第8話:『銀鼠色の停滞』
深い森の静寂に沈む、古い修練場。かつて蒼井の家系を支える者たちが、その糸に魂を込める術を磨いたとされるその場所は、今や時代の澱みの中に放置されていた。
九条の手によって中央に広げられた一反の白い絹。それはただの布ではなく、意識を繋ぐための『道』として供えられたものだった。その絹の上に横たわった遥香の体は、ひどく小さく、そして儚く見えた。だが、その右腕だけは、もはや彼女自身の制御を完全に離れた異物のように、異様な熱と威圧感を放っている。
肘から先に浮き出た乳白色の筋は、まるで生きた白蛇のように彼女の細い腕を締め上げ、肉の奥深くまで食い込んでいるように見えた。その影響か、指先は血の気を失い、凍てつくような死人の白さに変貌している。
「……常上様。これより、あなたの意識をその腕に宿る『澱み』へと沈めます」
九条が傍らに膝をつき、懃懃ながらもどこか祈るような、湿り気を帯びた響きを湛えた声で問いかけた。その濡羽色の瞳には、遥香への同情など微塵も存在しない。あるのはただ、主であるさくらを救うための『部品』が正しく機能するかを見極める、職人のような冷徹な観察眼だけだ。
「良樹様の心を守る殻――いわば、彼が作り出した偽りの聖域。そこは外界の理が通じぬ停滞の世界です。あなたの肉体的な力は何の意味も持たず、あなたの言葉、そしてその意志の強さだけが唯一の武器となります。……よろしいですね?」
遥香は、重い瞼を閉じて短く頷いた。呼吸は浅く、右腕から伝わる脈動が脳を直接揺さぶる。
「……やってよ、九条さん。あたしは、さくらの父さんに言わなきゃいけないことがあるから」
九条が遥香の右腕の付け根を細い指で押さえ、何事か呪文のような呟きを漏らした瞬間、遥香の意識は底知れぬ深淵へと急降下した。
落下する感覚は永遠に続くかと思われたが、突如として重力が消失した。辿り着いた場所には、空も地面もなかった。ただ、どこまでも続く銀鼠色の霧が、視界のすべてを厚く塗り潰している。そこには風もなく、音もなく、温度さえも存在しない。ただ、停滞した時間が澱のように溜まり、すべての感情を無機質に中和してしまうような、窒息しそうなほどの静寂。
遥香は自分の足元を見た。そこには地面などないはずなのに、確かに『何か』を踏みしめている感覚がある。それはまるで、薄汚れた灰を水で溶いて固めたような、粘り気のある冷たい泥の感触だった。
「……ここが、心の中なのか?」
自分の声が、霧に吸い込まれて響かない。遥香は一歩、また一歩と、その銀鼠色の泥を踏み抜くように進んだ。やがて、霧の向こう側に、不自然に浮き上がる輪郭が見えてきた。それは、現代的なオフィスにあるような洗練されたデザインの、しかしどこか権威を誇示するような豪奢な背もたれの椅子だった。 そこに、一人の男が深く腰掛けていた。
蒼井良樹。
高級ブランド『蒼依織』の社長であり、さくらの父親。そして、この色のない停滞した世界を統べる主。
良樹は、こちらを見ようともしなかった。仕立てのいいスーツを着こなし、完璧な身だしなみを整えているが、その肌は周囲の霧と同じ銀鼠色に透けている。彼の瞳は、かつて九条が語った『さくらを溺愛していた父親』の慈愛など微塵も残っておらず、ただ鏡のように無機質に、周囲の深い停滞を映し出していた。
「……誰だ。私の静寂を乱す者は」
良樹の口唇が動いた。その声は平坦で、喜怒哀楽のすべてが剥ぎ取られた残骸のようだった。
「あんたが……さくらの父さんか?」
遥香は彼を睨みつけた。右腕が、現実の世界と同じようにズキズキと熱を持っている。良樹の意識の一部であるこの『筋』が、主の存在に共鳴して暴れているのだ。良樹はようやく、わずかに首を動かして遥香を視界に捉えた。だが、その視線には何の興味も、嫌悪すらも含まれていない。
「そうだ。私はここで、さくらを守っている。ここは、私の愛が作り上げた、完璧な揺りかごなのだ」
良樹は、霧の向こうに広がる虚無を指し示した。
「この銀鼠色の静寂の中には、あの子を傷つける言葉も、お母様の冷徹な叱責も、一切届くことはない。外界の騒音をすべて塗り潰し、私の一部としてあの子を包み込む。それが、父として私にできる唯一の救いなのだ」
「……愛? 救い?」
遥香の腹の底から、どろりとした怒りがせり上がってきた。この空間に漂っているのは、守りたいという熱量ではない。他者の痛みから耳を塞ぎ、自分の平穏を守るために外界のすべてを遮断した、腐った沼のような『自己防衛』の匂いだ。
「笑わせないでよ。あんたが守ってるのは、さくらじゃない。さくらが苦しんでるのを見て、自分の心が痛くなるのが嫌なだけでしょ! 自分が壊れないように、あの子の悲鳴をシャットアウトして、こんな色のない場所に閉じこもってるだけじゃない!」
良樹の眉が、ピクリと動いた。無機質だった瞳に、わずかな波紋が広がる。
「黙れ……部外者が知ったような口を。さくらは、蒼井の当主として生きる運命にある。私がこうして壁となり、あの子の心を現実から切り離してやらねば、あの子の魂はとっくに壊れているのだ」
「壊したのはあんたでしょ! あたしは見たよ、蔵であの子がどうなってたか! あの、ばあさんに心を縫い潰されて、自分の意志も感情も全部金の糸で封じられて……! あんなの、生きてるなんて言わない!」
遥香は、銀鼠色の泥を蹴散らすように一歩踏み出した。右腕の乳白色の筋が、パキリ、と乾いた音を立てる。それは遥香の怒りに反応し、良樹の作り出した『停滞』を内側から食い破ろうとする衝動だった。
「当主なんて関係ない! 痛くても、傷ついても、さくらはあんたの娘なんだよ! 親なら……父親なら、あの子の痛みを一緒に背負って、泥を被ってでも助けに行けよ!」
遥香の咆哮が、銀鼠色の世界を切り裂く雷鳴のように響き渡った。
その瞬間、完璧だったはずの銀鼠色の霧が、目に見えて揺らぎ始めた。良樹の背後の椅子に、細い亀裂が走る。
「私が……背負う……? さくらの……痛みを……?」
良樹の瞳に、色が戻り始める。それは鮮やかな色彩ではなく、どす黒い後悔と、底知れぬ恐怖。自分が『慈愛』だと思い込んでいたものの正体が、実は娘を見捨てて自分の殻に閉じこもるための『言い訳』であったことを突きつけられ、良樹の精神世界は、その根底から崩壊を始めた。
そしてその振動は、物理的な距離を超え、蒼井の本邸へと共鳴していく。
バリバリと、空間そのものが引き裂かれるような音が銀鼠色の世界に響き渡る。遥香の言葉という名の楔が、良樹が数年がかりで築き上げた『停滞の聖域』を無残に粉砕し始めていた。霧は乱れ、穏やかだった銀鼠色の泥は逆巻く濁流へと姿を変える。
「……やめろ、それ以上は言うな! 私は、私はあの子を愛しているのだ。あの子が傷つくのを見たくない……あの子の悲鳴を聞きたくない……。それが親としての情愛でなくて、何だと言うんだ!」
良樹は豪奢な椅子から転げ落ち、泥にまみれながら叫んだ。その姿は、都心でブランドを率いる傲慢な社長の面影など微塵もなく、ただ現実から逃げ出しただけの、惨めな一人の男に過ぎなかった。遥香はその姿を見下ろし、容赦なく言葉を叩きつける。
「それは『情愛』じゃない、ただの『逃げ』だよ! あんた、さくらが蔵でどんな顔をしてたか知らないでしょ。あの子、泣くことさえ忘れてたんだよ。あんたがこの霧の中に隠れて『さくらは守られてる』って自分に言い聞かせてる間に、あの子の心は、あんたの母親に蹂躙されて、真っ黒な穴が開いてたんだ。……あんたの愛は、さくらのためじゃなく、あんたの『良心』が傷つかないための防波堤だったんだよ!」
遥香の右腕から、乳白色の筋が蔦のように伸び、良樹の首筋に絡みつく。それは良樹自身の拒絶の力でありながら、今は遥香の怒りを媒介にして、主である良樹に『現実』を突きつける鎖となっていた。
「見ろよ! あんたが目を逸らし続けた結果、あたしの腕がどうなったか!」
遥香が右腕を突き出す。乳白色の筋と、静江の黒い毒が混ざり合い、火花を散らす異形の腕。
「あんたが『代わりに守ってくれ』なんて無責任に九条さんに託したせいで、あたしはこんな呪いみたいなもん背負わされたんだ。あたしだけじゃない、九条さんも、真奈さんも……みんなあんたの逃げたツケを払わされてるんだよ!」
「……ああ……あ、ああああ……っ!」
良樹は頭を抱えて蹲った。彼の脳裏に、かつて幼かったさくらを抱き上げた時の温もり、その小さな手が自分の指を握りしめた時の重みが、濁流となって流れ込む。彼はその重みに耐えられなかったのだ。蒼井の家という巨大なシステムの中で、いずれ静江によって壊される運命にある娘を、真正面から愛し続ける強さがなかった。だから彼は、自分を『膜』の中に閉じ込めることで、娘の悲劇を『他人事』として処理できるように自分自身を改造してしまった。
良樹の心が激しく揺れ、自らの中にある『父性』と『臆病』が衝突を起こす。その膨大な精神エネルギーの暴走は、銀の針を触媒にして、現実世界の蒼井本邸を激しく揺さぶり始めた。
――本邸、二階の奥まった場所にある香菜恵の私室。
かつて華やかだったドレスや装飾品が散乱する部屋で、香菜恵は鏡台に突っ伏していた。彼女の視界は、どす黒い赤色に染まっていた。それは彼女の血の色ではない。彼女が長年、静江への恐怖と、自身の無力さ、そして何より夫への絶望から生み出し続けてきた毒の結晶――【赤錆色の棘】の奔流だった。
「……何……これ……。良樹さん? あなた、どこへ……行こうとしているの……?」
香菜恵は喉の奥からせり上がる、焼けるような不快感に身悶えした。彼女は、良樹が精神を閉ざしていることを知っていた。そして、そんな彼を責める気力さえ、今の彼女には残っていなかった。良樹が無関心の殻に閉じこもってしまったあの日から、香菜恵の孤独な戦いが始まった。娘・さくらが静江の手で人形のように作り変えられていく恐怖。高級ブランド『蒼依織』の社長夫人として、対外的な面子を守り、完璧な振る舞いを強いられる責務。そして、何かにつけて自分を無能扱いし、精神を磨り潰しに来る姑・静江の重圧。
「私は……一人だった。ずっと、ずっと一人で、この呪いみたいな家に耐えてきたのに……!」
香菜恵が救いを求め、縋りたかった夫は、いつからか隣にいても『そこにはいない』抜け殻のようになってしまった。彼が無関心という名の安寧に逃げ込んだことで、香菜恵には逃げ場がなくなった。弱音を吐くことも、助けを求めることも許されず、彼女の心は一針一針、赤錆びた絶望で縫い固められていったのだ。
「あああああッ! 痛い……痛い、痛い、痛い!!」
香菜恵の肌の下を、無数の棘が這い回る。彼女が『蒼井の妻として完璧であらねば』と思い込むことで無理やり押さえつけてきた、仕事と家庭の板挟みの苦痛。誰にも顧みられない寂しさが、今、良樹の『膜』が崩れた振動に当てられ、制御不能な暴力となって噴出する。
壁に掛けられた高価な織物が、見えない棘に切り裂かれ、ボロボロの屑となって舞い散る。鏡台のガラスが粉々に砕け、彼女の歪んだ顔を無数に映し出した。
「……お母様……。あの、憎たらしい、ばあさん……! ずっと、私を……人形みたいに……!」
香菜恵の瞳から、濁った赤色の涙がこぼれ落ちる。良樹の『停滞』が崩れたことで、蒼井の秩序を支えていた『不自然な静寂』が消失した。それは、彼女を繋ぎ止めていた最期の理性が、赤錆色の濁流に飲み込まれる合図だった。
そしてその異変は、本邸の地下深く、冷たい空気の満ちる蔵にまで到達する。
「……。良樹の意識が、これほどまでに乱れるとは」
静江は、さくらの首筋に金の糸を這わせていた手を止め、冷たく言い放った。彼女の足元では、さくらが人形のように虚空を見つめ、糸に操られるまま静かに呼吸を繰り返している。だが、そのさくらの頬を、一筋の雫が伝った。
「…………。お、とう……さん……」
感情を封じられていたはずのさくらの唇が、微かに、けれど明確にその名を呼んだ。静江の眉が、鋭く跳ね上がる。
「どきなさいと言ったはずですよ、良樹。お前はただ、黙って私の後ろに控えていればよいものを。……九条、お前ですか。余計な『泥』を、良樹の殻に放り込んだのは」
静江は、手の中にあった金の針をぎゅっと握りしめた。彼女の周囲で、無数の金の糸が生き物のように鎌首をもたげる。
「不純物は、排除せねばなりません。たとえそれが、我が息子であろうとも。……そして、使い物にならなくなった香菜恵も、同様です」
静江の絶対的な支配に、初めて生じた明確な『反逆』の予感。銀鼠色の世界で対峙する遥香と良樹、そして現実世界で暴走する香菜恵。蒼井の家を包んでいた偽りの平和が、今、赤錆色と銀鼠色の衝突の中で、激しく音を立てて砕け散ろうとしていた。
銀鼠色の霧が、内側から激しく燃え上がるように赤く染まり始めた。それは遥香が持ち込んだ怒りの色ではなく、現実世界の蒼井本邸で、香菜恵の心が限界を迎えて噴出させた『激情』の共鳴だった。
「……っ、あああッ! 何なのよ……これ! 痛い、痛いのよ、良樹さん!!」
精神世界の虚空に、香菜恵の絶叫が木霊した。良樹は泥の中に跪いたまま、その声に震えた。かつて、自分が心を閉ざす直前まで隣にいたはずの妻の声。しかし、彼は彼女が一人で何に耐え、何に絶望していたのか、あの日から一度も直視してこなかった。否、直視しないことで、自分だけが辛うじて正気を保とうとしていたのだ。
「香菜恵……。君は、そんなにも……」
「逃げないでって言ったじゃない! 私は……私は一人で、あのばあさんに、蒼井の重圧に立ち向かってきたのよ! さくらのことも、仕事のことも、全部私一人に押し付けて……! あなたがそうやって綺麗な霧の中に隠れている間、私の心は……ボロボロになっちゃったのよ!」
霧の隙間から、何かが突き刺さるような鋭い衝撃が次々と走る。それは香菜恵が、無関心になった夫に救いを求め続け、拒絶され、それでも社長夫人としての責務を果たそうとして、擦り切れた心の悲鳴そのものだった。
遥香は、その『痛み』が、自分を締め上げる乳白色の筋に流れ込んでくるのを感じた。
「……聞こえる? これが、あんたが一人で置いてきた人の声だよ。あんたが『見たくない』って逃げたせいで、さくらだけじゃなくて、奥さんまでこんなに壊れちゃったんだ」
遥香は良樹の胸ぐらを掴み、泥にまみれたその顔を無理やり引き寄せた。
「あんたは、自分の心が傷つかないように、家族全員を犠牲にしたんだ! それを『愛』だなんて、二度と口にするな! 親なら、夫なら……自分の弱さに言い訳してないで、さっさと現実に戻れ!」
遥香の右腕に宿った『銀の針』が、臨界点を超えて輝きを放つ。その輝きは、良樹が守り続けてきた銀鼠色の霧を内側から焼き払い、停滞していた彼の時間を無理やり動かし始めた。
「私は……。私は、あの子たちが……怖かったんだ……。お母様の言いなりになる自分も、抗えない無力さも……すべてから目を逸らしたかった……」
良樹の目から、銀鼠色の涙が溢れる。
「怖いなら、一緒に震えろよ! 父親だろ! さくらの痛みを、奥さんの苦しみを、あんたも一緒に味わえ! それが、あんたが捨てた『人間』としての義務なんだよ!」
遥香の渾身の叫びとともに、銀の閃光が精神世界のすべてを白く染め上げた。
パキィィィィン!!
硬質なガラスが粉々に砕け散るような轟音が響き、遥香の意識は急浮上した。
「……っ、はぁ、はぁ、はぁッ!!」
古い修練場の畳の上で、遥香は激しく咳き込みながら目を開けた。右腕を締め上げていた乳白色の筋は、今は嘘のように静まり返り、肌の下で微かな脈動を刻むだけの紋様に変わっている。
「……お戻りですね、常上様」
九条が静かに告げた。その直後、九条の懐にある端末が震えた。彼はそれを手に取るまでもなく、遠く蒼井の本邸がある方角を見据えた。
「……風向きが変わりましたね。良樹様が、あちら側の『殻』から抜け出されたようです。……ですが、不吉な気配が満ちています。本邸からは、身を切るような鋭い、そして錆びついたような絶望の匂いが立ち込めている……。香菜恵様が、ついに限界を迎えられたのでしょう」
九条に糸は見えない。だが、空気が震える音、鳥たちが一斉に逃げ出す気配、そして肌を刺す刺々しい『殺気』から、本邸が物理的な破壊を伴う異常事態に陥っていることを確信していた。
「良樹様の目覚めが、皮肉にも香菜恵様の抑圧を完全に決壊させてしまったようです。蒼井を包んでいた静寂は、今、内側から食い破られようとしています」
遥香は、まだ痺れの残る右腕を強く握りしめた。
「……助けに、行くよ。さくらを……今度こそ、あの蔵から引きずり出してやる。さくらの父さんも、母さんも……全部まとめて、あたしが引きずり戻してやるんだ」
遥香の瞳には、もはや迷いはなかった。右腕に刻まれた異形の情念を掲げ、少女は蒼井の本邸へと再び足を踏み出す。
その頃、本邸の地下蔵。 何かに突き動かされるように歪む扉、そして壁。静江は冷ややかに、蔵を揺るがす正体不明の衝撃を見つめる。
「……面白い。良樹も、香菜恵も、揃いも揃って私に恥をかかせるのですね。ならば、これ以上『家族』という遊びを続ける必要もありません」
静江は横たわるさくらの髪を、慈しむように、そして残酷に撫で上げた。
「さくら。お前の本当の地獄は、ここからですよ」




