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『さくら色の忘却録』  作者: アリス・リゼル
さくら色の忘却録 [真奈編]
18/23

第14話:『竜胆の牢獄』

 六月の雨は、執拗に蒼井の屋敷を叩き続けていた。


 この日、さくらの朝はいつもと違う心細さの中にあった。毎朝、影のように傍らに控え、その一挙手一投足を完璧にサポートしてくれる執事・九条の姿が、玄関にはなかったからだ。


「さくら様、申し訳ございません。本日は良樹様、ならびに静江様が進めておられる、大手ホテルチェーンとの空間プロデュース提携に向けた重要な会合に同行せねばならず……お見送りはここまでとなります」


 朝食の後、九条は苦渋を滲ませた表情で、さくらに深く頭を下げた。良樹が『自分の殻』から這い出し、当主である静江を支えようと本格的に動き出した結果、その実務能力と調整力を買われている九条の手が必要不可欠となったのだ。


「大丈夫です、九条さん。……お父様と、おばあ様を助けてあげてください。今日は、お母様が迎えに来てくれる約束ですから」


「……左様でございますか。香菜恵様がご一緒であれば、私も幾分か心強く存じます。……くれぐれも、お一人で行動なさらぬよう」


 九条は、さくらの瞳の奥に昨日の真奈との接触から生じた微かな『濁り』が残っていることに気づいていた。本心ならば、すべての業務を放り出してでも彼女の側に跪き、その毒を吸い取ってやりたい。だが、今の彼にはその権利も、時間も残されていない。彼は主の安全を祈りながら、良樹たちの待つ車へと乗り込んでいった。


 九条の車が見えなくなると、雨音がいっそう大きく感じられた。足元が覚束なくなるほど心細い静寂。そこへ、レインコートを羽織った影が駆け寄ってきた。


「さくらー! おはよー、行こ行こ!」


 遥香の屈託のない声が弾ける。隣に並んだ彼女の白銀の気配は温かく、さくらの胸に澱んでいた真奈の毒を一時的に忘れさせてくれた。

 二人が肩を並べて歩き出し、学校へ続く商店街のアーケードに差し掛かったときだった。さくらは息を呑んで足を止めた。


「遥香ちゃん……見て……」


「……っ、何これ。昨日のおっさんの時よりずっと酷い。……あっちも、こっちも、変な色だらけだ」


 遥香の視界に、濁った紫の霧のような情念が次々と飛び込んでくる。花屋の店主、配達員、駅へ急ぐ会社員。彼ら数人の背中からは、粘り気のある漆黒に近い紫色の糸が立ち上り、互いに絡み合って巨大な網を形成しようとしていた。連鎖する不安と焦燥が形を成した、【紫色の刺絡(むらさきのしらく)】の群れだった。


「誰かが一歩踏み外したら、全員が共倒れになっちゃう。助けないと……!」


 さくらは、耳元の髪飾りが冷たく震えるのを感じた。


(救う? またそんな無駄なことを。一人だけでも持て余しているあなたに、この人数が救えるとでも?)


真奈の幻聴が脳を撫でるが、さくらはそれを振り払い、傘を握る手に力を込めた。


 だが、修復は困難を極めた。

 遥香が右手をかざし、白銀の楔を具現化させる。彼女の役割は、この禍々しく縺れ合った【紫色の刺絡(むらさきのしらく)】を、一本ずつ丁寧に解きほぐすことだ。


「くっ……これ、粘り気が強すぎる……!」


 遥香が精神を集中させ、楔の先で紫の糸の結び目を突く。だが、複数の人間の負の感情が混ざり合った『濁流』は、解こうとする端から再び別の糸と絡み合い、増殖していく。遥香の額に大粒の汗が浮かぶ。


 さくらは、一人ひとりの心の深層へと、意識の糸を伸ばした。  売上の落ち込みを嘆く店主、時間に追われる配達員の焦り、家庭の不和を抱える会社員――。それらが【紫色の刺絡(むらさきのしらく)】を通じて複雑に溶け合い、誰の苦しみかも判別できない巨大な『塊』となっていた。


 やがて、遥香が辛うじて一本の糸を独立させた瞬間、さくらは祈るように両手を重ねた。


(どうか……この人の悲しみを、これ以上、広げないで……)


 さくらの指先から、内なる情念が柔らかな薄桜色の糸となって溢れ出す。遥香によって解かれた無防備な紫の糸を、さくらは慈しむように、丁寧に包み込んでいった。それは、傷ついた記憶の断層を癒やし、本来の輝きを取り戻させるための繊細な手仕事だ。


 遥香が楔で解き、さくらが包み込む。

 二人は呼吸を合わせ、泥沼に足を取られるような感覚の中で、一歩ずつ修復を進めていった。一人、また一人と、紫の網から解放されていく。それは針の穴に何百本もの糸を通し続けるような、気の遠くなる作業だった。一分が、一時間にも感じられるような濃密な精神の削り合い。


「……あぁあ、私、何を焦っていたのかしら」


「そうだ……今日は、急がなくてもいいんだ」


 ようやく、人々の瞳に光が戻り始めた。毒々しい紫は、二人の圧倒的な尽力によって、清廉な竜胆(りんどう)の青へと描き変えられていく。だが、その勝利の代償は重かった。


 這うようにして辿り着いた学校での時間は、二人にとって果てしない苦痛の連続だった。一時間目から四時間目まで、さくらは鉛のように重い瞼を持ち上げ、ノートを取る指先の震えを抑えるだけで精一杯だった。思考は霧に包まれ、教師の声は水底から聞こえるように遠い。

 

 昼休み。


 いつもなら隣の席の遥香が「さくら、ご飯食べよ!」と明るく声をかけてくるはずだが、今日ばかりは互いに言葉を交わす余裕もなかった。遥香は机に突っ伏したまま、時折肩を揺らして荒い呼吸を整えている。普段、彼女の世界には意識せずとも人々の感情が『色』となって鮮やかに溢れているが、今はその『視覚』が極限まで曇り、煤けた灰色のノイズが視界を埋め尽くしていた。静江との戦いの際にも味わった、全力を出した後の残滓。しばらく休めば戻ると分かってはいても、色が消えた世界は酷く味気なく、隣にいるさくらを支えるための『目』が機能しない苛立ちが、遥香の胸を焦じさせていた。


 午後の授業。外の雨脚はいっそう強まり、窓ガラスを激しく叩く。さくらは意識を保つために、父・良樹の柔らかな微笑みを必死に思い出そうとした。けれど、耳元の『黒い珠』が冷たく脈打つたびに、あの微笑みさえも自分が壊してしまったもののように思えて、罪悪感で胸が押し潰されそうになる。


 ――同じ頃。蒼井家の屋敷では、香菜恵が準備を急いでいた。

 蒼依織の社員でもある香菜恵は、本来なら夫である良樹に同行すべき立場だったが、今日は迎えのために午前中のみの業務で切り上げさせてもらっていた。

 キッチンでは、さくらが喜ぶ顔を想像しながら、丁寧に裏ごししたカスタードプリンを冷蔵庫へ収めたところだった。学校の放課後まではまだ少し時間がある。早めに家を出て、余裕を持って校門の前で待っていよう――そう思い、香菜恵が車の鍵を手にした、その瞬間だった。


 スマートフォンの甲高い着信音が、静かな廊下に鳴り響く。


「はい、香菜恵です……えっ、良樹さんが!? 取引先と……、ええ、すぐに、すぐに向かいます!」


 良樹たちが向かった会合先での予期せぬ重大なトラブル。九条も良樹も現場の対応に追われ、身動きが取れない。妻として、そして社員として、一刻も早い現場のフォローに呼び戻された香菜恵は、パニックになりかけながら、リビングにいた真奈に縋るような視線を向けた。


「真奈ちゃん! ごめんなさい、急に用事が入っちゃって……私の代わりに、さくらを学校まで迎えに行ってくれないかしら?」


「ええ、もちろんですよ、叔母様。……さくらちゃんには、私からちゃんとお話ししておきますね。うふふ、ちょうどお菓子でも作ろうと思っていたところなんです」


 真奈は、聖母のような慈愛に満ちた笑みを浮かべて引き受けた。香菜恵が雨の中、急いで車を走らせていくのを見送りながら、真奈は手に持っていたマッチを、静かに、けれど確実に、蒼井家のカーテンの裾へと近づけた。


 窓の外では、雨が激しさを増していく。

 それは、これから誰もいない蒼井の邸宅を呑み込む『赤い炎』と、さくらを閉じ込める『紫の牢獄』への、不吉な合図だった。


**


 終業を告げるチャイムが、雨の湿気を含んだ重苦しい空気の中に響き渡った。

 さくらは、机に置いた自分の手が、まるで他人のもののように遠く感じられるほどの倦怠感に襲われていた。朝の商店街で行った【紫色の刺絡(むらさきのしらく)】の修復。それは、数人の人間の負の感情を一人で、しかも精密に癒やすという、幼い彼女の許容量を遥かに超えた作業だった。指先は微かに震え、思考は霧に包まれたように鈍い。


 隣の席では、遥香が机に突っ伏したまま、時折肩を震わせて荒い呼吸を繰り返している。


「遥香、ちゃん……大丈夫?」


 さくらが掠れた声で問いかけると、遥香はようやく顔を上げた。だが、その瞳には光が宿っていない。普段、彼女の世界を彩る鮮やかな『色』は、今は煤けた灰色のノイズに塗りつぶされていた。感情を視覚化する能力を使い果たした反動だ。


「……うん。ごめん、さくら。ちょっとだけ、世界が暗いだけ。……さくら、顔色が……本当に、大丈夫なの?」


 遥香の言葉も、どこか水底から響いてくるように遠い。二人は互いに限界であることを悟りながら、それでも一緒に帰ろうと、支え合うように立ち上がろうとした。校門の前には今頃、香菜恵が車で待ってくれているはずだ。その温もりを想像するだけで、さくらはどうにか意識を繋ぎ止めることができた。


 その時だった。

 教室の前扉が、不作法な音を立てて勢いよく開かれた。


「さくらちゃん! ああ、よかった、まだ教室にいてくれたのね……っ!」


 飛び込んできたのは、肩を激しく上下させ、雨に濡れた白いレインコートを纏った真奈だった。その完璧に整えられていたはずの髪は乱れ、頬は紅潮し、瞳には今にも溢れ出しそうな涙が溜まっている。なりふり構わぬその必死な姿に、教室内を片付けていた数人の生徒たちの視線が釘付けになった。


「真奈、お姉ちゃん……? どうして、ここに。お迎えは、お母様が来てくれるはずなのに……」


 さくらの胸に、言いようのない不吉な予感が走った。真奈はさくらの元へ駆け寄ると、震える手でその小さな肩を掴み、強く揺さぶった。


「さくらちゃん、落ち着いて聞いて。……お屋敷で、火事なの……!」


 その一言で、さくらの世界から音が消えた。


「……えっ……? 火事……?」


「叔母様がお迎えに出ようと準備していた直前に、キッチンから火が上がったのに気づいたみたいで……! 叔母様はすぐに消防に通報して、必死に消火しようとしていたわ。私も手伝おうとしたんだけど、『私の代わりに、早くさくらを迎えに行って! 私は大丈夫だから、さくらを安全な場所に逃がして!』って……叔母様に、必死な顔で頼まれたの」


 真奈の声は震え、途切れがちだった。それは愛する家族を救いたいと願う、あまりに真に迫った『善意の協力者』の演技だった。


「叔父様や九条さんにも何度も電話したけど、二人ともお仕事中でどうしても繋がらないの! 消防車は向かっているはずだけど、今は私たちが戻って、叔母様を助け出さなきゃ! さあ、早く、私の車へ!」


 母が今、一人で炎に包まれた屋敷の中で、自分のことを想いながら戦っている。真奈は怪しい。それはここ数日、遥香と話し合った事実だ。九条からも『一人で行動するな』と厳命されていた。しかし、目の前の真奈が語る『母の窮地』は、さくらの理性を一瞬で焼き切るほどに残酷で、重かった。

 母は自分の迎えに行く準備をしていたから、火事に気づくのが遅れたのではないか? もし自分がここで一秒でも迷えば、母を見殺しにしてしまうのではないか? その恐怖が、真奈への不信感を圧倒した。


「私、行かなきゃ……お母様を、助けないと……っ」


「待って、さくら……っ! 行っちゃ…ダメだ…!」


 遥香が、掠れた声で叫び、震える手を伸ばした。

 彼女の灰色の視界の中では、真奈の『色』を捉えることができない。真偽を判別するための武器を失った遥香にとって、残されたのは野生の直感だけだった。


「真奈さん……嘘じゃない…よな? もしこれが…さくらを連れ出すための嘘…だったら……私、あんたを絶対に…ただじゃおかないからな……っ!」


 遥香の剥き出しの敵意に、真奈は一瞬だけ、その完璧な『必死な表情』をさらに歪ませた。


「嘘なわけないでしょう!? 私だって怖い、でも放っておけるわけないでしょう、家族なのよ!? さあ、さくらちゃん、早く! 私の車が校門の外に停めてあるから!」


 真奈は、拒絶を許さない鉄の握力でさくらの手首を掴み、半ば引きずるように教室から連れ出した。  遥香が、鉛のように重い足を引きずって追いかけようとしたが、一歩踏み出した瞬間に視界が激しく明滅し、床に膝をついた。情念を絞り尽くした肉体は、親友を奪い去る不吉な足音を、ただ虚しく聞き送るしかなかった。


 校門の前に停められていた真奈の車は、さくらを後部座席に乗せると、豪雨を切り裂き、タイヤを軋ませて猛スピードで走り出した。

 さくらは、激しく叩きつける雨音を聞きながら、必死に祈っていた。


(どうか、お家が燃えていませんように。お母様が、無事でありますように。)


 だが、数分が経過した頃。窓の外の景色が、自宅のある閑静な住宅街とは正反対の、霧深い山道へと差し掛かっていることに気づき、さくらの背筋に冷たい氷が走った。


「真奈お姉ちゃん……道が、違います。お家はあっちじゃ……お母様は、お母様はどうしたの……っ?」


 さくらが震える声で問いかけると、車内の空気が、一瞬にして凍りついた。


「ふふ……、ああ、もういいわよね。疲れたわ、必死な顔をするのも」


 真奈の口から漏れたのは、先ほどまで教室で響かせていた焦燥の声とは似ても似似つかない、透き通るほどに冷酷で、甘やかな吐息だった。彼女は片手で器用にハンドルを回しながら、もう片方の手で、乱れた髪をゆっくりと耳にかけた。バックミラー越しの顔には、さくらを案じる『従姉』の面影は微塵もなく、ただ獲物を罠に嵌めた悦びに浸る、捕食者の歪な艶やかさだけが漂っていた。


「いいのよ、さくらちゃん。……どうせお家には今頃、消防車が着いているわ。私がしっかり通報しておいたもの。叔母様だって、とっくに会社へ呼び戻されていて、お屋敷には最初から誰もいなかったの。火を付けたのも、私。消防に通報したのも、私。……少しだけお騒がせすれば、さくらちゃんはこうして私のところに来てくれる。とっても単純で、とっても可愛いわ」


「……えっ? 嘘、だったの……? お母様は、無事なの……?」


安堵が、一瞬だけさくらの胸をよぎる。しかし、直後に突きつけられたのは、より深い絶望だった。


「ええ、無事よ。でも、もう二度と会えないわ。……さくらちゃん、あなたはこれから、私の本当の『妹』になるの。おばあ様にも、叔父様にも、叔母様にも、九条さんにも、あのうるさいお友達にも、誰にも邪魔されない場所でね。みんな今頃、火事の対応で大忙しでしょう? その隙に、私たちは静かな場所へ行くの」


 さくらは、ドアノブに手をかけたが、チャイルドロックがかけられた扉はピクリとも動かない。


「おろして……帰して、真奈お姉ちゃん!」


「ダメよ、さくらちゃん。……そんなに泣かないで。私が、誰よりもずっと、ずっと『愛してあげる』から」


 真奈は蕩けるような、狂気を含んだ笑みを向けた。

 雨の中、車は外界から完全に断絶された天音家の別邸へと、闇の深淵を突き進んでいった。


 後部座席で小さく丸まるさくらの耳には、執拗にフロントガラスを叩く雨音と、真奈が機嫌よさそうに口ずさむ鼻歌だけが届いていた。先ほどまで感じていた、母を救わねばならないという激しい焦燥は、今や冷たい氷の塊となって彼女の胃の底に沈んでいる。


「……真奈お姉ちゃん、お母様は……本当にお屋敷にはいなかったの?」


「ええ。私が火をつけた時、叔母様の車はもうなかったわ。きっと叔父様に呼ばれ、会社へ向かったんでしょうね。叔母様らしいわ、家族よりも、仕事を優先するなんて」


 真奈は、バックミラー越しにさくらの反応を窺い、蕩けるような笑みを浮かべた。だが、さくらはその挑発に乗ることはなかった。母が仕事へ向かったのなら、それは蒼井家にとって、母の迎えよりも優先すべき重大な事態が起きたということだ。母の責任感の強さを誰よりも知るさくらにとって、それは裏切りではなく、家を守るための行動でしかない。


「ほら、着いたわよ。私たちの、新しいお家」


 車が停まったのは、鬱蒼とした森の中に佇む、天音家の古い別邸だった。高い石壁に囲まれ、重厚な鉄門が外界との繋がりを拒絶している。真奈が運転席から操作し、内側からチャイルドロックされたドアが開く。さくらは、抗えない力で屋敷の中へと導かれた。


 玄関を抜けると、完璧に整えられたリビングが広がっていた。暖炉には火が灯り、テーブルの上には陶器のティーセットが並んでいる。


「さあ、まずは温かいお風呂に入って。その間に、特別なデザートを用意しておくわね」


 真奈は、クローゼットから一着の服を取り出した。それは、さくらが普段愛用している『蒼依織』の深く静かな(あお)の衣服とは正反対の、淡いレースが何重にもあしらわれた、まるでお人形が着るような純白のワンピースだった。


「蒼井家が選ぶようなあの古臭い『蒼』は、もう脱ぎましょう? さくらちゃんには、こういう可愛らしい服が似合うわ。私が、世界で一番可愛い妹にしてあげる」


 真奈に促され、さくらは一人、広々とした大理石造りの浴室へと入った。自動で湯が張られた浴槽からは、強い薔薇の香りの蒸気が立ち上っている。蒼井の屋敷でいつも焚かれている、控えめで清涼感のある香木とは対照的な、むせ返るような芳香。


 さくらは震える手で、雨に濡れた『蒼依織』の服を脱ぎ捨てた。九条が毎朝、しわ一つないように整えてくれていたその蒼色は、今は冷たく湿り、無造作に床に落ちる。衣服という名の守護を剥ぎ取られたさくらの身体は、あまりに小さく、白かった。


 湯船に身を沈めると、熱い湯が全身を刺すように包む。お湯を掬い、自分の肩を洗う。けれど、どんなに流しても、先ほど真奈に掴まれた手首の感覚が、まるで消えない汚れのようにこびりついて離れない。


(九条さん……)


 いつもなら、着替えの準備から湯加減の確認まで、完璧な距離感で控えてくれているはずの執事がいない。その事実は、さくらの心にぽっかりと、底の見えない穴を空けていた。湯気で曇った鏡の中、蒼井家の誇りである『蒼』を失い、裸一貫となった自分は、ただの無力な少女に過ぎないのではないか。その恐怖が、薔薇の香りと共に鼻腔を突く。


 だが、さくらは目を閉じて深く息を吐いた。


(おばあ様…お父様…お母様……遥香ちゃん…)


母が、父が、祖母が。それぞれの場所で『家』のために戦っている。そして遥香が、ボロボロになりながら自分に警告してくれた。自分一人がここで折れるわけにはいかない。


 風呂から上がり、強要された白いワンピースを身に纏う。濡れた髪が白い布地に張り付き、肌を透かす。その不気味な白さは、真奈という『作者』によって背景を消し去られた人形のようだが、さくらは背筋を伸ばし、リビングへと戻った。


 テーブルの前では、真奈が微笑んでいた。置かれていたのは、ガラスの器に盛られた、艶やかなカスタードプリンだった。


「さあ、座って。さくらちゃんのために、プリンを作っておいたのよ」


「プリン……ですか?」


「ええ。蒼井家の冷蔵庫にね、叔母様が作ったプリンが冷やしてあったわ。あんなに丁寧に準備していたのに、叔母様ったら結局、あなたを迎えに行くことより仕事を選んで家を空けてしまったの。火事で煤まみれになったあのプリンの代わりに、私がもっと美味しいものを作ってあげたわ。私の方が、あなたを大切に思っているでしょう?」


 さくらは無言のまま、真奈の言葉を聴いていた。


 母は、自分のためにプリンを用意してくれていた。その愛情を抱えたまま、どうしても外せない公務のために家を出たのだ。それは蒼井家の人間として当然の振る舞いであり、自分を軽んじた結果ではない。真奈は、母の献身を『放置』と呼び、家族の絆を貶めている。さくらの胸にあるのは、拒絶感ではなく、家族の想いを利用し、泥を塗るような真奈への静かな憤りだった。


「さあ、あーんして?」


 真奈はスプーンを差し出した。瞳から温度が消え、拒絶を許さない圧力が室内を満たす。さくらは今、ここで抗うのは得策ではないと判断した。九条が、あるいは遥香が自分を見つけるまでの時間を稼がなければならない。

 さくらは無言のまま唇を開き、差し出されたプリンを口にした。喉を焼くような、刺すような、過剰な甘さ。それは母の穏やかな味とは程遠い、独占欲という毒の味だった。


「美味しい? うふふ、よかったわ」


真奈は満足げにさくらの頬を撫でた。その指先は、爬虫類のように冷たい。


「さあ、今夜は私の部屋で一緒に寝ましょうね。……いいえ、今からはもう、一分、一秒だって離さないわ」


 真奈の瞳が、不自然な熱を帯びて潤んでいた。彼女はリビングの床に、脱ぎ捨てたままだったヒールを蹴り退け、さくらのスマートフォンをひったくり、その場で床に叩きつける。


「蒼井家も、九条さんも……放っておけばいいわ。いずれここへ辿り着くでしょうけれど、その時にはもう、手遅れなの。さくらちゃんの身体も心も、隅々まで私の色で塗り潰して、誰も触れられないようにしてあげる……」


 真奈は、薄いストッキングに包まれた足で、スマートフォンの液晶を無残な破片に変わるまで踏みにじった。ミシリ、と電子部品が砕ける音が静かな部屋に響く。真奈の呼吸は次第に荒くなり、白い肌は紅潮していく。その視線は、強要した白いワンピースに包まれたさくらの肢体を、舐めるように這い回っていた。毎夜、自室でさくらを想うだけではもう抑えきれなくなった、どろりとした情念が隠隠と溢れ出している。


「ずっと、欲しかった……。この白い肌も、震える肩も。……あんな執事や家族に、これ以上あなたを『汚させない』。私だけが、あなたを正しく愛してあげられるのよ……」


 真奈は椅子から立ち上がると、しなやかな豹のような足取りでさくらに歩み寄った。豊満な胸の膨らみが、大きく乱れた呼吸に合わせて波打つ。真奈はさくらの背後に回ると、その豊かな双丘を、さくらの華奢な背中に押し付けるようにして抱きしめた。


「さあ、ベッドへ行きましょう、さくらちゃん。逃げなくていいのよ。……私の体温を、私の香りを、あなたの奥深くまで刻み込んであげる。私たちが本当の意味で『ひとつ』になるための、誰にも邪魔されない夜を過ごしましょうね」


 真奈の腕が、さくらの細い腰を強く引き寄せる。それは従姉としての抱擁などではなく、獲物を窒息させ、自らの一部に取り込もうとする大蛇のような、重く湿った情欲の奔流だった。さくらの鼻腔を、入浴剤とは別の、真奈自身の雌としての生々しい香りが満たしていく。


 さくらは全身に鳥肌が立つのを感じながら、必死に奥歯を噛み締めた。外界から断絶されたこの別邸で、自分を侵食しようとするこの巨大な狂気から身を守れるのは、自分自身の矜持だけだ。


 耳元の髪飾り——真奈から贈られたあの黒い珠が、主人の剥き出しの欲望に共鳴するように、かつてないほど激しく、ドクンドクンと不吉な脈動を刻んでいた。それはまるで、さくらの肉体へ食い込もうとする真奈の拍動そのもののようだった。、真奈の剥き出しの欲望に共鳴するように、かつてないほど激しく、ドクンドクンと不吉な脈動を刻んでいた。



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