第10話:『薄桜色の雪解け』
地下深く、冷たく沈んでいた『修繕の蔵』の重厚な扉が、九条の手によって押し開けられたとき、そこに溜まっていた百五十年の停滞した空気が、地上の春の気配に押し流されるように霧散していった。
本邸に閉じ込められ、静江が放つ絶望の余波に耐えていた九条、香菜恵、真奈の三人が蔵へ辿り着いたとき、そこにはもはや『怪物』としての静江の影はなかった。蔵の内部を埋め尽くしていた漆黒の闇は、さくらの内側から溢れ出した『薄桜色』の情念と、遥香が放った銀の閃光によって浄化され、朝焼けのような柔らかな光の粒子となって空間を漂っている。
扉の向こう側では、良樹がさくらをその腕の中にしっかりと抱きしめ、二度と離さないと言わんばかりに顔を埋めていた。遥香は右腕を抑えながら、肩で大きく息をついている。その瞳には、一仕事を終えた少女特有の、どこか清々しい疲労感があった。
そして、その傍らで静江が、糸の切れた人形のように崩れ落ちている光景を目にし、香菜恵は喉の奥で悲鳴のような溜息を漏らし、泣きながらさくらの元へと駆け寄った。
「さくら! 良樹さん!」
香菜恵は、良樹の腕の中にいるさくらの小さな身体を、壊れ物を扱うように、けれど力強く包み込んだ。家族が再会し、互いの体温を確かめ合うその光景は、暗い歴史を背負った蒼井家において、奇跡に近いほど温かな『再会』だった。
その歓喜の渦の中で、九条は一人、静江の元へと歩み寄った。彼は主君である静江の乱れた髪をそっと整え、彼女を背負い上げる。静江の身体は驚くほど軽く、一族の重圧から解放されたその姿は、ただの年老いた女性に過ぎなかった。九条は、自身の命を削ってまで守ろうとした主君の、その執念の『終焉』を、誰よりも深く、静かにその胸に刻んでいた。
だが、この家族愛に満ちた情景の裏側で、真奈だけは異様なほど冷静だった。
彼女は香菜恵のように泣き叫ぶことも、九条のように感傷に浸ることもなく、ただ一点、静江の織機が砕け散った『爆心地』を見つめていた。誰もが『光』と『無事』に目を奪われていたその刹那、真奈の視界には、虚空を彷徨い、行き場を失った漆黒の情念の火花が焼き付いていたのだ。
それは、静江が百五十年かけて練り上げた『拒絶』の結晶。本来ならば、当主の座が受け継がれる際にのみ譲渡されるべき、蒼井家の業そのものだ。その『黒』は、蔵の隅に立っていた真奈を見つけるや否や、まるであつらえた鞘を見つけた刀のように、彼女の影へと滑り込み、同化した。九条の鋭い直感も、遥香の『色』を見る力も、それを捉えることはなかった。真奈の内側にある情念が、その呪いとあまりに完璧に共鳴していたからだ。真奈は自身の影の奥に沈んだ冷たい重みを感じ、誰にも見えないように、薄く、小さく唇を歪めた。
**
それから数日が経過した。
あの日、蔵を包んでいた不気味な金の糸の気配は完全に消え去り、蒼井の本邸には、本来あるべき四季の色彩が戻っていた。庭園の池では鯉が穏やかに跳ね、枝垂れ桜は薄桜色の蕾を誇らしげに膨らませている。かつては外界を拒絶する堅牢な要塞のようだったこの屋敷も、今では歴史ある重厚な佇まいはそのままに、春の陽光をその広大な縁側へと優しく迎え入れていた。
静江の居室。かつては冷徹な命令のみが響き、九条でさえも緊張を強いられたその神聖な場所には、今、香菜恵が丁寧に淹れた茶の香りが漂っている。静江は、いつもの定位置に、背筋を真っ直ぐに伸ばして座っていた。一分の隙もない着こなし、見る者を射すくめるような当主としての威厳は、依然としてその全身から発せられている。しかし、その瞳に宿る光は、以前のような鋭利な刃の如き峻烈さではなく、どこか深い湖のような、静謐な凪を湛えていた。
「……良樹。香菜恵」
静江が、重厚でよく通る声で、二人を呼んだ。
「はい、お母様」
良樹と香菜恵が居住まいを正す。静江はゆっくりと茶碗を置き、窓の外に広がる、春を待つ庭園を見つめた。その横顔には、長い戦いを終えた者特有の、深く刻まれた年輪のような哀愁があった。
「私は……今回の件で、己の限界を知りました。おしず様の悲願を、私は守るべき家そのものよりも優先し、あの子の心まで支配しようとしてしまった。それは当主としての正しさではなく、ただの私の傲慢でした」
静江の言葉一つ一つが、静かな部屋に重く響く。
「これ以上、私がこの蒼井の『当主』として座り続けることは、一族に対する不誠実です。……私は身を引き、隠居します。近いうちに、家督を譲り、新たな当主を立てる準備を進めなさい」
その言葉は、あまりにも重い敗北宣言だった。良樹と香菜恵は、言葉を失って母の背中を見つめるしかなかった。
静江の口から語られた『家督を譲る』という言葉。それは、これまで蒼井の血筋を絶対的なものとして守り抜いてきた彼女なりの、最大限の責任の取り方であった。しかし、その言葉には『十一歳の少女に、この巨大な家の命運を今すぐ背負わせる』という、あまりにも過酷な現実が抜け落ちていた。
部屋を支配する重苦しい沈黙を破ったのは、良樹の静かだが毅然とした声だった。
「お母様。それは、今すぐさくらに当主の名を継がせる、という意味でしょうか」
「……当主が失格を悟った以上、空位を作るわけにはいきません。それが蒼井の法です」
静江は伏せていた目を上げ、冷徹な当主の顔を取り戻そうとした。だが、良樹は首を横に振った。
「いいえ。お母様、それは認められません。蒼井の当主は代々女性が務めるもの、私にその資格がないことは理解しています。ですが、さくらはまだ十一歳の子供です。ランドセルを背負い、学校へ通い、友達と笑い合う……そんな当たり前の時間を過ごすべきなのです。今すぐその肩に百五十年の重みを載せることは、あの地下蔵であなたがやろうとしたことと、何ら変わりはありません」
良樹の言葉に、静江の手がわずかに震えた。痛いところを突かれたという動揺が、その指先に表れていた。良樹は一歩前へ出て、畳に両手をついた。かつて母の視線一つに怯え、乳白色の殻に閉じこもっていた男の姿は、もうそこにはなかった。
「お母様。私は、あなたが背負ってきたものの正体を知ろうともせず、自分の殻に閉じこもって、九条にすべてを押し付けてきました。家の実務からも、一族のしがらみからも目を逸らし続けてきた。私は、あまりにも未熟です。……そんな私では、今すぐさくらを、次期当主として支え抜くことはできません」
良樹は顔を上げ、静江を真っ直ぐに見据えた。
「だからこそ、さくらが成人を迎え、自らこの家を背負う覚悟ができるその日まで……お母様。引き続き当主として、私たちを導いてください。私は、お母様の隣で、この家の本当の守り方を学びたいのです。糸で縛るのではなく、心で支えるための方法を。今の私には、まだお母様の代わりは務まらない。お母様の経験と、その凛とした強さが、今の蒼井には、そしてさくらの成長には、まだ必要不可欠なのです」
静江の瞳に、深い揺らぎが走る。支配者としてではなく、一人の『母親』として、そして『先代』として息子に必要とされたその事実に、彼女の強固な仮面が内側から崩れていく。
そこへ、廊下から軽やかな足音が聞こえてきた。腰まで届く濃い茶色の髪を揺らし、上品な刺繍が施されたワンピースを纏ったさくらが、そっと部屋の敷居を跨いだ。彼女は先ほどまで玄関に置いていた薄桜色のランドセルを、香菜恵に促されるようにして片付け、丁寧な所作で静江の膝元へ歩み寄った。
「おばあ様。……私も、お父様と同じ気持ちです」
さくらは色白の端正な顔を上げ、静江を真っ直ぐに見上げた。切り揃えられた艶やかな髪が、春の光を反射して光る。その瞳には、かつて静江に『抜き取られかけた』恐怖の影はなく、一点の曇りもない憧れが宿っていた。
「私は、おばあ様のようになりたいのです。凛としていて、誰よりもこの家を大切に想っている、かっこいいおばあ様に。あの日、地下蔵で私を呼んでくれたとき、おばあ様の手はとても震えていました。それは、おばあ様がずっと、一人で怖いのを我慢して、この家を守ってきたからでしょう?」
「……さくら。私は、あなたを暗闇に閉じ込めようとしたのですよ。この家の犠牲にしようとしたのですよ」
静江の声がかすれ、涙の色が混じる。しかし、さくらは優しく首を横に振った。
「お父様と遥香ちゃんが助けてくれたから、もう大丈夫です。……それよりも私、もっとおばあ様に刺繍を教えていただきたいし、蒼井の歴史も、おしず様の話も、もっとたくさん聞きたいのです。私は、おばあ様が命懸けで守ってきたこの蒼井という家が、大好きなんです」
さくらは、静止した静江の膝に、そっと自分の小さな手を重ねた。
「お願いです、おばあ様。これからも、私たちの中心で輝いていてください。私が大人になって、本当の蒼井の当主になれる、その日まで。……いいえ、その後もずっと」
静江は、溢れそうになる涙を堪えるように目を閉じた。そして、ゆっくりとその小さな、温かな手を握り返した。彼女がかつてさくらを縛ろうとしたその手は、今、孫娘を慈しむための『家族』の手へと変わっていた。
「……分かりました。さくら、あなたがこの家を真に背負えるようになるまで……私は不肖の祖母として、当主の座を守り続けましょう。良樹、お前の言葉も……しかと受け止めました」
静江の口角が、ほんのわずかに、しかし確かに上がった。それは、支配者としての役割を超え、家族の中に自らの意志で居場所を見つけた一人の女性の、気高くも温かな微笑みだった。部屋を満たしていた張り詰めた空気は、春の雪解けのように、穏やかなものへと変わっていった。
**
蒼井の本邸を辞し、分家である天音の屋敷へと戻る車中、真奈は終始、物静かで慈愛に満ちた笑みを絶やさなかった。見送りに立った香菜恵や良樹、そして「真奈お姉ちゃん、またね」と手を振ったさくらに対しても、彼女は完璧な『優しい従姉妹』を演じきっていた。
だが、天音家の門を潜り、自室に入って内側から重い鍵をかけた瞬間。真奈の顔から、温度のない仮面が剥がれ落ちた。
彼女は明かりも点けず、月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中で、ゆっくりと鏡の前に立った。鏡に映る自分の瞳は、先ほどまでさくらを見つめていたものと同じとは思えないほど、暗く、底知れない欲望に濁っている。
「……ふふ、あはは……」
真奈は、自分の胸元にそっと指先を滑らせた。すると、肌の奥から、冷徹な漆黒の輝きを放つ『黒の針』が、まるで彼女の血管が実体化したかのように、しどけなく浮き上がってきた。
あの日、地下蔵の扉が開いた瞬間。九条も、良樹も、香菜恵も、そして遥香でさえも、さくらを包む『光』に目を奪われていた。だが、真奈だけは見ていたのだ。砕け散った静江の織機から放たれた漆黒の火花が、行き場を失って虚空を彷徨い、そして――自分を『真の主』と認めたかのように、彼女の影へと滑り込んできたあの瞬間を。
九条の鋭い直感も、遥香の異能も、真奈の心根に巣食う闇の深さには及ばなかった。この黒い針は、真奈の内側に既に存在していた、さくらへの異常なまでの『愛執』という苗床を見つけ、あまりに完璧に、そして甘やかに根を張ったのである。
「よかったね、さくらちゃん。悪いおばあ様は、もういない。これからは自由なんだって。お父様もお母様も、あなたを外の世界に出してあげたいんだって」
真奈の瞳が、歪に光る。彼女にとって、家族が口にした『自由』という言葉は、何よりも下劣で、無責任な裏切りにしか聞こえなかった。
自由。それは、さくらのように汚れのない、色白で、透き通るような肌を持った少女を、悪意に満ちた外の世界へ無防備に放り出すということだ。道行く他人の卑俗な視線にさらされ、汚れた空気を吸い、得体の知れない誰かと触れ合う可能性を許すということだ。真奈には、それが耐え難い。想像するだけで、胃の腑が裏返るような不快感と、激しい破壊衝動が突き上げてくる。
真奈の脳裏に、さくらの美しい肢体が焼き付いて離れない。上品なワンピースの裾から覗く、抜けるように白い、細い手足。腰まで届く、艶やかな濃い茶色の髪。さくらはまだ十一歳だ。その身体はまだ未成熟で、これから大人の女性へと変わっていく『蕾』の状態にある。その蕾が、自分以外の誰かの手によって開かされることなど、決してあってはならない。
「さくらちゃんみたいな綺麗で可愛い子は、自由なんかじゃ守れない。……もっと完璧に、もっと永遠に。誰の手も、誰の視線も届かない、冷たくて暗い、私だけの腕の中で……完成させてあげなきゃ」
真奈は、指先にある『黒の針』を愛しそうに唇に押し当てた。その冷たい金属の感触が、まるでさくらの肌に触れているかのような錯覚を呼び起こす。彼女の指先は、さくらの白い首筋や、柔らかな肌の感触を思い出すかのように、熱を帯びて震えていた。
静江が持っていた針は、家を守るための拒絶の道具だった。だが、真奈が手にしたこの針は、さくらという個体を、その心も、その柔らかい肉体も、一欠片の細胞に至るまで、自分だけの管理下に閉じ込め、永久に愛でるための『情愛の檻』だ。
「おばあ様は、あなたを家の道具にしようとした。でも、私は違うよ。私は、あなたを『私だけのさくらちゃん』にする。おばあ様よりもずっと、ずっと上手に、優しく、あなたのすべてを繋ぎ止めてあげる。……いいえ、この針で、私とあなたを離れないように縫い合わせてあげましょうか。そうすれば、あなたは二度と私から逃げられない」
真奈は、恍惚とした表情で自身の身体を抱きしめた。彼女の背後に広がる影は、もはや人間のものではなかった。それは漆黒の糸を無数に吐き出し、遠く離れた本邸で眠るさくらという純潔な獲物を絡め取ろうと蠢く、巨大な蜘蛛の情念そのものだった。
「大好きだよ、さくらちゃん。……これからは、私があなたの『針』になってあげるね。死ぬまで、一秒だって離さないから」
真奈は再び、その黒い針を己の心臓の奥深くへと突き刺した。抵抗なく身体に吸い込まれた針は、彼女の血液と混ざり合い、全身を甘やかな支配の悦びで満たしていく。
分家である天音家の静寂の中で、真奈の唇は歪な弧を描き、静かな、けれど狂おしいまでの悦びに震えていた。 蒼井家の緋錆は落ちた。しかし、その平和な風景の陰で、一族の誰も気づかない場所で。新たなる、そして最も恐ろしい『愛』という名の病が、牙を剥く時をじっと待ちながら、暗い脈動を始めていた。




