婚約者があの妹でいいのなら私としては別にどうでもいいのだけれど?
相生、勝手に秋の短編祭り1作品目
ココネス侯爵家の長女アイリス・ココネスは、イルバネス王太子の婚約者として自己研鑽に励む優秀な女性だった。
周辺国の言語に精通しており、特に外交で大きな成果を上げていた。
そうして、次の王妃としても期待されていた。
「アイリス、聞いてほしい。この度、私はウィリアナと正式に婚約する。君との婚約は破棄させてもらう。私はウィリアナを愛してしまったのだ」
だからイルバネス王太子の言葉を聞いた貴族たちは耳を疑った。
また、耳を疑うだけでなく、その冷淡な声色には密かに眉をひそめた。
隣国との関税交渉の成功を祝うパーティーという場で、ありえない発言が聞こえたのだから当然だろう。
その場には、アイリスの親である侯爵夫妻、妹のウィリアナ、そして王太子のイルバネスがそろっていた。
そして、王都にいる主要な貴族たちも集まっていた。
病に倒れた国王がいなかったことが大きいのかもしれない。
アイリスも一瞬、自分の耳を疑った。
しかし、視線を向けると妹のウィリアナが罪悪感のかけらもないようすで、勝ち誇ったようにイルバネスの腕を抱いている。
(え……? 私よりもウィリアナを選ぶというの? この人、正気なのかしら?)
イルバネスの正気を疑ったアイリスは確認のために発言した。
「殿下……私がこれまで、国境を越えて奔走してきたのは、すべて殿下とこの国のためです。その間に殿下はその……妹と愛を育んだとおっしゃるのですか?」
アイリスの声は震えることもなく、毅然としていた。
それをみたイルバネスは苛立つ。
「君は常に私から遠い場所で活動していた。君が不在の間、私のさびしさや不安に寄り添い、支えてくれたのはウィリアナだった……。彼女の純粋な心と優しさが、これからの王妃に相応しい」
「ごめんなさい、お姉さま。イルバネス様は、私を必要だといってくださるの。お姉さまよりも、私の存在が必要なんですって」
ウィリアナはわざとらしく目を伏せ、涙をぬぐうふりをした。
(ここは劇場で、今はお芝居の最中なのかしらね……? でも、こんな妹でいいというのなら私としてはどうでもいいのだけれど)
アイリスは婚約破棄を受け入れようとしたのだが、そこで父と母が動いた。
「お前が長い間、国を空けるなど常識外れなことをするからだ! ウィリアナのように殿下に寄り添う優しさが足りない!」
「そうよ。あなたには殿下に愛されるかわいらしさが足りなかったのよ、アイリス。反省しなさい」
(王太子の婚約者に優しさやかわいらしさが不要とは思わないけれど……それだけでいいわけがないでしょうに。いずれは王太子妃、王妃になるのよ?)
アイリスはバカバカしくなってきた。この人たちの相手をまともにしていると自分まで頭がおかしくなりそうだった。
アイリスは表情から一切の感情を消した。
それはみた目だけなら悲しんでいるようにもみえた。
それからアイリスは深々と頭を下げ、澄んだ声で告げた。
「承知いたしました。殿下。婚約破棄を受け入れます。この場に私は不要でしょうから、失礼いたしますわ」
「ああ。下がるといい」
アイリスの退出をイルバネスはあっさりと認めた。
周囲の貴族は思った。そんなことが許されていいはずがないだろう、と。
今回の関税交渉の成功はアイリスの力によるところが大きい。イルバネスは何もしていないも同然なのだ。
そんなこともイルバネス王太子はわかっていないのかと、貴族たちはこの国の未来に不安を感じた。
アイリスは背筋を伸ばし、一度も振り向かずに会場を去った。
涙を流すこともなく、王城を出る瞬間まで堂々としていた。
それどころか、不敵な笑みを浮かべていたのだ。
アイリスはココネス侯爵邸へ戻るとそのまま旅立つ準備をはじめた。
王太子の婚約者ではなくなったが、アイリスが侯爵令嬢であることに変わりはない。
侍女に指示を出して荷物をまとめ、護衛の騎士を集めると、夜だというのにすぐに出発したのだ。
「しばらくはのんびりしてもいいかしらね」
これまで学問を修め、国のために奔走したアイリスは働きすぎだった。
アイリスのつぶやきに侍女ふたりは大きくうなずいたので、アイリスはこらえきれずに笑ってしまった。
当面の目的地は、南の隣国カスティリオネに決めた。
そこはまだアイリスがいったことのない国で、独自の文化と経済圏を持つ地でもあった。
南国の温暖な気候でいろいろな果物があるらしい。
(カスティリオネには人脈もほとんどないけれど、それを少しずつ積み上げていくのも楽しいもの)
アイリスは未知の世界へと挑戦することに楽しみを感じていた。
馬車に揺られ、数日をかけてアイリスはカスティリオネに到着した。
アイリスは地味な旅行着を着て、目立たぬよう控えめな振る舞いを心がけた。
しかし、それでも目立ってしまうのはどうしようもなかった。
宿に届いた友人たちからの手紙に、アイリスは思わずため息をついた。
「イルバネス殿下の婚約者が代わり、王都の経済は停滞している。北方貿易に手を広げる絶好の機会だというのに、王家は何も手を打たない。陛下がまだ病床にあるうちは厳しいかもしれない。まあ、ウィリアナには関税の協定書の文面すら理解できるはずがないものね。ああ、それが難しいのはウィリアナだけではないわね」
アイリスの言葉に侍女は苦笑するにとどめた。誰に対してとは口にしないが、不敬だからというのが大きいだろう。
彼女の頭の中では、イルバネスによるあらゆる失策のシナリオがみえているかのようだった。
そんなある日の午後。
アイリスは情報収集のため、カスティリオネ北部では最大といわれる図書館を訪れていた。
人影のない古めかしい本棚の奥で、アイリスは一冊の貴重な図鑑を手にしていた。
それは南方の未開拓地の農産物を中心とする植生に関する図鑑だった。
閲覧机に図鑑をおいて、アイリスは読みはじめた。
するするとページをめくり、アイリスは読み進めていく。農産物を通してカスティリオネという国の姿がみえてくるような気がしていた。
「その図鑑を女性が楽しむとは珍しい」
突然、背後から静かで低い声が響いた。
アイリスは少し驚いたものの、図鑑を閉じずにゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、黒曜石のような深い瞳と、冷徹さを感じさせる端正な顔立ちをした男だった。
(どうみても高位の貴族だわ)
アイリスは警戒心をあらわにした護衛の騎士を手で止めた。
下手に手出しをすれば国際問題になりかねない。
(血と、それに教育というものはおそろしいわね。生まれを隠せないもの。この町ならばおそらく……オルファン公爵家の方、かしら?)
アイリスは図鑑を机に残したまま、立ち上がって深々と頭を下げた。
「高貴なお方。あいさつもなく失礼いたしました。私は旅の者でございます」
「旅の者、か。その図鑑を読んで微笑んでいるので気になって声をかけてしまった。あなたのような聡明な女性がこのカスティリオネにいてくれて嬉しいよ。アイリス・ココネス嬢」
アイリスは己の正体が知られていることに驚いた。
オルファン公爵家は国をまたいで届く情報網を持っているのだろうか。武門の家だとは聞いたことがあった。
アイリス本人には自分がそれだけ有名であるという自覚が足りないのだけれど。
「……ご存知の通り、私はココネス侯爵家を追放同然に離れた身です。高貴なお方のご迷惑になる前に、この場を去りましょう」
「待て、アイリス・ココネス嬢」
男はアイリスの前に立ち塞がった。
「名乗るのが遅れて申し訳ない。ふざけすぎたようだ。私はエドワード・オルファン。君がこの町を訪れたと聞いて、話してみたいと思ったのだ。逃げないで頂けると嬉しいのだが」
エドワードの名はアイリスも知っていた。オルファン公爵家の跡継ぎである長男だ。
(逃げる? 私が?)
アイリスは顔を上げた。
強気な瞳がエドワードを刺すようにみつめる。アイリスは逃げたりしない。
「君が手にしていたその図鑑を読んで、何を考えていたのかを教えてほしい。それはきっと我がオルファン公爵領を発展させる鍵となる」
エドワードの率直さをアイリスは面白いと思った。
隣国の公爵家の跡継ぎであるエドワードはアイリスにとって利用価値が高い相手だ。
しかも、向こうからアイリス自身を売り込むチャンスを与えてくれた。
「それならまずは座りましょう、閣下」
「ありがたい。君の噂を聞いてたから、ぜひ話してみたいと思っていたのだ」
「では、説明させていただきますわね」
アイリスは図鑑でいくつかの果物のページを紹介しつつ、それをどこへ、どのように輸出するべきかを語った。
エドワードは大きな権力をもっている。
それはアイリスがやりたいことを実現するために必要なものだ。
(本当は王太子妃としてやるはずだったけれど……)
別にそこまでの身分でなくともよいのだ。
国という規模から領地という規模になるだけの話で、場合によっては得られる利益そのものがより大きくなることもある。
領地間なら誰かと利益を分け合う必要がないからだ。誰かに奪われなくて済む、ともいえる。
「なるほど……面白いな……」
「そういって頂けると嬉しいですわ」
アイリスの勝気な瞳はまっすぐエドワードに向けられていた。
エドワードはアイリスの挑戦的な眼差しを真っ向から受け止めた。
「私には、君の力が必要だ。君は隣国の最高の財産だが……私と結婚すれば国は変わるのだから関係ないだろう?」
「え?」
さすがにアイリスも驚いた。
いきなり結婚の話なのだ。プロポーズとしては最低なものかもしれない。
(でも、そのくらいの方が私にはいいのかもしれない)
イルバネスとの間に愛情を育むことができなかったアイリスは、政略的な結婚の方が自分に合っていると考えていた。
「閣下が私をお求めであるのなら、喜んでその隣に立ちましょう」
「即決か。いいね」
エドワードは心から笑った。
南の隣国カスティリオネの公爵家であるオルファン公爵家からアイリスへの婚約の申し込みが届いた時、ココネス侯爵は婚約破棄で傷物になった娘が高く売れたと単純に喜んだ。
ココネス侯爵家の跡継ぎに関する問題などがアイリスは少しだけ心配になったが、エドワードとの婚約が認められるのならば気にするほどでもないと忘れることにした。
婚約するとアイリスは次期公爵の婚約者として精力的に活動した。
輸出する時期や輸出先の距離をしっかりと調べ、実際に商品となる果物を持ち込んで社交を重ねた。
もちろんその社交の相手にはアイリスが王太子の婚約者だった頃から関わっていた人たちも含まれている。
それぞれの果物の特性にも気を配り、そのまま輸出するものと加工して輸出するものに分けた。
たったそれだけのことなのに、武の名門であるオルファン公爵家では誰も気づいていなかった。
アイリスは3つの国とそれぞれの国の国境付近にあるいくつもの領地を訪ねて、有り余るオルファン公爵領の果物をどんどん売りさばいた。
元々、小麦を中心とする農民たちからの税収で十分に豊かだったオルファン公爵家だったが、アイリスの果物の輸出によってその豊かさが3倍くらいに増えたのだ。
エドワードはその利益を公爵家で独占することなく、領民に還元する方法をアイリスに尋ねた。
(素晴らしい方だわ)
エドワードの期待に応えたいと思ったアイリスは。今度はオルファン公爵領内を回って領民たちからさまざまな要望を聞いた。
そして、その要望に優先順位をつけて整理をして、オルファン公爵領内の人々を雇って実現する計画を立てた。
「こうすれば輸出で得た利益が公爵領の人々の手に届くようになるはずです」
「さすがはアイリスだ。私のように剣ばかり振っているとこうはいかない」
「絶対に守ってもらえると領民たちは信じているから、オルファン公爵領で暮らし続けようとしているのです。不安があれば領民はすぐに逃げ出しますわ。オルファン公爵家の武力があってはじめて、今があるのです」
「そこに君がさらなる豊かさをもたらしてくれたのだ。ああ、早く君と結婚したいものだ」
素直なエドワードの言葉に、珍しくアイリスが頬を染めた。
それをみた侍女ふたりはにんまりと笑って、その夜、こっそりと乾杯したという。敬愛する主人の幸福を願って。
一方、アイリスの妹であるウィリアナは「愛されている王太子妃」という立場に酔いしれ、国政には全く関心を示さなかった。
イルバネスはアイリスの献身によって隠されていた自身の政治的無能をさらしまくっていた。
愚かなら誰かに任せればよいものをこうするべきだと口を出すのだから手に負えない。
イルバネスはアイリスが築いた周辺国との人脈を軽視した。
特に、アイリスが関税協定を結んだ北の隣国との貿易に対して、嫉妬と無理解からイルバネスは高額な関税を課そうとした。
当然だが、北の隣国は関税協定が守られていないことに憤慨した。
そして、関税協定は破棄されて北の隣国との貿易は大幅に減少した。
では南の隣国との貿易はどうかといえば、そこでは国ではなくそれぞれの領地間で協定を個別に結んで取引をしていた。
取引額は大きいのに、王家に入る関税はない。
「あのアイリスが儲けているなど、面白くない。王家にもっと収益を入れるべきだ!」
「そうすれば私のドレス代が増えるわ! がんばってイルバネスさま!」
「任せておけ!」
愛するウィリアナを喜ばせようとイルバネスは領地間の取引にも王家から関税を課税しようとして……その結果、貴族たちから大きく反発された。
オルファン公爵領と国境を接する子爵家のひとつが王国を離脱して南の隣国カスティリオネの王家に忠誠を誓うと、次々に王国の南方にある貴族家がそれに続いた。
アイリスによって取引を進めた貴族たちだ。もともと王都での婚約者の交代劇を冷ややかな視線でみていた貴族たちでもあった。
「裏切者を討伐せよ!」
怒り狂ったイルバネスが叫ぶ。
「なりませぬ、殿下。あちらには武のオルファン公爵家がございます。戦ではなく交渉でどうにかするべきです」
「父上が病で動けぬからといって王太子の私に逆らうのか!」
「お姉さまと婚約している家なのに従わないなんておかしいわ!」
「忙しいので失礼しますよ」
宰相はため息を我慢して一礼すると、そのまま王太子とその婚約者の前から離れて執務室へと戻った。
王国は国土の3分の1にあたる南側のいくつもの貴族領を失い、北の隣国との貿易も減少したままとなった。
「王都がとても静かになっているわ……」
「これもすべて、アイリスがオルファン公爵家と婚約したせいだ! なんて卑怯な真似を……!」
「そうよ、お姉さまよ! お姉さまを呼び戻せばいいのよ!」
「なるほど、それはいい手だ……だが、どうやって?」
「側妃に迎えるとでもいえばお姉さまもきっと帰ってくるわ」
「だが、それで君はいいのかい、ウィリアナ?」
「愛するのは私だけなのでしょう?」
「もちろんだ! ではさっそくアイリスを呼び戻そう!」
イルバネスは手紙を書いて送った。
「何の手紙だい、アイリス?」
「説明する価値もない愚かな落書きですわ、エドさま」
エドワードの質問にそう答えたアイリスはろうそくの火で手紙を燃やすと暖炉へ捨てた。
「戻ってきてくれと書いてあったのでは?」
「あら、ご存知だったのですか?」
「私がイルバネス殿の立場だったらアイリスに戻ってほしいと思うだろうと考えただけだ。いや、そもそも私だったらアイリスとの婚約を破棄したりはしないのだが」
そういってアイリスに微笑みかけてから、エドワードは急に真剣な表情になった。
「いいのかい、アイリス?」
「何のことでしょう?」
「イルバネス殿と君の妹。あのふたりに復讐しなくて?」
「復讐、ですか?」
アイリスはほんの少しだけ首をかしげると、にこりと笑っていった。
「私にとってあのふたりのことなど、本当にどうでもいいので……復讐などと考えたこともありませんわ」
「そうか。どうでもいいか。なるほど」
エドワードもにこりと笑ったが、心の中では(アイリスにとってどうでもいい存在にならないように私はできる限りの努力をしよう)と誓ったのだった。




