第1章「最後の現場」
天井スラブのコンクリートに亀裂が入ったのは、午後三時十七分のことだった。
冴木透は、その瞬間、自分の足元から三メートル離れた地点を見ていた。二次下請けの若い作業員が、脚立の天板に両足を乗せて身を乗り出している。何度注意しても直らない悪癖だ。
「おい、山崎」
声を発しようとした刹那、視界の端で何かが動いた。
埃だ。
天井から、白い粉塵が糸を引くように落ちてきている。透の脳裏に、十五年分の現場経験が警鐘を鳴らした。
「全員退避! 今すぐ!」
叫んだ声は、崩落の轟音に呑まれた。
その日の朝は、いつもと何も変わらなかった。
午前七時四十五分。透は現場事務所のプレハブ小屋で、グリーンファイルの束を捲っていた。作業員名簿、新規入場者教育記録、有機溶剤持込使用届。どれも昨日のうちに揃えておいたはずの書類だが、念のための最終確認だ。
「冴木さん、おはようございます」
事務所のドアが開き、若手の施工管理補助・田村が顔を出した。入社二年目、まだ顔つきに学生の甘さが残っている。
「今日の搬入、トラック二台で間に合いますかね?」
「間に合わせるんだよ」
透は書類から目を上げずに答えた。
「エレベーター使用時間は十時から十二時。それを過ぎたら階段で手運びになる。昨日の職長会で伝えただろう」
「あ、はい。すみません」
田村の声が萎んだ。透は内心でため息をついた。萎縮させたいわけではない。ただ、この業界では「聞いていませんでした」は通用しない。現場で「聞いていませんでした」は、最悪の場合、人が死ぬことを意味する。
「田村、今日の持ち場は?」
「六階の冷媒配管、気密試験の立ち会いです」
「圧力計の校正記録は確認したか」
「……えっと」
「確認しろ。加圧前に必ず確認しろ。記録がなければ試験は中止だ。分かったな」
「はいっ」
田村が慌ただしく事務所を出ていく。透は再びグリーンファイルに目を落とした。
社会保険加入状況等の届出書。これがないと現場に入れない。昨年から運用が厳格化され、健康保険、厚生年金、雇用保険のすべてに加入していることを証明しなければ、ゲート前で追い返される。
かつての建設業界には「一人親方」と呼ばれる個人事業主が無数にいた。彼らの多くは社会保険に加入しておらず、現場で怪我をしても労災が下りず、老後の年金もない。透が若手だった頃、そういう職人を何人も見てきた。腕は一流なのに、六十を過ぎても体に鞭打って働き続けるしかない男たち。
今は違う。
違うようにしなければならない。
透は書類の束を揃え、クリップで留めた。今日の作業員は総勢三十二名。そのすべてが、法に定められた社会保障を受ける資格を持っている。確認済みだ。
午前八時。朝礼が始まった。
現場の仮囲いで区切られた敷地内に、各業種の作業員が整列している。解体屋、鉄骨屋、電気屋、設備屋、内装屋。それぞれが色の違うヘルメットを被り、安全帯を腰に巻いている。総勢百五十名を超える人間が、この改修現場に出入りしていた。
「本日の全体注意事項を伝達します」
拡声器を持った所長が、張りのある声で告げた。
「六階から八階にかけて、本日より冷媒配管の気密試験を実施します。高圧ガスを使用しますので、該当エリアへの立ち入りは設備工事関係者のみとしてください。また、十四時より屋上で重機の楊重作業があります。揚重エリア直下は立入禁止です。以上」
透は自分の担当する設備工事の作業員を見渡した。二十名弱。一次下請けの職長である佐藤が、透の視線を受けて軽く頷いた。
朝礼が終わると、各班に分かれてのKY活動が始まる。KYとは「危険予知」の略称だ。その日の作業内容に潜む危険を、作業員自身が洗い出し、対策を確認する。
「今日の作業は、六階居室部分の冷媒配管ロウ付けおよび気密試験です」
佐藤が作業手順書を読み上げる。
「予想される危険。ガスバーナー使用時の火傷および火災。高圧ガスによる配管破裂。対策。バーナー使用時は可燃物を半径二メートル以内に置かない。消火器を手の届く場所に配置。気密試験中は圧力計を常時監視し、異常があれば即座に減圧する」
作業員たちが復唱する。
「火傷・火災、ヨシ! 配管破裂、ヨシ!」
透はその声を聞きながら、微かな違和感を覚えていた。
なんだ?
何かがおかしい。
現場に十五年も立っていると、言語化できない直感のようなものが育つ。空気の匂い、光の加減、人の動き。そういった要素の微細な変化を、意識より先に身体が察知する。
だが、今朝のこの感覚は、いつもとは違う種類のものだった。
もっと、根源的な——
「冴木さん?」
佐藤の声で、透は意識を引き戻された。
「あ、ああ。すまん。何でもない」
透は首を振った。集中しろ。今日は気密試験の山場だ。余計なことを考えている暇はない。
午前十時。搬入作業が予定通りに完了した。田村が息を切らしながら報告に来る。
「トラック二台、時間内に終わりました!」
「よし。六階に上がるぞ」
エレベーターで六階へ。ドアが開くと、むせ返るような熱気が押し寄せてきた。改修中のビルは空調が止まっている。夏場の現場は、それ自体が過酷な労働環境だ。
透は首に巻いたタオルで汗を拭い、天井裏を覗き込んだ。
冷媒配管が、銅色の蛇のようにうねっている。
空調設備の心臓部は室外機だ。室外機で冷却された冷媒ガスが、この銅管を通って室内機へと送られる。室内機で熱を吸収した冷媒は、再び室外機へと戻り、循環を繰り返す。人間の血液と同じだ。
だが、血管に穴が開けば人は死ぬ。配管に穴が開けば、冷媒ガスが漏れ、システムは機能しなくなる。だからこそ、気密試験は絶対に手を抜けない工程なのだ。
「圧力、確認します」
若手の配管工が、マニホールドゲージを覗き込む。
「現在〇・五メガパスカル。異常なし」
「よし。一・五まで上げろ。ゆっくりだ」
窒素ボンベのバルブが開かれる。シューという加圧音が響く。
透は圧力計の針を睨みながら、配管のルートを脳内で辿った。室外機から、縦管を通って六階へ。そこから分岐して、各室内機へ。接続点は全部で十二箇所。フレア接続が八箇所、ロウ付けが四箇所。
フレア接続は、銅管の先端をラッパ状に広げ、ナットで締め付けて密閉する方法だ。施工が容易な反面、締め付けトルクが不適切だと漏れの原因になる。透は全箇所をトルクレンチで規定値に締めたことを確認済みだった。
ロウ付けは、より確実な接続方法だ。ガスバーナーで銅管を八百度近くまで加熱し、銀ロウを溶かし込んで隙間を埋める。だが、この工程には致命的な落とし穴がある。
酸化だ。
銅管内部に空気が残った状態で加熱すると、管の内壁が酸化して黒いススが発生する。このススが剥がれて冷媒サイクル内を循環すると、コンプレッサーや膨張弁を詰まらせ、システム全体を破壊する。
だから、ロウ付けの際には必ず「窒素置換」を行う。配管内に窒素ガスを流し続けることで酸素を追い出し、酸化を防ぐのだ。地味だが、絶対に省略できない工程。
透はこの十五年間、一度も窒素置換を省いたことがない。
「一・五メガパスカル、到達しました」
「圧力安定を確認。十分間保持する」
透は腕時計を見た。午前十時二十三分。
十分後、圧力に変化がなければ、設計圧力まで昇圧する。その後、二十四時間の放置試験。明日の今頃、圧力が維持されていれば合格だ。
「冴木さん」
田村が近づいてきた。
「八階の配管ルート、ちょっと見てもらえませんか。梁との干渉が気になるところがあって」
「分かった」
透は圧力計から目を離し、田村の後に続いた。
八階は、まだ配管の敷設が完了していないエリアだ。天井スラブが剥き出しになっており、コンクリートの肌がそのまま見えている。
「ここなんですけど」
田村が指差したのは、梁の下を通る予定の冷媒配管ルートだった。
「図面だと梁下三百ミリの位置を通すことになってるんですが、実測したら二百五十ミリしかないんです。保温材を巻くと、梁に干渉しそうで……」
透は天井を見上げた。確かに、図面と実測値にズレがある。古いビルの改修工事では珍しくないことだ。設計図は竣工時の状態を示しているに過ぎない。三十年の歳月の間に、増築や改修が繰り返され、現状と図面が乖離していることは多い。
「配管ルートを五十ミリ下げるか。いや、下げると今度は照明器具と干渉するな……」
透は脳内で三次元のシミュレーションを行った。配管、梁、照明、ケーブルラック、消火配管、給排水管。天井裏は、無数のインフラが複雑に絡み合う密林だ。一つを動かせば、別の何かにぶつかる。
「田村、Rebroのデータを事務所から持ってこい。画面で確認する」
「はい!」
田村が階段へ向かう。透は再び天井を見上げた。
その時だった。
視界の隅で、何かが動いた。
コンクリートの表面を、細い線が走っている。
亀裂だ。
透の心臓が跳ねた。建物の躯体に亀裂が入ることは、通常ありえない。改修工事の事前調査で、構造上の問題がないことは確認済みのはずだ。
だが、亀裂は確かに存在している。しかも、透が見ている間にも、ゆっくりと伸びている。
「田村! 戻れ! 今すぐ——」
声を発した瞬間、天井から白い粉塵が降り始めた。
コンクリートが、崩れ始めている。
透は反射的に走り出した。亀裂の直下には、脚立に乗った若い作業員がいる。山崎だ。彼は異変に気づいていない。イヤホンで音楽を聴きながら作業をしている——現場では禁止されている行為だ。
「山崎! 逃げろ!」
透の叫びは、崩落の轟音に呑まれた。
数百キログラムのコンクリート塊が、透の頭上に迫る。
走れ。
もっと速く。
間に合わない——
最後に見えたのは、空だった。
天井が崩落し、上階のスラブも連鎖的に崩れたのだろう。瓦礫の隙間から、青い空が覗いていた。
不思議と、痛みは感じなかった。身体の感覚がない。ただ、胸の上に何か重いものが乗っているという認識だけがあった。
ああ、これは、死ぬのだな。
透は、驚くほど冷静にその事実を受け入れた。
三十五年の人生だった。
悪くない人生だったと思う。
好きな仕事に就けた。誇れる技術を身につけた。現場で人を守るために働いた。家族は——いなかった。仕事に没頭するうちに、いつの間にか四十が見えてきて、気がつけば独り身のままだ。
後悔は、ある。
もっと、いろんなことをやりたかった。
仕事以外のことも。
青い空が、ゆっくりと暗くなっていく。
視界の端で、誰かが泣き叫んでいる。田村だろうか。透は口を動かそうとした。大丈夫だ、と言いたかった。山崎は無事だったのか? 彼を庇えたのかどうか、記憶が曖昧だ。
意識が遠のく。
暗闘の中に、沈んでいく。
最後に透の脳裏をよぎったのは、不思議なことに、書類のことだった。
グリーンファイル、ちゃんと綴じたっけ。
気密試験、誰が引き継ぐんだ。
圧力計、監視しないと——
目を開けると、青い空が広がっていた。
違う。
天井裏のコンクリートではない。本物の空だ。雲一つない、どこまでも深い青。草の匂いがする。土の感触が背中に当たっている。
透は身体を起こそうとして、驚いた。
痛みがない。
それどころか、身体が軽い。十年前のように軽い。肩も腰も、どこにも痛みがない。
透はゆっくりと立ち上がった。
見渡す限りの草原だった。
遠くに山々が連なり、手前には小川が流れている。空気が澄んでいて、肺が洗われるような清涼感がある。日本の郊外ではない。それは確かだ。この風景は、透が知っているどの場所とも違う。
「……夢か?」
声に出してみた。自分の声だ。だが、どこか若々しく響く。
透は自分の手を見下ろした。
皺がない。
十五年の現場仕事で荒れたはずの手が、滑らかな肌をしている。三十五歳の手ではない。二十代前半、いや、もっと若いかもしれない。
「何が、起きてる……?」
混乱する頭を整理しようとした時、視界の端に何かが浮かんだ。
半透明の、青白い光を放つ四角い板。
その中に、文字が並んでいる。
【ステータス】
名前:トール・サエキ
年齢:18
種族:人族
HP:120/120
MP:45/45
【固有スキル】
施工管理 Lv.1
【スキル詳細を確認しますか? Y/N】
透は、しばらくその表示を見つめていた。
脳が情報を処理するのに、数秒を要した。
「……は?」
言葉にならない声が漏れた。
ステータス画面。固有スキル。HP、MP。
これは、ゲームだ。いや、ゲームの中にあるような——
透の脳裏に、かつて同僚から聞いた話が蘇った。
「異世界転生」。
現実世界で死んだ人間が、剣と魔法の世界に生まれ変わるという、小説やマンガの定番設定だ。透自身はそういうコンテンツに触れたことがほとんどなかったが、若手作業員たちが休憩時間にスマートフォンで読んでいるのを見たことはある。
まさか、そんなことが——
「現実だとしたら」
透は自分の手を握りしめた。
確かな感触がある。夢ではない。
「俺は、死んだのか」
天井崩落の記憶が蘇る。数百キログラムのコンクリート塊が頭上に迫る、あの瞬間。
「そして、ここに——」
透は改めて周囲を見回した。
草原の向こうに、小さな集落が見える。藁葺き屋根の家々が並び、畑が広がっている。中世ヨーロッパのような、あるいはファンタジー世界のような、そんな風景だ。
透は深呼吸をした。
状況を整理しろ。
パニックになっても仕方がない。
今の自分に分かっていること。
一、自分は死んだ。おそらく。
二、気がついたら、見知らぬ世界にいた。
三、身体は若返っている。
四、目の前に「ステータス画面」のようなものが見える。
五、「施工管理」というスキルがあるらしい。
透は再びステータス画面に目を向けた。
「スキル詳細、確認する」
心の中で「Y」を選択する。
画面が切り替わった。
【固有スキル:施工管理 Lv.1】
現場を統括し、安全・品質・工程・原価を管理する能力。
レベルに応じて以下のサブスキルが解放される。
・干渉チェック(解放済み):物体同士の干渉・衝突を視覚的に予測できる。
・積算眼(解放済み):材料・労力・コストを概算できる。
・危険予知(解放済み):危険な状況を数秒前に察知できる。
・品質管理(未解放):Lv.3で解放。
・工程管理(未解放):Lv.5で解放。
透は、思わず笑いそうになった。
施工管理が、スキルになっている。
十五年かけて身につけた現場の技術が、この世界では「能力」として数値化されているということか。
「干渉チェック」は、配管やダクトのルートを設計する際に、他の設備との衝突を事前に見抜く能力だ。透は長年の経験で身につけたものだが、この世界では「スキル」として使えるらしい。
「積算眼」は、見積もりを作成する際に、材料費や人工を瞬時に概算する能力。これも、熟練の積算担当者なら当たり前にできることだ。
「危険予知」——KY。朝礼で毎日やっている、あの活動だ。危険を予測し、対策を立てる。それがスキルとして発現しているということは——
透は、ふと気づいた。
天井崩落の直前。
あの時、自分は「違和感」を覚えていた。言語化できない、何かがおかしいという感覚。あれは、もしかすると——
「危険予知が、発動していたのか」
間に合わなかった。だが、確かに察知はしていた。
透は拳を握りしめた。
この世界で、自分のスキルがどこまで通用するかは分からない。だが、少なくとも「使える」ことは間違いないらしい。
「さて」
透は草原の向こうに見える集落を見据えた。
「まずは、情報収集だな」
この世界がどういう場所なのか。魔法はあるのか。冒険者ギルドや王国といったものは存在するのか。そして、自分の技術がどこまで役に立つのか。
透は歩き始めた。
足取りは軽い。十八歳の身体は、三十五年間で蓄積した疲労を知らない。
背後で、風が草原を撫でる音がした。
新しい世界の、最初の一歩だった。




