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『さくら色の忘却録』  作者: アリス・リゼル
さくら色の忘却録 [静江編]
2/23

第1話:『薄桜色の儀式』

 その屋敷の門をくぐる者は、例外なく肌に刺さるような静寂を覚える。


 都心の喧騒から断絶されたかのように、蒼井の本邸を囲む高い塀の内側には、冷徹な秩序が支配していた。五月の柔らかな日差しですら、この屋敷の広大な日本庭園に落ちる影を、より濃く、より鋭く切り取っている。


 蒼井(あおい)さくらが十一歳の誕生日を迎えたその日は、雲一つない快晴であった。


 しかし、さくらの心象風景に広がるのは、抜けるような青空ではない。それは、代々この家系に流れる「伝統」という名の、逃れようのない重い霧であった。


 鏡の前で、さくらは人形のように動かず、その身を専属の従者に預けていた。


 背中を覆うのは、腰まで届く見事なストレートヘア。それは黒に近いほどに深い茶色をしており、着色などしていない正真正銘の地毛であった。丁寧に切り揃えられた姫カットの輪郭が、彼女の幼い輪郭を縁取り、色白の肌をいっそう際立たせている。その肌は、外の世界で太陽を浴びることを禁じられた、温室の華のようであった。


「さくら様、お支度が整いました」


 低い、抑制の効いた声が静寂を破った。


 さくらの背後に立つ男、九条(くじょう)。さくらの父・良樹(よしき)に仕える専属の従者であり、運転手でもある彼は、明治の創業期から蒼井家に仕え続ける九条家の血を引いている。皺一つない黒のスーツを纏い、感情を削ぎ落としたその表情からは、彼が何を見つめているのかを読み取ることはできない。


「ありがとうございます、九条さん」


 さくらは、控えめに、けれど一分の隙もない動作で礼を返した。


 十一歳の少女とは思えぬその上品な立ち居振る舞いは、蒼井本家の長女として叩き込まれた教育の賜物である。彼女が纏っているのは、慎ましやかながらも最高級の絹で仕立てられた、紺色のワンピースだ。その質感は、この屋敷が守り続けてきた『蒼依織(あおいおり)』の誇りを体現していた。


 二人は長い廊下を歩む。


 磨き抜かれた床板は、足音を立てることを許さない。


 案内されたのは、屋敷の最奥にある『開かずの間』とも呼ばれる広間であった。


 重厚な襖が開かれると、そこには一族の頂点に君臨する老婆、蒼井静江が座していた。


 和装を厳格に着こなし、眉間には深い皺が刻まれている。彼女が放つ威圧感は、もはや一つの重力となって部屋の空気を押し潰していた。静江の周囲には、この時のさくらにはまだ見えない「因縁」が立ち込めていたが、その峻厳な佇まいだけで、場を支配するには十分であった。


「さくら。近くへ来なさい」


 静江の声は、冬の枯れ木が擦れ合うような乾燥した響きを持っていた。


 さくらは畳に膝をつき、淀みのない動作で三つ指を突いた。静江を見上げるさくらの瞳には、恐怖ではなく、深い敬愛と盲信が宿っている。さくらにとって、この峻厳な祖母こそが慈しむべき正義であり、守るべき世界の象徴であった。


「今日、お前は十一歳になった。それは、蒼井家の女として『宿命』を引き受ける年齢であることを意味する」


 静江の傍らには、古びた、けれど丁寧に手入れされた黒檀の木箱が置かれていた。


 静江がその蓋をゆっくりと開く。中には、ビロードのクッションに横たわる一本の針が収められていた。


「これが、江戸の昔より我が家に伝わる『金の針』。そして、お前が今日から操るべき修復の器です」


 針は、窓から差し込む斜陽を反射し、鈍い黄金色の光を放っていた。


 それはただの裁縫道具ではない。かつて江戸の呉服屋『蒼依屋』が幕府より賜り、人々の情念を、祝いを、そして悲しみを縫い合わせてきた神聖な道具である。


「さくら。この針を手に取りなさい。そして、我が一族に漂う『綻び』を縫い止め、蒼依の誇りを守るのです。それが、お前に与えられた唯一の存在意義であると心得なさい」


「はい、おばあ様。私、精一杯頑張ります」


 さくらの返答に、迷いはなかった。


 彼女がその細い指先で金の針に触れた瞬間、彼女の網膜に焼き付いていた世界が変質した。


 今までただの風景として認識していた屋敷の空気が、色と質感を持った『糸』の奔流となってさくらの視界に流れ込んできたのだ。


 驚きに目を見開くさくらの前に、一人の女性が姿を現した。

 さくらの母、香菜恵(かなえ)である。

 

「……お母様」


 さくらの唇が、小さく震えた。


 入室してきた香菜恵は、キャリアウーマンとしての凛とした装いとは裏腹に、その胸元から、悍ましいほどの【赤錆色の棘(あかさびのとげ)】を突き出していた。


 仕事の重圧、静江からの冷徹な評価、そして家庭内での孤独。それらが複雑に絡み合い、鋭い棘となって彼女自身の心を内側から引き裂いている。さくらの目には、母の周囲の空気が、赤錆色の粒子で汚れ、淀んでいるのがはっきりと見えた。


「さくら。さっそく、始めなさい」


 静江の冷たい命令が、静寂を切り裂いた。


 さくらは、母を苦しめるその色を消したいと、ただ純粋に願った。金の針を握る指先に、不思議な熱が宿る。それは、さくら自身の生命を燃料として灯された、儚い光であった。


 さくらの小さな掌の中で、金の針が脈打つように熱を帯びた。


 視界を埋め尽くす【赤錆色の棘】。母・香菜恵の胸元から幾重にも突き出し、彼女の呼吸を浅くさせているその色は、見ているだけでさくらの喉の奥をヒリつかせる。


 さくらは、教わった通りに指先へ意識を集中させた。おばあ様の教えによれば、心に薄桜色の糸を思い描き、それを針孔に通すイメージを持つのだ。だが、初めて目にする感情の糸は、さくらの想像を絶するほどに荒々しく、淀んでいた。


「……っ」


 一歩、母へと踏み出す。針を棘の根元へ差し込もうとした瞬間、赤錆色の棘が蛇のようにのたうち、金の針を拒絶した。キン、と鼓膜を叩くような高い金属音が室内に響く。さくらの指先を伝って、泥を飲み込んだような不快な振動が全身を駆け抜けた。


「……あ、あ……」


 糸が、結べない。


 薄桜色の光は、母の放つ鋭い棘に触れた瞬間にプツリと霧散してしまった。さくらの手から力が抜け、金の針が畳の上に力なく落ちる。乾いた音が、広間の沈黙をいっそう深いものにした。


 香菜恵は、感情の読めない空虚な瞳で娘を見下ろしていた。そこには期待も落胆もなく、ただ、重圧に耐え忍ぶ者の乾いた虚無だけがあった。


「そこまでです」


 静江の声が冷たく響いた。さくらは弾かれたように頭を下げ、震える手で針を拾い上げた。


「……申し訳、ございません。おばあ様」


「初めてで要領を掴めるとは思っていませんでしたが……。さくら、お前の『想い』がまだ足りないようです。一族の重荷を背負う覚悟が、その程度だということですね」


「……っ」


 静江の言葉は、失敗したことへの叱責よりも深くさくらの胸を抉った。静江は落胆を隠さなかったが、同時に「まだその時ではない」と切り捨てるような冷酷な余裕を見せていた。彼女は横に控えていた九条に目配せを送る。


「九条、さくらを部屋へ戻しなさい。今日のところはこれまでです。香菜恵、お前も仕事に戻りなさい。その『棘』を隠すことすらできぬなら、蒼井の名を冠する資格はありませんよ」


「……失礼いたします、お母様」


 香菜恵は短く頭を下げ、さくらと視線を合わせることなく部屋を去っていった。その背中から伸びる赤錆色の棘は、先ほどよりも鋭さを増しているように見えた。


 九条に促され、さくらは重い足取りで広間を後にした。長い廊下を歩く間、九条は何も言わなかった。励ますことも、責めることもない。ただ、一定の距離を保ち、主人の娘を守る影として背後に控えている。




 自分の部屋へ戻る途中、中庭に面した縁側を通った時のことだ。


「あら、さくらちゃん。どうしたの? そんなに悲しい顔をして」


 不意に、春の陽だまりのような温かい声が降ってきた。


 さくらが顔を上げると、そこには従姉妹の真奈が立っていた。彼女は今年十九歳になる大学生で、蒼井の分家の娘だ。本家の厳格な空気とは無縁のような、おっとりとした微笑みを常に絶やさない。


 真奈のまわりには、さくらの目には淡い【瑠璃色の細糸(るりのほそいと)】が漂って見えた。それは美しく、繊細で、見ているだけで心の波立ちを鎮めてくれるような色だった。


「真奈……お姉ちゃん」


「まあ、今にも泣き出しそう。おばあ様に何か言われちゃったのかしら」


 真奈は屈み込み、さくらの目線に合わせて優しく微笑んだ。彼女の動きは少しおっちょこちょいで、立ち上がる際に長いスカートの裾を少し踏んでよろけてしまう。そんな彼女の『完璧ではない』姿に、さくらの緊張がわずかに解けた。


「私……針を、うまく使えませんでした。お母様の苦しそうな色、消してあげたかったのに」


「いいのよ、さくらちゃん。あなたはまだ十一歳になったばかりだもの。そんなに自分を責めないで」


 真奈はさくらの小さな手を、自分の両手で包み込んだ。真奈の手は驚くほど柔らかく、温かい。


「おばあ様は厳しいけれど、それはあなたのことを思ってのこと。でもね、私は今のままの、何も染まっていないさくらちゃんが一番好きよ。針なんて、本当は使わなくて済むのが一番なんだから」


 真奈の瞳に、ほんの一瞬だけ、さくらを案じるような深い陰影が差した。それは、一族の過酷な宿命を知る年長者としての慈愛に見えた。


「さあ、お顔を上げて。今日はあなたの誕生日でしょう? 私、さくらちゃんにプレゼントを用意してきたのよ」


 真奈が差し出したのは、小さな、可愛らしい刺繍が施されたハンカチだった。さくらはそれを受け取り、ようやく小さな笑みを浮かべた。


「ありがとうございます、真奈お姉ちゃん。私、頑張ります。お姉ちゃんや、みんなが笑っていられるように」


 さくらの純粋な言葉に、真奈は満足そうに頷き、もう一度その頭を撫でた。


 その光景を、少し離れた柱の影から九条が静かに見つめていた。



 その日の夕刻。

 蒼井家の夕食は、広大な食堂で行われる。

 長いテーブルの上座には、父・良樹が座っていた。


 彼は、洗練された立ち居振る舞いと、年齢に相応しい落ち着きを湛えた美男子であった。高身長な身体を包むスーツは、まるで彼の一部であるかのように完璧に馴染んでいる。誰もが羨むような理想の父親像。だが、さくらの目に映る彼は、どこまでも遠い存在だった。


 父の周囲に漂うのは、【乳白色の膜(にゅうはくのまく)】。


 それは、外からの干渉を一切遮断し、自分を安全な場所へ閉じ込めるための防壁のようだった。良樹はさくらが針の儀式に失敗したことを当然知っているはずだが、あえて触れようとはしない。


「さくら、誕生日の食事は美味しいかい?」


 良樹の声は、心地よく、どこまでも優しい。だが、その言葉には実感が伴わず、さくらの心に触れる前に、乳白色の膜に滑って霧散してしまう。彼は、家庭内に渦巻く歪みや、妻が抱える赤錆色の痛みを『見ない』という選択をすることで、自らの平穏を保っていた。


 静江の支配、香菜恵の悲鳴、良樹の無関心。


 そして、それらをすべて包み込む真奈の優しさ。


 蒼井家という名の巨大な織機は、十一歳になったさくらという『横糸』を迎え、より複雑で歪な模様を織り成し始めていた。



翌朝、蒼井家の重厚な門扉が静かに開かれた。


 登校の時間だ。九条が運転する黒塗りの高級車の後部座席で、さくらは膝の上に置かれたランドセルをそっとなでた。特注の『薄桜色』の革で作られたそれは、春の光を孕んだように淡く可憐だが、この屋敷の沈鬱な空気の中では、どこか頼りなく、浮き上がって見えた。


 校門前で車を降りると、九条は音もなく車外に出て、さくらに深く一礼した。


「さくら様、お忘れ物なきよう。お帰りの時間にお迎えに上がります」


「はい。いってきます、九条さん」


 さくらは丁寧に応じ、背筋を伸ばして校舎へと歩き出した。


 私立の初等部において、蒼井家の令嬢という立場はあまりに特殊だった。廊下ですれ違う教師たちは「蒼井さん」と名字で呼び、敬意と、それ以上に「厄介事に関わりたくない」という【枯草色の倦怠(かれくさのけんたい)】を漂わせながら道を譲る。生徒たちもまた、彼女を遠巻きに眺め、透明な壁があるかのように距離を置いている。


 そんな静かな教室の中で、唯一、その壁を震わせる存在がいた。


「……また、そんな変な色してる」


 低く、どこか苛立ったような声。


 さくらが顔を上げると、隣の席の常上遥香(つねがみ はるか)が、椅子の背もたれに深く寄りかかってこちらを見ていた。遥香はパーカーの袖を無造作に捲り上げ、短く切り揃えた髪を揺らしている。


 遥香はその性格ゆえに、クラスで浮いていた。思ったことを包み隠さず口にしてしまう不器用さは、周囲に『怖い子』という印象を与え、さくらとは正反対の理由で、彼女もまた孤独の中にいた。


 だが、さくらの目には、彼女の周囲にだけ他とは違う『光』が見えていた。遥香の左腕のあたりから、時折、研ぎ澄まされた刃物のような鋭い輝きが漏れ出している。それはさくらの持つ金の針とは対照的な、すべてを断ち切る意志を持った【白銀の断ち鋏(しろがねのたちばさみ)】の幻影だった。


「常上さん……。おはようございます」


「……おはよう。あんた、昨日何かあったでしょ。顔色が真っ白っていうか……なんか、透けて消えそうなんだけど」


 遥香の言葉は唐突で、驚くほど核心を突いていた。さくらは昨日の失敗を思い出し、思わず指先を隠した。


「そんなこと……ありません。元気ですよ」


「嘘下手すぎ。あんたさ、そうやって全部一人で抱え込んで、お人好しの笑い方して……。見てるこっちが、イライラするっていうか……。放っておけないっていうか……」


 遥香は、言い過ぎたと思ったのか、バツが悪そうに視線を逸らした。彼女は、さくらの家が有名な『蒼依織』の蒼井家であることは知っている。けれど、その家系が代々何を背負っているのかまでは知らない。ただ、さくらの輪郭からこぼれ落ちそうになっている『何か』が、彼女には放っておけないほど危うく見えてしまうのだ。


「私、常上さんに嫌われるようなことをしましたか?」


 さくらが真っ直ぐな瞳で見つめると、遥香は耳まで赤くして唸った。


「嫌いとか、そういうんじゃない! ……ただ、あんたはもっと自分を大事にすべきだって言いたいだけ。あんたがそうやって周りの顔色ばっかり伺って、自分を削って……。そのうち、あんたの大事なものが全部、砂みたいにこぼれ落ちていっちゃうんじゃないの?」


 遥香の言葉は、さくらの心に深く突き刺さった。それは、静江や真奈が決して口にしない、剥き出しの心配の形をしていた。クラスの誰もが遥香を怖がって目を逸らす中、さくらだけは、彼女の言葉の裏にある不器用な誠実さを感じ取っていた。


「常上さん……。ありがとうございます。私のことを、そんなに見ていてくれて」


「別に、見てないし! 席が隣だから勝手に見えるだけ!」


 遥香は吐き捨てるように言うと、ガタリと椅子を引いて立ち上がった。そのまま顔を背けて教室を出ていく彼女の後ろ姿からは、後悔と照れが混ざり合ったような、銀色の火花が散っていた。


 放課後、迎えの車に乗り込むさくらの心には、朝とは違う小さな灯がともっていた。


 屋敷の玄関で出迎えた真奈が、瑠璃色の細糸を漂わせながら微笑む。


「おかえりなさい、さくらちゃん。今日は学校で楽しいこと、あった?」


 真奈の完璧な優しさに触れ、さくらは一度頷きかけた。けれど、頭の隅には遥香の『あんた自身を大事にすべきだ』という、刺さるような言葉が残っていた。


「……はい、真奈お姉ちゃん。友達に、少し叱られちゃいました」


「あら、お友達? それは大変。でも大丈夫、さくらちゃんは何も悪くないんだから。さくらちゃんは、今のままでいいのよ」


 真奈はさくらの頬を優しく撫で、そのまま屋敷の奥へと促した。


「さあ、おばあ様がお待ちよ。昨日の続き、頑張りましょうね」


 逃れられない修復の義務。十一歳の少女に課せられた、一族の業。


 九条が背後で静かにドアを閉める音が、牢獄の鍵のように重く響く。


 薄桜色のランドセルを置いたさくらは、光の届かない奥の間へと歩き出す。

 それが、彼女自身を削り取っていく『忘却の旅』の、真の始まりであるとも知らずに。



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