第9話:『緋錆色の深淵』 ~不和の旋律~
深い森が吐き出す湿った冷気が、常上遥香の頬を叩く。彼女は今、蒼井の本邸へと続く砂利道を、肺が焼けるような感覚を無視してひた走っていた。右腕に刻まれた乳白色の筋が、心臓の鼓動と共鳴するように、ドクンドクンと熱い脈動を繰り返している。それは、精神世界から持ち帰った良樹の『未練』そのものだった。家族を見捨てきれず、されど向き合う勇気も持てなかった男の、白く濁った後悔の澱。それが今、遥香の血肉を通じて、一刻も早く「現実」という名の戦場へ自分を解き放てと、無言の叫びを上げているようだった。
その後方を追うのは、真奈と九条だ。
真奈は、普段のぽわぽわとした穏やかさを懸命に保とうとしながらも、その瞳には隠しきれない動揺が滲んでいた。彼女の足取りはどこか危ういが、その心根にある日向のような温かさが、殺伐とした森の空気にわずかな救いをもたらしている。
「常上さん……待ってください、見て……。空が、あんなに悲しい色をしています」
真奈の震える指が、森の切れ間から見える上空を指差した。遥香が顔を上げると、蒼井の本邸が聳える方角の夜空が、異様な色に染まっていた。それは夕焼けでも、街の灯りでもない。どろりと淀んだ、錆びた鉄のような茶褐色。それが不気味な渦を巻き、星月夜を侵食している。
「おばあ様の厳しい縛りが、解けてしまったから……。叔母様の心の中にずっとあった、誰にも言えなかったたくさんの悲しみが、溢れ出してしまったみたいです。……あんなに、痛々しく尖った色が、世界を傷つけるみたいに渦巻いて……」
真奈には、それが明確な『糸』や『棘』としては見えていない。だが、彼女が持つ天性の感受性は、視界を汚染するその濁った色味から、叔母が抱え込んできた『鋭い痛み』の予感を正確に察知していた。
その隣で、九条は一言も発さず、濡羽色の瞳を鋭く光らせていた。彼の懐にある端末は、先ほどから何度も震えている。表示されているのは良樹からの着信だが、九条は一度もそれに出ようとはしなかった。 かつての彼なら、主人の呼び出しを無視するなど万死に値する背信行為だっただろう。だが今の彼は、静江への盲従を捨てた。かつて良樹と交わした『さくらを守る』という密やかな約束。その誓いを、一人の男として果たすための『守護』へと、彼の情念は昇華されていた。
「このままでは、あの場所そのものが叔母様の絶望で塗り潰されてしまいます……。常上さん、どうか叔父様を支えてあげてください。あなたの腕にある叔父様の想いが、きっと叔母様を呼び戻すための、小さなお日様になるはずですから……」
真奈の言葉は、冷たい夜風の中で唯一、遥香の心を温める。
「……うん、わかってる。真奈さん、一緒に行こう。全部あたしが、あいつらの分まで受け止めてやるから」
遥香は頷き、再び砂利を蹴った。森を抜け、視界が開けた瞬間、彼女の目に飛び込んできた蒼井の本邸は、外観こそ維持しているものの、もはや人間に安らぎを与える『家』の気配を失っていた。
「……嘘、でしょ……。あんなに、ひどい色が……」
遥香は、思わず足を止めて絶句した。彼女の特異な視覚には、白壁の内側から突き出した無数の『赤錆のような色』が、まるで爆発の衝撃波のように、四方八方へと鋭く突き刺さっているのが見えた。香菜恵に巻き付いて離れない糸。【赤錆色の棘】である。それは、香菜恵という一人の女性が、冷え切った夫婦関係と、静江からの執拗で容赦ない精神的蹂躙、そしてブランドの顔としての孤独な責務の中で、血を流しながら育て上げてしまった絶望の結晶だった。
物理的に建物が壊れているわけではない。しかし、その情念の余波によって、窓ガラスは不自然に白く曇り、邸内の庭園に美しく咲き誇っていた花々は、触れられた先から墨を流したように黒ずみ、瞬時に枯れ落ちていく。
「良樹さんッ! どこなのよ、良樹さん!!」
邸内から響くのは、香菜恵の、身を切るような慟哭だった。
その時、本邸の正面玄関に、一台のタクシーが凄まじいブレーキ音を立てて滑り込んできた。後部座席のドアが乱暴に開かれ、転がり出るようにして飛び出してきたのは、スーツもネクタイも無惨に乱れた良樹だった。都心のオフィスから、手段を選ばず、ただこの場所へ辿り着くことだけを考えて駆けつけたのだろう。かつての彼を覆っていた『蒼井の社長』という冷徹な虚飾の仮面は、もはや微塵も残っていない。そこにあるのは、失いかけた家族の名を必死に叫ぶ、剥き出しの一人の男の姿だった。
「叔父様……!」
真奈が小さく呟く声さえ、良樹の耳には届いていないようだった。彼は運転手に万札を数枚叩きつけ、お釣りも待たずに、絶望の気配が渦巻く我が家へと一直線に向かっていく。
「香菜恵! 香菜恵、そこにいるのか!!」
良樹が玄関の石段を駆け上がろうとした瞬間、二階のテラスから、赤錆びた色の奔流が槍のような鋭さで彼を襲った。遥香の目には、それが良樹の胸元を正確に貫こうとする、長大で鋭利な『棘』に見えていた。
「来ないで! 今更、どんな顔をして私の前に立つの!? あなたが目を逸らしている間に、私は……私はもう、自分が誰なのかも分からなくなっちゃったのよ!!」
テラスに姿を現した香菜恵の周囲では、空気が錆びた鉄の匂いを放ち、世界そのものを腐食させていく。 良樹が無関心の殻に逃げ込んでから、彼女がたった一人で耐えてきた静江の精神的な略奪。母親としての誇りを奪われ、一族の駒として磨り潰されてきた日々。それらすべてが混ざり合った『緋錆』の情念が、今や彼女の心を飲み込み、理性を焼き尽くそうとしていた。
「香菜恵……すまなかった。私が、私が臆病だったんだ」
良樹は、目前まで迫る情念の圧に怯まず、震える足で一歩、また一歩と前へ踏み出した。
「君を一人にした。蒼井という呪いの中に、君だけを置き去りにした。……殴っていい、殺してもいい。だが、お願いだ。……もう一度だけ、私に君を助けさせてくれ!!」
夫の、生まれて初めて聞く、魂を削り出したような叫び。だが、長年積み重なった香菜恵の怨念は、その一言で鎮まるほど容易なものではなかった。彼女の背後から、さらに巨大な、緋色に焼けて脈動する棘の影が、鎌首をもたげる蛇のように立ち上がる。
それは、良樹を、そして本邸に留まるすべての人間の精神を貫き、絶望の底へと道連れにしようとする、臨界点を超えた慟哭の形だった。
テラスから溢れ出す赤錆びた色の奔流が、物理的な突風となって良樹の身体を押し戻そうとする。遥香の視界では、その風は無数の鋭い針となって、良樹の肌を執拗に突き刺しているように見えた。
「良樹さん、逃げて……! 逃げてよ、お願いだから!!」
香菜恵の叫びは、もはや拒絶なのか、それともこれ以上彼を傷つけたくないという懇願なのか、判別がつかなかった。彼女の背後で鎌首をもたげた巨大な棘の影が、意思を持つ生き物のように震え、良樹の眉間を狙い定める。
「叔父様、危ないっ……!」
真奈が悲鳴を上げ、思わず目を逸らす。だが、良樹は足を止めなかった。一歩、また一歩。高級な革靴が砂利を噛む音が、この狂乱する空間で唯一、現実的なリズムを刻んでいる。
「……逃げないと言ったはずだ、香菜恵」
良樹の低い声が、錆びついた風を切り裂いた。彼の頬からは目に見えない斬撃による鮮血が滴り、乱れたシャツは赤く染まり始めている。情念の視覚化ができない良樹にとって、この痛みは正体不明の暴力でしかないはずだ。それでも彼は、かつて【乳白色の膜】の中に閉じこもっていた時のような虚ろな目ではなく、焦げるような熱を宿した瞳で妻を見据えていた。
「君は、こんな痛みの中でずっと生きてきたのか。……私を待ちながら、この錆びた棘に心を削られ続けていたのか」
良樹はついに、テラスへと続く石階段の最上段に手をかけた。その瞬間、香菜恵の背後の影が爆発するように膨れ上がり、緋色に焼けた情念の棘が良樹の胸元へと突き出された。
「……っ!!」
遥香の目に、良樹の胸を『赤錆』が貫く光景が映る。だが、良樹は倒れなかった。彼は自らの身体に突き刺さったその絶望の塊を、逃げるどころか、自らの両手で強く、折れんばかりに掴んだのだ。
その時、遥香は見た。
良樹の手が香菜恵の情念に触れた瞬間、彼の周囲に、あの精神世界で見た【乳白色の膜】が、淡い光の層となって一瞬だけ揺らめくのを。それはかつて彼が自分を外界から切り離すために使っていた『拒絶の殻』そのものだった。だが今、その膜は彼自身を守るためではなく、香菜恵の放つ鋭利な『錆』を受け止め、包み込むためのクッションへとその性質を変えていた。
「あ……ああ、あ……っ」
香菜恵が息を呑む。良樹の手からは、どろりとした赤錆色が彼の腕を伝って浸食していくのが見える。遥香は反射的に叫んでいた。
「おい、離せ! その色は、あんたの心まで壊しちゃうよ!!」
「構わない……! これが、この痛みが、君の流した涙だと言うのなら……私は喜んで、すべてを飲み込もう!!」
遥香の目に映る良樹の『膜』が、香菜恵の『赤錆』と衝突し、激しく火花を散らす。拒絶と拒絶のぶつかり合い。だが、良樹のそれはもはや壁ではなく、妻の毒を中和するために差し出された『器』だった。
良樹はそのまま、崩れ落ちるように香菜恵の膝元に縋り付いた。血に濡れた手で、彼女の細い指を、かつて愛を誓ったあの日よりも強く握りしめる。
「香菜恵……すまなかった。もう、一人にはさせない。この家が、この血がどれほど汚れていても、私は君の隣にいる。地獄へ堕ちるなら、二人で堕ちよう」
「……良樹、さん……」
香菜恵の瞳から、濁った赤色の涙が零れ落ちた。彼女の周囲を覆っていた刺々しい色は、夫の無骨で不器用な抱擁によって、急速にその鋭さを失っていく。爆発していた情念が、静かな、けれど深い悲しみの色へと凪いでいく。
「……叔父様……叔母様……」
真奈が安堵のあまり、その場に膝をついた。九条もまた、濡羽色の瞳を微かに細め、崩壊の危機を脱した夫婦の姿を見つめていた。
しかし、その救済を嘲笑うかのような、冷徹な靴音が屋敷の奥底から響いてきた。
「……醜い。あまりにも醜く、そして脆弱ですね、良樹」
屋敷の窓という窓が、一斉に内側から黒く塗り潰されるような錯覚に陥る。地下蔵へと続く廊下の暗闇から、静江が姿を現した。彼女の周囲には、これまでの『金の糸』を遥かに凌駕する、物理的な光さえ飲み込むような『闇の情念』が渦巻いている。
「家族という甘い幻想に縋り、一族の秩序を乱す不純物。……お前たちは、もはや蒼井を名乗る資格も、さくらの親である資格もありません」
静江が軽く手を振る。 その瞬間、良樹と香菜恵を繋いでいた微かな温もりが、冷酷な闇の波動によって無慈悲に引き剥がされた。
「……静江様……っ」
香菜恵が震えながら静江を見上げる。だが静江の瞳には、かつて嫁に注いでいた『道具』としての価値すら残っていなかった。
「さくらは連れて行きます。あの子は、私の最高傑作。お前たちのような『心』という欠陥を持った人間には、二度と触れさせはしません」
静江の足元から伸びた黒い糸が、地下蔵の入り口を完全に封鎖した。それは彼女が長年、一族を守るという名目の裏で育て上げてきた、究極の『拒絶』の結界。
「さようなら。……あとは、この腐った家と共に果てなさい」
静江はさくらの細い腕を引き、闇の向こう側へと姿を消した。残された良樹は、闇の障壁を叩きながら絶極する。香菜恵は夫の背中に縋りつき、声を殺して泣いた。
遥香は、自身の右腕を強く握りしめた。静江の放ったあの闇は、もはや『教育』や『支配』ではない。自分から離れていく世界に対する、一人の老いた支配者の、果てしない『孤独』が爆発した形だった。
静江が消えた闇の向こう側から、凍てつくような冷気が廊下を伝って這い出してくる。良樹が拳を叩きつけていた闇の障壁は、触れる者の体温を奪い、精神を凍てつかせる底知れない拒絶の波動を放っていた。
「……叔父様、もうやめてください。手が、血だらけです……」
真奈が駆け寄り、良樹の傷ついた手をそっと包み込む。良樹は荒い呼吸を繰り返しながら、閉ざされた闇を見つめたまま立ち尽くしていた。その横では、香菜恵が力なく壁に背を預け、虚脱した瞳で天井を見上げている。
「お母様は……本気だわ。あの人は、さくらを自分の一部にするまで、あそこから出てこない。……蒼井の歴史そのものが、お母様をあんな怪物に変えてしまったのね」
香菜恵の呟きに、九条が静かに歩み出た。彼の視線は、闇の障壁のさらに奥、蔵の深淵を見据えている。
「静江様がこうなったのは、今に始まったことではありません、香菜恵様。……この家には、百五十年以上にわたる怨念が染み付いているのです」
九条の声には、蒼井の裏面史を代々の宿命として受け継いできた者特有の、重苦しい響きがあった。
「江戸の末期、賊に殺された初代当主・良兵衛様。その妻であったおしず様が抱いた絶望と、家を守るという狂気的な執念。それが明治の再興を経て、歴代の当主を呪いのように縛り続けてきました。七代目である静江様にとって、その重圧は、もはや個人の精神で耐えられる限界を超えていたのでしょう」
「……お母様は、その百五十年の重みを、たった一人で背負うことでしか自分を保てなかったのか」
良樹が、血の滲む拳を震わせながら呟いた。彼は九条を見やり、絞り出すような声で続ける。
「九条……以前、お前に頼んだな。私が私でなくなった時、代わりにさくらを……あの子を守ってくれと。代々、我が家に仕えてきてくれたお前への、甘えだった」
「良樹様……」
「九条、もういい。その命令は、今ここで撤回する。お前は私の代わりではなく、私を支えてくれ。……私と一緒に、あの子を迎えに行くんだ」
良樹の瞳には、かつての冷徹な『社長』の面影はない。だが、そこには一人の父親としての、折れない芯が宿っていた。九条はわずかに目を見開き、そして深く、一度だけ頭を下げた。
「……承知いたしました。蒼井の盾として、そして、良樹様の覚悟にお供いたします」
九条が前へ踏み出し、闇の障壁の前に立つ。彼を縛り続けてきた『濡羽色の執念』が、漆黒の炎となって彼の全身から立ち昇る。
「……君。名は、何という?」
良樹が不意に、横に立つ遥香へ視線を向けた。自分をあの乳白色の殻から引きずり出した、小さな恩人。その少女を、良樹はまだ名前すら知らなかった。
「……あたしは遥香。常上遥香」
「そうか、遥香さん……。さくらのために、力を貸してくれ」
「言われなくても、そのつもりだよ! さくらの父さん、あたしの腕、しっかり掴んでて!」
遥香が右腕を掲げる。九条が両手を闇に突き入れた。ジチ、ジチと、精神が焼けるような不快な音が響き、九条の顔が苦痛に歪む。だが、彼は一歩も引かない。濡羽色の執念が静江の闇と激突し、絶対的だった障壁に、わずかな亀裂が走り始めた。
「……今です! 行きなさい!!」
九条の叫びが、凍てついた廊下に轟く。遥香は良樹を伴い、九条がその身を削って作り上げた針の穴ほどの隙間へと飛び込んだ。その向こう側には、百五十年の闇に呑まれようとしているさくらと、孤独の果てに狂った静江が待っている。
「さくら……! 待ってろ、今、父さんが行くぞ!!」
そして遥香は、闇の奥底で糸を繰る静江に向けて叫んだ。
「あんたが百五十年守ってきたか知らないけどさ、そんなもんであの子を縛らせない! 全部、あたしがぶち壊してやるから!!」
遥香の右腕から、かつてない銀の閃光が放たれた。それは、蒼井家の暗い歴史を貫き、閉ざされた蔵の深淵を照らし出す、希望という名の鋭利な一撃だった。




