第11話:『芥子の誘惑』
静寂。かつての蒼井の本邸を支配していた、あの刺すような緊張感とは似て非なる、耳鳴りがするほどの静寂が廊下を埋めている。地下蔵から溢れ出していた情念の残滓が、遥香の銀の閃光とさくらの薄桜色の光によって焼き払われたあの日以来、屋敷の壁は本来の冷たさを取り戻したはずだった。だが、その清潔すぎる沈黙の裏側で、新たな『違和感』が、まるで古い木材を食い荒らす白蟻のように、音もなく蠢き始めている。
「さくら、忘れ物はないか? ハンカチ、それから名札……。ああ、ちょっと待って。髪が一本、跳ねてるな。直してあげるよ」
玄関ホール。良樹は膝をつき、娘と同じ目線でその身なりを整えていた。彼の指先は、さくらの髪を梳くたびに、確かな『体温』を感じ取っている。かつて、自分を保つために周囲に張り巡らせていた『乳白色の膜』――娘を愛しながらも、その責任から逃げるために作り上げた精神の殻は、もうそこにはない。
地下蔵でのあの凄絶な対峙を経て、良樹は現実という名の荒野に立ち戻った。かつて『自分の代わりに守ってくれ』と九条に縋った情けなさは捨て去った。今、娘の目を見て名前を呼び、その小さな肩を自らの手で抱く感触を確かめること。それが、良樹にとっての『父』としての再出発だった。失われた数年間の空白を埋めるように、彼は毎朝、こうして自らの手でさくらを送り出す時間に、何にも代えがたい喜びを感じていた。
「お父様、ありがとうございます。もう大丈夫ですよ。名札も、さっき自分で着けましたから。……お父様は、少し心配しすぎです」
さくらは、お父様の顔を見て、少しだけ可笑しそうに、けれど慈しむような笑みを浮かべて答えた。言葉遣いはこれまで通り、蒼井家の教育に則った丁寧な口調だが、その声のトーンには、かつての怯えや距離感は一切ない。
自分を真っ直ぐに見つめ、髪を直してくれる父親の大きな手に、さくらは深い安心を覚えていた。
「……そうか。ああ、つい手が動いてしまうだ。……九条。さくらを頼むぞ」
良樹は立ち上がり、背後に控える九条へと短く、けれど重みのある言葉をかけた。
『代わりに守れ』ではない。『俺を支え、共に守れ』という、主君としての、そして父親としての明確な信頼。
九条は、その濡羽色の瞳を微かに伏せ、無言のまま深く、静かに頭を下げた。
主である良樹が『膜』を破り、現実と向き合って立ち上がったこと。それは九条にとっても喜ぶべき事態であったはずだ。だが、九条の胸中には、主人の成長を祝う気持ちとは別の、冷たく鋭利な『渇き』が澱のように沈み始めていた。
(……良樹様は、ご自身の手でさくら様を守ると決められた。……ならば、私に残された役割は何でしょうか)
九条にとって、良樹が弱かった頃に託された『代わりとしての使命』は、彼の全存在を肯定する、甘美で重たい鎖だった。良樹が父として覚醒した今、九条は『盾』という絶対的な居場所を奪われ、文字通り『支える者』という一段低い場所へと押し戻されたのである。
九条の自己犠牲的な献身は、行き場を失って『隔離』という名の強迫観念へと変質し始めていた。良樹が、さくらを外の世界で、遥香のように自由に笑わせたいと願う一方で、九条の深層心理は、いかなる脅威からもさくらを遮断し、自分だけがその守護を完遂できる『真空の平穏』を渇望し始めていた。
九条の周囲に漂う情念は、以前のような冷徹な制圧の色から、さくらを外界から遮断するための『黒い繭』のような、粘着質な影を帯び始めていた。
車を見送った良樹が、充実感と少しの気恥ずかしさを抱えて屋敷の奥へと向かうと、そこには蒼井の頂点に座り続ける、静江の気配が待っていた。
あの日、全てを失い、自ら当主の座を降りようとした静江を引き止めたのは、良樹とさくらだった。『おばあ様と一緒に、この家を良くしていきたい』というさくらの願いと、母の背中を見て学び直すと決めた良樹の覚悟。静江は今、二人の願いを受け入れ、さくらが成人するまでの期間限定の守護者として、その責務を全うすることを選んでいる。
「良樹。朝から娘に構いすぎです。当主の座を支える者が、いつまでそのような感傷に浸っているのですか」
居室の襖が開かれ、静江の声が廊下を叩いた。一分の隙もない着こなし、見る者を射すくめるような威厳。彼女が指先で操る『金の糸』は、かつてのような個の破壊を止め、今は蒼井の『秩序』を維持するための強固な骨組みとして、屋敷の要所を縛り上げている。
「……お母様。私は、ただ親としての責任を果たしたいだけです」
「ならば、その責任を仕事でも示しなさい。午後は分家との重要な会合があります。私に代わってお前が立ち、蒼井の威厳を示してきなさい。……さくらがこの家を継ぐその日まで、私がお前に教えられることはまだ山ほどあるのですから」
静江の言葉は、以前よりも厳格ながらも、そこには明確な『後継者を支える者への教育』という熱が宿っていた。彼女は良樹の『父親としての覚醒』を認めつつも、それが家の義務を疎かにさせる軟弱な『優しさ』に陥ることを厳しく戒めていた。静江の再教育は、良樹が手に入れた『光』を、蒼井の冷たい『制度』と調和させ、真に強い次期当主補佐へと鍛え直そうとする、彼女なりの愛の形でもあった。
良樹が覚悟を決めた顔で、静江の部屋へと吸い込まれていく。その光景を、応接室の重厚なカーテンの影から見つめる、一つの『色』があった。
「……ふふ、あはは。叔父様、一生懸命お父様をやってるわね。……でも、おばあ様に縛られて、さくらちゃんを『守る』なんて、結局はただの身勝手。……かわいそうに」
真奈だった。
北の蔵から『被害者』として救出された彼女は、今や香菜恵や良樹から『不憫な姪』として全幅の信頼を置かれている。彼女は、本家の再生を喜ぶ可憐な親戚を演じながら、その実、屋敷の澱を自らの内に溜め込み、新たな毒へと精製していた。
真奈の膝の上には、上品な刺繍が施された小さな手作りの小箱がある。蓋を開ければ、そこには薄桜色のリボンで編まれた、愛らしい髪飾りが納められていた。だが、その中心にあしらわれた黒い珠には、静江がかつて放出した『黒の針』の残滓が、真奈の瑠璃色の愛執を苗床にして、不気味な心拍を刻んでいた。
「さくらちゃんが帰ってきたら、これを着けてあげましょう。……叔父様たちの不完全な愛なんかより、もっと深くて、もっと永い『檻』を教えてあげる。……だって、叔父様。あなたがどんなに頑張っても、あの子を一番理解しているのは、私なんだから」
真奈が小箱の縁をなぞると、彼女の指先から、目に見えないほど細く、そして蜘蛛の糸のように粘りつく『瑠璃色の糸』が溢れ出した。糸は床の絨毯を潜り抜け、良樹が歩いた後の廊下に滑り込み、屋敷の奥底に溜まった『拒絶』の歴史と繋がっていく。
かつてさくらが大切にしていた『瑠璃色の鈴』の美しい色は、今や、他者の精神に直接食い込み、自分がいなければ呼吸さえも苦しくなるような『依存』を強いる、底なしの沼のような性質を帯びていた。真奈の視線は、玄関の扉を、捕食者のような冷たい熱量で見つめていた。
本邸を包む春の陽光。その中に、誰にも気づかれない『瑠璃色の影』が、墨を垂らしたように広がり始めていた。
六月の終わり、梅雨特有の重く湿った雨が本邸の甍を叩き続けている。
朝、良樹に見送られて登校したさくらが、午後の授業を終えて帰宅する時刻となった。
校門の前に停車した黒塗りのセダンの傍らで、九条は大きな傘を差し、主の帰りを待っていた。朝の送り出しの際、良樹から「共に守れ」と託されたその言葉が、今の九条の背筋を支える何よりの芯となっている。
「さくら様、お疲れ様でした。お足元が大変滑りやすくなっております。どうぞ」
校舎から出てきたさくらは、いつものように凛とした足取りで車へと乗り込んだ。
車内には除湿と清浄を兼ねた微かな白檀の香りが漂っているが、外の重苦しい湿度は、九条の鋭敏な感覚を僅かに苛立たせていた。
「ありがとうございます、九条さん。……雨、なかなか止みませんね」
「左様でございますね。……さくら様、本日は真奈様が屋敷でお待ちです。戻られましたら、すぐにお着替えと、温かいお飲み物を用意させましょう」
その名を聞いた瞬間、さくらの瞳がパッと明るくなった。
「真奈お姉ちゃんが? 嬉しいです。……あの日から、ずっとお会いしたかったんです。九条さん、少し急いでいただけますか?」
さくらの弾んだ声とは対照的に、九条はバックミラー越しに僅かな懸念を抱いていた。
彼には『糸』は見えない。だが、真奈という存在が放つ『空気の歪み』を、野生の直感で察知していた。それは、嵐が来る前の気圧の変化に似た、肌が粟立つような違和感だった。
本邸に到着し、九条がさくらを濡らさぬよう細心の注意を払って玄関へ導く
「ただいま戻りました」
さくらが声をかけると、奥の談話スペースから、パリン、と硬いものが砕ける音が響いた。
「あら……やだ、また……」
困り果てたような、けれどどこか浮世離れした声。さくらが急いで向かうと、そこには天音真奈が、淹れたてのはずの紅茶をトレイごと床にぶちまけて立ち尽くしていた。
「真奈お姉ちゃん!」
「あ、さくらちゃん、お帰りなさい。……ごめんなさいね、あなたが帰ってくるのが嬉しくて、お茶でも用意しようと思ったのだけれど……。なんだか今日、指先までふわふわしちゃって」
真奈は床に散らばった陶器の破片を拾おうとして、またしても自分の足をもつれさせ、危うく破片の上に手をつきそうになった。九条は反射的にさくらを背後へ庇いながら、真奈の腕を支える。
「真奈様、危のうございます。片付けは私共で行いますので」
九条が真奈に触れた瞬間、彼の指先に『冷たい沼の底に引きずり込まれるような、粘りつく不快感』が走った。九条は顔色一つ変えなかったが、胸中には鋭い警戒心が渦巻く。彼女の失態は不注意ではない。彼女の体内から溢れ出す『異質の熱』が、彼女自身の肉体を裏切らせている——九条は非凡な五感でその異常性を嗅ぎ取っていた。
真奈自身、自分から【瑠璃色の細糸】が溢れ出していることには気づいていない。ただ、さくらを愛おしく思う気持ちが昂るほど、身体が思うように動かなくなるもどかしさを感じているだけだった。
「……九条さん、片付けをお願いできますか? 私、お姉ちゃんと少しお部屋でお話ししてきます。お姉ちゃん、続きは私のお部屋で……」
さくらは、真奈の震える手を優しく取った。主の命に従い、九条は一礼してその場に残ったが、さくらが真奈に連れられて二階へ上がる背中を、射抜くような視線で見送った。九条には糸は見えない。だが、二人が歩いた後の廊下に、目に見えない澱みが沈殿していくのを、肌を刺すような悪寒として感じていた。
室内。さくらの椅子に座った真奈は、バッグから大切そうに小箱を取り出した。
「さくらちゃん、これ。……今日のために、私が心を込めて選んだの。本当は自分で作りたかったんだけど、最近なんだか手が上手く動かなくて……」
真奈が蓋を開けると、そこには薄桜色のリボンと、深淵のような黒い珠があしらわれた髪飾りが収められていた。真奈の瞳には、さくらへの純粋で、けれど底の知れない執着が宿っている。
「まあ……。なんて、綺麗な……」
「さくらちゃんの髪に、きっと似合うと思うわ。……着けてあげても、いいかしら?」
真奈の指先が、さくらの細い髪を掬い上げる。その瞬間、さくらの視界が激しく歪んだ。
さくらの鋭敏な感覚は、真奈の袖口からドロリと溢れ出す【瑠璃色の細糸】を捉えていた。それは真奈の『好き』という純粋な感情が、天音家の呪われた血によって変質した毒だ。
真奈の指がさくらのうなじを微かに掠めたとき、真奈の瞳に、慎重に抑え込んでいた『愛執』の色が混じった。幼い従姉妹を、誰の手も届かない場所へ閉じ込め、自分だけのものにしたいという、性的で狂信的な渇望。
(……だめ。この感覚……お姉ちゃんは気づいていない。自分が私を、『私』でなくそうとしていることに……!)
九条が扉の外に控えていることを意識し、真奈は辛うじて理性を保ち、慎重に手を動かしている。だが、さくらの目には、その髪飾りの黒い珠を介して、真奈の歪んだ愛が自分の中へ流れ込んでこようとするのがはっきりと見えていた。
「……真奈お姉ちゃん。お姉ちゃんの手、とても震えています。……私へのプレゼント、そんなに緊張してくださったんですか?」
さくらは、真奈の手を、自らの温かい手で強く握り返した。
それは、支配されることを良しとしない、蒼井家次期当主としての凛とした拒絶であり、同時に、暴走する真奈の情念を食い止めるための『杭』でもあった。
「私、この髪飾り、大切にします。……でも、お姉ちゃん。そんなに無理をして私を愛そうとしなくて大丈夫ですよ。私は、ここにいますから」
「……っ!?」
真奈の呼吸が止まった。
純粋な好意の裏側に隠していた歪みを、さくらに真っ向から見抜かれたのだ。真奈の周囲の空気が激しく震え、彼女は再び、自身の足をもつれさせて床に崩れ落ちた。
廊下でその異様な物音を聞いた九条は、ドアをノックもせずに開けた。彼には理屈はわからない。だが、『主が、異質の存在に踏み荒らされている』という確信だけが、彼を動かしていた。
「さくら様……!」
扉を開けた先にいたのは、床に膝をつき、肩を震わせて笑う真奈と、その前で静かに立ち尽くし、けれど決して目を逸らさないさくらの姿だった。
「九条さん。……大丈夫です。お姉ちゃん、また転んでしまって……。お茶の支度を、新しく手伝っていただけますか?」
さくらは振り返り、九条に毅然と微笑んでみせた。
九条はその瞳を見て、自身の守護すべき対象が、既に闇の正体を見据え、戦い始めていることを悟った。
だが、九条の鼻孔を突く、あの重苦しい沈丁花の香りは、未だ消えてはいなかった。真奈の視線が、床を這うようにさくらの影を追い続けているのを、九条は確かな脅威としてその身に感じていた。
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新しく淹れられた紅茶が、ボーンチャイナのカップの中で静かに湯気を立てている。
先ほどの失態から立ち直った真奈は、何事もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべ、さくらの髪に収まった髪飾りを、うっとりと見つめていた。
「やっぱり、似合うわ。さくらちゃん……まるで、私だけの小さな女王様みたい」
真奈の視線は、さくらの顔ではなく、その髪に付けられた『黒い珠』に吸い寄せられていた。
さくらには見えていた。その珠が、真奈の袖口から立ち上る【瑠璃色の細糸】を、吸い取り紙のようにじわじわと吸収し、内部でドロリとした闇を熟成させているのを。
「ありがとうございます、真奈お姉ちゃん。……でも、なんだかこの飾り、少し重たい気がします」
さくらは、後頭部から首筋にかけて広がる、痺れるような違和感に眉をひそめた。
それは痛みではない。むしろ、意識を深い眠りへと誘うような……まさに、芥子の花が放つ麻酔のような感覚だった。
九条は、開け放たれたままの扉の傍らに立ち、その光景を冷徹な視線で観察していた。
彼は室内へは踏み込まず、廊下との境界線に石像のように佇んでいる。それが、良樹からこの場所を預けられた従者としての、絶対的な矜持だった。
だが、九条の鼻孔は、真奈が放つ【沈丁花の香気】を捉えていた。それは、主を完璧な状態で管理すべき彼の『業務』を阻害する、不快な不純物でしかなかった。
「さくら様、少しお顔色が優れないようです。本日はお疲れでしょうし、真奈様のお見送りは私が行いましょう」
九条の声は、微かに低く沈んでいた。
彼の内側で、【濡羽色の執着】がどろりと鎌首をもたげる。
それは、蒼井家の従者として、一分の隙も、一粒の塵も許さず主を守り抜くという、職務遂行への苛烈な拘りだ。主の身の安全と純潔を完璧に維持すること——その『任務の完遂』を妨げる真奈の毒を排除し、さくらを一切の不確定要素から隔絶したいという、冷徹な独占欲。九条は、自身の指先がその『完璧』への渇望で微かに震えるのを、背中の後ろで拳を握りしめて抑え込んだ。失態も、失敗も、彼という『道具』には許されない。
「……そうね。あまり引き止めても、さくらちゃんに嫌われちゃうものね。今日は、これで帰るわ」
真奈は名残惜しそうに立ち上がったが、再び足元をふらつかせた。彼女が掴んだテーブルクロスが大きく引き絞られ、危うくカップが滑り落ちそうになる。
「真奈様、お手を」
九条がその腕を支える。九条の指先に、再びあの「粘着質な痺れ」が伝わる。
真奈は九条の耳元で、さくらに聞こえないほど低い声で囁いた。
「……九条さん。あなたは、閉じ込めるのが上手なのね。……でも、気をつけて。……あなたが『完璧』を求めれば求めるほど、あの子の心は窒息してしまうのよ」
九条は答えず、ただ無表情に真奈を部屋の外へと促した。
真奈を玄関で見送り、再び二階へ戻った九条は、主の部屋の扉の前で足を止めた。
扉は開いたままだ。鏡の前に立ち、自らの髪に留まった髪飾りを見つめているさくらの背中が見える。
「さくら様……その髪飾り、外しましょうか」
九条は、あえて一歩引いた位置から声をかけた。
室内へ踏み込み、その髪飾りに不用意に触れてしまえば、自分の中の『濡羽色の執着』が、『守護』という任務の名目でさくらの自由を全て奪い、無菌室に閉じ込めるような極端な管理へと走ってしまう。九条は、良樹と交わした『殻を破り、外の世界でも生きられるようにする』という約束を反芻し、荒くなる呼吸を必死に整えた。
「いいえ、九条さん。……これを外してしまったら、お姉ちゃんは、本当に行き場をなくしてしまいます。……私は、受け止めなければならないんです」
さくらの指先が、黒い珠に触れる。
その瞬間、さくらの脳裏に、真奈の記憶の断片が流れ込んできた。
薄暗い蔵。自分を犯そうとした『血』の呪い。スペアとして生かされてきた屈辱。そして、その地獄の中で唯一の光として、幼い自分の姿を追い続けてきた狂おしいまでの情念。
「……っ!」
さくらは思わず手を離した。
髪飾りから伝わってきたのは、真奈が無意識に吐き散らす芥子の毒だった。それは、さくらの意志を少しずつ、真奈の望むままの『剥製』へと作り変えていくための、甘い罠。
「……さくら様。……本日は、もうお休みください。私が、この部屋の前の廊下で、夜明けまで控えております」
九条は、静かに一礼して身を引いた。
さくらは鏡越しに、そんな九条の姿を、悲しげに、けれど確かな信頼を込めて見つめていた。
窓の外。雨はさらに激しさを増し、屋敷全体が深い霧の底へと沈んでいく。
真奈の『見えない糸』は、さくらの影に深く、深く根を下ろしていた。
そして九条の『濡羽色の執着』もまた、主を『完璧なまま維持する』という、人ならざる職務への熱情を、より深く研ぎ澄ませ始めていた。




