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『さくら色の忘却録』  作者: アリス・リゼル
さくら色の忘却録 [真奈編]
14/23

番外編:『曼珠沙華の不義』

 蒼井家の正史を彩る白絹の裏側には、常に『天音(あまね)』という名の深淵が口を開けていた。本家の人間がその名を口にすることはなく、家系図の裏にこびりつく漆黒の澱のように、天音家は百有余年の間、蒼井の繁栄を陰から支える『吸い取り紙』として存在し続けてきたのである。


 すべての歪みの源流は、幕末、江戸の空を切り裂くような嵐の夜に遡る。


 城下町で名を馳せた呉服問屋『蒼依屋』の蔵に、数人の賊が侵入した。主の良兵衛は、将軍家より授かった三つの秘宝――『金の針』『銀の針』『黒の針』を命懸けで守ろうとした。しかし、賊の振るう無慈悲な刃は良兵衛の体を貫き、『銀の針』は闇の中へと奪い去られた。


 良兵衛は、三日三晩、高熱に浮かされながらも、銀の針を失ったことが一族にもたらすであろう『解かれぬ呪い』を案じ、無念の叫びを遺して絶命した。大黒柱と、溜まった情念を解き放つ唯一の術を失った蒼依屋は、雪崩を打つように没落していった。


 だが、その瓦礫の中から這い上がった一人の女がいた。良兵衛の妻、お(しず)である。彼女は幼い娘・(はな)を連れ、懐に『金の針』と『黒の針』を抱き、再興への執念を燃やし続けた。


『たとえ何代かかろうとも、私たちはこの地に、もっと強い形で戻ってまいります』


 雨の江戸を去るおしずの背中には、死んだ良兵衛への愛と、針を奪った者たちへの猛毒のような怨恨が織り込まれていた。


 時代は移り、明治という新しい夜明けが訪れた。帝都に忽然と姿を現した『蒼依織』――蒼井家。


 三代目当主となった花は、母・お静の遺志を継ぎ、その類まれなる美意識と商才で、蒼井家を軍部や政財界の重鎮たちが跪く特権階級へと押し上げた。金の針は人々の縁を強固に縫い合わせ、黒の針は権力者の執着を家の繁栄へと固定した。


 しかし、繁栄の影で、初代・良兵衛が死に際まで危惧していた『欠落』が、刻一刻と一族の血を内側から蝕み始めていた。銀の針という『出口』を失った蒼井家には、仕立てる布から吸い取った名士たちの醜い嫉妬や、どす黒い情念の澱が、逃げ場を失ったまま蓄積されていたのである。


 その歪みが、最も残酷な形で噴出したのが、花の長男・大樹(たいき)であった。


 大樹は、母・花が金の針で吸い取り続けてきた時代の情念にあてられ、その精神は若くして濁りきっていた。ある暴風雨の夜、大樹は狂気に駆り立てられ、実の母である花を蹂躙した。良兵衛を死に追いやり、銀の針を奪ったあの夜の『闇』が、数十年という時を経て、不義の子という形で蒼井の血そのものを内側から食い破った瞬間であった。


 花は、自らの不浄を呪いながらも、再興した蒼井の家名を死守することを何よりも優先した。彼女にとって、家名は自分とおしずが生き抜いてきた証であり、それを汚すことは死よりも耐え難い屈辱であった。


『銀の針がないために、この家には汚れが溜まりすぎた。ならば、この不浄を受け止める『外側の器』を作るしかない』


 花は、胎内で蠢く命を『蒼井の膿』として切り捨てるため、冷徹な計略を練り上げた。


 当時、花の夫であり、蒼井家の婿養子である天音真尋(あまね まひろ)の実家、天音家には、家を揺るがす深刻な悩みがあった。真尋の弟である天音真次(あまね しんじ)の妻は、何度懐妊しても腹の中の命が育たず、死産を繰り返していたのである。跡継ぎを失う恐怖と、先祖への申し訳なさに、真次夫妻は精神の限界まで追い詰められていた。


 花はその弱みに付け込んだ。慈悲深い義姉を装い、彼女は震える真次夫妻にこう囁いた。


『真次さん、不憫なあなた方に、我が蒼井の血を引く娘を差し上げましょう。この子は蒼井の加護を宿した、輝かしい命です』


 こうして、花が産み落とした不義の子・真美(まみ)は、天音家の待望の跡取り娘として、原生林の淵に建つ屋敷へと送られた。真次夫妻は涙を流して感謝したが、彼らは知る由もなかった。その日から天音家が、本家の『汚れ』をすべて引き受けるゴミの集積所、あるいは腐肉を喰らい続ける『吸い取り紙』へと変質させられたことを。


 花は真美を送り出す際、家系そのものに凄惨な呪縛を織り込んだ。銀の針による浄化が叶わぬ代わりに、天音家の者の肉体を『澱の貯蔵庫』として機能させる血の契約である。


 それ以来、本家で次期当主となる資質を持った女子が誕生するたび、天音家で同世代に生まれた女子が、解かれぬ毒を一身に引き受け、十歳を待たずして非業の死を遂げる『生贄の連鎖』が定着した。


 初代・真美。そして二代、三代、四代、五代。


 天音の娘たちは、ある者は全身から黒い汗を流して枯れ果て、ある者は『見えない糸に首を絞められる』と喚き散らしながら息絶えた。彼女たちの最期の悲鳴は天音の屋敷の壁紙に染み込み、その死体は庭の土へと還り、屋敷全体が『負の情念』そのもので編み上げられた檻のようになっていった。本家の人々にとって、天音家は『良兵衛の死と銀の針の喪失』という根源的な欠陥を補完するための、生きた防波堤となったのである。


 そして時代は、七代目・静江の治世へと至る。


 天音家六代目、真次の家系はこの時点で死臭に満ち満ちていた。本家が金の針で吸い上げる夥しい情念を受け止め続けた天音家は、もはや生ける屍たちの集う場所であった。六代目夫婦には、ついに澱を肩代わりする子供さえ生まれなくなっていたのである。器が空になれば、天音に溜まりきった毒は本家へと逆流し、いずれ生まれるであろう蒼井の至宝を、その受精の瞬間から汚してしまう。


 静江は、その防波堤を物理的に補強し、毒の流れをせき止めるため、自らの腹から生まれた『毒そのもの』を、天音家へと投じる決断を下した。


 静江の次男、静樹(しずき)


 彼は生まれた瞬間から、奪われた銀の針がもたらした『欠落』の象徴のような男であった。赤ん坊でありながら、自分をあやす者の不快な表情を好み、幼くして庭の小鳥を捕らえてはその羽を一枚ずつ抜き、死にゆく様を冷笑しながら眺めるような、決定的な狂気を孕んでいた。


 長男の良樹が、父・良一や母・静江から蒼井の『光』として期待と慈しみを一身に受ける一方で、静樹はその光を喰らう影として、本家の中で孤立し、その憎悪を静かに、しかし熱く育てていった。


『この子は、人の形をした劇薬です。天音という掃き溜めにこそ、ふさわしい』


 静樹が十歳の時、静江は彼を天音家の養子として放逐した。それは、まだ中学生であった良樹が『弟が消えた』という事実に戸惑い、母の冷徹な横顔に初めて恐怖を抱いた日でもあった。


 十歳の静樹は、一族の死の臭いが染み付いた天音の門を潜った。


 五代の少女たちの怨念が地層のように積み重なり、日光さえも届かぬその屋敷で、静樹は普通の人間なら発狂するであろう絶望の気配を、最高級の香水のように深く、深く吸い込んだ。


『ああ……。ここは、なんて心地がいいんだ。僕を捨てた母様も、愛されるだけの兄様も、みんなここで腐ればいい』


 静樹の唇は、三日月のように歪み、その瞳には天音の闇と同化した瑠璃色の光が宿った。


 天音家という名の檻。そこに放たれた怪物は、己の毒を栄養にして、蒼井家そのものを内側から食い破るための『復讐の果実』を、その血の中に育て始めるのである。


 静樹が天音の主として君臨し始めてから数年後。彼は一人の没落した家の娘を娶り、天音家八代目となる命を誕生させる。


 それが、蒼井家の光をすべて奪い去るために生まれた少女――真奈であった。


 真奈が産声を上げた時、本家ではまだ、良樹と香菜恵が夫婦としての平穏な日々を送り、次世代の命の訪れを待ちわびていた。真奈という『影』がこの世に繋ぎ止められたその瞬間に、本家の『光』たるさくらの運命は、すでに瑠璃色の糸で固く、固く縛り付けられていたのである。


**


 静樹が十歳で天音の門を潜ったとき、そこにはもはや『家』としての機能は残っていなかった。


 養父母となった天音家六代目当主夫婦は、本家の汚れを吸い出し続ける『器』としての末路を体現していた。彼らはかつて、不義の子・真美から始まった五代の少女たちが、次々と非業の死を遂げる様を特等席で見せつけられてきた。ある娘は発狂し、ある娘は腐り果て、ある娘は自ら命を絶った。


 六代目夫婦にとって、天音家とは『次はどの娘が、どう死ぬか』を待つだけの処刑場であり、その重圧ゆえに、ついに彼らの間には澱を肩代わりする子供さえ生まれなかった。


 静江によって放逐された静樹を、老夫婦は虚ろな瞳で迎えた。


『……また、新しい生贄が来た』


 彼らにとって、静樹は家督を継ぐ養子ではなく、自分たちの代わりに絶望を引き受ける『新たな肉』でしかなかった。真次の代から続く、本家への盲目的な服従と恐怖。それが六代目の老夫婦を、ただの『呪いの管理人』に成り下げていたのである。


 しかし、静樹は彼らが期待したような、怯える子供ではなかった。


 静樹は、屋敷に漂う死臭と、壁の裏から聞こえる少女たちの亡霊の呻き声を、まるで子守唄のように愛した。彼は、養父母が寝静まった深夜、屋敷の床板を剥がし、そこに塗り込められた先祖たちの情念をなぞって微笑んだ。


『おじい様、おばあ様。そんなに怯えなくていい。……ここにある絶望は、僕が全部、僕だけのものにするから」


 静樹は、本家から『静樹を二度と表舞台に出さないこと』を条件に送られてくる莫大な資金を掌握すると、養父母を屋敷の離れに幽閉した。十代半ばにして、彼は天音の主として君臨し、本家への復讐の牙を研ぎ始めた。


 彼にとって、自分を『毒』として捨てた母・静江、そして本家の光の中で何不自由なく育つ兄・良樹は、いつかこの天音の泥の中に引きずり込み、最上の苦悶を上げさせるべき獲物であった。


 静樹が二十歳を過ぎた頃、彼は一人の女性をこの檻へと連れ込んだ。没落した旧家の娘であった彼女は、静樹の端正な容姿と、彼が隠し持つ蒼井家の財力に惹かれたが、天音の門を潜った瞬間に己の過ちに気づいた。


 そこは、生きた人間が住む場所ではない。静樹は彼女を愛でることはなく、ただ『天音の血』を次の世代へ繋ぎ、本家への呪いを完成させるための『苗床』としてのみ扱った。


 十九年前。雪の降る夜、八代目・真奈が産声を上げた。


 真奈が生まれた時、天音の屋敷の地下からは、かつて死んでいった五人の少女たちの笑い声が聞こえたという。真奈の瞳には、生まれた瞬間から、銀の針を失った一族の『解かれぬ執着』が宿っていた。


 母親は、静樹の異常性と、赤ん坊である真奈の瞳に宿る底知れない闇に絶望し、真奈が三歳になる前に、屋敷の裏の原生林で自らその命を断った。


 残された真奈を待っていたのは、父親という名の怪物による、徹底的な『損壊』であった。


『真奈。お前は私だ。私がお前に与える痛みは、すべて本家の奴らが、お前に味わせているものなんだよ』


 静樹は真奈を地下室に監禁し、彼女が『自分』という個体を持つ前に、その魂を本家への憎悪で塗り潰した。


 静樹の教育は、教育と呼ぶにはあまりに凄惨な、性的興奮を伴う暴力であった。彼は真奈の幼い肌を傷つけ、そこに自身の毒を流し込むことで、彼女の中に眠る『天音の異能』を無理やり引きずり出した。


 五歳の時、真奈の指先から、ついに『瑠璃色の極細糸』が溢れ出した。それは、五代の少女たちの怨念と、静樹の狂気が結晶化した『呪縛の糸』であった。


『素晴らしい……! 真奈、これだ。この糸でお前を縛り、お前があの子を縛る。そうすれば、我ら天音は初めて本家を超えることができる』


 真奈にとって、静樹は唯一の神であり、唯一の汚物であった。


 彼女は父に汚されるたびに、その苦痛を【瑠璃色の細糸(るりのほそいと)】へと変換し、地下室の闇を網の目のように埋め尽くした。その糸の一本一本には、真奈が抱えきれなかった絶望が、冷たい光となって宿っていた。


 そして十一年前。真奈が八歳になった年、本家から報せが届いた。


 長男・良樹と香菜恵の間に、第一子・さくらが誕生したという。


 その報せを聞いた夜、静樹は狂喜に震え、真奈を意識が遠のくまで凌辱した。


「真奈、聞いたか! ついに現れたぞ、お前の『代わり』が! あの子が笑うたびに、お前はここで泣かなければならない。あの子が愛されるたびに、お前はここで汚されなければならない。……それが、天音の宿命だ!」


 真奈はその夜、父の背中越しに、窓の外で揺れる曼珠沙華を見つめていた。


(さくら……。私の痛み。私の、生贄……)


 真奈の中で、実体のない『本家』という憎悪の対象が、一人の少女としての形を結んだ。自分と同じ血を引きながら、太陽の下で祝福される赤ん坊。その存在を認識した瞬間、真奈の瑠璃色の糸は、より鋭く、より残酷な殺意を帯びた。


 九年前。真奈が十歳の時。


 静樹は『実の母である静江への挨拶』を口実に、真奈を連れて本邸を訪れた。


 そこで真奈は、庭の芝生の上を、よちよちと歩く二歳のさくらを視た。


 良樹が駆け寄り、慈しむようにさくらを抱き上げる。香菜恵が傍らで、幸福を絵に描いたような顔で笑っている。


 その光景を見た瞬間、真奈の指先から、今までで最も純度の高い瑠璃色の糸が、無意識のうちに吐き出された。


 糸は土を這い、さくらの小さな影にそっと触れた。


(……ああ。なんて、綺麗)


 それは、憎悪を突き抜けた先の、究極の『所有欲』であった。


 自分は、この子のために汚されてきた。自分は、この子のために死んできた。


 ならば。


 この光を、この幸福を、自分だけの暗い部屋に持ち帰り、自分と同じように汚し、自分と同じように壊し、自分と二人きりの地獄で永遠に愛で続けたい。


『パパ……。あの子を、いつか天音に連れてこようね。私の、おもちゃにしようね』


 真奈がそう囁いたとき、静樹はこれ以上ないほど満足そうに、娘の頬を叩いた。


『そうだ、真奈。あれこそが、お前のために用意された『生贄』だ』


 この日を境に、真奈は父に従順なだけの被害者であることを止めた。


 彼女は、いつかさくらを『天音という名の檻』へ引き摺り込むその日のために、静樹から与えられるあらゆる蹂躙を、自身の力を磨くための養分として受け入れ始めたのである。


**


 十歳の真奈が、本家の庭で二歳のさくらを『視た』あの日から、天音の屋敷における父娘の歪な均衡は、徐々に崩れ始めていた。


 静樹は狂喜していた。自らが作り上げた『最高傑作』である真奈が、本家の至宝・さくらに対して、自分以上の、そしてより純度の高い愛執を抱いたことに。『そうだ、真奈。その憎しみを忘れるな。お前を汚す私の指先を、あの子の喉元だと思って耐えろ』と、彼はさらに苛烈に真奈を損ない続けた。


 しかし、真奈はもはや泣くことも、拒むこともしなかった。彼女の瞳は常に、目の前の父ではなく、遠く本家で愛を享受している『薄桜色の光』だけを捉えていたからだ。


 真奈にとって、父・静樹はもはや『憎むべき支配者』ですらなく、自分をさくらへと繋ぐための、ただの『汚れた媒介者』に過ぎなかった。


 静樹が真奈の肌を損なうたび、真奈の指先からは、より細く、より強靭な瑠璃色の糸が溢れ出した。その糸は、真奈の意志とは無関係に、天音の屋敷の地下室を網の目のように埋め尽くし、かつて死んでいった五代の少女たちの怨念を吸い上げて、より毒々しく研ぎ澄まされていったのである。


 転機が訪れたのは、三年前。真奈が十六歳の夏のことである。


 その夜、静樹はいつものように、酒の力と歪んだ欲望に任せて真奈の寝室へと押し入った。


『真奈、今日は特別な日だ。本家のあの娘が、八歳の誕生日を迎えた。……あちら側で花が咲くたび、ここには死が必要だ。さあ、私をもっと悦ばせてみせろ』


 静樹が真奈の衣服を裂き、その喉元に手をかけた瞬間だった。


 真奈の指先から、数千、数万という瑠璃色の極細糸が、爆発するように噴き出した。


『……パパ。もう、いいよ』


 真奈の声は、原生林の奥底に溜まった冷たい水のようだった。


 静樹の体は、一瞬にして空中で静止した。見えない糸が彼の関節、筋肉、そして血管の一本一本にまで入り込み、物理的な自由を奪い去ったのである。


『な、な……真奈、貴様、何を……っ!』


 真奈は、全裸のままベッドの上に立ち上がり、天井から吊り下げられたマリオネットのように動けなくなった父を見下ろした。


『パパは言ったよね。天音の女は、本家の代償として死ぬ運命だって。……でも、私は死なない。私が死んだら、誰があの子を迎えに行くの?』


 真奈の指が、宙で優雅に躍った。


 それに合わせて、静樹の腕が、メキメキと音を立てて異常な方向に折れ曲がった。


『あ、が……あ……っ!』


 声にならない悲鳴が静樹の喉から漏れる。真奈は、その苦悶の表情を愛おしそうに見つめながら、糸をさらに深く、父の脊髄へと食い込ませた。


『パパは、私を傷つけることで本家に復讐しようとした。でも、それじゃ足りないの。……本家を、あの子を本当に地獄に落としたいなら、まずはこの屋敷そのものを、本物の『地獄』にしなきゃ』


 真奈が指先を一閃させると、静樹の意識は、強烈な快楽と、それを数百倍に増幅させた激痛の渦へと叩き落とされた。


 真奈の瑠璃色の糸には、銀の針を失った一族が溜め込んできた『未浄化の情念』が凝縮されている。それを直接神経に流し込まれた静樹は、死ぬことも、正気を保つことも許されない、永遠の『生き地獄』に閉じ込められたのである。


 翌朝。天音の屋敷の地下室には、壁一面に張り巡らされた瑠璃色の繭の中に、人形のように動かなくなった静樹の姿があった。


 彼は生きている。だが、その精神は真奈の糸によって完全に支配され、彼女の『命令』がなければ呼吸することさえままならない。真奈は、自分を汚し続けた父を、今度は自分が『所有する物』へと作り替えたのだ。


 それから三年の月日が流れた。


 十九歳になった真奈は、大学生という『清純な従姉妹』の仮面を被り、蒼井の本邸へと頻繁に出入りするようになった。


 屋敷に残された静樹は、今や『重病で寝たきり』という名目で、地下室の繭の中で腐り続けている。時折、真奈が大学の帰りに地下室を訪れ、糸を介して父に『今日のさくらちゃん』の様子を語って聞かせる時だけ、静樹の瞳には絶望の色が戻る。それが真奈にとっての、唯一の親孝行であった。


 そして現在。


 真奈は、本家の応接室で九条と対峙している。


(……九条さん。あなたは叔父様に頼まれたのよね。さくらちゃんを守ってくれって)


 真奈は、ティーカップの縁をなぞりながら、内心で嘲笑った。


 良樹が自分を保つために殻に閉じこもり、九条に娘の未来を託したこと。その『父親としての責任感』すらも、真奈にとっては最高のスパイスでしかない。


(いいわよ。守ってみて。……あなたが守ろうとすればするほど、私の瑠璃色の糸は、より深くあの子を縛り付けるから)


 真奈の指先から、一筋の、極細の糸が音もなく溢れ出した。


 それは、本邸の廊下を這い、二階のさくらの部屋へと向かっていく。


 天音家百五十年の絶望を糧にして、真奈という曼珠沙華は、今、最も美しく、最もおぞましく、さくらへと届こうとしていた。



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