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『さくら色の忘却録』  作者: アリス・リゼル
さくら色の忘却録 [静江編]
1/23

第0話:『黄金色の因縁』

 江戸の空は、いつの時代も不変の茜色に染まっていた。


 城下町の一角、活気に沸く通りに、ひときわ格式高い店構えを誇る呉服屋があった。その名を『蒼依屋(あおいや)』。主人の良兵衛(よしべえ)は、糸一本、染め一色に魂を込める職人であり、その誠実な仕事ぶりは、武家から町人に至るまで広く信頼を集めていた。


 ある年の暮れのことである。

 良兵衛が心血を注いで染め上げた、冬の夜空のような深い藍色の反物が、時の将軍の目に留まった。「これほどまでに、人の心を静める色は他にない」と。

 幕府献上の誉れを授かった良兵衛は、江戸城へと召し出された。平伏する彼に差し出されたのは、葵の紋が刻まれた小箱。その中に納められていたのは、金、銀、黒、三つの光を放つ不思議な針であった。


「良兵衛。これは古くから伝わる、世の因縁を紡ぐ三つの針である。お主のその腕で、江戸の安寧を縫い固めよ」


 その日から、蒼依屋の運命は劇的に、そして超常的な加速をもって動き出した。

 良兵衛が手にした『金の針』は、単なる道具ではなかった。

 それは、人々の情念を吸い上げ、修復する力を秘めていた。婚礼の祝儀に包まれる晴れ着を縫えば、その夫婦は末長く睦まじく、大切な人を亡くした者の喪服を繕えば、その者の涙は明日への活力へと変わった。金の針が通るたび、布の上には目に見えぬ『薄桜色の光』が走り、人々の心の綻びを塞いでいったのである。


 一方で、『銀の針』は解放の役割を担った。

 使い古され、怨念や未練が染み付いた古い反物。それをこの針で解くと、絡まり合った因縁がさらさらと解け、布は生まれたてのような清浄さを取り戻す。

 良兵衛は、金で結び、銀で解く。この二つの循環によって、江戸の人々の心に平穏をもたらし続けた。


 そして、箱の底でひっそりと冷たい光を放っていたのが『黒の針』である。

 これだけは、良兵衛も滅多に触れることはなかった。それは蒼依屋の蔵の最奥に安置され、家宝として、あるいは家の繁栄を担保する呪いにも似た守護神として、一族を見守り続けていた。

 蒼依屋は瞬く間に繁盛し、その名は『江戸一の呉服屋』として不動のものとなった。しかし、日の光が強ければ強いほど、その陰に潜む闇もまた、どす黒く濃くなっていく。


「蒼依屋ばかりがなぜ、あのような奇跡を起こせるのか」


 界隈の同業者たちの間には、賞賛を通り越した『泥色の嫉妬』が渦巻いていた。欲に駆られた者、名声を妬む者。彼らの悪意は、ある嵐の夜、ついに具体的な形となって蒼依屋を襲った。


 激しい風雨が家々を叩く深夜、蔵に忍び寄る影があった。

 物音に気づき、提灯を手に駆けつけた良兵衛は、そこで数人の賊と鉢合わせる。彼らの狙いは、蒼依屋の奇跡の源泉たる『三つの針』であった。


「それは、お前たちが手にしていいものではない……!」


 良兵衛は必死に食い下がった。賊の振るう刃が彼の肩を裂き、脇腹を貫く。激痛に意識が遠のきかけながらも、良兵衛は懐の小箱を離さなかった。

 もみ合いの末、金の針と黒の針は死守した。だが、賊の一人が良兵衛の指を蹴り上げ、こぼれ落ちた銀の針を奪い取って闇の中へと逃走した。


 賊が去った後、静まり返った蔵の中で、良兵衛は血の海に沈んでいた。

 駆けつけた妻のおしずと、まだ幼い娘のはな。二人の泣き声を聞きながら、良兵衛はかすれる声で絞り出した。


「銀の……針を、奪われた。あれが……悪しき手に渡れば……」


 良兵衛の傷は深く、その三日後、彼は高熱に浮かされながらこの世を去った。


 大黒柱を失った蒼依屋の没落は早かった。銀の針という「解く力」を失ったことで、蒼依屋の仕立てる布には次第に重苦しい気が溜まり始め、客の足は遠のいた。さらに、良兵衛を疎んでいた周囲の者たちが、ここぞとばかりに根も葉もない噂を流し、店を追い詰めていった。

 破産、そして廃業。

 かつて江戸一と謳われた看板を下ろす夜、おしずとはなは、焼け残ったわずかな荷物と、守り抜いた金と黒の針を抱えていた。


 降りしきる雨の中、おしずは幼いはなの肩を抱き、固く閉ざされた蔵の扉を振り返った。


「はな。お父様の無念、そして『蒼依』の名を、決して忘れてはなりません」


 おしずの瞳には、かつての優しい母の面影はなかった。金の針で人々を救えなかった悲しみと、黒の針がもたらす執着。それが彼女の心の中で混ざり合い、漆黒の決意へと変わっていた。


「いつか、必ず。たとえ何代、何十年かかろうとも、私たちはこの地に、もっと強い形で戻ってまいります」


 二人は江戸の街から姿を消した。その行方を知る者は、誰もいなかった。



 時代は激動の幕末を駆け抜け、やがて明治という新しい夜明けを迎える。

 髷を落とし、文明開化の風が吹き抜ける帝都。その中心から少し離れた由緒ある地に、忽然として大規模な織物工房が姿を現した。


 屋号は、『蒼依織(あおいおり)』。

 そしてその家名は、『蒼井(あおい)』。


 江戸で一度は途絶えた糸は、より強固な、そしてより歪んだ執念となって再び紡がれ始めたのである。

 明治、大正、昭和。

 時代が移り変わるたび、蒼井家は『金の針』による修復の力を隠密に使い、特権階級の汚れを縫い取り、その地位を揺るぎないものにしていった。

 しかし、銀の針を失った一族には、溜まった汚れを解く術がない。

 その代償はすべて、針を継ぐ者の『魂』へと蓄積されていく。


 その糸の先に繋がれているのは、一人の純粋な少女の運命であることを、まだ誰も知らない。


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