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『さくら色の忘却録』  作者: アリス・リゼル
さくら色の忘却録 [静江編]
12/23

第9話:『緋錆色の深淵』 ~宿命の楔~

 九条がその身を削り、漆黒の障壁を抉り開けた刹那、遥香と良樹はその裂け目へと身を投じた。通り抜けた瞬間に、感覚のすべてが反転する。肺に吸い込む空気は凍てつき、鼓膜には『無』が耳鳴りのように張り付いた。そこは蔵の内側でありながら、現実の物理法則が一切通用しない、蒼井静江という一人の女が百五十年の歴史と心中するために作り上げた、精神の墓標だった。


 視界のすべてを覆い尽くすのは、星一つない夜空よりも深い、黒曜石のような闇。足元には鏡のように滑らかな闇の床が広がり、一歩踏み出すたびに、水面に広がる波紋のように漆黒の情念が重く揺らめく。遥香の右腕にある『銀の光』だけが、この永遠に続くような暗黒をかろうじて切り裂く唯一の灯火だった。


「……何、ここ。蔵の中じゃないみたいだ……あいつの絶望が、世界そのものになってる」


 遥香は右腕の脈動を強め、背後にいる良樹を庇うように一歩前へ出た。良樹は、身体を内側から押し潰さんとする異様な重圧に膝を震わせ、それでもなお、濁りのない瞳で闇の奥を見据えていた。


「……ここは、お母様の心そのものだ。現実のすべてを拒絶し、血の秩序だけで塗りつぶした……蒼井の『殻』。それも、私のものとは比べ物にならないほど、深くて、暗い……」


 闇の奥底から、一定の律動を持った「音」が響いてきた。


 ――ギチ、ギチ、ギチ……。


 それは糸を紡ぐ音であり、同時に、心臓の鼓動を締め上げる拷問の音のようでもあった。その音に吸い寄せられるように進んだ二人の前に、巨大な『繭』が姿を現した。


 天井の見えない闇の彼方から吊り下げられた無数の金の糸が、幾重にも重なり、巨大な球体を形作っている。その中心――透明な膜の中に、魂を抜かれたような虚ろな表情で浮かんでいたのは、さくらだった。


「さくら……!」


 良樹が堪らず駆け寄ろうとした瞬間、空間そのものが牙を剥いた。さくらを囲む金の糸が、生き物のようにうねり、不可視の壁となって良樹を激しく弾き飛ばす。


「……っ、お母様! 出てきてください、お母様!!」


 良樹の叫びに応じるように、繭の傍らの闇が揺らぎ、一台の古びた織機(はたおりき)と、そこに鎮座する静江の姿が浮かび上がった。静江の手元からは、血管のように脈動する金の糸が無限に伸び、それがさくらの四肢へと深く絡みついている。静江の瞳はもはや人間を映してはいなかった。それは、百五十年前から止まった歴史を延々と再演し続ける、精巧な自動人形のようだった。


「……遅かったですね。もうすぐ、この子の『(エゴ)』という雑音は消え、蒼井という純粋な形へと染め上げられます」


 静江の声は、感情の起伏を一切排し、ただ事実を告げる石碑のように冷たかった。


「お母様、もうやめてください! 家族を……あんなに笑っていたさくらを壊してまで、何を守ろうとしているんですか! これがあなたの望んだ蒼井の姿なんですか!!」


「守る? ……いいえ、良樹。私は『繋いで』いるのです」


 静江が織機を回す手を止め、ゆっくりと立ち上がった。その瞬間、彼女の背後に江戸の幻影が重厚な壁となって立ち上がる。血の海に沈んだ『蒼依屋』の店先、野盗の刃に無惨に倒れた初代当主・良兵衛。そして、その亡骸を抱きしめ、二度と誰も寄せ付けぬよう心を石に変えた妻・おしず。


「良兵衛様が亡くなったあの日から、おしず様はこの家を、この血を絶やさぬことだけを生きる糧とされました。愛や慈しみ、そんな一瞬で奪われる脆弱なものを信じたばかりに、私たちはすべてを失った。……家を、誇りを守り抜くには、人を人と思わぬ鋼の糸で、すべてを縛り付けるしかない。おしず様の絶望が、この百五十年の背骨なのです」


 静江の手元で、金の糸が腐食するように黒く変色していく。それは彼女が歴代当主から聖遺物のように引き継いできた、逃れられない【宿命の楔】そのものだった。静江はさくらの頬を、糸で縛られた指先で冷たく撫でた。


「私はあの子に、この痛みを、この重圧をすべて継承させます。あの子を蒼井という名の神殿に閉じ込め、永遠に不変の存在とする。……それが、蒼井として生きる唯一の正解。……常上遥香、あなたの持つ『銀』など、百五十年の闇を前にすれば一瞬の瞬きに過ぎないのです」


 静江が右手を空へかざすと、天井から降り注ぐ金の糸が、猛毒を持つ大蛇のようにうねり、遥香たちへと襲いかかった。一本一本の糸に、歴代の当主たちが押し殺してきた悲鳴と、家系を維持するために切り捨てられた端女たちの怨念が、黒い澱みとなってまとわりついている。


「……そんなの関係ないよ」


 遥香は右腕を前に突き出し、迫り来る黒ずんだ金の糸を、銀の閃光で正面から弾き飛ばした。火花が闇を焦がし、不気味な焼灼音が静寂を破る。


「百五十年前の人がどうだったかなんて、私には関係ない! 私が知ってるのは、さくらが笑うと周りが明るくなることだけだよ! 今のあの子が自由に歩きたいって言ってるのを、死んだ誰かのせいにして閉じ込めるな!!」


「……黙りなさい。何一つ継ぐべきものを持たぬ小娘に、この重みが分かってたまるものですか」


 静江の情念が、言葉に呼応してさらに深く、暗く膨れ上がる。繭の中のさくらから、一滴、また一滴と『感情』を象徴する鮮やかな色が抜き取られ、静江の織機へと吸い込まれていく。さくらの指先が、徐々に陶器のような無機質な白へと変色し始めていた。


「さくらの父さん! ぼーっとすんな! あんたが助けたいのは、今のさくらでしょ!!」


 遥香の怒号に、良樹がハッと我に返った。目の前にいるのは、かつて自分を支配し続けた絶対的な『お母様』ではない。百五十年の幽霊に憑りつかれ、自らもまたその幽霊になろうとしている、あまりにも孤独な一人の老女だ。


「……お母様。あなたが背負ってきた闇は、私が想像もできないほど深いのでしょう。……ですが、それを娘に、さくらに強いるというのなら、私は息子としてではなく、父親として、あなたを拒絶します!!」


 良樹は、身体を貫こうとする金の糸を素手で掴み取った。手の平が裂け、血が糸を赤く染める。だが、彼はその手を離さない。


「さくら! 聞こえるか! 父さんだ、お前を迎えに来たぞ!!」


 その叫びは、鏡のような闇の床を激しく震わせた。  静江の眉が、生まれて初めて見る『息子の反逆』に、不快げにぴくりと跳ねる。


「……不純物ですね、良樹。ならば、あなたもろとも、この蒼井の深淵に沈めて差し上げましょう」


 静江が織機を激しく回し始めた。黒曜石の闇が巨大な渦を巻き、遥香と良樹、そして繭の中のさくらを飲み込もうと、その顎を開いた。


 静江が織機を回す速度が上がるにつれ、黒曜石の闇は質量を持った奔流となり、遥香たちの足元をすくい上げる。それは単なる視覚的な闇ではない。そこには、蒼井という家名を守るために、己の個性を殺し、感情を捨て、機械の歯車として磨り潰されてきた歴代の犠牲者たちの、声なき絶叫が詰まっていた。


「……っ、この糸、重すぎる……!」


 遥香は右腕を突き出し、銀の光を障壁のように展開するが、静江が繰り出す漆黒の金の糸は、その光をさえ飲み込もうと執拗に絡みついてくる。一本一本の糸が、遥香の脳内に直接、ドロドロとした負の感情を流し込んできた。


 ――伝統を守れ。

 ――(わたし)などいらぬ。

 ――家という器を満たす、冷たい水であれ。


「うるさい……! そんな死んだ人たちの言葉なんて、私の心には一文字も響かないんだよ!!」


 遥香は奥歯を噛み締め、銀の針を虚空へ向けて連続して放った。閃光が闇を切り裂くが、静江の織り成す『宿命』は、断たれた先から無限に補完され、再び遥香たちを縛り上げる。


「無駄ですよ、常上遥香。この糸は、私が紡いだものではありません。百五十年にわたり、蒼井に関わったすべての人間が自ら紡ぎ、差し出してきた呪いなのです。一人の少女の『意志』如きで、この巨大な神輿を止めることなどできはしません」


 静江の周囲では、金の糸が寄り集まり、巨大な『糸の檻』を形成していく。その檻は、遥香と良樹をさくらの繭から引き離すように、残酷な壁となって立ち塞がった。


「お母様ッ! 見てください、さくらを! あんなに苦しそうに、色が消えていくあの子を見て、何とも思わないんですか!!」


 良樹は叫び、素手でその檻を叩いた。鋭利な糸が良樹の指先を切り裂くが、彼は構わなかった。かつて乳白色の膜に閉じこもり、痛みから逃げ続けてきた男は、今、自ら血を流し、現実の痛みを引き受けることで「父親」としての本能を剥き出しにしていた。


「……何とも思いません。それは、この子が『真の蒼井』へと昇華されるための産みの苦しみですから」


「違う! それはただの殺戮だ!!」


 良樹の慟哭が闇に響き渡った瞬間、遥香の右腕にある乳白色の筋が、かつてないほど激しく明滅した。  良樹が流した血。彼がさくらを想う剥き出しの『愛情』。九条の『執着』とはまた違う、血の繋がった者だけが持つ混じり気のない願いが、遥香の情念と溶け合っていく。銀の光が、より純度の高い、青白く透明な輝きへと変質していく。


「……さくらの父さん、力を貸して。私の後ろで、さくらの名前を呼び続けて!」


「遥香さん……?」


「あのばあさんが言ってるのは、ただの重たいルールだよ! でも、さくらが持ってる『色』は、誰にも渡さない。わたしたちだけのものなんだ!」


 遥香は、良樹から託された切実な願いを、自らの銀の光の芯へと叩き込んだ。光は一本の細く、されど折れない、眩いほどの【白銀の楔(しろがねのくさび)】となって、遥香の手元に具現化する。


「九条さん、見ててよ。あんたが繋いでくれた道、絶対無駄にしないから!」


 遥香は全身のバネを使い、黒い金の糸が渦巻く深淵へと跳躍した。静江が放つ漆黒の波が遥香を飲み込もうと迫る。だがその刹那、良樹の叫びが遥香の背中を押し、闇を震わせた。


「さくらぁぁぁっ!! 戻ってこい、さくら!! お前の父さんは、ここにいるぞ!!」


 その声が、静止した空間を貫いた。


 繭の中で完全に色が抜き取られ、白磁の像になろうとしていたさくらの内側から、一滴の雫が溢れ出す。それは、静江の強欲な『金』でも、遥香の鋭い『銀』でもない。春の陽だまりのように淡く、けれど凛とした強さを持った、【薄桜色うすざくら】の柔らかな光。


「な……!? あの子が、自ら糸を拒んでいるというのですか……!?」


 静江の仮面のような顔が、初めて驚愕に歪んだ。さくらの内側から溢れた『薄桜色』は、静江の金の糸を内側から腐食させ、絶対的だった繭を内側から綻ばせていく。さくら自身が、自分の色で、百五十年の呪縛を塗り替えようとしていた。


「今だっ!!」


 遥香は手に持った白銀の楔を、静江が座る織機の中心部――百五十年の怨念が集中する一点に向けて、全力で投擲した。


 その白銀の楔が、静江の織機の中心部――百五十年の怨念が結晶化した『黒い心臓」を貫く。


 刹那、空間を支配していたギチ、ギチという不快な音が止まり、耳を刺すような高周波の破砕音が轟く。


「……ああ、あああああッ!!」


 静江が絶叫を上げる。彼女が命を削って回し続けてきた織機が、中心から爆発するように粉々に砕け散った。同時に、良樹を阻んでいた『糸の檻』と、さくらを閉じ込めていた金の繭も、内側から溢れ出す【薄桜色】の光に耐えきれず、まるで春の雪が解けるように霧散していく。


「さくらッ!!」


 檻の消失と同時に、良樹は床を蹴った。力なく落下してきた娘の身体を、その腕でしっかりと受け止める。さくらの指先、頬、髪。静江に抜き取られかけていた『色』が、良樹の体温と、あふれ出す薄桜色の情念に導かれるように、急速にその輝きを取り戻していく。


「……お、……と……さん……?」


 弱々しく開かれたさくらの瞳に、かつての光が灯る。良樹はその小さな身体を、壊れ物を扱うような手つきで、けれど二度と離さないと言わんばかりに抱きしめた。


「ああ、そうだ。父さんだ。……もう大丈夫だ、さくら」


 崩壊していく精神世界の片隅で、静江は砕け散った織機の破片を掻き集めようとしていた。だが、彼女の指をすり抜けていくのは、ただの煤けたような黒い灰ばかりだった。


「私の……私の蒼井が……百五十年の重みが、こんな……こんな子供の火遊びに……っ」


 静江の周囲を覆っていた威厳ある金のオーラは剥がれ落ち、そこには一人の、あまりにも小さく、老いた女が残されていた。遥香は右腕の痛みに耐えながら、その背中に歩み寄った。


「ばあさん。あんたが守ってきたものは、重すぎたんだよ」


「……何がわかる……。おしず様の、あの日からの絶望を……一族を守り抜くという、あの血反吐を吐くような孤独を……っ!」


「わかんないよ。でも、あんたがさくらにやろうとしたことは、ただの道連れだ。……寂しかったんだろ? たった一人でその『重み』に耐えるのが」


 遥香の言葉に、静江の肩が激しく震えた。百五十年前に始まった『家を守るための拒絶』。それは時代を経て、当主たちを孤独の深淵へ突き落とす呪いとなった。静江もまた、その孤独に耐えきれず、さくらを自分と同じ『孤独な神殿』に閉じ込めることで、自分の正当性を確かめたかったのかもしれない。


「……もう、いいんです。お母様」


 良樹が、さくらを抱えたまま静江を静かに見つめた。その声には憎しみではなく、同じ血を分けた者としての、深い哀しみと慈しみが込められていた。


「蒼井は……もう、糸で縛らなくても壊れません。私たちが、ここから新しく作り直す。だから、もうその古い糸は捨てていいんです」


 良樹の言葉が、崩壊する闇の世界に最後の光を注いだ。静江の目から、初めて『情念』ではない、透明な涙がこぼれ落ちた。彼女が掴んでいた灰が風に舞い、同時に黒曜石の闇が、朝焼けのような柔らかな光に飲み込まれていく。


「……ああ……良兵衛……様……」


 静江が力なく崩れ落ちる。その姿が光の中に溶け込んでいくのと同時に、遥香たちの意識は急速に引き戻された。


 目を開けると、そこは埃の舞う、静かな蔵の中だった。目の前では静江が、糸の切れた人形のように座り込んで眠っている。その表情からは、これまで張り付いていた冷酷な仮面が消え、ただの疲れ果てた老人の顔に戻っていた。


「……終わったんだね」


 遥香が呟く。右腕の乳白色の筋は、まるで最初からなかったかのように消え去っていた。蔵の入り口では、九条が血の滲む手で壁を支え、安堵の表情でこちらを見ていた。その横には、香菜恵と真奈が、泣きながら駆け寄ってくる姿がある。


「さくら! 良樹さん!!」


 家族が重なり合い、さくらを中心に大きな輪ができる。

 遥香はそれを見届け、ふっと息を吐いて九条の隣に座り込んだ。


「九条さん。……あんたの仕事、これで終わり?」


 九条は、乱れたシャツを整えることもせず、ただ静かに微笑んだ。


「いいえ。……これから始まる新しい蒼井家を支えることこそ、執事の本当の仕事ですから。……お疲れ様でした、常上遥香様」


 蒼井家の百五十年にわたる『緋錆』は、今、少女が放った銀の一撃によって、薄桜色の新しい季節へと塗り替えられたのだった。



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