第13話:『紫陽花の変色』
六月。空を覆う厚い雲が、蒼井の本邸を永遠に明けない薄明の中に閉じ込めていた。庭園の紫陽花は、吸い上げる水の性質によってその色を変える。かつて静江が恐怖で君臨していた頃の、ただ一様に不吉な深紅に染まっていた景色は消え、今は土壌の回復とともに、青、紫、白と、本来の移ろいを見せていた。 だが、その美しい変化さえも、今のさくらの瞳には、毒々しく変質していく世界の予兆のように映っていた。
朝食の席。重厚なマホガニーのテーブルを挟んで、さくらは父・良樹と向き合っていた。良樹は、さくらのために自ら選んだという季節の果物をあしらった菓子を、静かに差し出した。
「さくら。……昨日、中庭で見かけた紫陽花がとても綺麗だったんだ。後で、一緒に散歩でもどうかな?」
良樹が、穏やかで親愛の入り混じった柔らかな笑みを浮かべる。その眼差しは、かつての空虚な無関心ではなく、一人の娘を慈しもうとする熱を帯びていた。彼はゆっくりと、確かめるようにさくらの肩へ手を伸ばした。
——その瞬間。 さくらの首筋に触れている髪飾りの『黒い珠』が、視覚化されないほど微細な震動を起こした。さくらの脊髄を伝って脳の深層部へと、冷たい感覚が滑り込む。真奈の情念が、さくらの意識に不気味な囁きを流し込み始めた。
(……見なさい、さくらちゃん。これが彼の正体よ。この人は、あなたを愛しているのではない。ただ、自分が『無関心』であなたを放り出していた罪悪感を埋めるために、一時的にあなたを構っているだけ。この手は、あなたを愛するためのものではないわ……いつかまた、あなたへの興味を失い、あなたを再び孤独という名の闇に放り出すための、偽りの温もりなのよ)
さくらの視界が、ぐにゃりと歪んだ。良樹の温かいはずの手。それが、さくらの瞳には、いつか自分を突き放し、彼一人だけがどこか遠くへ逃げ去ってしまう予兆のように見えた。
「っ……嫌……!」
さくらは悲鳴に近い声を漏らし、弾かれたように椅子から立ち上がった。良樹の手は虚空を掴み、カトラリーが床に落ちて高い音を立てる。食卓には、心臓が止まるような沈黙が流れた。
「……さくら? どうしたんだ、そんなに怯えて……」
「……来ないで。……お父様、私を……また、あんな風に一人ぼっちにするつもりなの……?」
さくらの瞳は恐怖に濁り、身体は小刻みに震えている。良樹の顔に浮かんだのは、深い困惑と、張り裂けんばかりの傷心の影だった。だが、今のさくらには、その表情さえも『自分を見限るための言い訳を探している顔』へと、真奈の悪意によって変換されていた。
「……九条、さくらの様子が……」
「失礼いたします、良樹様」
傍らに控えていた九条が、流れるような動作でさくらの背後に回った。九条の『濡羽色の執着』は、二人の間に生じた不吉な亀裂を瞬時に察知し、それを『主を損なう不確定要素』として処理する判断を下す。
「さくら様は昨夜、少々お疲れのご様子でございました。……良樹様、本日の朝食はこれまでに。私が、中庭で風に当ててまいります」
九条は、呆然と立ち尽くす良樹を冷徹に無視し、さくらの肩に触れるか触れないかの距離で、彼女を部屋の外へと導いた。
中庭へ出ると、雨上がりの湿った土の香りが立ち込めていた。そこには、既に遥香が待っていた。遥香は、テラスの陰からさくらが良樹を拒絶した一部始終を、鋭い視線で見つめていた。
「さくら、ちょっと見せて!」
遥香が駆け寄り、さくらの髪飾りに手を伸ばそうとした。だが、指先が触れる直前、遥香は反射的に手を引っ込めた。遥香の目には、糸の形は見えない。しかし、髪飾りの珠を中心に、毒々しい瑠璃色の『淀み』がさくらのうなじを侵し、皮膚の下深くまでその色が染み込んで、脈打っているのがぼんやりと視えていた。
「……っ、この色……やっぱりあのお姉さんのだ。無理に取ろうとしたら、さくらの心が壊れちゃう気がする……!」
遥香は歯噛みした。かつて北の蔵で真奈を支えた時に感じた、あの芯からの冷たさ。あの時感じた違和感は、今、さくらの内側を蝕む捕食者の冷気となって確信に変わった。
「さくら、しっかりして! 今のさくらの気持ち、それは本物じゃない。あのお姉さんの色が、さくらの心に嘘を塗りつけてるんだよ」
「遥香ちゃん……。でも、私にはお父様が、どうしてもあんな風に見えてしまって……」
遥香は、弱気な声を出すさくらの両手をぎゅっと握りしめた。
「だったら、思い出させてやるよ。さくらの『薄桜色』は、あんなドロドロした色に負けるようなものじゃないだろ?」
その時、庭園の紫陽花の茂みの中から、押し殺したようなすすり泣きが聞こえてきた。幼い頃からさくらの成長を見守り、よく声をかけてくれた庭師のおじさんだ。彼は今、剪定バサミを地面に投げ出し、自らの頭を抱えていた。
「……ああ、……もう、駄目だ。……静江様が当主としてお留まりになっても、あの方の目に、もう俺みたいな石ころは映っていない……。恐怖も、圧も、もうない。俺は何のために、ここで土を弄っているんだ……」
その男の背中には、禍々しい灰色の情念の塊が伸しかかっていた。静江が黒の針から解放され、本来の姿の当主に戻ったが、かつての恐怖による『支配』という繋がりに依存していた者の心が、自重で崩壊し始めた結果溢れ出した濁り——『鈍色の埋葬』だ。
「……おじさんを、助けないと。いつも私を励ましてくれた、大切な人なんです」
さくらの言葉に、遥香は力強く頷いた。
「うん。……さくら、今こそ思い出すんだ。さくらの力は、誰かを温かく包んで、明日を願えるように直してあげるためのものだろ? 私があのおじさんを縛ってる濁りをぶっ叩いてやるから、さくらはその後に、本来の形に戻してやんな!」
遥香が右手を振りかぶる。光の粒子が収束し、眩い白銀の輝きを放つ——銀の針『白銀の楔』が姿を現す。それに応えるように、さくらの指先にも、拒絶を包み込み修復する情念の輝き——金の針『薄桜の蕾』が灯った。
二人の少女は、背後に控える九条を伴い、絶望に沈む庭師へと歩み寄る。真奈の毒を押し返し、本来の自分を取り戻すための、二人の共闘が始まろうとしていた。
「おじさん、聞こえますか……? 私です、さくらです」
さくらは、震える声を絞り出し、庭師の男の傍らへと膝をついた。だが、男の耳にはその鈴を転がすような声さえ届かない。彼の背中には、墓石のように重く、鉛のように冷たい灰色の情念の塊――【鈍色の埋葬】がのしかかっていた。その糸は、ただ男を縛るだけでなく、彼の毛穴から侵入し、血管を伝って心臓を凍りつかせようとしている。静江が当主として牙を隠し、穏やかな『保留の時代』を選んだことで、恐怖による支配という唯一の『繋がり』を失った彼は、己の存在意義を絶望へと変換してしまったのだ。
「……ちっ、自分の心を自分で墓場に捨てようとするなんて、度し難いにもほどがあるわ!」
遥香が、苛立ちを隠さずに前に踏み出す。彼女の瞳には、男の背後で渦巻く、淀んだ灰色が、泥水のように濁って視えていた。遥香は、欺瞞を嫌う。自分は石ころだ、自分は不要な人間だ――そんな、自分自身に対する卑怯な嘘を。
「さくら、下がってて! このおっさんのふざけた殻は、私がぶち壊してやる!」
対象が抱く依存や欺瞞を、物理的な衝撃を伴って粉砕する峻烈な意志の顕現――『白銀の楔』。遥香は躊躇わなかった。彼女は、男を包む灰色の情念の、最も色が濁り、凝り固まった一点を射抜くように、白銀の一閃を放った。
「目を覚ませ! 誰かに縛られてなきゃ生きられないなんて、この庭の花たちに失礼だと思わねぇのか!」
白銀の楔が、灰色の塊に深く食い込む。次の瞬間、庭園の空気を震わせるような、金属が軋む音が響き渡った。男を閉じ込めていた【鈍色の埋葬】の外殻が、白銀の衝撃によって粉々に砕け散る。だが、それは救済の完成ではない。支えを失った男の魂は、剥き出しのまま、さらなる深い『無』の淵へと霧散しようとしていた。
「今だよ、さくら! そのバラバラになった心を、あんたのやり方で繋ぎ止めるんだ!」
遥香の声に、さくらが応える。さくらは、首筋に触れる真奈の冷たい冷気を、自身の情念の熱で押し返した。真奈の瑠璃色の糸が『すべては嘘だ』と囁く。けれど、さくらの記憶にあるこの庭師の手は、嘘などではなかった。
さくらは、空を仰ぐようにして両手を広げた。彼女の指先から溢れ出したのは、これまでの『金の針』のような形式的な修復ではない。さくら自身の『救いたい』という切なる想いが結晶化した、柔らかくも力強い情念――『薄桜の蕾』。
さくらの瞳には、遥香が砕いた『過去の断片』が、光り輝く糸の欠片として浮遊しているのが見えていた。それは、男がこの庭で過ごしてきた、何十年もの月日の結晶。嵐の夜、雨に打たれながらも一輪の苗を守り抜こうとした、無骨な手のひらの熱。幼いさくらが、慣れない足取りで庭を歩き、初めて見つけた紫陽花の美しさに目を輝かせた時、誰よりも先に「良かったですね」と微笑みかけてくれた、あの優しいしわがれた声。 恐怖に縛られていた時間よりも、支配を恐れていた時間よりも、ずっと長く、深く、彼がこの土と花に注いできた『本物の愛情』。
「おじさん……あなたは石ころなんかじゃありません。私の大切な、この庭の守り手なんです」
さくらの放つ薄桜色の糸が、空中に散らばった記憶の欠片を一つひとつ掬い取り、男の欠け落ちた心の輪郭をなぞるように、丁寧に、かつ鮮やかに縫い合わせていく。それは、対象を否定せず、その存在すべてを包み込み、本来あるべき形へと修復していく慈愛の織り。
男の背中を埋め尽くしていた鈍色の影は、さくらの糸が通るたびに、温かな桜色の光に飲み込まれていった。そして最後の一針が通された瞬間、男の魂を包む色は、雨上がりの空のような、晴れやかで透き通った青色へと描き変えられた。
「……ああ、……俺は、……俺はまた、この庭で咲いてもいいんでしょうか……」
男の頬を、熱い涙が伝い落ちる。彼は震える手で地面に落ちた剪定バサミを拾い上げ、愛おしそうに、けれど今度はしっかりと、その刃を確かめた。
「お見事でございます……」
背後で、九条が満足げに目を細めた。
「遥香様の果断な介入、そしてさくら様の、すべてを包み込む慈悲。これこそが、我が主が持つべき、本来の『織り手』の姿。……真奈様が植え付けた毒さえも、この絆の輝きには敵いません」
さくらは、九条の言葉に勇気づけられ、自身の内側を見つめた。先ほどまで良樹に対して感じていた『自分を一人にするための準備』という歪んだ恐怖が、庭師の救済を通じて、微かに和らいでいる。さくらは、もう一度良樹と向き合わなければならないと、その小さな胸に決意を宿した。
しかし。
彼女の首筋に留まる、あの【瑠璃色の細糸】が、冷酷な光を放ったのはその時だった。
「――あら、あらあら。まあ、なんて素敵な光景かしら!」
紫陽花の生け垣の向こうから、少し抜けたような、おっとりとした声が響いた。ガサガサと葉を分ける音がしたかと思うと、一人の女がひょっこりと顔を出した。天音真奈である。彼女はあろうことか、足元の木の根に躓き、たたらを踏んでさくらたちの前へと躍り出た。
「おっとっと……。ふふ、お恥ずかしいところを見せてしまったわね」
真奈は、まるで今さっき転びかけたことなど気にも留めていない様子で、ぺろりと可愛らしく舌を出した。
「真奈お姉ちゃん……! いつからそこに……?」
さくらが驚きに目を丸くする。その拍子に、耳元の髪飾りの珠が『チリッ』と冷たく脈打った。さくらのこめかみを、見えない瑠璃色の濁りが、撫でるように侵食していく。
「今来たところよ。叔父様に、新しいお茶の葉をお届けに上がったの。そうしたら、お庭の向こうがとってもキラキラしていたから、つい」
真奈は、頬に手を当てて「うふふ」と微笑んだ。その姿はどこまでも無害で、天然な年上の従姉にしか見えない。だが、遥香はその背筋を這い上がるような『色の冷たさ』を敏感に察知し、さくらの前に一歩踏み出した。
「真奈さん……! あんた、何しに来たんだい? ここは今、さくらが大事なことをしてる最中なんだ。邪魔しないでくれるかな」
遥香が鋭く言い放つ。右手には、いつでも『白銀の楔』を顕現させられる熱が宿っている。
「まあ、常上さん。そんなに怒らないで? 私はただ、さくらちゃんに贈った髪飾りが似合っているか見に来ただけだわ。……ねえ、九条さんもそう思うでしょう?」
真奈が、傍らに控える執事に視線を向けた。九条は無機質な表情を崩さず、流れるような動作で一歩前へ出ると、慇懃に深く頭を下げた。
「真奈様。本日もお変わりなく。……さくら様がこうしてお健やかにいらっしゃるのも、真奈様のお心遣いあってのことにございます」
九条の返答は、慇懃無礼なまでの完璧な礼法そのものだった。九条の濡羽色の瞳は、真奈の『天然』という仮面の裏側を冷徹に観察している。
「うふふ、相変わらず硬いわね、九条さんは。……ねえ、さくらちゃん。気分はどう? 私、叔父様から聞いたの。今朝、さくらちゃんに酷く怯えられて、とてもショックを受けていらしたわ。……せっかく叔父様が勇気を出して手を伸ばしてくれたのに、あんな風に拒絶してしまうなんて。さくらちゃん、少し『過剰に』反応しすぎたんじゃないかしら?」
「それは……っ」
さくらの瞳が揺れる。真奈の言葉は、さくらの記憶を『良樹の拒絶』ではなく『自分の過失』へと塗り替えていく。
「お父様、ショックを受けていたの……? 私はただ、怖くなって……。でも、私が一方的に避けてしまったから、お父様を傷つけて……」
「ええ。叔父様の中に、まだ不安定な『過去』があるから、あなたのその一瞬の拒絶が、何倍もの痛みになってしまったのね。……悲しいわね。あなたがわざとやったわけじゃないのに、あなたの存在そのものが、今の叔父様には『毒』になってしまっているなんて」
真奈の声が、さくらの耳の奥で甘い毒となって溶けていく。遥香は、真奈の言葉に漂う言いようのない『黒さ』に歯噛みした。
「あんた……、さっきからさくらに変なこと吹き込まないでよ! さくらが変な色に染まりかけてるのは、あんたのその不気味な珠のせいなんじゃないの!?」
「まあ、ひどいわ常上さん。私はさくらちゃんの『お守り』を贈っただけですもの。……それとも何か、証拠があるのかしら? 困ったわ。私、そんな悪いことなんて、してないのに。……ただ、さくらちゃんが少しでも楽になればいいなって、そう思っているだけなのよ?」
真奈は、困ったように眉を下げて首を傾げる。その完璧な『善意の第三者』の振る舞いに、遥香はそれ以上言葉を返せなかった。確かに、さくらを蝕む瑠璃色の濁りは遥香の目にしか視えず、客観的な『根拠』は何一つないのだ。
「あら、いけない。叔父様にお茶を淹れてあげなきゃ。……また来るわね、さくらちゃん。……一人で抱え込まなくていいのよ。あなたが叔父様を傷つけてしまっても、私は絶対に、あなたの味方だから」
真奈はひらひらと手を振ると、またしても庭の段差に躓きそうになりながら、ふらふらと、けれど確かな足取りで館の方へと去っていった。残されたのは、救済の達成感さえも毒で薄められた、どんよりとした沈黙。
紫陽花の花弁を打つ雨粒が、まるで涙のようにさくらの視界を遮っていく。さくらの内側で、真奈が植え付けた『自分がお父様を壊している』という不信感の種が、着実に根を広げ始めていた。




