が大切に守ってきた『家族愛』という価値観を貫いた。良樹は、自分の歩んできた『善意に満ちた人生』そのものが、弟の地獄を、そして真奈の絶望を深めるための『光』として機能していたという残酷な錯覚に、魂を抉り取られるような衝撃を受けた。
自分の幸福が、誰かの地獄を照らしていた。その耐えがたい罪悪感に、良樹の背中が丸まり、彼は絶望の深淵へと引きずり込まれていく。
「……私のせいだ。私が……お前を、こんなところに置き去りにして……一人で、幸せになっていたから……」
良樹の心が完全に折れ、その場に突っ伏そうとした、その時。
「――いいえ、それは違います。良樹さん」
香菜恵が、夫の肩を抱きしめるようにして、凛とした声を地下室の静寂に響かせた。 彼女の瞳には、夫を絶望から救い出すための、母としての、そして妻としての強い光が宿っていた。
地下室の重苦しい空気の中に、香菜恵の声が鋭く響いた。膝を突き、弟の呪詛に心を蝕まれかけていた良樹が、弾かれたように顔を上げる。
「良樹さん、その言葉に耳を貸してはいけません。……静樹さん、あなたが今言ったことは、あまりに醜い」
香菜恵の言葉に、繭の中に沈む静樹が、喉を鳴らして笑った。
「……みにくい……? クク……ああ、そうだ……。僕は……醜い……。だが……それを……作ったのは……誰だ……? 兄さん……お前は……何も……知らない……。母さんが……僕に……何を……したか……」
静樹の白濁した瞳が、過去の凄惨な記憶をなぞるように虚空を彷徨う。
蒼井家は代々、金の針で贅を尽くした『蒼依織』を紡ぎ、その影で天音家が全ての不浄を吸い取ってきた。当主が立つたびに、天音の女が死に絶えることでその均衡は保たれてきたのだ。だが、静江が七代目当主となった時、天音の六代目には跡継ぎがいなかった。吸い取り紙を失い、溢れ出した数百年分の泥。それを引き受ける『器』として静江が選んだのは、天音の血筋ではない――自分から生まれた、疎まわしき『狂い』を持つ次男、静樹だった。
「……母さんは……僕を……この地下へ……棄てた……。蒼井の……不浄を……全部……僕の……喉に……注ぎ込んだ……。お前が……光の中で……笑えるように……僕を……天音の代わりに……したんだ……!」
良樹の顔から、血の気が引いていく。静樹の狂気は、もともと彼が持っていた『毒』だけではなかった。蒼井が繁栄のために生み出し続けた、膨大な一族の闇。それを注ぎ込まれ、煮詰められた結果が、この異形の怪物だったのだ。
「……そんな。お母様が……お前を、生贄に……?」
良樹の言葉は震えていた。静樹が病死したことにされたあの日、彼はただの厄介払いとして棄てられたのではない。一族を維持するための『人柱』として、実の母親に捧げられたのだ。静樹は、その圧倒的な暴力としての『泥』に呑み込まれ、自らの狂気と混ざり合うことで、かろうじて自我を形作ってきた。
「……にい……さん……。お前が……娘を……愛せば……愛すほど……その『光』は……僕を焼く……。僕を……殺して……救われた……つもりか……?」
静樹の声は、もはや恨みを超えた、一族の『業』そのものの響きだった。良樹は、自分が享受してきた穏やかな日々が、弟の肉体を濾過器として使った『搾取』の上に成り立っていたという事実に、崩れ落ちそうになる。
だが、その良樹の背中を、香菜恵が再び強く押し返した。
「……それでも、静樹さん。あなたが受けた仕打ちはあまりに残酷ですが……だからといって、無関係なさくらを、そして真奈さんを地獄に引きずり込んでいい理由にはなりません」
香菜恵の瞳には、同情と、それを上回る『拒絶』が同居していた。
「あなたは犠牲者だったのかもしれない。けれど、あなたは同時に、真奈さんの尊厳を奪い、さくらを恐怖に陥れた『加害者』です。良樹さんの幸福を呪うことで、自分の罪から目を逸らさないでください!」
その時、頭上の広間から、これまでにない巨大な衝撃が走った。遥香の『白銀の楔』が、真奈の結界を根底から粉砕したのだ。
「――良樹さん、今です! この悲劇を終わらせられるのは、あなたしかいない!」
香菜恵の叫びに、良樹は歯を食いしばり、立ち上がった。弟への拭えない罪悪感。一族の忌まわしき歴史。それら全てを背負ったまま、良樹は繭から伸びる瑠璃色の糸を、渾身の力で引きちぎった。
「……静樹。すまない……。だが、私は……父として、さくらを助けに行く。お前の恨みも、お母様の罪も、私が全て引き受けて……地獄へ持っていく!」
循環を断たれた繭が、音を立てて崩壊していく。静樹の生ける屍は、最後に一度だけ、安堵したようにも、呪わしげにも見える複雑な表情を浮かべ、屋敷の影へと融解していった。
「……行こう、香菜恵。さくらのもとへ」
良樹の手は、不浄の泥と血で黒く汚れていた。だが、彼はもう迷いはない。弟の犠牲の上に立っていた自分の人生を直視し、その汚れた手で、それでも娘を抱きしめるために。二人は、上階にある真奈とさくらが待つ広間へと、迷いなく駆け出した。
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広間を埋め尽くしていた瑠璃色の腕は、遥香が命を削って抉じ開けた『綻び』から溢れ出した銀の光に焼かれ、静かに、しかし確実に浄化されて霧散していった。後に残されたのは、降り積もる薄桜色の光と、あまりに傷ついた少女たちだけだ。
「……ぁ……あ…………」
真奈は、胸の奥でパキパキと不吉な音を立てて砕けゆく黒の針の痛みに、身を震わせていた。拠り所としていた天音の宿命という名の檻が壊れ、剥き出しになった彼女の魂が、虚無の中に放り出される。真奈の瞳が、自分を『ほどいた』遥香から、ゆっくりと、自分を真っ直ぐに見つめるさくらへと向けられた。
「……どうして……さくらちゃん……」
掠れた声で、真奈が問う。これほど無惨な目に遭わせ、暗い部屋に閉じ込め、恐怖に陥れた自分を、なぜさくらはそんな、凪いだ水面のような瞳で見つめていられるのか。
さくらは、糸の呪縛から解き放たれた小さな一歩を、震える足で踏み出した。遥香が意識を失う直前に遺した「……後は、任せたよ……さくら……」という、信頼と痛みの混じった言葉。それが、さくらの胸の中で確かな熱となり、彼女を大人へと押し上げようとしていた。
「真奈お姉ちゃん」
さくらの声は、不思議なほど透き通っていた。背後では、すべての情念を使い果たした遥香が、薄桜色の光に包まれながら深い眠りに落ちるように意識を失っていた。彼女が作ったこの綻びを、地獄のまま終わらせるのか、救いへと変えるのか。その重責を、さくらはその小さな肩に静かに受け止めていた。
「真奈お姉ちゃん……。私、もう大丈夫です」
「……うそ、よ……。来ないで……。私は、もう……壊れているの。汚い、不浄の、塊なのよ……!」
真奈が後ずさり、崩れるように膝を突く。
黒の針が砕けるたび、彼女がこれまで一族の『吸い取り紙』として呑み込んできた蒼井家の泥、そして地下室で静樹から注ぎ込まれた孤独な記憶が、出口を求めて彼女の内側を掻き乱す。それは黒い毒液となって彼女の肌を焼き、心を侵食し続けていた。
だが、さくらは止まらなかった。
さくらにとって真奈は、一緒に遊び、髪を結ってくれ、優しく笑いかけてくれた、大好きで大切な『お姉ちゃん』だった。その真奈が、自分の家の繁栄のために、これほどまでに暗く冷たい場所に棄てられていたのだと知った時、さくらの中にあった『甘え』は、深い贖罪と慈愛へと変わった。
「真奈お姉ちゃんは、汚くない」
さくらは逃げる真奈の手を、そっと、けれど拒絶を許さない意志の強さで握りしめた。その瞬間、真奈の内に溜まっていた不浄が、さくらの細い腕を伝って津波のように流れ込んでくる。百五十年の怨嗟、静樹の呪詛、そして真奈自身の絶望。さくらの脳裏に、見たこともない地獄の光景が、劇薬のような幻覚となって奔った。
「……っ……ぅ……」
さくらの顔が苦痛に歪む。だが、彼女はその手を離さなかった。自分を育てた蒼井の家が、金の針で美しい織物を紡いできたその影で、この温かな手がどれほどの重荷を負わされてきたのか。その事実に胸を抉られながら、さくらはただ慈しむように真奈を抱きしめた。
「大丈夫。……だって、この痛みの半分は、私たちが……、真奈お姉ちゃんに押し付けてしまったものだから。……もう、一人で持たなくていいんです」
さくらの瞳に、大粒の涙が溜まる。それは真奈への恐怖ではなく、彼女が耐えてきた時間への祈りだった。二人の少女が、舞い散る光の中で寄り添うように重なり合う。真奈の絶叫に近い慟哭が広間に響き渡る。自分を『不浄だ』と蔑み、同時に『救ってほしい』と願っていた真奈の心。さくらの柔らかな温もりに触れた瞬間、彼女の中で何かが決壊した。
(……温かい。……嫌、信じたくない。こんなこと、あっていいはずがない。私を捨てた一族の娘が、どうして私を愛せるの……?)
真奈の心臓にある黒の針が、さくらの無垢な慈愛を『拒絶』しようとして、さらに激しく脈打つ。 救われたい。この温もりの中で、すべてを忘れて眠りにつきたい。けれど、それ以上に醜い感情が、真奈の奥底で鎌首をもたげた。
――こんなに優しいさくらちゃんを、他の誰にも渡したくない。
――叔父様も、叔母様も、九条も。みんな消えてしまえばいい。
――さくらちゃんだけが、私と一緒に地獄にいてくれれば、私はそれでいい。
「……あ、……あ、ああああああ……ッ!!」
真奈の慟哭が、次第に異質な響きを帯び始める。彼女の目から流れるのは、もはや涙ではなく、混じりけのない黒い執着の滴だった。さくらに受け入れられたことで、真奈の孤独は『救い』ではなく、最悪の『独占欲』へと変質してしまったのだ。
遥香が抉じ開けた綻びを。さくらが差し出した救いの手を。真奈は、自らの内に残された最後の『天音の力』を絞り出し、それを拒絶の武器へと作り替えていく。
「……ふふ、……そうよね。さくらちゃんは、優しいものね。……でも、だったら……永遠に、私だけのものになって……?」
パキリ、と、結晶が組み上がる硬質な音が響いた。砕け散ったはずの黒の針。その破片が、真奈の狂気を核として再構築されていく。薄桜色の光の中に、再び不浄の瑠璃色が混ざり込み、それは鋭利な、巨大な茨の槍となって形を成した。
真奈の瞳から、理性が消え失せる。そこにあるのは、救いを求めて沈みゆく者が、最後に掴んだ「光」を共に深淵へと引きずり込もうとする、底なしの情念だった。
『さくらちゃん……だいすき。……だから、もう離さないよ』
真奈は、血走った瞳で笑いながら、再構築された黒の針を、さくらの心臓めがけて真っ直ぐに突き出した。 救いへの第一歩となるはずだった『綻び』は、真奈の最後にして最大の狂気によって、心中という名の地獄へと反転しようとしていた。
だが……。




