第15話:『鉄線の縛鎖』
雨は止む気配もなく、灰色の空から絶望を叩きつけるように蒼井本邸を打ち据えていた。
一部が焼け落ち、黒い骸を晒した邸宅の深奥。当主・静江の居室だけは、外の騒がしさを拒絶するように死んだ静寂に包まれている。鼻を突くのは、火災特有の焦げ臭い匂いと、消火活動のために撒かれた水が煤と混じって発する、むせ返るような泥の臭いだ。
その冷たい床に、九条は影のように跪いていた。
普段、一点の皺も許さぬ執事服は、火の粉に焼かれ、煤に汚れ、無惨に引き裂かれている。主を護るべきその両手は、炎の中からさくらの私物を一つでも救い出そうとしたのか、赤黒く腫れ上がり、指先からは血が滴っていた。
「……九条。顔を上げなさい」
静江の声は、冬の枯れ葉が擦れ合うような、乾いた響きだった。
彼女の足元には、黒い泥にまみれた『瑠璃色の鈴』が転がっている。かつて良樹とさくらを繋いだ絆の象徴。一度は砕け、それでもさくらが大切に肌身離さず持っていたその鈴は、今は音を失い、無機質な破片となって九条の『無能』を嘲笑っているかのようだった。
「さくらが連れ去られたのは、お前の失策ではない。……私が、天音という『膿の器』を甘く見ていた報いだ」
静江は窓の外、雨に煙る原生林を、その冷徹な眼差しで見据えたまま語り始めた。
「……良樹。お前は中学生のあの時、弟の静樹が突然消えた理由を、今も『病死』だと思っているのか?」
その問いに、傍らで壁を背に立ち尽くしていた良樹が、弾かれたように顔を上げた。その瞳には、かつて見たこともないほど深い、根源的な恐怖が宿っている。
「お母様……何を仰るのですか。あの日、静樹は療養先で亡くなったと……そう、聞かされてきました。私の、たった一人の弟だった……。彼が消えた日から、蒼井の家には奇妙な沈黙が流れるようになりましたが、私は……」
「静樹は死んでなどいません。あの時、私はあの子を天音家へ養子として放逐したのですよ」
静江の言葉は、良樹の胸を鋭い楔となって貫いた。
「良樹、お前が蒼井の『光』として慈しまれる裏で、天音家という家系は、一族が金の針で吸い取ってきた情念を肩代わりし続ける『生贄』の器として存在してきた。銀の針を失い、浄化の術を持たぬ我が一族にとって、不浄を溜め込む掃き溜めが必要だったのだ。静樹の中にあった決定的な狂気。それこそが、蒼井が百有余年かけて溜め込んできた毒の結晶だった。……だから私は、あの毒を本来あるべき『器』へ戻したに過ぎない」
良樹の膝が、崩れるように折れかけた。
自分が享受してきた光。自分が九条に『さくらを守ってくれ』と託すことができたほどの、温かな、しかし脆弱な家族の日常。そのすべてが、弟・静樹を地獄の底へ突き落とすことで維持されていたという事実。
「……僕が、光の中にいるために。弟を、あんな死臭のする家へ投げ込んだというのですか……。そんな、そんな呪われた血のために……今、私の娘が……さくらが奪われたというのですか!」
良樹は両手で顔を覆い、獣のような呻きを上げた。その悲痛な叫びは、跪く九条の背中を、千本の針となって突き刺した。
天音の絶望を育んだのは、自分たちが守ってきた蒼井の繁栄そのもの。そして、その繁栄の末端に身を置きながら、主を守るべき『従者』であるはずの自分が、真奈という存在が背負う闇の深さを読み違えた。
「……私の、不徳です」
九条の声は、地を這うほどに低く、しかしこれまでにない殺気を孕んでいた。
完璧な執事であり、完璧な従者であることを自らに課してきた男。主を奪われるという、従者として万死に値する屈辱。
九条の内側では、守護者としての誇りが自責という名の『鉄線』へと変質し、彼自身の心臓をギリギリと締め上げていた。
「真奈の中に宿るあの瑠璃色の糸は、静樹が、そして天音の歴代の少女たちが受けてきた損壊の記憶そのものだ。九条、お前が相手にしようとしているのは、もはや人の情が通じる女ではない。蒼井が排出し続けた汚れが、人の形を成した怪物だ」
静江の冷徹な警告。だが、九条の決意は揺るがなかった。
九条は泥の中から瑠璃色の鈴を拾い上げると、血に濡れた指でそれを強く握りしめた。鈴は鳴らない。だが、九条の耳には、さくらが震えながら助けを呼ぶ声がはっきりと聞こえていた。
「九条、行くな!」
良樹が、必死の形相で九条の肩を掴んだ。その手は、弟を失った日の悔恨と、唯一無二の右腕を失うことへの恐怖に激しく震えている。
「あそこはもはや、天音の怨念で編み上げられた底なしの沼だ。今の、自責に駆られたお前が行けば、術中にはまる。戦術も立てず、単身で飛び込むなど……お前らしくない。警察に、あるいは常上家へ……」
九条は、良樹の手を静かに、しかし断固として振り払った。
「良樹様。……私は、蒼井の従者です。主の領域を侵され、その御身を奪われた。この不手際、もはや言葉を尽くしたところで贖えるものではありません」
九条が立ち上がる。その瞳には、いつもの理知的な計算高さはなく、ただ静寂な、それでいて死を厭わない『従者としての狂気』が宿っていた。
完璧な執事という仮面は、邸宅と共に焼け落ちた。今の彼を突き動かしているのは、ただ一点。さくらを奪い返すという、泥濘のような【濡羽色の執着】のみ。
「常上様には、ここへ留まるようお伝えください。……これは、私の落とし前です。真奈様の執念の深さを見誤り、付け入る隙を与えた私自身の傲慢。……天音の呪いごと、私がこの手で葬ってまいります」
九条は、武器となる仕込み杖を手に取り、激しさを増す雨の中へと足を踏み出した。
自責の念に焼かれる彼は、戦術的な合理性も、生存への執着も、すべて捨て去った。一人の従者として、そしてさくらという光を愛した一人の男として、彼は血の池地獄へと降りていく。
背後で香菜恵が、そして良樹が自分を呼ぶ声も、もはや届かない。
九条は、泥にまみれた鈴を懐に深く仕舞い込み、山奥の深い闇に隠された天音の別邸へと、その身を投じた。
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深い霧が、まるで底なしの沼のように天音別邸の敷地を覆い隠していた。
鉄門を潜った瞬間、九条は現実の物理法則が歪み、世界の色が変容したことを悟った。雨音は止んでいないはずなのに、耳に届くのは水音ではなく、無数の絹糸が擦れ合うような、細く、鋭い不協和音。
九条は、煤と血で汚れた仕込み杖を突き、ぬかるんだ土を一歩ずつ踏みしめる。懐にある、音を失った『瑠璃色の鈴』が、彼の拍動に合わせて微かに、虚しく震えていた。
「……九条さん、まだ来るの? 本当に諦めが悪い人」
霧の奥底から、真奈の声が染み出してくる。それは少女の愛らしさと、捕食者の冷徹さを綯い交ぜにしたような響き。
「でも、残念。ここはね、私のパパ……静樹が愛した、絶望の苗床なの。あなたが今まで磨き上げてきた『執事の作法』なんて、ここでは何の役にも立たないわよ」
真奈の嘲笑と同時に、九条の視界に無数の閃光が走った。
霧を切り裂き、雨粒を数千に分断しながら、【瑠璃色の細糸】が姿を現す。それは光を屈折させ、深い瑠璃色の光を放つ極細の糸。だが、その一本一本には、百五十年にわたり蒼井の本家から流し込まれ、天音の地層に積み重なった少女たちの非業の死、その末路である汚泥のような情念が、物理的な殺意となって織り込まれていた。
九条は瞬時に、その殺意の密度を読み取った。
彼が今まで対峙してきたどんな敵よりも、この『糸』は理不尽だった。
「……関係ありません」
九条の口から漏れたのは、氷のように冷たく、昏い情熱を孕んだ声。
「私が果たすべきは、主の安寧。それを侵す毒がどれほど深い歴史を背負っていようと、私という『執着』を突破することは叶いません」
九条の【濡羽色の執着】が、嵐のように吹き荒れた。
彼は右手の仕込み杖を一閃させ、正面から殺到する糸を弾き飛ばす。だが、一本を断てば十本が、十本を断てば百本が、意志を持つ大蛇のように彼を囲い込む。
糸は九条の仕立ての良い執事服の袖を捉え、紙のように容易く引き裂いた。露出した白い肌に、瑠璃色の線が走る。次の瞬間、鮮血が噴き出した。
痛みなど、今の九条にとっては『誤差』に過ぎない。
彼は一歩、また一歩と、糸の網目の中へ無理やり身をねじ込んでいく。
シュッ、という断裂音が止まない。
九条の肩を、脇腹を、腿を、極細の刃が容赦なく削ぎ落としていく。執事服は瞬く間に無惨なボロ切れと化し、九条の全身は自身の鮮血によって、どす黒く塗り潰されていった。
「あはは! 見て、九条さん! あなたの自慢の『濡羽色』が、どんどん私の色に染まっていくわ! 痛いでしょう? 苦しいでしょう? ……それがね、天音の女たちが、本家のために身代わりに受けてきた痛みなのよ!」
真奈の言葉と共に、糸の攻撃が激化する。
糸が皮膚に食い込むたび、九条の脳内に悍ましい幻覚が直接流し込まれる。
――暗い地下室で、喉をかきむしりながら死んでいく少女。
――『生贄』として本家へ送られ、誰にも知られず消えた命。
――そして、静樹という怪物が、娘である真奈に注ぎ込み続けた『損壊』の記憶。
常人であれば、その負の奔流に精神を焼き切られ、廃人と化していただろう。
だが、九条は止まらない。
彼の内にある『執』は、天音の百五十年の怨念をさえ、己の不手際を贖うための『燃料』として喰らい尽くしていた。
(……この程度ですか)
九条は奥歯を噛み締め、血に濡れた唇を歪めた。
(さくら様が、あの忌まわしい珠に耳元を蝕まれ、どれほどの恐怖の中にいらっしゃるかと思えば……この程度の痛み、微睡みにも等しい)
九条は敢えて、自身の左腕を糸が最も密集する『死の領域』へと突き出した。
ズブ、という鈍い音が響き、数千の糸が彼の左腕に深く食い込む。筋繊維が断たれ、骨が削れる悍ましい感触が九条を襲う。だが、彼はその左腕を『重り』として使い、糸の束を力任せに引き寄せた。
糸を介して、九条の執念が真奈へと逆流する。
主を奪われた屈辱、完璧を崩された怒り、そして、さくらを案じる狂気的なまでの愛情。それらが濡羽色の影となって、真奈の瑠璃色の糸を侵食し始めた。
「……っ!? あなた、何を考えて……腕を捨てるつもり!?」
霧の向こうで、真奈の動揺した声が上がる。
九条は答えない。ただ、左腕の肉を餌にして固定した糸の『起点』を睨みつけた。
「真奈様……私は執事です。主のために掃除をするのは、私の本分。……たとえそれが、百五十年の埃であろうとも、残さず拭い去って御覧に入れましょう」
九条は全身のバネを使い、血飛沫を上げながら本館の正面扉へと地を蹴った。
背後からは、逃がさぬとばかりに巨大な津波となった瑠璃色の糸が追いすがる。扉の目前で、九条は仕込み杖の鞘を捨て、剥き出しの刃を真一文字に振った。
扉が粉砕され、同時に彼の背中を数筋の糸が貫く。
それでも九条は止まらない。彼は血の雨を降らせながら、真奈とさくらが待つ地獄の広間へと足を踏み入れた。
視界の端に、かつての主の思い出である『瑠璃色の鈴』を懐に感じながら、九条は最期の『業務』を遂行するために、その凄惨な姿で真奈と対峙した。
「さあ……さくら様をお返しいただきましょうか」
全身から血を滴らせ、鬼気迫る形相で立ち尽くす九条。
その姿はもはや執事ではなく、主の聖域を守るためなら己を微塵切りにすることさえ厭わない、濡羽色の怪物そのものであった。
本館の広間は、現世の理を剥奪された『瑠璃色の迷宮』と化していた。
天井から床までを埋め尽くす極細の糸は、時折、意志を持つかのように脈打ち、捕らえたさくらの生気を吸い上げている。その中心、深淵のような闇を背負って、真奈は椅子に深く腰掛け、意識を失ったさくらの髪を愛おしそうになぞっていた。
「さあ、九条さん。あなたのその『濡羽色の執着』……主君を完璧に守り抜くという、その無機質なプライドごと、私にちょうだい」
対峙する九条に、もはや人間としての気配はない。
全身を走る瑠璃色の細線からは静かに血が滲み、執事服はボロ切れのようだが、その立ち姿には一点の揺らぎもなかった。肉体的な限界などとうに超えているはずなのに、彼が倒れないのは、自らが生み出した【濡羽色の執着】という糸が、彼の肉体を内側から吊り上げ、無理やり主君・さくらの元へと歩ませているからだ。
九条は、一切の声を発することなく、最後の一歩を踏み出した。
だが、真奈が指先をわずかに動かした瞬間、世界の重圧が変わった。
「…………っ」
九条の口から漏れたのは、叫びですらなかった。ただ、肺から空気が押し出される無機質な音。
真奈の『糸』が、九条の傷口からその内側、精神の深奥へと直接侵入した。彼を動かしていた唯一の駆動源――【濡羽色の執念】そのものを、真奈の瑠璃色が食い破ったのだ。
パキリ、と、何かが致命的に折れる音が広間に響いた。
九条の瞳から、冷徹なまでの光が急速に霧散していく。
彼を無理やり立たせていた見えない糸が断ち切られたように、九条の身体は重力に従って床へと崩れ落ちた。
死んではいない。だが、九条の中にあった『主を守り抜く』という狂信的なアイデンティティは、今、真奈の糸によって根こそぎ消失させられた。主を認識することさえできなくなった、ただの『空っぽの器』。それは従者としての死よりも残酷な、存在の否定だった。
「ふふ、お掃除完了。……さあ、次はどなたが私の家族を邪魔しにいらっしゃるのかしら?」
真奈がさくらのピンクの唇に口を寄せ、その意識を天音の闇で染め上げようとしたその時。
広間の重厚な扉が、空間を切り裂くような衝撃で爆発した。
「――いい加減にしろよ、このバカ姉ちゃん!!」
硝煙と激しい雨風を突き抜けて響いたのは、凛としていながら、ひどくぶっきらぼうな怒声だった。
逆光の中に立つのは、肩で息をしながら、剥き出しの敵意を真奈に向ける少女――遥香だ。
「……常上さん…。邪魔をしないでと、あれほど申し上げましたのに」
真奈の声は、どこまでも穏やかで、それゆえに狂気に満ちていた。
「邪魔するに決まってんだろ。あんた、鏡見てきなよ。今のツラ、ひどすぎて見てらんないわ」
遥香は、床に伏した九条を一瞥し、鼻を鳴らした。
「……九条さんまでこんな無残にしやがって。あんた、やりすぎなんだよ」
遥香の右手には、白銀の楔が鈍い光を放っている。
「さくらを返せ。……学校でさ、あんた私に言ったよな? 『嘘なわけないでしょう!』って。火事が嘘だったら許さないって言った私を、あんたはあの時、真っ赤な嘘で笑ったんだろ」
遥香の瞳が、真っ直ぐに真奈を射抜く。
「自分の寂しさを埋めるために、親友の家を燃やして、嘘ついて連れ去って……。そんなの、あの日あんたを信じてさくらを託すしかなかった私への、最大級の裏切りだ。さくらを離せ。今度は私が、あんたの呪いごと全部ぶっ壊してやる」
遥香が足を踏み出した瞬間、真奈の瞳が瑠璃色に燃え上がり、広間の糸が一斉に唸りを上げた。
「……裏切り? 私を裏切ったのは、最初からずっと蒼井の連中ですわ。……ええ、いいでしょう。そこまで仰るなら、あなたも一緒に沈めて差し上げますわね」
真奈の指先から放たれた瑠璃色の奔流が、遥香の全身を包み込み、彼女の意識を強制的に天音の『孤独の深淵』へと引きずり込んだ。




