第12話:『狗尾草の繭』
蒼井の本邸を包んでいた梅雨の長雨は、夜が深まるにつれ、その湿度を増して世界を濃密な闇へと変えていた。
本邸から少し離れた場所に位置する天音の屋敷。かつて蒼井静江の次男である静樹が、母への歪んだ忠誠と反発の果てに築き上げたその館は、今や静寂という名の粘膜に覆われていた。
二階にある真奈の私室。灯りも点けず、窓を叩く雨音だけが響く暗がりの中、真奈は寝台に身を投げ出していた。
彼女の指先は、さくらの細い髪を掬い上げた時の感触——あの絹のように滑らかで、けれど確かな生命の熱を持った感触——をなぞるように、自身の肌を彷徨っている。
「……はぁ、……っ、さくらちゃん……」
熱っぽい、湿った吐息が唇からこぼれる。
彼女の脳裏に焼き付いているのは、さくらの凛とした横顔だ。自分を真っ直ぐに見据え、『お姉ちゃんの手、震えています』と告げたあの瞳。そして、不吉な異能の塊であるはずの髪飾りを『重たい気がします』と、まるで愛おしい負担であるかのように受け入れたあの声。
真奈の腰が、無意識に微かな痙攣を繰り返す。彼女の感情が昂るにつれ、体内から溢れ出した瑠璃色の細糸が、彼女自身の四肢を拘束するように絡みついていく。それは彼女の意志ではない。溢れ出す情念が形を成し、彼女自身をがんじがらめに縛り上げる。
指先が秘めやかな場所へと辿り着き、自身の体液が瑠璃色の糸を濡らす。粘着質な輝きを放つ糸に締め付けられ、痛みと陶酔が混濁していく中で、真奈はさくらが放った『あの言葉』を頭の中で何度も、何度も反芻していた。
——『私へのプレゼント、そんなに緊張してくださったんですか?』
真奈にとって、それは気遣いなどではなかった。それは『あなたの正体を知っています』という、さくらからの究極の同意に聞こえた。
さらに、さくらが漏らした『飾りの重さ』への言及。
——『なんだかこの飾り、少し重たい気がします』
その言葉こそが、真奈を絶頂へと突き動かす。
さくらが感じた不吉な予兆。それは真奈の情念が、さくらの清らかな精神に深く根を張り、寄生し始めた証左に他ならない。自分たちの魂が溶け合い、切り離せない絆の重みとなったのだと、真奈は独りよがりに、確信という名の狂気に身を委ねた。
「……そうよね、さくらちゃん。私の愛を、重いと感じてくれるなんて……。あなたはもう、私なしでは呼吸さえ苦しくなる……そんな体になり始めているのね……」
絶頂の余韻の中で、真奈の身体から溢れた糸が寝台を覆い尽くし、まるで彼女自身が小さな繭の中にいるかのような光景を作り出していた。彼女は濡れた肌を拭うこともせず、虚ろな瞳で天井を見つめる。
その視線は、屋敷の壁を透かし、さらにその地下へと向けられていた。
重い足取りで、真奈は地下へと続く階段を降りる。
かつて、この地下室は真奈にとっての地獄だった。父・静樹が、静江から受けたストレスを娘の肉体を損なうことで解消していた、呪われた空間。
しかし今、その場所は奇妙に甘ったるい、腐敗した果実のような香りに満たされている。
地下室の中央。真奈の視界には、そこに巨大な『歪んだ色』があるように見えていた。
かつて父・静樹が自分を蹂躙したその場所に、今は正体不明の、けれど粘りつくような空気の塊」がわだかまっている。真奈自身、自分が何を生み出しているのか正確には理解していなかった。ただ、彼女が父への憎しみと歪んだ愛を吐き出すたび、父の姿がその澱みに飲み込まれ、身動きの取れない肉塊へと変わっていったのだ。
真奈にとって、それは目に見える物質ではなく、自分の情念が形を成した『愛の重圧』そのものだった。
「……ねえ、パパ。そんなに悲しい顔をしないで」
真奈が歩み寄る。彼女の足元は相変わらずおぼつかない。何もない床でよろめき、膝を突く。その瞬間、彼女の手が、父を包み込んでいる澱みに触れた。
その時だった。
真奈の脳裏に、蒼井の血が脈打つような激しい鼓動が響いた。
視界が爆発するように明転し、今まで『空気の歪み』だと思っていたものの正体が、鮮明な色彩を持って彼女の瞳に焼き付いた。
「……あ……。これ、は……」
見えた。
自分の指先から、無数に溢れ出している瑠璃色の細糸。
それは繊細な絹糸のように美しく、けれど毒々しい光を放ちながら、地下室の隅々にまで張り巡らされている。父・静樹を吊るしていたのは、単なる澱みではなく、彼女自身の情念が織り上げた巨大な『糸の繭』だったのだ。
蒼井の血が、彼女に『糸』を見る力を与えた。いや、さくらを独占したいという狂気が、彼女の感覚を無理やり開花させたのだ。
「ふふ……。そう、これだったのね。私、ずっとこれで、お父様を包んでいたのね……」
真奈は、初めて『視認』できた自分の糸を、陶酔したように見つめた。
その瑠璃色の輝きは、さくらの髪に飾られたあの黒い珠——芥子の実の核——と共鳴するように、より一層強く光り輝く。
「おばあ様が、さくらちゃんをただの道具として利用していたのは、本当にもったいないことだわ。……あの子がこんなに美しい『糸』を、おばあ様はただの縛り付ける針にしか使わなかったなんて」
真奈は、繭の隙間から静樹の頬に糸を這わせ、その感触を愉しむ。
「でも、今の私には見える。……だから、私が救ってあげる。……あの子の周囲にある、あの子を傷つける『現実』を、私のこの糸ですべて損なってあげる。その代わりに、この瑠璃色の繭で、あの子を永遠に包んであげるの」
自らの異能を自覚した真奈。
彼女にとって、さくらを監禁することは、もはや単なる思い込みではない。この美しい【瑠璃色の細糸】で、さくらを世界から切り離し、自分という経糸で共に永遠の作品に仕上げるという、具体的な『創造』へと変わった。
「狗尾草の穂みたいに、柔らかくて、一度付いたら離れない。……私の糸、さくらちゃんも気に入ってくれるかしら」
真奈がそう呟いた瞬間、彼女から溢れる糸は意思を持った生き物のように蠢き、地下室の壁を突き破らんばかりに広がった。その糸の先は、夜の闇を通り抜け、本邸で眠るさくらの意識へと、一本の鮮やかな線となって繋がっていく。
真奈は、自身の糸に足をとられて倒れ込みながらも、歓喜に震えて笑っていた。
彼女の瞳には、もはや常世の景色は映っていない。ただ、瑠璃色に染まる『聖域』の完成予想図だけが、爛々と輝いていた。
翌朝、昨夜の激しい雨が嘘のように、雲の間から柔らかな陽光が差し込んでいた。
蒼井の本邸。さくらは九条に促され、中庭に面したテラスで遅めの朝食を摂っていた。九条は昨夜一晩中、さくらの部屋の扉の外で、寸分も動かずに控えていたはずだが、その身のこなしには疲労の欠片も見えない。
「さくらー! 起きてる?」
静かなテラスに、快活な声が響いた。
庭の向こうから手を振って駆け寄ってくるのは、遥香だった。静江との戦いにおいて、さくらの『一番の理解者』としてあの闇の中から救ってくれた彼女は、今やこの屋敷におけるさくらの精神的な支柱でもあった。
「遥香ちゃん、おはようございます」
「おはよう! ほら、これ。お母さんが焼いたアップルパイ、さくらにも食べてほしくて持ってきたよ」
遥香が差し出したバスケットからは、甘酸っぱく香ばしい、家庭の温もりが漂ってくる。さくらはその香りに、昨夜から首筋に纏わりついていた『重さ』が、ほんの少し和らぐのを感じた。
「ありがとうございます。九条さん、遥香ちゃんにも紅茶を」
「畏まりました」
九条は音もなく下がり、手際よく準備を始める。遥香はさくらの隣に座ると、さくらの顔をじっと覗き込んだ。
「……さくら、なんだか今日、顔色が白いよ? ちゃんと眠れた?」
「ええ……少し、不思議な夢を見ていたみたいで。でも大丈夫です、遥香ちゃんが来てくれたから」
さくらは微笑んで、髪に手をやった。そこには真奈から贈られた、例の『黒い珠』の髪飾りが留まっている。
さくらの感覚では、その珠は今や、鏡で見るよりもずっと『大きく』見えていた。瑠璃色の細糸が珠からじわりと滲み出し、さくらの薄桜色の情念を少しずつ包み込もうとしている。
遥香には、その糸は見えない。
けれど、彼女には『人としての違和感』を感じ取る鋭さがあった。
「ねえ、その髪飾り。……なんだか、さくらにはあんまり似合わない気がするな。もっと、明るい色の方がいいよ」
「真奈お姉ちゃんが、私のために選んでくれたんです。……重たいけれど、大切にしないと」
さくらがそう言った瞬間、テラスの空気が微かに歪んだ。
さくらの視界には、髪飾りの珠から伸びた瑠璃色の糸が、遥香が持ってきたアップルパイの籠に、狗尾草の穂のように『チリッ』と触れたのが見えた。
その瞬間、温かかったパイの香りが、一瞬だけ、あの地下室のような腐敗した甘い香りに上書きされた気がして、さくらは小さく身震いした。
「さくら様」
九条が紅茶を置く。その際、彼はさりげなくさくらと遥香の間に身体を割り込ませるようにして立ち、さくらの髪飾りに一瞬だけ視線を落とした。
九条から溢れる【濡羽色の執着】。それは、完璧な業務遂行を誓う漆黒の糸となって、さくらの背後で蠢く瑠璃色の侵食を、物理的な圧力で押し留めようとしている。
さくらの目には、今、二つの『糸』が交錯して見えていた。
自分を『聖域』に引きずり込もうとする真奈の瑠璃色。
そして、自分を完璧な主としてこの場に繋ぎ止めておこうとする九条の濡羽色。
「……九条さん、そんなに怖い顔しないで。遥香ちゃんが驚いてしまいます」
さくらがたしなめると、九条は「失礼いたしました」と短く応じ、再び石像のような無表情に戻った。
遥香は、九条とさくらの間にある独特の緊張感に首を傾げながらも、アップルパイを一切れ、さくらの皿に取り分けた。
「とにかく、いっぱい食べて! 私もさ、さくらが本家の当主見習いになってから、なんだか遠くに行っちゃったみたいで寂しかったんだ。こうやって普通に話せるのが、一番嬉しいよ」
遥香の屈託のない言葉。それは糸の力を持たない、けれど最も強い『人間の絆』だった。
さくらは遥香の手をそっと握った。
遥香の手は温かい。真奈の糸のような粘り気もなく、九条の執着のような冷たさもない。
(遥香ちゃん……。私は、この温かさを忘れてはいけないのですね)
だが、さくらがそう思った瞬間。
髪飾りの珠が、脈動するように瑠璃色に光った。
真奈の狗尾草の繭は、さくらの内側にある『外界への絆』——遥香という存在さえも、彼女を傷つける現実の一部として、損なうべき対象に定めようとしていた。
テラスの片隅。九条の指先が、トレイの上で微かに震えた。
彼には『任務』として見えていた。
主の平穏を守るために、この『遥香』という存在を遠ざけるべきか、否か。
完璧な従者としての執着が、真奈の毒に対抗するために、より冷徹な計算を始めようとしていた。
陽光が降り注ぐテラスで、アップルパイを頬張る遥香の姿は、この禍々しい蒼井の屋敷において奇跡のような安らぎを放っていた。
しかし、さくらの視界に映る情景は、その平穏を嘲笑うかのように歪み続けている。髪飾りの黒い珠から伸びる瑠璃色の細糸は、いまやテラスの床を這い、遥香の影を虎視眈々と狙う蛇のように鎌首をもたげていた。
「……ねえ、さくら。やっぱりおかしいよ。さっきから、変な空気の揺れが見える」
遥香がフォークを置き、真剣な表情で周囲を睨んだ。
彼女には糸の形こそ見えない。だが、静江との死闘で覚醒した彼女の瞳には、さくらの周囲に漂う『瑠璃色のどろどろとした濁り』がぼんやりと見えていた。
「あの『ばあさん』の時の黒い針とは違うけど……もっと、こう、ベタベタした嫌な色がさくらに纏わりついてる」
九条はその言葉を聞き、影の中で静かに眼光を鋭くした。
彼はトレイを小脇に抱え、さくらの背後に音もなく移動する。彼の周囲に渦巻く【濡羽色の執着】が、防波堤のように広がり、遥香の影へ伸びようとする瑠璃色の侵食を、物理的な圧力で押し留めた。
「……常上様。貴女のその感覚、相変わらず恐れ入ります」
九条が、遥香を単なる子供ではなく、明確な戦力として認める声音で語りかけた。
「現在、さくら様は天音真奈様による、極めて高度で執拗な精神干渉を受けておられます。私の『管理』という盾だけでは、主の心の内側まで入り込むあの毒を、完全には遮断しきれません」
「九条さん……。やっぱり、あのお姉さん、何かしてるんだね」
遥香は立ち上がり、さくらの両手をぎゅっと握りしめた。
その瞬間、さくらの視界を覆っていた瑠璃色の霧が、遥香が放つ『白銀』の気配によって一気に晴らされていく。
遥香の中に眠る『白銀の楔』。それは糸を持たずとも、歪んだ情念を打ち砕く純粋な抗体として機能していた。
「さくら、大丈夫。私がついてる。あんな、人のことを物みたいに閉じ込めようとする汚い色、私が全部ぶっ壊してあげるから!」
遥香の力強い言葉に、さくらは胸の奥が熱くなるのを感じた。
真奈が語る『聖域』という名の監禁。九条が課す『管理』という名の隔離。
そのどちらでもない、対等な『親友』としての意志が、さくらの薄桜色の情念を再び力強く輝かせ始める。
九条は、二人の少女が手を握り合う姿を、冷徹に、けれど深い合理性を持って見つめていた。
完璧な従者である彼は、自身の限界を弁えている。
真奈の糸が、さくらに贈った『言葉』や『記憶』を媒介にして内側から侵入してくる以上、それを物理的な管理だけで防ぐのは不可能に近い。だが、常上遥香という『現実の絆』がさくらの心を外の世界に繋ぎ止めてくれるなら、それは彼にとって最強の防御兵器となる。
(常上様……貴女を、主の精神を繋ぎ止める『錨』として認定いたします。私の執着と、貴女の楔を織り合わせ、天音真奈という異形を迎え撃つ)
九条の濡羽色の糸が、遥香の立ち位置を避けるようにして、さくらの周囲をより強固に囲い込んだ。
それは『遠ざける』ためではなく、遥香という『白銀』の力を最大限に活かし、さくらを守り抜くための、九条なりの戦術的再編だった。
一方、天音の屋敷。
地下室で静樹の繭を愛でていた真奈は、突如として襲ってきた『拒絶の痛み』に、喉の奥から苦い汁を吐き出した。
「……っ、ああ、……痛い、痛いわ……! 誰……? 誰が、私とさくらちゃんの糸を、こんなに乱暴に引き裂こうとするの……?」
真奈の視界に、さくらの隣でぼんやりと輝く、目障りな白銀の残像が浮かぶ。
真奈にとって、遥香の存在は、自身の聖域を汚す、最も忌まわしい不純物だった。
「……あの子ね。あの子が、さくらちゃんをこの汚い現実に引き留めているのね。……損なわなきゃ。……さくらちゃんの周りにある、あの光を全部、私の瑠璃色で塗り潰してあげなきゃ……」
真奈の狂気は、ついに標的をさくら個人から、彼女を支える『日常』そのものへと広げ始めた。
地下室を埋め尽くす瑠璃色の糸が、怒りに震えるように激しく波打つ。
雨上がりの陽光の下、手を繋ぐ二人の少女と、その背後に控える漆黒の従者。
そして、闇の底からその全てを飲み込もうと狙う、瑠璃色の捕食者。
蒼井の美学を懸けた、真の戦いが、ここから始まろうとしていた。




